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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

蓮如上人物語(39)(遠きは近き道理、近きは遠き道理)

2010年11月07日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(39)(遠きは近き道理、近きは遠き道理)

「遠きは近き道理、
 近きは遠き道理なり。
 灯台もと暗しとて
 仏法を不断聴聞申す身は、
 御用を厚く蒙りて、
 「いつものこと」と思い、
 法義におろそかなり。
 遠く候人は、仏法を聞きたく、
 大切に求むる心あるなり。
 仏法は大切に求むるより聞くものなり」
  (御一代記聞書)    

「遠きは近き道理、近きは遠き道理なり」とは、
遠いということは近いということであり、
近いことは遠いということである。

これはちょっと変に感ずることだが、
昔からあることわざで
蓮如上人は仏法を教えてゆかれたのである。

灯台とは、昔の室内照明具で、
「灯台もと暗し」とは、
灯台はすぐ下が暗いことから、
手近なことがかえって分からないたとえだ。

「仏法を不断聴聞申す身」というのは、
いつも聴聞をしているという意味で、
絶え間なく聴聞している人という意味。
 
そのようにいつも聴聞している人は、
「御用を厚く蒙りて」ということで、
如来聖人のご恩を厚く蒙って、
聴聞を「いつものこと」と思ってしまう、
というのである。

「いつものこと」とか、
「またあの話か」といって
法義におろそかになり、
仏法を軽くみてしまうという。
 
いつも聴聞している人をみれば、
あの人は信心決定するだろうと思っても、
心の中は、

「いつものこと」
「またあの話か」

と仏法を軽んじたのでは
それは信心決定からは遠い人である。

だから、「近きは遠き道理なり」で、
そのように仏法を軽んじていれば
信仰は深まらないということである。

「遠く候人は、仏法を聞きたく、
 大切に求むる心あるなり」

ということは、遠くにいてご法話に来る人は、
真剣に求める心があるということ。
近くにいる人は楽に行くことができるが
遠くから来る人は大変だ。
 
近くにいる人は、

「遠くから来られる、
 あの人は金もあり、
 暇もあるのだろう」

と言われるかもしれないが、
金があればあるほど、
欲が出る。
欲はあればあるほど、まだ欲しい、
もっと欲しいという心だから、
その欲をおさえて
ご法話に来ることは大変である。

近くにいる人と同じ心で
聞こうと思っても、
とても聞けない。

だから、

「仏法を聞きたく、大切に求むる心あるなり」

で、仏法を聞きたく、
大切に求めようとするのである。

仏法は心がけが大事なのである。
そのほかに蓮如上人は、

「足で聞け」

とも仰有っている。
足で聞けというのは、
足で歩いて法話の場所に
体を運んで聞けということである。

しかし、いくら足を運んだからといって、
家にいても用事がないし、
心配することがない、
だからご法話に来るようでは、
近くにいる人と同じで楽に聞いてしまい、
遠くにいて遠き者と同じで
真剣に聞法しているとはいえない。
 
