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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

親鸞聖人時代を生きた人々(59)(法然上人 80才、一枚起請文)

2010年08月12日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(59)(法然上人 80才、一枚起請文)

法然上人は老齢と配流のご疲労からか
翌80歳正月から病床につかれる。

亡くなる2日前、横になり念仏しながら
過ごす上人に、高弟・勢観房源智がどうか形見に
一筆書いて下さいと懇願をした。

そして浄土仏教の肝要を『一枚起請文』として
お誓いになられ、書き残された。

『一枚起請文』
「もろこし、我が朝に、もろもろの智者達の沙汰し
 申さるる観念の念にも非ず。
 又、学文をして念の心を悟りて申す念仏にも非ず。
 ただ、往生極楽のためには、
 南無阿弥陀仏と申して、
 疑いなく往生するぞと思とりて申す外には、
 別の仔細候わず。」

ここにも法然上人が勧められたものは、
無信の念仏ではなく、
「疑いなく往生するぞと思いとりて申す」
信心の具足した念仏
であることが明らかである。

「生死の家には疑いをもって所止とし、
 涅槃の城には信をもって能入とす」
 (選択本願念仏集)

念仏ではなく、信心こそ
浄土往生の因であることが
ここに明白にされておられる。

建暦二年正月二十五日、
法然上人は静かに浄土に還帰
なされた。
法然上人、御歳80歳。


親鸞聖人時代を生きた人々(58)(法然上人 75才、流刑の理由)

2010年08月11日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(58)(法然上人 75才、流刑の理由)

法然上人が土佐へ旅たつ日が来た。

法然上人とのお別れに、弟子や、
在家の人々が、続々と集まっている。

やがて法然上人が、駕籠に乗り込まれる。

弟子  「お師匠様。いよいよお別れです。
    悲しゅうございます。最後のお言葉を」

法然上人「皆さん、いよいよ、お別れの時が参りました。
    この法然のお伝えしてきた事は、
    お釈迦様のみ教え以外には、ありません。
    後生の一大事、救い給うみ仏は、
    阿弥陀如来ただ一仏です。
    それ故に釈尊は、阿弥陀如来のみを信じよと、
    教え徹して行かれた。
    一向専念無量寿仏」

その時、弟子の西阿が駆けてくる。
西阿  「お師匠様。お師匠様
     今しばらく、しばらく」

法然上人「うんっ?どうした。西阿」

西阿  「お師匠様。今、あそこへ、捕り手の者が。
     一向専念の教え、今しばらくお控え下さい」

法然上人「何?。一向専念の教えを控えよとな。西阿」

西阿  「はい。お師匠様に、これ以上の重罰が」

法然上人「何を言うか!西阿。この法然、
    身は八つ裂きにされようとも、
    一向専念無量寿仏を、曲げることは
    できないのだ。
    釈尊出世の本懐を叫んで殺されるなら、
    仏法者の本望ではないか。
    今日限り、私の弟子ではない。立ち去れい!」

それまでお側に置かれていた西阿であったが
この時をもって、破門されたのであった。

法然上人。親鸞聖人がなぜ盗みも働いていない、
人殺しもされていないのに死刑、流刑の判決を
受けねばならなかったのか。
その真の原因は何か。

親鸞聖人の流刑の原因は肉食妻帯という人がいる。
そうなると結婚もしれおられない法然上人が
なぜ流刑にあわれたのかが疑問になる。

両聖人の流刑の決定的原因は、
一体、何であったのであろうか。

正しくそれは、
「一向専念、無量寿仏」の高調にあった。

「一向専念、無量寿仏」は、
釈尊出世の本懐経たる『大無量寿経』の、
結びをあらわす仏語である。

釈尊一代の教説の結論は
「一切の人々は、阿弥陀仏一仏に向かい、
 阿弥陀仏一仏を信じ仰がねば、
 絶対に助からない」
という、釈尊の大宣言であった。

この釈尊の大精神を無我に体験し、
身命を賭して伝承されたのが、
法然上人、親鸞聖人の御一生であった。

阿弥陀仏以外の一切の諸仏、諸菩薩、諸神に、
近よるな、礼拝するな、信ずるな、
弥陀一仏に向かえと叫べば、
それらを礼拝し信じていた人々から
猛烈な反感、非難、攻撃、迫害が起きるのは
至極当然であった。

