goo blog サービス終了のお知らせ 

歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

親鸞聖人時代を生きた人々(49)(法然上人 65才 選択本願念仏集・捨閉閣抛)

2010年08月02日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(49)(法然上人 65才 選択本願念仏集・捨閉閣抛)

『選択本願念仏集』は、建久9年(1198年)、
関白九条兼実の要請によって、
法然が撰述された2巻16章の論文である。
一般には『選択集』と略称される。

浄土三部経の経文を引用し、
それに対する善導大師の解釈を引き、
さらに法然上人御自身の考えを述べている。

末法においては称名念仏だけが相応の教えであり、
聖道門を捨てて浄土門に帰すべきで、
雑行を捨てて念仏の正行に帰入すべきと説いている。
それまでの観想念仏を排して
阿弥陀仏の本願を称名念仏に集約することで、
仏教を民衆に開放することとなり、
浄土教の歴史の中で画期的な意義を持つ聖教である。

1212年に刊行されると、
高名な仏教学者の(特に善導大師)の書を引用し、
弥陀の本願の救いを説いた書である。
確固たる学問的な根拠を示して、
弥陀の本願によらなければ絶対に救われないから、
聖道仏教はさしおいて、浄土仏教へ入れ、
と徹底して教える「選択集」は、
仏教界に水爆級の衝撃を与えた。

『選択本願念仏集』には聖道門の
「捨閉閣抛」(しゃへいかくほう)が
始終一貫、説かれてあった。

捨=捨てよ。
閉=閉じよ。
閣=さしおけよ。
抛=なげうてよ。  

華厳宗の明恵は生前の法然上人を
高徳な人格だと尊敬していたが、
法然上人の死後
「選択集」を読んで激怒し、
すぐさま『摧邪輪』三巻で反論した。
これを皮切りに反論書が次々出されたが、
擁護する書も後を絶たず、激しい応酬となった。
当時の仏教界は『選択集』を中心に動いていた。

色々な『選択集』の解説書がでたが、
親鸞聖人の『教行信証』によって、初めて法然上人の
御意が明かになったのである。

「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、
 雑行を棄てて本願に帰す。
 元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて
 『選択』を書しき。
 同じき年の初夏中旬第四日に、
 「選択本願念仏集」の内題の字、
 ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と
「釈 釈空」の字と、空の真筆をもって、
 これを書かしめたまひき。
 --乃至--、
 『選択本願念仏集』は、
 禅定博陸 月輪殿兼実、法名円照 
 の教命によりて選集せしめるところなり。
 真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。
 見るもの諭り易し。
 まことにこれ
 希有最勝の華文、
 無上甚深の宝典なり。
 --乃至--
 慶ばしいかな、
 心を弘誓の仏地に樹て、
 念を難思の法海に流す。
 深く如来の矜哀を知りて、
 まことに師教の恩厚を仰ぐ。
 慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。
 これによりて、真宗の詮を鈔し、
 浄土の要をえらぶ。
 ただ仏恩の深きことを念うて、
 人倫の嘲りを恥ぢず。
 もしこの書を見聞せんもの、
 信順を因とし、疑謗を縁として、
 信楽を願力に彰し、
 妙果を安養に顕さんと。」
(教行信証後序)



親鸞聖人時代を生きた人々(48)(法然上人 53才 大原問答)

2010年08月01日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(48)(法然上人 53才 大原問答)

当時、法然上人は智慧第一、勢至菩薩の化身と
尊崇されていた。
とりわけ法然上人の名をとどろかせたのが、
1186年法然上人53歳の時、大原勝林院で行われた
大原問答である。

法然上人には多くの帰依者があり、
天台宗や法相宗の学者たちも
その存在を無視できなくなってきた。
しかし、相手は一切経を丸暗記しておられる
智恵第一の法然上人である。
各宗派の僧侶は分担を決め、
法然上人に相対した。

法然上人は
「これほど真実開顕の絶好の機会はないではないか。
と、身の周りの世話をする数人のお弟子を伴われ
大原と向かわれたのである。

大原での法論は聖道門各宗派380余人、
主に天台座主顕真と法然上人との間で、
浄土教の念仏により極楽往生できるかどうか
行われた問答であった。

京都吉水の法然上人。
日増しに参詣者が増えることが、各宗のねたみの的になり、
洛北・大原の勝林院で、各宗の代表380余人と
法然上人の法論がなされることになった。
寺の周囲には2000人余りの僧侶も
集まってきていた。