あくまでも仏法は心がけが
大事なのである。
仏法を大切に思って
聞かなければならない。

どうしたら仏法が大切に感じられるか、
重く感じられるかと言うと、
まず後生の一大事のあることを
知らなければならない。
 
後生の一大事というのは、
私たちの死んだ後生に
無間地獄に堕ちて苦しみ続けて
ゆかなければならない一大事がある
ということだ。
 
私たちに一番大事なものは
私たちの命である。

もし病気になって、医者から、

「一千万円なければ治すことができません。
 一千万円あれば完全に治るのですが……」

と言われたとき、

「一千万円とは高すぎます。
 それならいいです」

と言っておれるだろうか。
一千万円借金してでも治す。
家の主人が倒れたときなど、
奥さんは必死に治そうとする。
 
体のことを大切に重く感じているからこそ、
病気を治すのである。
その体以上に大事なのが後生の一大事。

後生の一大事が分かってくればくるほど、
仏法の大切さが分かる。
また仏法をよく聞けば聞くほど、
後生の一大事が分かってくる。
 
ではどのくらい重く感じればよいのか。
龍樹菩薩は、

「仏道を求めることは、
 大宇宙を持ち上げるよりも重い」

と仰有っておられる。
地球を持ち上げるぐらいではなく、
大宇宙を持ち上げるくらい
重いものであると仰有った。
 
後生の一大事を知らされて、
初めて仏法は始まる。
 
そして、求めていって、
後生の一大事を解決したと
いうところで仏法は終わる。

仏法は後生の一大事で始まり
後生の一大事の解決で終わる。
後生の一大事が分かれば
仏法が重くなる。
 
仏法は心がけ一つが大切なのである。
仏法を重く考えて求めなさいよとの
蓮如上人のご教導である。




蓮如上人物語(38)(報恩講)

2010年11月06日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(38)(報恩講)

「人生の目的」を明らかにされた
親鸞聖人のご命日の前後に開かれる
法筵(ほうえん)が報恩講である。

報恩講というのは、
親鸞聖人のご恩に報いる
集まりのことである。

誰がいつ始められたのか。

それは本願寺第3代・覚如上人が
親鸞聖人の33回忌に『報恩講私記』
という書をしたため、
御法縁を結んだのが始まりである。

その報恩講を最も大事になされたのが
蓮如上人であった。
蓮如上人は報恩講の意義を
『御文章(お文さま)』に
繰り返し繰り返し教えておられる。

具体的に挙げてみよう。

「今月《報恩講》七昼夜のうちにおいて
 -乃至ー
 これぞまことに、今月聖人の御忌の
 本懐にあいかなうべし。
 これ即ち、報恩謝徳の懇志たるべきものなり」
  (4帖目5通 中古已来)

「当月の報恩講は、開山聖人の御遷化の
 正忌として、例年の旧儀とす。
 これによりて、遠国・近国の門徒のたぐい、
 この時節に相当りて参詣の
 志を運び、報謝の誠を致さんと欲す」
  (4帖目6通 三箇条)

「今月報恩講の事、例年の旧儀として、
 七日の勤行を致すところ、
 今にその退転なし。
 然る間、この時節に相当りて
 諸国門葉のたぐい、
 報恩謝徳の懇志を運び、
 称名念仏の本行を尽す。
 まことに是れ、専修専念・決定往生の徳なり」
   (4帖目7通 六箇条)

「今月二十八日の報恩講は
 昔年よりの流例たり。
 これによりて、近国・遠国の門葉、
 報恩謝徳の懇志を運ぶところなり。
 二六時中の称名念仏、今古退転なし。
 これ即ち、開山聖人の法流、
 一天四海の勧化、比類なきが
 致すところなり」
  (4帖目8通 八箇条)

このように、4帖目5通から8通まで
連続で、報恩講について書かれている。
そして、蓮如上人の『ご遺言』でもある
4帖目15通、それもその最後の
最後にこう書かれている。

「あわれあわれ、存命の中に
 皆々信心決定あれかしと、
 朝夕思いはんべり。
 まことに宿善まかせとはいいながら、
 述懐のこころ暫くも止むことなし。
 又はこの在所に三年の居住を経る、
 その甲斐とも思うべし。
 相構えて相かまえて、
 この一七箇日報恩講のうちに於て、
 信心決定ありて、我人一同に往生極楽の
 本意を遂げたまうべきものなり。
 あなかしこ、あなかしこ。
 ○明応七年十一月二十一日より
 始めてこれを読みて、人々に
 信を取らすべきものなり」
  (4帖目15通 大坂建立)

また、『御正忌』という御文章があるが、
『御正忌』とは報恩講のことである。
そこにはこう書かれている。

「この御正忌のうちに参詣をいたし、
 志を運び、報恩謝徳をなさんと思いて、
 聖人の御前に参らん人の中に於て、
 信心を獲得せしめたる人もあるべし、
 また不信心の輩もあるべし。
 以ての外の大事なり」
  (5帖目11通 御正忌)