しかし、大衆の幸福を念じ、
真実の開顕を全生命となされた両聖人には、
人倫の弄言などは眼中にはなかった。

それどころか「辺鄙の群類を化せん」と、
自身の生命の危機すら、
有難い人界受生の本懐として、
慶ばずにおれなかったのである。

法然上人は土佐に流刑となった。

上人に深く帰依していた関白・九條兼実が、
せめて老齢の法然にとって
過ごしやすい土地へとの願いから、
温暖な四国の讃岐に決定したのだ。

当時の「僧尼令」に、
僧侶を死罪や流罪にしてはいけないと
いう条文があった為、還俗され、
法然上人は「藤井元彦」
親鸞聖人は「藤井善信」
という俗名を与えられて、
俗人として配流されたのである。

法然上人は、流刑を
「辺鄙の群衆を化せんこと莫大の利生なり」

「今回の流刑は京都におっては
 伝えることのできない片田舎の人々に
 弥陀の本願をお伝えできる
 何と得難い機会であろうか」
と受け取られ、四国へ向かう道中でも
各所で仏縁を結んでおられる。

親鸞聖人も
「抑また大師聖人(法然上人)
 もし流刑に処せられたまわずば、
 我また配所に赴かんや。
 もしわれ配所に赴かずんば、
 何によりてか辺鄙の群類を化せん。
 これなお師教の恩致なり」
 (御伝鈔)
と仰有ている。 

「法然上人が、もし流刑にあわれなかったら、
 親鸞も流罪にならなかったであろう。
 もし私が流刑にあわなければ、
 越後の人々に弥陀の本願をお伝えする
 ことができただろうか。
 なかったに違いない。
 なんと有難いことであったのか。
 これ皆法然上人のお陰である」
と流刑を逆に真実開顕の勝縁と
喜んでおられるのだ。

弥陀に救われ、恩徳讃に身命をかけられた
法然上人・親鸞聖人でしか
言えないお言葉である。

法然上人は土佐へいく途中、
身体を壊され、香川県で流刑の生活を
送られる。

配所の生活が4年間続き、
京に戻られた法然上人は既に79歳。

吉水の禅房は荒廃していたため、
慈鎮和尚の計らいで東山大谷の地に住
まわれることになった。


親鸞聖人時代を生きた人々(57)(法然上人 75才、両聖人の悲しい別れ)

2010年08月10日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(57)(法然上人 75才、両聖人の悲しい別れ)

九条兼実公の並々ならぬ計らいにより
法然上人と親鸞聖人には流刑の判決が下された。

親鸞聖人「上人様。短い間ではございましたが、親鸞
     多生の間にも遇えぬ、尊いご縁を頂きました。
     有難うございました」

法然上人 「親鸞よ。そなたは越後か。
     いずこに行こうと、ご縁のある方々に、
     弥陀の本願を、お伝えしようぞ。
     では、達者でな」

親鸞聖人 「はい、お師匠様。
     お師匠様は、南国・土佐へ。
     遠く離れて、西・東。生きて再び
     お会いする事ができましょうか。
     親鸞、かねて覚悟はしていた事
     ではございますが。
     余りにも余りにも。お師匠様」

全身を震わせ、泣き崩れられる親鸞聖人であった。
その時、親鸞聖人が歌を詠まれた。

『会者定離、ありとはかねて聞きしかど
 昨日今日とは思わざりけり』

それに法然上人は歌で応えられた。。

『別れ路の、さのみ嘆くな法の友
 また遇う国のありと思えば』

ついに両聖人は今生での最期の別れと
なったのである。

親鸞聖人は後にこのように述懐しておられる。
「人間の八苦のなかに、
 さきにいうところの愛別離苦、
 これもっとも切なり。」
(口伝鈔)

親鸞聖人は人生の苦しみの中で
愛する者と別れることほど、
辛いものはなかったと告白しておられる。
4歳の時にお父さん。
8歳にして心の支えだったお母さん。
35歳、人生の師法然上人。
行く先々で、どれだけ愛する人と
別れをしてこられたか。
その度に切ない気持ちで
死に別れ、生き別れを迎えられたか。

親鸞聖人の別れの中でも
法然上人とのお別れが
一番辛かったであろう。


親鸞聖人時代を生きた人々(56)(法然上人 75才、承元の法難)