法論の途中、お師匠様の身を案じた熊谷次郎直実が
乗り込んできた。
直実は法然上人より蓮生房の法名を頂いていた。
直実といえば泣く子も黙るといわれた
源氏の旗頭であった男である。
「お師匠様に指一本でも触れた者にはこの熊谷、
ただではおかぬぞ」と
大声をあげた。
法然上人がすかさず
「これ蓮生房、控えおろう」と
叱りつけられる。
と、あの熊のような大男が
頭を地べたに押し付けながら、
部屋から退出したのである。
その光景を見て、また大衆が驚いた
というエピソードも残っている。

勝林寺には漆塗りの問答台が左右に一対、
対峙している。
法然上人がその一方に上がる。

天台座主が、口火を切る。
「浄土門が、聖道門より優れているとは、
 どういうことか」

すかさず法然上人は
「お釈迦さまの教えに優劣はないが、
 仏教はなんのために説かれたか。
 衆生の迷いを転じて、仏のさとりに至らすため。
 衆生を救う点において、浄土門のほうが優れている。
 
 聖道門は、人を選ぶではないか。
 経典を学ぶ知恵のない者、
 修行に耐える精神力のない者は求められぬ。
 欲や怒りのおさまらぬ者は、
 救われないということではないか。

 自力聖道の教えでは、戒、定、慧の三学の修行、すなわち、
 煩悩をおさえ、煩悩をさえぎり、煩悩を断つ修行を
 長期間積まねば仏に成れぬと説かれている。
 
 さらに厳しい戒律が、男に250、女に500ある。
 いったい、完全に実行できる人はどれだけあるのか。
 ほとんどの大衆は救われないではないか。

 しかし、浄土の法門はちがう。
 欲の止まぬ者も怒りの起こる者も、
 愚者でも智者でも、悪人でも女人でも
 侍でも農民でも商人でも職人でも乞食でも、
 全く差別がない。
 平等に救われるのだ。

 なぜならば、阿弥陀如来が、すべての人を必ず救う、
 と誓っておられる。
 しかも、末法の今日、聖道門の教えで救われる人は
 一人もいないとお釈迦さまはおっしゃっている。」

天台座主が言葉を失い、高野山の明遍が根拠を求める。

法然上人は5回一切経を読破しておられる。
淀みなく経典の根拠をあげられた。

法然上人は一切経を丸暗記されている
お方である。

「『賢劫経』や『大集経』には、
 釈尊入滅後、500年間を正法の時機とし、
 その後1000年を像法の時機、
 像法後1万年を末法の時機、と説かれる。
 像法の時機には、さとりをうる者はひとりもなく、
 末法には教えのとおり修行する者さえ
 いなくなると、経典にある。
 すでに現在は末法。自力の修行では、
 成仏得道の道は断たれている。」

天台座主が言葉を発する。
「末法だから助からぬというなら、
 浄土門も同じではないか」

法然上人はここぞとばかり真実開顕される。
「いや、お釈迦さまは、『大無量寿経』に、
 『当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲をもって哀愍し、
 特にこの経を留めて止住すること百歳せん』
 と明言しておられる。
 これは、『法華経』など一切の経典が滅尽する、
 末法・法滅の時機が来ても、
 阿弥陀仏の本願が説かれる『大無量寿経』だけは
 永遠に残って、一切の衆生を幸福に導く、ということだ。
 だから、『大集経』にも、
 『当今は末法にしてこれ、五濁悪世なり、ただ
 浄土の一門有りて通入すべき路なり』
 と説かれている。」

聖道仏教の者達はどう対処していいか。
苦し紛れに、
「…だが、阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神に
 向くなとは、言いすぎではないのか」

法然上人はここぞとばかり釈尊の御金言を説き切られる。
「一向専念無量寿仏、と『大無量寿経』にあるように、
 これはお釈迦さまの至上命令なのだ。
 決して法然が勝手に言っているのではない。」

各宗の代表が次々に登壇し、問答は一昼夜に及んだが、
法然上人はいかなる難問にも、
経典の根拠を挙げて、よどみなく答え、
すべての学者をことごとく論破した。

論議は一日一夜に及んだが、ついに法然上人に
軍配があがった。
法然上人の言葉に納得し、
高徳に打たれて満座の聴衆は、
声高に念仏を称え、その声は三日三晩、
大原の山々に響いたと伝えられている。


親鸞聖人時代を生きた人々(47)(法然上人 観無量寿経疏により本願に帰依)

2010年07月31日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(47)(法然上人 観無量寿経疏により本願に帰依)