親鸞聖人のご命日に行う報恩講に
参っている人の中に、
阿弥陀仏に救い摂られている信心獲得の人と、
まだ救われていない人とがいる。
これは一大事である。

弥陀に救い摂られたならばハッキリする。
ハッキリしていない人は極楽へは往けないから、

「以ての外の大事」

と、蓮如上人は言われているのである。

ところが、

「念仏は、阿弥陀さまの必ず救うという
 慈悲のはたらき。
 すでにこの私を包み込んでいる
 阿弥陀さまのはたらきの
 真っただ中にいるのだ」

と言う人がいる。
生まれた時から皆すでに救われているなら、
蓮如上人が

「信心獲得の人」と
「不信心の輩」と

分けられるはずがない。
また、

「救われていない人は一大事だ」

と仰言るはずがない。
ハッキリ信心獲得するまで
聞き抜こう。

このように、とても大切なご縁だからこそ、
蓮如上人は、何度も何度も
報恩講について『御文章』に
書かれたのである。

また、親鸞聖人のご恩を聞かせて頂きながら、
報恩講に参詣しない人に対して、

「そもそも今月二十八日は、
 開山聖人御正忌として、
 毎年不闕に、かの知恩報徳の
 御仏事においては、あらゆる国郡、
 そのほかいかなる卑劣のともがらまでも、
 その御恩をしらざるものは、
 まことに木石に異ならんものか」
  (御文章3帖目11通)

親鸞聖人のご恩を聞きながら、
報恩講に参詣しない人は
木石と同じ、感情のない人かとまで
厳しくご教導なされている。

我々は決して恩知らずになってはいけない。


蓮如上人物語(37)(道宗、近江の湖を一人して埋めよ)

2010年11月05日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(37)(道宗、近江の湖を一人して埋めよ)

「善知識の仰なりとも
『成るまじき』なんど思うは
 大なる浅間しき事なり。
 然れば『道宗、近江の湖を一人して埋めよ』
 と仰せ候とも『畏まりたる』と申すべく候」
     (御一代記聞書)
 
善知識の仰せにどうあるべきか、
蓮如上人と赤尾の道宗が
教えてくださっている。

「申し訳ございません」

と頭を下げながら、

「しかしこういう事情で、あの人が」

と、言い訳を並べていないだろうか。
初めの謝罪はウソで、
少しも悪いと思っていない証拠であろう。

民主主義なら、相手を反駁して
主張を通す必要もある。
だがそんな心で、
何が聞けると言うのか。

「道宗、琵琶湖を一人で埋めよ」

の蓮如上人のお言葉に、

「はい」

と道宗は無条件で答えている。

それは蓮如上人のお言葉の通り、
真剣に光に向かって進ませて頂いたとき、
絶対に助かるはずがない極悪最下の私が
不思議にも弥陀の絶対の救いに
遇うことができたのだから、
蓮如上人の仰有ることに
できないことはないと
世間の人には絶対に無理だと
思うようなことでも

「ハイ」

と従わせて頂くことができたのである。

また、観無量寿経の中で
釈迦の定善の勧めに対して、
韋提希夫人が素直に取り組んだのは、

「できないことを勧められるはずがない」

と釈尊を信じていたからだ。
韋提希夫人や赤尾の道宗のような
真実に向かっての純粋さが大切なのだ。



蓮如上人物語(36)(赤尾の道宗 茶店の子守歌)

2010年11月04日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(36)(赤尾の道宗 茶店の子守歌)

蓮如上人は赤尾の道宗の依頼で
多くの御文章を書いておられる。

その中でこういうことがあった。
道宗が上洛の際、蓮如上人にお伺いした。

「蓮如上人様、北陸では、
 念仏さえ称えていれば
 助けていただけるのだ、
 と思っている人が
 非常に多くあります。
 嘆かわしいことです。
 何とかならないものでしょうか」

すると蓮如上人は

「よし。その誤りを正す文をしたためよう」

と、その日から続けて四通の御文章を書かれた。

「ただ口にだにも南無阿弥陀仏と
 称うれば助かる様に皆人の思えり。
 それは覚束なきことなり」
 (御文章3帖目2通・文明六年八月五日)

「ただ声に出して念仏ばかりを称うる人は、
 おおようなり。それは極楽には往生せず」
 (御文章3帖目3通・文明六年八月六日)

「ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、
 極楽に往生すべきように思いはんべり。
 それは大に覚束なきことなり」
 (御文章3帖目4通・文明六年八月十八日)