2010年08月09日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(56)(法然上人 75才、承元の法難)

朝廷の権力者が恐れるのは、
延暦寺や興福寺の僧兵による
強訴であった。
大寺院は、僧兵を動かして、
自らの要求を、朝廷や公家に
無理やり認めさせようとしたのだ。

これら、激しい抗議行動が続く中、
朝廷にあっては、九条兼実公はじめ、
法然上人支持派の運動で、
なんとか穏便に処理されていたが、
反対派は、常に、弾圧の機を
うかがっていた。
そういう緊張した空気の中、
突発したのが、松虫鈴虫事件だったのである。

法然上人に住蓮、安楽というお弟子がいた。
共に情熱的な布教家で有名だった。

建永元年十二月、後鳥羽上皇が
熊野山に参詣している留守中、
御所の女房松虫鈴虫の両名が、
住蓮房、安楽房と一夜を過ごしたことを
知った上皇は、烈火のように怒った。

天皇時代から、中宮や女御など、
たくさんの女達を自由にしてきた人間に、
たとえその時、どんな事があったにせよ、
怒る資格も制裁する権利もない筈だが、
後鳥羽上皇には、そのような反省は一切みられず、
女房達を捕え、住蓮、安楽らを院の庭に
ひき据え、あらんかぎりの拷問にかけて
自白を迫った。

余りにも無法な仕打ちに奮然とした
安楽房は、その時、後鳥羽上皇の面前で
喝破したのある。

「上皇たちよ、お前らこそ、真実の仏法を謗り、
 破壊する最も憐れむべき者達だ。
 お前達は必ず地獄へ堕ちるであろう。
 そして、永遠に地獄の責め苦から、
 逃れることはできないのだ」

それを聞いて上皇は、ますます怒り狂い
秀能という役人に命じて、
安楽房を六条河原に連れて行き、
首を斬らせた。

安楽房は、いさゝかの動揺もみせず、
声高々に念仏して、静かに浄土へ還った。
これをみていた多くの人々が念仏者になったと、
法然上人の伝記には記されている。

比叡山や興福寺は、この事件をもとに
攻撃を強化した。
怒り狂った上皇は、これら旧仏教と結託し、
法然門下に弾圧を加えたのである。

念仏は停止。
一向専念無量寿仏の布教は禁止。
さらに、法然上人は四国・土佐へ流刑。
親鸞聖人には死刑が宣告された。
しかし、九条兼実公の並々ならぬ計らいにより、
親鸞聖人は越後国・直江津、
今の新潟県上越市へ流刑ということになった。
これを承元の法難という。




親鸞聖人時代を生きた人々(55)(法然上人 南都の奏状文)

2010年08月08日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(55)(法然上人 南都の奏状文)

法然上人のご布教により、浄土仏教が
盛んになってゆくと
当時の仏教界を代表して
法相宗の僧、解脱貞慶は
時の天皇に九項目に亘って、
法然上人らに対する公然たる非難攻撃を
提出している。
これが世に有名な、
「南都の奏状文」
と言われているものだ。

1:わが国にはすでに仏教の宗派が八宗も
あるのだから、新たに浄土宗なるものを
立てる必要は全くないのである。
それなのに法然らは天皇の許可も得ずに
一宗を名乗っているのは僣越至極のことである。

2:法然らは阿弥陀仏の救いの光明が
専修念仏者のみを照らし、他の仏教者には
それて全く当たっていない絵図をわざと描き、
それをもてはやしているのは大変怪しからぬことである。

3:法然らは阿弥陀仏だけを信じて供養し、
仏教徒にとって最も大切な釈迦牟尼仏を軽んじて
礼拝供養しないのは本末顛倒も甚だしい。

4:法然らは他宗を誹謗して、仏像を造ったり
寺や塔を造るという善行をやっている者たちを、
あざけり謗っていることは言語道断の振舞と
言わねばならぬ。

5:日本では古来仏教と神道とは堅く結びついている。
だからこそ伝教や弘法のような高僧たちも、
みな神々をあがめ尊んできたのである。
それにもかかわらず法然らは、
「若し神を拝めば必ず地獄に堕ちるぞ」
と言いふらし世人を迷わせている。
若し法然らの言が正しければ、
伝教や弘法は地獄に堕ちていることになる。
法然は伝教や弘法達より偉いとでも
思っているのだろうか。
このような暴挙は即刻禁止させないと
大変なことになる。