一切経を幾度も読んでゆかれる法然上人。
しかし、一向に魂の解決の道が分らない。

この時の源空上人の煩悶する姿を、
ある書物は述懐として次のように伝えている。

「また、凡夫の心は物にしたがいてうつりやすし、
 たとえば猿の枝につたうがごとし。
 まころに散乱して動じやすく、一心しずまりがたし。
 いかでか悪業煩悩のきずなをたたんや。
 悪業煩悩のきずなをたたずば、
 なんぞ生死繋縛(しょうじけばく)の身を
 解脱(げだつ)することをえんや。
 かなしきかな、かなしきかな。
 いかがせんいかがせん。
 ここに我達ごときはすでに
 戒(煩悩をさえぎり)
 定(煩悩を抑え)
 慧(煩悩をたちきる聖道門の修行)
 の三学の器にあらず。
 この三学のほかに我が心に相応する法門ありや」

三度目、四度目と、想像を絶する持久力で
一切経読破の作業が続けられたが、
迫り来る無常を思えば、
「今、このまま死ねば、必ず無間地獄真っ逆様だ。
 いかがせん、いかがせん」

あふれる涙は頬を伝わり、経典の上に滴り落ちる。
涙に濡れた経典を惰性のように
読み始めた五回目の中ほど、
中国の善導大師の書かれた『観無量寿経疏』に、
大変な一文を発見されたのであった。

善導大師の書かれた『観無量寿経疏』
そこに書かれてあったのが、次のご文であった。

「一心に専ら弥陀の名号を念じて、
 行・住・坐・臥 時節の久近を問わず、
 念々に捨てざる者、これを正定の業と名く、
 彼の仏願に順ずるが故に。」

この文章を読まれた一念に法然上人は、
弥陀に救い摂られたのであった。

「ここにあった!弥陀如来の本願こそ、
 愚痴と十悪の法然の救われる唯一無二の道だった。
 ああ、それにしても、極重の悪人、
 地獄しか行き場のない極悪最下の法然を
 救いたもうたとは、広大無辺な弥陀大悲の
 かたじけなさよ」

懺悔と歓喜で涙にくれ、
『観無量寿経疏』を手に高々と報恩感謝の念仏を
称えられた法然上人。
当時の記録は、「高声念仏」と伝えている。

時に承安五年、法然上人四十三才の御時であった。

絶対の幸福になられた法然上人は、
それ以来、京都吉水の禅房に移り、
万人の救われる阿弥陀如来の本願を
末法濁乱の世に力強く説き続けられたのである。





親鸞聖人時代を生きた人々(46)(法然上人 勢至丸の出家)

2010年07月30日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(46)(法然上人 勢至丸の出家)

勢至丸が最初に師と仰いだのは、
近隣の菩提寺の住職であった。

住職は幼い勢至丸の並外れた聡明さに舌をまいた。
一を聞いて十を知り、十を聞いて百を知る。
さらに、聞いたことは二度と忘れなかった。

やがて住職は、これほどに智恵勝れた勢至丸を
このような片田舎で埋もれさせるのは
いかにも惜しいと、比叡山行きを勧めた。

当時は、天台宗比叡山と真言宗高野山が、
二大聖地として仏教界に君臨していた。
天下の俊秀がこれらの山に結集していたのである。

勧めに従って
勢至丸は、比叡入山を決意した。

その時、菩提寺の住職は、
叡山の僧侶あてに送り状をしたため、
文中、「ここに文殊の像一体を進呈する」と
書いている。
比叡山の僧は、送り状を見て、どこに文殊の像があるか、
と一時思ったが、やがて文殊の像とは勢至丸自身の
ことであることと悟った。

これだけでも住職が、如何に勢至丸の
天才を認めていたかが分かる。

勢至丸は初め源光上人に師事。
15歳の時に同じく比叡山の皇円の下で得度。
比叡山黒谷の叡空に師事して「法然房源空」と改め、
以来ひらすら日本一の僧を目指して
切磋琢磨の年月を重ねた。

やがて水を得た魚のごとく、
学問はいよいよ深まり、
単に天台宗のみならず、八家九宗といわれた
諸宗の教義にもことごとく精通した。
しかし、師の叡空すら法然上人が真の知識と
仰ぐには至らなかった。

比叡山には叡空以上の学者はいなかった。

ある時、叡空が『観無量寿経』の講義の際、
「光明・照十方世界、念仏衆生摂取不捨」と
念仏が説かれたが、この念仏が叡空は観念の念仏と
教えているのを聞かれて法然上人は
称名念仏ではないのですかと尋ねられた。