「ただ何の分別もなく、
 南無阿弥陀仏とばかり称うれば、
 皆助かるべきように思えり。
 それはおおきに覚束なきことなり」
 (御文章3帖目5通・文明六年九月六日)

これを拝読した門徒同行の驚きは
如何ほどであったか伺い知ることができる。
大変な驚きであったに違いない。

平成の今日は浄土真宗の者が口を開けば

「念仏相続いたしましょう」
「お念仏のほかありません」

と、信心決定とか信心獲得の言葉は聞けず、
念仏のオンパレードである。

蓮如上人の時代も同じであった。
蓮如上人に旅先で面白い話が残っている。

上人が旅先で茶店によられ一服されていたときである。
突然、赤ちゃんの鳴き声が響いた。
年わもいかぬ娘が生まれたばかりの兄弟の
子守をしていたのである。

赤ちゃんが
「ふぎゃあああ」

と大声で泣いている。
するとその娘が

「おお、よしよし」

と赤ん坊をあやしながら、歌いだした。

「♪泣いて呉れるな 
 泣かしはせぬぞ
 泣けば子守の身が立たぬ
 昔々の武士(さむらい)は
 箒(ほうき)と刀を間違えて
 箒で敵が討たりょうか
 ねんねんころよ
 ねんころよ」

不思議な歌の内容に関心を持たれた蓮如上人。
娘にその歌について尋ねられたのである。

「娘さん、それは子守歌にしては、
 かなり風変わりな歌じゃのう」

「ああ、この歌ですか・
 これはこの茶店に伝わる歌でして、
 何でもここで起きたことをもとにしていると」

「それはどんなことかな?」

「あるお侍さんが、親の仇を捜して
 旅をしていた時のことです
 その武士が、ちょうどこの茶店で
 休んでいたところ
 何年も亘って探していた仇が
 茶店の前を通り過ぎっていったのです。
 ところが慌てていたのか、その御仁。
 横に置いておいた刀と、
 丁度、またその横に置いておいた箒を
 間違えて、箒を振りかざして
 仇を追いかけていったというのです。
 店の者が
 「お侍さん、刀はこっち」
 と後を追ったのですが、
 あれでは仇討ちどころか
 返り討ちにあってしまいますよね」

「ふむ、これは面白い」

と蓮如上人は紙と筆を持たれ、
替え歌を作られ、お弟子に与えられた

「堕ちて呉れるな
 堕としはせぬぞ
 堕とせばこの弥陀
 身が立たぬ
 昔々の同行は
 信と報謝を間違えて
 報謝で浄土へ詣りょうか」

そして、お弟子にこうご教導されている。

「よいか。親鸞聖人のみ教えは、
 信心をもって本とするのじゃ。
 弥陀より賜る真実信心一つが
 浄土へ生まれる正しい因であり、
 称える念仏は御恩報謝。
 救い摂られた喜びから、
 称えずにおれないお礼なのだよ
 信心正因、称名報恩。
 これが親鸞聖人の教えなのだ。
 現在、信心決定できているかどうかで、
 死んで極楽往生できるかどうかが決まるのじゃ。
 決して間違えてはならんぞ」

皆々信心決定あれかしと、
ひたすら布教に歩かれた
蓮如上人であったことを物語る。





蓮如上人物語(35)(赤尾の道宗 後生の一大事、油断あるまじき事)

2010年11月03日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(35)(赤尾の道宗 後生の一大事、油断あるまじき事)

蓮如上人と同時代の妙好人・赤尾の道宗は、
自らも厳しい聞法に徹し、
門徒同行をも教化していきました。

それらは自身が書き残した
『道宗心得二十一箇条』に
見ることができる。

今回は、『二十一箇条』の
一部を取り上げ、
道宗の聞法の心得を尋ねてみる。

【一・後生の一大事、命のあらん限り、油断あるまじき事】

「後生と聞けば、
 はるか遠い先のように思えるが、
 今日がその日かもしれないのだ。
 吐いた息が吸えなかったら、
 吸った息が吐き出せなかったら、
 後生である。
 無常の風に吹かれぬうちに、
 一大事の解決を急げ。
 片時も油断なく、
 聞法に身を沈めよ」