7:念仏というのは本来、
「阿弥陀仏のことを心の中で念じる」ことなのに
法然らは称えさえすればよいと思って、
口で称えることを念仏だと教えている。
とんでもない仏教の曲解である。

8:彼らは、
「囲碁や双六、女犯や肉食、何をやってもかまわぬ」
といって、仏法の戒律を軽蔑している。その上、
「末法の今日、戒律を守る人間なんて
 街の中に虎がいるようなものだ」
と暴言し、尊い仏法を破壊している。

9:仏法と王法とは丁度、肉体と心の関係で
完全に一致すべきであるのに、
念仏者たちは他の諸宗と敵対し我々と
協力しようとはしない。
このような排他的独善的な邪宗は一日も早く
この世から抹殺しなければならない。

そして最後に、
「このたびのように全仏教徒が一丸となって
訴訟するという前代未聞のことを致しますのは、
事は極めて重大だからであります。
どうか天皇の御威徳によって念仏を禁止し、
この悪魔の集団を解散し法然と、
その弟子達を処罰して頂きますよう
興福寺の僧綱大法師などがおそれながら申し上げます
と結んでいる。

以上が、法然上人や親鸞聖人に対する
当時の非難攻撃の要項であった。




親鸞聖人時代を生きた人々(54)(法然上人 73才、親鸞聖人に選択集の書写を許す)

2010年08月07日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(54)(法然上人 73才、親鸞聖人に選択集の書写を許す)

法然上人「親鸞よ。これは、私の教えていることの
     すべてを記したものじゃ。
     よければ、写すがよい」

法然上人が差し出された一巻の巻物。
親鸞聖人はうやうやしく受け取られ、
表題を見て驚かれる

親鸞聖人「こ、これは、お師匠様の『選択本願念仏集』で
    はありませんか」
法然上人「そうだ。阿弥陀如来の本願、あやまりなく
     伝えてくれよ」
親鸞聖人「はい。親鸞、命に懸けても、お師匠様の御心を
    お伝えさせて頂きます」

巻物を押し頂いて、親鸞聖人は下がって行かれた。

法然上人の門下生にとって、
『選択本願念仏集』の書写を許されることは
師匠の厚い信頼の証であった。
380余人のお弟子の中でも
聖覚法印、善慧房証空、勢観房源智
聖光房弁長、隆寛律師などの
少数に限られていた。

故に入門まもない親鸞聖人に
対する嫉妬の情が、周囲から沸き起こるのも
当然であった。

この後、「選択集」が世に発表されると
仏教界は水爆を落とされたような
衝撃が走った。
特に栂尾の明恵は
生前の法然上人を
高徳な人格だと尊敬していたが、
法然上人の死後
「選択集」を読んで激怒し、
すぐさま『摧邪輪』三巻で反論した。

邪(よこし)まな法説を
摧(くだ)くという
明恵の『摧邪輪』の
冒頭部分でこういっている。

「ちかごろ、ある上人がいて
 一巻の書を著作し、
 その書を『選択本願念仏集』と名づけた。
 その書は、経典や論書の趣旨を惑わし、
 多くの人々を欺いている。
 その書は、極楽へ往生するための
 実践を宗(むね)としているのだが、
 かえって往生のための実践を妨げている」