法然上人の言われることが正しく、
叡空は自分の誤りに気付き、反論することが
できなくなった。
「これは観念の念仏でいいのだ」
「しかし、それではお釈迦様の教えの真意を
 曲げることになるのでは」
「まだ言うか」

叡空は誤りを認め改めるどころか、
逆にその場にあった茶碗を投げつけ、
法然上人を破門している。

比叡の山にもう法然上人を指導できる知識は
おらなくなり、一人での勉学、修行が始まった。

法然上人が四十歳を迎えたころ、
比叡山には肩を並べる者がない学識を
備えるに至った。
比叡山天台宗の座主になられたのである。
名実もとに日本一の僧侶となられた。

「ついて、父上の遺言を果たした」
と満足したのも束の間、
厳しく、内心に目を向けたとき、
いまださとりがえられず、今にも死が来たならば、
必ず無間地獄に堕つる暗い心しかなかったのである。

釈尊が仏法を説かれた目的は、
後生の一大事の解決である。
いくら名声や地位が得られても、
後生の一大事を解決していなければ、
迷いの衆生であり、
真の日本一の僧侶とは言えない。

そこに気づいた法然上人は、
一切の地位を投げ捨てても、
魂の一大事の解決を求めずにはおれなかった。

墨染めの衣で向かわれたのは、黒谷である。
黒谷の報恩蔵には当時、釈尊の一切経が
所蔵されていた。
源空は、天台宗を含めて、
それまで学んだいずれの宗派の教義を
もってしても救われ難い自己の姿を
すでに知らされていた。
「善をなそうとしても善のカケラもなし得ず、
 悪をやめようとしても悪を造らずしては
 寸刻も生きてゆけない、
 そのような自分が廃悪修善を基調とする
 聖道門の教えで助かるはずがない。
 しかし、釈尊はこのような者を救う道を
 必ず説いておられる筈である。
 そんな教えが一切経のどこかにあるに違いない。」
法然上人はそう考えていた。

その教えを知るためにこそ黒谷の報恩蔵へ来たのである。

黒谷の報恩蔵で法然上人は尋常でない決意をした。
すなわち、一切経の中に自己の救われる道を知るまでは
死を賭しても、この報恩蔵を出ない、という覚悟である。

それ以来、来る日もくる日も経典をひもとかれた。
七千余巻の一切経である。
それを一通り読むというだけでも大変な作業だ。

手にされる一巻の経典に、
「この中にこそ」と自己の救いの道をきたいして読み始め、
失望とともに一巻を閉じ、次の経典をひもとく。

このようにして一切経を一通り読まれた。
しかし、どこにも自分の助かる道は説かれていない。
目の前が真っ暗になる思いDあった。
やはり自分のような者の助かる道はないのか。
いやそんな筈はない。
読み落としたに違いない。
どこかに説かれているに違いない。
再び一切経を最初から読み返そうと決心されたのであった。

「今、こうしている愛だみの無常は念々に迫ってくる。
 今死んだらどうなるのだ。
 いまだ救いの道は体得できていないではないか。」

厳しく自己に言い聞かせ、膨大な一切経を再度、読み始められた。
ところが、二度目の一切経の読破でも救われなかった。





親鸞聖人時代を生きた人々(45)(法然上人 本師源空)

2010年07月29日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(45)(法然上人 本師源空)

法然上人は親鸞聖人を
阿弥陀仏の救いに導かれた
直接の善知識である。

だからこそ親鸞聖人はご和讃に
「本師源空いまさずば、
 この度空しく過ぎなまし」

もし、法然上人がおられなかったら、
今度もまた、苦から苦、闇から闇へ、
流転を重ねるところだった。
あぶないところを、法然上人によって
助けられた、と告白されたのである。

親鸞聖人の法然上人に対する思いは
世人には想像もつかない。

歎異鈔には
「たとい法然上人にすかされまいらせて、
 念仏して地獄に堕ちたりとも、
 更に後悔すべからず」(第二章)
と、法然上人になら騙されて
地獄へ堕ちても後悔はしないとまで
仰言っている。

このような信じ方が誰ができるだろうか。

信ずるということは騙されないと信ずるので
騙されても後悔しない信じ方なで
世間ではありえないからだ。

「騙されても後悔しない」と信じているならば
怒りは生じない。
だが、このような信じ方は、常識では不可能である。
絶対に裏切られることのない、
弥陀の救いにあわれた親鸞聖人だからこそ
できたことだろう。