と警鐘を鳴らしている。

後生の一大事に始まり、
一大事の解決に終わる教えが仏法。

「後生の一大事」
「此一大事」

と、『二十一箇条』には八回も繰り返し、
「後生の一大事」こそ、
『二十一箇条』の眼目であり、
道宗は常に、
「後生の一大事を心にかけよ」との、
蓮如上人のご教示そのままを
同行に勧化していたことが分かる。

【二・仏法より外に、心に深く入ること候わば、
   あさましく存候て、すなわち、
   ひるがえすべき事】

「仏法以外に、深く心に
 かかることがあったなら、
 恐ろしいことだと思って、
 すぐに捨て去らねばならない」

「仏法を主とし、世間を客人とせよ」、
「仏法には世間の隙を闕きて聞くべし」
  (御一代記聞書)

の、蓮如上人の仰せそのままである。
 
仏法以外に心をとらえるものがあれば、
それをすぐに捨てて、
仏法第一の日暮らしをせよ、
との道宗の尊い面目が表れている。

【三・ひきたつる心なく、
   おうようになり候わば、
   心中をひきやぶりまいるべき事】

「『こんなことではいけない』と
 心を引き立てて努力する心が乏しくなり、
 懈怠の心が起きてきたら、
 その心を引き破って
 いかねばならない」

『二十一箇条』には、
「ひきやぶれ」の言葉が三度出てくる。

道宗自らむちを振り上げ、
怠け心をたたきつけている
気迫が込められている。

遠く足を運んでまで仏法を
聞く気が起きない、
朝夕の勤行がつらい、
などの心が出てきたら、
「引き破れ」と徹底して
戒めているのである。

「後生の一大事を心せよ」
「仏法を主とせよ」
「自己をたたけ」

この三つが『二十一箇条』の骨格であり、
道宗の生涯を貫く信念、
そして私たちへの叱咤激励であることを、
忘れてはならない。



蓮如上人物語(34)(赤尾の道宗 南無阿弥陀仏の謂れ)

2010年11月02日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(34)(赤尾の道宗 南無阿弥陀仏の謂れ)

赤尾の道宗は年に一度の嗜みとして
赤尾の山奥から京の本願寺へ毎年参詣していた。

或るとき道宗の妻は

「蓮如上人から何か心得やすきお言葉を
 頂いてほしい」

と依頼した。
京から遥々帰って来て草履をも
脱がず妻に出して見せたのは
「南無阿弥陀仏」の六字の御名号だった。

妻は見るなり意がはずれてしまった。
もっと何か細かく書きつけたものが
欲しかったという。

道宗は妻の意を知るなり
直ちに脱ぎかけた草履の紐を
結び直して即座に
今帰ってきた道を再び京へ引き返し、
南無阿弥陀仏の謂れを詳しく書かれた
御文章を頂いてきたのだ。

妻は何故親鸞聖人が御名号のみを
御本尊となされたのか、
その謂れが知りたかったのである。

仏教で本尊とは、
本来最も尊重さるべきものであり、
根本に尊ぶべきものであるから、
信奉者にとっては
唯一、絶対、永遠、普遍、不可分の
ものでなければならない。

このような御本尊は、
端的に真実を開示すべきものであって、
それがみんなに余計有難がられるとか、
親しまれるとかいう
凡夫の機根に迎合して立てられるべきもの
では断じてない。

親鸞聖人はそれまで
寺院などで本尊としていた、
弥陀三尊の絵図などを捨て去り、
ただ名号のみを御本尊とされ、
みなさんにもお勧めに
なっていかれたのはその為である。

また蓮如上人が、

「他流では、名号よりは絵像、
 絵像よりは木像というなり。
 真宗においては、
 木像よりは絵像、
 絵像よりは名号というなり」

と仰言って、『御一代記聞書』には、

「然れば蓮如上人の御時、
 あまた御流に背き候本尊以下、
 御風呂の度毎に焼かせられ 候」

蓮如上人は親鸞聖人の
名号本尊の御教えを忠実に守り、
それに違反する多くの本尊を、
お風呂の度ごとに焼かれたのは、
本尊は凡夫の信仰の程度によって、
立てたり替えたりすべきものではないことを
身をもって御教示になったものである。

