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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

親鸞聖人時代を生きた人々(43)(源信僧都 横川法語)

2010年07月27日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(43)(源信僧都 横川法語)

「まづ三悪道を離れて人間に生るること、
 大きなる喜びなり。
 身は卑しとも畜生に劣らんや。
 家は貧しくとも餓鬼に勝るべし。
 心に思うことかなはずとも
 地獄の苦に比ぶべからず。
 この故に人間に生れたることを喜ぶべし。」

源信僧都が残されたお言葉の中で
もっとも有名なのが横川法語であろう。
ここまで人間に生まれたことを
喜びなさいと断言されたお言葉は
聞いたことがない。

三悪道とは地獄界、餓鬼界、畜生界
のことである。

人間に生まれ、どれだけ卑しい身分と
さげすまれても、その人は飼い犬を
「この畜生が」と
叱るでいる。

どんなに貧しい家に生まれても、
餓鬼界のガキのように
食べることも飲むこともできないと
いうことはない。
何かを食べて、飲んで生きている。

どんなに人間関係に苦しんで
地獄のようだといっても
本当の地獄と比べたら、
苦にもならない。

しかし、これは下の者を見て、
これよりはマシだろうというような
退廃的な考えを言われているのではない。

人間でしかできないことがある。
それは畜生、餓鬼、地獄の世界では
あまりにも苦しみが大きく、
仏法を聞きたくても聞くことが
できないということである。、

この喜びは仏法を知らされた者でしか
言えない金言である。

釈尊は華厳経でこのように教えておられる。

「人身受け難し 今已に受く
 仏法聞き難し 今已に聞く
 この身今生に向かって度せずんば
 さらに何れの生に向かってかこの身を度せん」

生まれ難い人間に生まれることができて良かった。
聞き難い仏法を今聞くことができて良かった。
この時に求め抜かなければ、
もう助かるチャンスはないんだぞ。

「まず三悪道を離れて人間に生まれたる
 こと大きなるよろこびなり」

人間に生まれたことを喜ぶ心より
人命尊重の心が生まれる。

「仏法聞き難し」の心でで仏法を聞かなければ
真剣に仏教は聞けないのだ。

生きている『今』弥陀の願船に早く
乗せて頂きなさいよ、と
源信僧都は教えられている。

人間に生れたことを喜べと教えられても
喜ぶどころか産んだ親をうらむことさえある。
こんなことではいけないと思いながら
喜ぶことができない。
なぜ人間に生れたことが有難いのか。
人類にとって永遠の課題である。

それに答えられたのが源信僧都の
横川法語である。

自殺するのは、生きる喜びのない人達の
することだ。
しかし殆どの人は真面目に考えれば
自殺する人と同じ気持ちになる。

仏教では人間に生れたことは大変有難いことだから
喜ばねばならないと説かれている。

『雑阿含経』の中には有名な
盲亀浮木の譬喩がある。
或る時、釈尊が
「たとえば大海の底に一匹の盲亀がいて
 百年に一度、波の上に浮び上がるのだ。
 ところがその海に一本の浮木が流れていて、
 その木の真中に一つの穴がある。
 百年に一度浮ぶこの亀が、
 丁度この浮木の穴から頭を出すことが
 一度でもあるだろうか」
と尋ねられた。
阿難という弟子は
「そんなことは殆ど考えられません」
と答えると、釈尊は
「誰でも、そんなことは全くあり得ないと
 思うだろう。
 しかし、全くないとは言い切れぬ。
 人間に生れるということは、
 今の喩よりも更にあり得ぬ難いことなのだ」
と仰言っている。

私達は日常、有難いというが、
あることがまれだということから
出た言葉なのだ。

これは科学的に考えても肯ける。
人間死ねば焼かれて空気になり灰になる。
この場合、心というものを一応除外して考えても、
人間を造っていた空気は宇宙全体に飛散する。
空気には境界はないからだ。
また、灰になったものは、
そこらあたりの地上に積って土となるだろう。
土には植物が生えることもあろうし、
長い間には堅い岩石にもなるだろう。
それが雨や風によって運ばれて川や湖や海に
洗い流されて沈積する。
そして人間を造っていた空気や灰が
再び集合して一個の人間に生れるまでの困難さ、
有難さを考えても判るだろう。

『涅槃経』には
「地獄に堕ちるものは十方世界の土の如く、
 人間に生れるものは爪の上の土の如し」
とも説かれている。

受け難い人身を受けたということは、
人間界に出なければ果せない重大な問題がある
ということなのだ。
人間には大切な聖使命があって、
それを達成する為に生れ来たということ。

その唯一の聖使命とは、
真実の仏法、阿弥陀仏の本願を聞信し、
魂の解決をするということ以外はない。
これを仏教では信心決定という。

しかもこのようなことは何億年に一度しか
めぐって来ない絶好のチャンス。
かくて、仏法を聞き絶対の幸福を獲得した時こそ、
人間に生れた本当の有難さ、尊さが判る。

仏法を聞き開かぬ限り人間に生れた喜びなど
絶対に判るものではない。

以上のことを釈尊は
「人身受け難し、今すでに受く。
 仏法聞き難し、今すでに聞く。
 この身、今生に向かって度せずんば、
 さらにいずれの生に向かってかこの身を度せん」
と仰言っていられるのだ。







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