親鸞聖人が、それ程まで尊敬された
法然上人とは、一体どんなお方であったのか。

法然上人は長承二年(1133年)に
美作国(今の岡山県)稲岡庄の武士、
漆間時国(うるまときくに)の子として生まれられた。

幼名は勢至丸と名づけられたが、
それは阿弥陀仏の脇士の二菩薩、
観音菩薩(慈悲の象徴)
勢至菩薩(智慧の象徴)
のうちの勢至菩薩から
名づけられたものであった。

勢至丸はその名のごとく、
幼少のころより極めて賢い子供で
あったと伝えられていた。

勢至丸9才の時、その生涯を
決する大事件が起こった。
このころ、時国の所領にほど近い所に、
源定明(みなもとのさだあき)
という武者があった。
ふとしたことから時国に大層の恨みを抱き、
ある夜半、大勢の手下とともに、
時国の館を襲ったのだ。

不意の出来事に時国は一人、奮戦したが、
何といっても多勢に無勢、
たちまち斬り伏せられてしまった。
騒ぎに目を覚ました勢至丸が
時国の寝所に行ってみると、
既に賊どもの姿はなく、
体の各所に致命傷を受けた時国が
虫の息で横たわっていたのである。

「おとうさん、さぞかし無念でございましょう。
武士が互いに一騎討ちをして
武芸つたなく敗れたのであればともかく、
 寝首をかきに来るとは何たる卑怯な賊どもでしょう。
 しかし、お父さん、
敵は勢至丸が成長した暁には
 必ず取ってご覧に入れます。」
勢至丸はけなげに、臨終の父に敵討ちを誓った。

聞いた時国、
「勢至丸よ、敵討ちの志は嬉しいが、
 それは父の望むところではない。
 私の死は、私自身の前世の業縁によるのだ。
 もし、そなたの敵討ちが成就したとしても、
 敵の子は次に、そなたを敵と狙って、
 幾世代にもわたり、争いは絶えないであろう。
 愚かなことだ。
 もし、父のことを思ってくれるのなら、
 出家して日本一の僧侶となり、
 父の菩提を弔ってくれ。
 これがそなたへの最後の望みだ」
と言いつつ息絶えた。

時国の遺言は勢至丸の心の中に深く刻み込まれた。
勢至丸はそれに従い、出家を決意する。



親鸞聖人時代を生きた人々(44)(源信僧都から法然上人・親鸞聖人へ)

2010年07月28日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(44)(源信僧都から法然上人・親鸞聖人へ)

源信僧都は947年に奈良県当麻郷で誕生され、
1017年に七十六歳でなくなられた。

源信僧都が生きられた平安後期、
仏法は間もなく末法の時代に
入ると考えられていた。

源信僧都は「濁世・末代」いわれ、
5つの濁りによって真実が見えなくなり、
生きる上での本当のよりどころが
見失われていく。

そんな末法到来の中で、
今こそ阿弥陀仏の本願が一段と
輝きをみせる時代が到来したのである。

源信僧都がなくなられて
116年後に法然上人がお生まれになり、
156年後に親鸞聖人がお生まれになられた。

源信僧都は比叡山の山深くにこもられ、
法然上人や親鸞聖人は比叡山を捨てて
京都の町に下りられた。

このように両者は時代背景も異なり、
求道のすがたにも違いはあるが、
源信僧都の教えと信心を受けつぎ、
いっそう展開されたのが
法然上人と親鸞聖人である。

『往生要集』に次のようなお言葉がある。

「極楽に生まれるための教えと念仏の行は、
 今の濁りきった末の世に生きている人々を導く
 目となり足となるものである。
 僧も俗人も、身分が高いものも低いものも、
 だれもが帰依すべき道である。
 天台宗や真言宗などではさまざまな教えが説かれ、
 さまざまな修行がある。
 すぐれた知恵があり、努力しつづける人にとっては
 決して困難な道ではないだろう。
 しかし、私のように融通がきかず、
 智恵が劣ったものにはとても実行できることではない。
 だから私は念仏の一門に入り、
 釈尊が説かれた経典や浄土教の先人の論から
 阿弥陀仏の教えの要点を集めてこの書にまとめた。
 この書を読んで修行すれば、
 理解やすく、行いやすいであろう」

源信僧都も法然上人も、
ともに学識豊かな学僧であった。

しかし、源信僧都は

「予が如き頑魯の者」
(私のように融通がきかず、智恵が劣ったもの)

といわれ、

法然上人は

「愚痴の法然房」
「十悪の法然」と

いわれている。

親鸞聖人の書かれた教行信証には
阿弥陀仏に救いとられ、
真実のありのままの相を
照らしだされた機の深信のお言葉が
満ち溢れているのである。

その助かる縁手がかりのない者が

「ここにあった!弥陀如来の本願こそ、
 愚痴と十悪の私の救われる唯一無二の道だった。
 ああ、それにしても、極重の悪人、
 地獄しか行き場のない極悪最下の私を
 救いたもうたとは、広大無辺な弥陀大悲の
 かたじけなさよ」