断じて私達は方便の為に
真実をゆがめてはならない。

何十億人の中から
親鸞聖人の教えを聞きたいと
集まられる方は
多生億劫から阿弥陀仏とご縁のある
大変仏縁深い方々である。

親鸞聖人の教えを聞きに集まられる親鸞学徒に
御名号を御本尊とし、
その名号の謂れを徹底的に法施することが
親鸞学徒の聖使命ではないのか。

我々親鸞学徒はその使命に生きる。

蓮如上人物語(33)(赤尾の道宗 三年の飢饉にあったようなもの)

2010年11月01日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(33)(赤尾の道宗 三年の飢饉にあったようなもの)

合掌造りで有名な越中五箇山(富山県)。
ここに、道宗開基の行徳寺がある。
道宗には、親鸞学徒が学ぶべき、
数多くの言動が伝えられている。

ある正月、蓮如上人が、
富山県井波の瑞泉寺で、
年を越された時のこと。

いつものように道宗は、
元旦の勤行から参詣するため、
真夜中に床を抜け出した。

外は吹雪。
いてつく空気が体の芯までしみる。

身仕度を整えた道宗は、
南無阿弥陀仏の御本尊に合掌し、
漆黒の闇に向かって歩きだした。

赤尾から井波までは
雪深い山々を越えること約三十キロ。
優に五時間はかかる。

「ザクッ、ザクッ、ザクッ」

腰まで積もった雪で、
思うように進まない。
どんな豪傑でも心細くなるような
真夜中の山道が続く。だが、

「この山を越えれば、
 また蓮如上人から、
 阿弥陀如来のご本願を
 お聞かせいただけるのだ」。
 
善知識を心よりお慕いする
道宗の心は明るかった。

片道五時間の道のりも、
苦にはならない。

しかし、例年にない大雪で、
山中深く踏み入るほど、
雪はいよいよ道宗の行く手を阻み、
峠にたどり着いた時には、
山を下る道は完全に消えていた。

「ああ、ここまで来ながら、
 善知識にお会いできないほどの
 無念があろうか」
 
道宗は、なおも道なき道を進もうとしたが、
方角が全く分からない。
もはやこれまでと、
断念しかけたその時、
ふと目の前の雪に舟を引いたような、
一筋の道がついているではないか。

歓喜した道宗は、一目散に井波へ急いだ。

一方、夜明けを迎えた井波御坊では、
勤行の準備が整えられ、
蓮如上人のご出座を請うた。

すると上人は、

「道宗は来たか」

と尋ねられた。

「いえ、まだ参っておりません。
 ですが、上人さま。
 今朝はこの雪でございます。
とても山から出てくるのは無理かと」

従者が申し上げると、

「そうでもあるまい。
 しばらく待とうではないか」

とお答えになった。

道宗の参詣をいぶかりながらも、
一同が彼の到着を待っていると、
やがて、全身雪まみれになって、
御坊へと向かってくる道宗の姿が
現れたではないか。

報告を聞かれた蓮如上人は、

「そうか、道宗が着いたか。
 では、鐘と太鼓を打って、
 皆に勤行開始の合図を」

と命じられる。
シンとした山合いに澄んだ音が響き渡った。

元旦に響く鐘と太鼓は、
この時から、

「道宗打ち」

といわれている。

「一日の嗜みには朝つとめにかかさじ」

"法話に参詣していながら、
 帰命無量のご調声にあえぬは、
 三年の飢饉にあったようなものだ"

と常日ごろから語っていた道宗は、
今日でも親鸞学徒のかがみとたたえられる。



蓮如上人物語(32)(赤尾の道宗 48本の割り木)

2010年10月31日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(32)(赤尾の道宗 48本の割り木)