懺悔と歓喜で涙にくれ、
絶対の幸福になられた
源信僧都・法然上人・親鸞聖人は、
万人の救われる阿弥陀如来の本願を
末法濁乱の世に力強く説き続けられたのである。



親鸞聖人時代を生きた人々(43)(源信僧都 横川法語)

2010年07月27日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(43)(源信僧都 横川法語)

「まづ三悪道を離れて人間に生るること、
 大きなる喜びなり。
 身は卑しとも畜生に劣らんや。
 家は貧しくとも餓鬼に勝るべし。
 心に思うことかなはずとも
 地獄の苦に比ぶべからず。
 この故に人間に生れたることを喜ぶべし。」

源信僧都が残されたお言葉の中で
もっとも有名なのが横川法語であろう。
ここまで人間に生まれたことを
喜びなさいと断言されたお言葉は
聞いたことがない。

三悪道とは地獄界、餓鬼界、畜生界
のことである。

人間に生まれ、どれだけ卑しい身分と
さげすまれても、その人は飼い犬を
「この畜生が」と
叱るでいる。

どんなに貧しい家に生まれても、
餓鬼界のガキのように
食べることも飲むこともできないと
いうことはない。
何かを食べて、飲んで生きている。

どんなに人間関係に苦しんで
地獄のようだといっても
本当の地獄と比べたら、
苦にもならない。

しかし、これは下の者を見て、
これよりはマシだろうというような
退廃的な考えを言われているのではない。

人間でしかできないことがある。
それは畜生、餓鬼、地獄の世界では
あまりにも苦しみが大きく、
仏法を聞きたくても聞くことが
できないということである。、

この喜びは仏法を知らされた者でしか
言えない金言である。

釈尊は華厳経でこのように教えておられる。

「人身受け難し 今已に受く
 仏法聞き難し 今已に聞く
 この身今生に向かって度せずんば
 さらに何れの生に向かってかこの身を度せん」

生まれ難い人間に生まれることができて良かった。
聞き難い仏法を今聞くことができて良かった。
この時に求め抜かなければ、
もう助かるチャンスはないんだぞ。

「まず三悪道を離れて人間に生まれたる
 こと大きなるよろこびなり」

人間に生まれたことを喜ぶ心より
人命尊重の心が生まれる。

「仏法聞き難し」の心でで仏法を聞かなければ
真剣に仏教は聞けないのだ。

生きている『今』弥陀の願船に早く
乗せて頂きなさいよ、と
源信僧都は教えられている。

人間に生れたことを喜べと教えられても
喜ぶどころか産んだ親をうらむことさえある。
こんなことではいけないと思いながら
喜ぶことができない。
なぜ人間に生れたことが有難いのか。
人類にとって永遠の課題である。

それに答えられたのが源信僧都の
横川法語である。

自殺するのは、生きる喜びのない人達の
することだ。
しかし殆どの人は真面目に考えれば
自殺する人と同じ気持ちになる。

仏教では人間に生れたことは大変有難いことだから
喜ばねばならないと説かれている。

『雑阿含経』の中には有名な
盲亀浮木の譬喩がある。
或る時、釈尊が
「たとえば大海の底に一匹の盲亀がいて
 百年に一度、波の上に浮び上がるのだ。
 ところがその海に一本の浮木が流れていて、
 その木の真中に一つの穴がある。
 百年に一度浮ぶこの亀が、
 丁度この浮木の穴から頭を出すことが
 一度でもあるだろうか」
と尋ねられた。
阿難という弟子は
「そんなことは殆ど考えられません」
と答えると、釈尊は
「誰でも、そんなことは全くあり得ないと
 思うだろう。
 しかし、全くないとは言い切れぬ。
 人間に生れるということは、
 今の喩よりも更にあり得ぬ難いことなのだ」
と仰言っている。

私達は日常、有難いというが、
あることがまれだということから
出た言葉なのだ。

これは科学的に考えても肯ける。
人間死ねば焼かれて空気になり灰になる。
この場合、心というものを一応除外して考えても、
人間を造っていた空気は宇宙全体に飛散する。
空気には境界はないからだ。
また、灰になったものは、
そこらあたりの地上に積って土となるだろう。
土には植物が生えることもあろうし、
長い間には堅い岩石にもなるだろう。
それが雨や風によって運ばれて川や湖や海に
洗い流されて沈積する。
そして人間を造っていた空気や灰が
再び集合して一個の人間に生れるまでの困難さ、
有難さを考えても判るだろう。

『涅槃経』には
「地獄に堕ちるものは十方世界の土の如く、
 人間に生れるものは爪の上の土の如し」
とも説かれている。

受け難い人身を受けたということは、
人間界に出なければ果せない重大な問題がある
ということなのだ。
人間には大切な聖使命があって、
それを達成する為に生れ来たということ。

その唯一の聖使命とは、
真実の仏法、阿弥陀仏の本願を聞信し、
魂の解決をするということ以外はない。
これを仏教では信心決定という。

しかもこのようなことは何億年に一度しか
めぐって来ない絶好のチャンス。
かくて、仏法を聞き絶対の幸福を獲得した時こそ、
人間に生れた本当の有難さ、尊さが判る。

仏法を聞き開かぬ限り人間に生れた喜びなど
絶対に判るものではない。

以上のことを釈尊は
「人身受け難し、今すでに受く。
 仏法聞き難し、今すでに聞く。
 この身、今生に向かって度せずんば、
 さらにいずれの生に向かってかこの身を度せん」
と仰言っていられるのだ。







親鸞聖人時代を生きた人々(42)(源信僧都 往生要集-極楽)

2010年07月26日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(42)(源信僧都 往生要集-極楽)

極楽の表現でも同じだ。
『阿弥陀経』には、極楽のようすが
説かれている。
七色に輝く欄干、網飾り、並木は
金・銀・瑠璃(青色の宝石)・水晶などの
宝石でできている。
また、七種類の宝石でできた池には
八功徳水がたたえられてあり、
車輪のような蓮の花が咲いている。
いつも音楽が鳴り響き、
美しい花が天から降り注ぐ。
色とりどりの美しい鳥が美しい声で鳴き、
その鳴き声は尊いみ教えを説き述べているのだ。

極楽は宝石でできた世界というのは、
私たちの欲望のかなえられた世界
という意味ではない。

仏教では「余法に因順して」と言われ、
伝える相手に応じて、伝え方を変えるのである。

「猫の参るお浄土は 宮殿楼閣 みなかつお節
 猫はあきれて ニャムアミダ」」

極楽はとても表現ができない世界、
言葉と心を超えた世界である。、
釈尊は私たちにわかる表現方法として、
宝石類、木々、池、花、鳥、風、音楽という
身近な美しいものでお説き下されたのだ。

仏教の根本教理は、実に三世因果にある。
これが判らずしては仏教は絶対に判らない。

先ず、三世というのは、
過去世、現在世、未来世のこと。

過去世というのは、私達が人間に生れる以前の総てをいう。
昿劫流転して来た前生を言うのだが、
とりつめれば去年であり、
昨日であり、
前の一時間であり、
出た息が過去になる。

現在世というのは、
人間に生れてから死ぬまでの
五十年乃至百年の人生をいう。
これも、とりつめれば今年であり、
今日であり、
今の一時間であり、
今の一息が現在の当体となる。

未来世は、
人間の寿命がつきて死んだ後、
永遠の時をいうが、
これも、叩けば来年となり、
明日となり、
一時間先となり、
入る息が未来となる。

ですから仏教の三世とは、
吸う息、吐く息の中にあると教えている。
即ち、念々のうちに三世がおさまっているわけだ。

故に、只今の一念を徹底的に叩けば、
昿劫流転して来た自己も明らかになるし、
未来永劫の後生の一大事も知らされる。

それは
「自身は現に罪悪生死の凡夫、
 昿劫よりこのかた常に没し、
 常に流転して出離の縁あることなしと深信す」
と叫ばれた善導大師のお言葉でも明らかな事実である。

これを『因果経』には、
「汝ら、過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ、
 未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」
と説かれている。
これは、過去を知りたければ現在を見よ、
未来を知りたければ同じく現在を見よ、
現在とは悠久の過去と永遠の未来とを
包含しているものだと教えられたものだ。

だからこそ、現在の救いがなくして
未来の救いがある道理がない、と仰言る。

「この世はどうにもなれない、死んだらお助け」
などと言っている現在の寺の説法は、
本当の仏教ではないことがよく判るだろう。

只今、不可称、不可説、不可思議の大巧徳に生かされて、
只今が浄土に遊ぶ大満足の境地に救われなければ、
未来は絶対に助からない。
未来の救いは現在決定されるもの。
いや、現在をぬきにして未来はない。