阿弥陀如来に救われ、
周囲に強い影響を与えた人を
妙好人という。

このような人達は
信心の智恵に生かされた
言動をしている。

蓮如上人を無二の善知識として、
ひたすら敬慕し、
信順したお弟子があった。
後に

「蓮如上人に、道宗あり」

といわれた妙好人・赤尾の道宗である。

越中(富山県)の集落・赤尾に生まれた道宗は、
もと平家の落人の末裔、
角渕刑部左衛門の子で、俗称を弥七といい、
四才にして母に死別し、
十三才のとき父に別れ、
その後叔父の浄徳のもとで
養育された。

ある日小鳥が巣をつくり
雛を育てているのを見て
小鳥でさえ親鳥にまもられているのに、
自分にはなぜ親がいないのであろうかと悲しみ、
子ども心にも親を慕う切ない思いに
明け暮れた。

そこで叔父は大分県の耶馬溪にある五百羅漢の話を
弥七に語った。

「五百羅漢を順々に拝んで歩いていると
 微笑んで下さる羅漢さまが
 親の顔そっくりだ」

と。彼は是非参ろうと
決心して旅立った。

越前の麻生津まで来たとき
日が暮れて、道端に腰をおろし
仮寝していた。
すると夢うつつとなく、
一人の旅の僧があらわれ、

「筑紫へ参って親の似顔の仏に
 逢うても喜びもつかのま、
 また別れの悲しみが深まるだろう。
 それより京都の蓮如上人に
 逢えば別れることのない親に
 逢えるだろう」

と告げられた。
あなたは誰ですかと念の為にたづねると
信州更科の僧、蓮如と近づきだといって
夢がさめた。

弥七は、筑紫参詣を変更して
京の蓮如上人を訪ねた。
三日三夜座をかえず
上人の教えを聴聞した。

その真剣な態度が上人の御目にとまり、
両親なきことを上人が聞かれて、
お傍におかれ、深く仏法に
帰依するようになったのである。

彼の言行を伝える数々の逸話は、
真摯な仏法者の規範たる道宗の人柄を、
如実に物語っている。

道宗の体には、あちこちに生傷が
絶えなかったという。

一人の男が、傷痕の訳を道宗に聞いた。
しかし、彼は何とも答えない。
不審に思った男は、
ある日、道宗の住居を訪ね、
中をぐるりと眺めてみた。

すると、道宗の寝場所とおぼしき部屋に、
何十本もの割り木が山と積んである。
布団を置いてあるのならまだしも、
割り木を積んでいるというのは、何とも奇怪だ。

「一体何に使うのか、あんな物を」

男はその晩、道宗の寝床を、
物陰からこっそりうかがった。
あの割り木を、どうするのだろう。

息を殺して道宗の様子に
目を配っていると、
彼は、四十八の本願文を誦しながら、
床に割り木を並べ始めた。
一本、二本……全部で四十八本。

そして並べ終わると、
道宗はそのゴツゴツした割り木の上に、
横になって寝かかった。

敷き布団の代わりに割り木とは、
実に異様である。
なかなか眠れないのであろうか、
何度も寝返りを打っては、
念仏を称えている。

一部始終を見ていた男は、
あまりのことにあきれて、
翌日、道宗に尋ねた。

「あなたは、阿弥陀如来の本願は
 信ずる一念で救いたもうと、
 いつも話してくれているが、
 それは表向きのことで、
 実は昨日のような、
 えらい修行をせねばならんのですねえ」
 
昨晩の出来事をつぶさに話した男に、道宗は、

「とんでもない。私のようなあさましい人間は、
 布団の上に寝ておっては、
 阿弥陀仏の洪恩を忘れて楽々と寝てしまう。
 割り木で身を痛めて、
 せめて寝覚めの間だけでも、
 四十八願を建立なされた阿弥陀仏の御心を
 しのばせていただかねば、
 と思ってのことなのだよ」

と答えたという。

「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし」

「恩徳讃」そのままに、
仏恩の広大深重なることに感泣しつつ道宗は、
感謝の日々を送っていたのである。



蓮如上人物語(31)(白骨の章)

2010年10月30日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(31)(白骨の章)

蓮如上人の御文章の中で、
最も広く知られているのが
「白骨の章」であろう。

お盆や葬儀、法事には、
必ずといっていいほど拝読される。

「白骨の章」は、蓮如上人七十五歳の時に
書かれたものである。

当時、山科本願寺の近くの安祥寺村に
青木民部という下級武士がいた。
十七歳の娘と、身分の高い武家との間に
縁談が調ったので、民部は、
喜んで先祖伝来の武具を売り払い、
嫁入り道具をそろえた。

ところが、いよいよ挙式という日に、
娘が急病で亡くなったのである。

火葬して、白骨を納めて帰った民部は、

「これが、待ちに待った娘の嫁入り姿か」

と悲嘆に暮れ、五十一歳で急逝してしまう。
度重なる無常の衝撃に、
民部の妻も、翌日、三十七歳で愁い死した。 

蓮如上人は、かねてより民部の一家を
よく知っておられたので、
大変哀れに感じられ、
御文章に表そうと思われた。

さらに二日後、山科本願寺の聖地を
財施した海老名五郎左衛門の
十七歳になる娘もまた、
急病で亡くなった。

葬儀の後、山科本願寺へ参詣した五郎左衛門は、
蓮如上人に、無常について
ご勧化をお願いした。
 
この時、書き与えられた御文が、

「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
 凡そはかなきものは、この世の始中終、
 幻の如くなる一期なり」

で始まる白骨の章である。
激しい無常観が漂い、

「人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、
 誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
 阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
 念仏申すべきものなり」

と結ばれている。

蓮如上人が、「早く心にかけよ」と
訴えておられる「後生の一大事」とは何か。

「後生」とは一息切れた後、

「一大事」とは、取り返しのつかない大事をいう。
 
死んだらどうなるかハッキリしない心を、
仏法では「無明の闇」、「後生暗い心」という。

この「無明の闇」が、全人類の苦悩の根元であると、
釈尊は喝破された。
しかも、現在の私たちを苦しめるだけでなく、
未来(死後)にも大変な苦しみをもたらす。
釈尊は『大無量寿経』に、こう仰有っている。

「苦より苦に入り、
 冥より冥に入る」

現在の苦しみが未来の苦しみを生み出し、
現在の心の闇から死後の暗黒の世界に入ってゆく。
これを、後生の一大事というのである。

しかも、この後生の一大事の解決は、
阿弥陀仏の本願によらなければ
絶対にできないのだと、
釈尊は教えられている。

仏教は、後生の一大事に始まり、
その解決で終わる。
この一大事を知らなければ、
仏教は金輪際分かるものではない。






蓮如上人物語(30)(蓮如上人と一休 南無阿弥陀仏の教えに帰さなければ)

2010年10月29日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(30)(蓮如上人と一休 南無阿弥陀仏の教えに帰さなければ)

一休は蓮如上人と、
宗派の違いや年の差を超えて
深く親交を結んでいた。
互いの思想に敬意を払い、
教えを学び合い、
一休はこんな歌を残している。

「分け登る
  ふもとの道は多けれど
   同じ高嶺の月をこそ見れ」

(真理の山に向かう道は違うけれど、
 同じ月を我らは見ているのう)

しかし、他力の世界は
自力仏教しか知らなかった一休には
知るよしもなかった。
自力では同じ高嶺の月を見ることは
できないのだ。

一休は幾度となく
蓮如上人の法話を聞き、
次のような考えを持つに至る。

「自分が求めているのは
 禅の道である。
 しかし、最後には
 南無阿弥陀仏の教えに
 帰さなければいけない」

一休は自分のところへ仏法を
聞きにきた者に

「真実の仏法を聞きたければ
 本願寺の蓮如の
 ところへ行け」

と蓮如上人のご法話に
参詣することを勧めた。

一休は87歳にして
なくなるのである。

一休が亡くなる際、
弟子にある遺言を残す。

それは、四十九日の法要を
蓮如上人にしてほしい、というもの。

その遺言どおりに、一休の弟子は
蓮如上人に四十九日の法要を頼むと、
その頼みを断る蓮如上人。

いわく、法は現身に説くもので
死んでからでは意味がない、という。

親鸞聖人のみ教えでは
「平生業成」と説かれている。

阿弥陀仏の救いは平生に定まるもの。
死んでからでは手遅れと
いうことを一休の弟子に
蓮如上人は教えられたのである。