わが親鸞聖人が、現生不退、平生業成、
不体失往生を力説されたのは、
実に仏教の真髄を顕正する為であった。


親鸞聖人時代を生きた人々(41)(源信僧都 往生要集-自業苦と地獄)

2010年07月25日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(41)(源信僧都 往生要集-自業苦と地獄)

ジゴクと言うのは中国の言葉で、
釈尊は印度の方だから、印度の言葉でナラカと言われた。
ナラカということは、私達に判る言葉になおすと
「苦しみの世界」ということである。
ジゴクは、この世にも死後にもあると教えるのが仏教だ。

この世のジゴクといいますのは、
「自業苦」と書き、
毎日が不安で暗い心で、
生き甲斐のない生活をしている人をいい、
これをたゞ今がジゴクへ堕ちている人という。

「私ほど業なものはいない」と
他人をウラミ、世間をノロイ、
苦しみ悩みの不幸の絶えない生活が、
この世の自業苦(ジゴク)なのだ。
殆どの人が仏教でいうこのジゴクへすでに堕ちている。

ところが『大無量寿経』には
「苦より苦に入り、冥より冥に入る」
と説かれて、
今苦しみ悩みのたえない者は必ず死後も
ジゴクの苦を受けるのだと教えてられる。
現在が闇の生活を送っている人は、
死後もまた闇の地獄と堕ちて
苦しまねばならない。

では死後のジゴクとはどんな世界かというと、
『賢愚経』に釈尊は
「如何なる喩をもってしてもジゴクの苦は説けない」
と言われている。
しかし、強いて「教え給え」と願った仏弟子に対して
「では喩をもって説こう」と仰言って、

「朝と昼と夜と、それぞれ百本の槍で突かれる。
 その苦しみを何と思うか」
と尋ねられた。

弟子は
「僅か一本の槍で突かれてさえ苦しいのに、
 一日三百本で突かれる苦しみは心も言葉も及びません」。

その時、釈尊は豆粒大の石を御手にとられて、
「この石と向こうの雪山と、どれ程違うか」
とお聞きになり
「それは大変な違いでございます」
と答えた弟子達に
「日々三百本の槍で突かれる苦はこの石の如く、
 ジゴクの苦はあの雪山の如し」
と仰言っています。

これは魚に火煙のことを知らせようと
する以上に困難なことであり、
犬猫にテレビや原爆の説明をするよりも
至難なことだったと思う。

こんなことを知らずに、
虎のフンドシの鬼や釜をそのまゝ事実と
思ってアザケッタリ、疑っているのは
情けない幼稚な仏教の聞き方だ。

阿弥陀仏は、このジゴクよりジゴクへ
苦の旅をしている我々を救わんと
大願を成就して下された。
こんな素晴らしい本願は
他に絶対にありませんから
無上殊勝の願とか超世の悲願とか
いわれる。

未来のジゴクは、現在のジゴクの延長ですから、
現在のジゴクを解決することが
一切の救いの根本になる。
阿弥陀仏の本願は、平生業成(平生に救う)が、
その渊源、肝腑になっているわけも
お判りになると思う。


親鸞聖人時代を生きた人々(40)(源信僧都 往生要集-頭下足上)

2010年07月24日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(40)(源信僧都 往生要集-頭下足上)

江戸末期、四国は讃岐に庄松同行という
妙行人(阿弥陀仏の本願に
救われ活躍された人)がいた。

彼は字の縦横の分からぬ、
銭の勘定もできぬ
世間では馬鹿、
昔は八文と呼ばれていた。
ところがこと仏教になると、
これが馬鹿だろうかと
思うようなことをしている。

寺でご法話があり、帰ろうとしていた時、
庄松が本堂で逆立ちを始めた。

「オイ庄松、年甲斐もなく、
逆立ちなんかしておると
倒れて、怪我するぞ」

と友達が忠告すると、すかさず庄松

「まだ分からんかのう。
 お前達が地獄へ堕ちる様を
 教えているのじゃ。
 お経には、この世で弥陀の本願に救われずに
 地獄へ堕ちてゆく者は頭下足上で堕ちてゆくと
 説かれているではないか」

といい加減に仏教を聴いている者たちに
警鐘乱打している。

頭下足上とは、頭を下にし、
足を上にするということで
逆立ちしているということである。

明日とも知れない命を持ちながら、
まだまだ生きれると思っている。

悪人でありながら、
どこがオレが悪人なんだ、あいつの方が余程
悪いじゃないかと、うぬぼれ一杯。

こんな真実と反対のことしか思えないから
頭下足上で地獄行きなのだ。

庄松の言葉が耳に痛い。