そして、大きな邪悪な見解の過失を
次の二点にしぼって提出するという。

一、菩提心を捨てる過失
二、聖道門を群賊に譬(たと)える過失

菩提心とは「悟りを求めようとする心」だが、
これは仏法の基本理念とされている。

「自力行を捨て、
 他力本願を選択する」

法然上人は、この「菩提心」を
自力行として無視したものだとして、
持戒僧明恵は激怒した。

これを皮切りに反論書が
次々出されたが、
擁護する書も後を絶たず、
激しい応酬となった。
当時の仏教界は『選択集』を
中心に動いていた。

色々な『選択集』の解説書がでたが、
親鸞聖人の『教行信証』によって、
初めて法然上人の
御意が明かになったのである。

「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、
 雑行を棄てて本願に帰す。
 元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて
 『選択』を書しき。
 同じき年の初夏中旬第四日に、
 「選択本願念仏集」の内題の字、
 ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と
「釈 釈空」の字と、空の真筆をもって、
 これを書かしめたまひき。
 --乃至--、
 『選択本願念仏集』は、
 禅定博陸 月輪殿兼実、法名円照 
 の教命によりて選集せしめるところなり。
 真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。
 見るもの諭り易し。
 まことにこれ
 希有最勝の華文、
 無上甚深の宝典なり。
 --乃至--
 慶ばしいかな、
 心を弘誓の仏地に樹て、
 念を難思の法海に流す。
 深く如来の矜哀を知りて、
 まことに師教の恩厚を仰ぐ。
 慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。
 これによりて、真宗の詮を鈔し、
 浄土の要をえらぶ。
 ただ仏恩の深きことを念うて、
 人倫の嘲りを恥ぢず。
 もしこの書を見聞せんもの、
 信順を因とし、疑謗を縁として、
 信楽を願力に彰し、
 妙果を安養に顕さんと。」
   (教行信証後序)

親鸞聖人の厳しい目は、
仏教諸宗だけでなく
法然上人を攻撃した明恵にも
向けられている。

「それおもんみれば、
 信楽を獲得することは
 如来選択の願心より発起す、
 真心を開闡することは
 大聖矜哀の善巧より顕彰せり。
 然るに末代の道俗・近世の宗師、
 自性唯心に沈んで
 浄土の真証を貶し」
    (教行信証信巻)

「しかるに、一宗一派を開いた者
 伝教、弘法、道元、日蓮たちまでもが、
 『阿弥陀仏もその浄土も、
  われらの心のほかにはない。
  心のほかに弥陀や浄土を説くのは、
  幼稚な教え』
 と見くだし、
 真実の仏法をけなしている」

と、峻烈な批判がなされる。

比叡山や南都(奈良)の、
華厳・天台・真言宗はいうまでもなく、
法然上人を攻撃した栂尾の明恵、
笠置の解脱をはじめ、
禅宗の栄西など、
当時の仏教界の指導者を総括して
「真実の仏教を知らざる輩」
と斬り落とされている。

返す刃もまた仮借がない。
「今日の仏教は、
 まったくすたれきっている。
 寺も僧もたくさんいるが、
 仏教のイロハもわからぬ者ばかり。
 儒教をやっている者も多いが、
 正道邪道のケジメさえも
 わかってはいない。
 浄土の真宗のみが盛んではないか」

と、つぎのように記されている。

「ひそかにおもんみれば、
 聖道の諸教は、行証久しく廃れ、
 浄土の真宗は、証道いま盛なり。
 しかるに諸寺の釈門、
 教に昏くして、
 真仮の門戸を知らず、
 洛都の儒林、行に迷うて、
 邪正の道路をわきまうることなし」
   (教行信証)









親鸞聖人時代を生きた人々(53)(法然上人 71才、親鸞聖人に妻帯を勧める)

2010年08月06日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(53)(法然上人 71才、親鸞聖人に妻帯を勧める)

法然上人は生涯、結婚もなされず、
清廉潔白で一生を全うされた方であった。

しかし、その法然上人が弟子親鸞聖人にだけは
違っておられた。
法然上人71歳、親鸞聖人31歳のことである。

関白九条兼実公のたっての願いということで
娘玉日姫を親鸞聖人に嫁がせたいとの
申し出があった。

法然上人「唐突な話だがな、
       そなた、結婚する気はないか」
親鸞聖人「は?!結婚?そ、それは・・・」
法然上人「今、関白殿がこられてな。そなたを是非、
       娘の婿に、と言われるのじゃ」
親鸞聖人「関白殿が・・・」
法然上人「娘御は、玉日と言われる方でなあ」
親鸞聖人「玉日様、ですか・・・」
法然上人「知っているのか」
親鸞聖人「はい。以前少し、お会いしたことが・・・」
法然上人「そうか。知っていたのか。
       それなら、話は早い。どうかな」
親鸞聖人「はい。あの玉日様ならば。
       しかし、お師匠様。
       お師匠様や、門下の皆さんに、
       ご迷惑がかかるのでは・・・」
法然上人「ワシはかまわん。皆の事も、
       案ずることはなかろう。
       そなたに、その覚悟さえあれば」
親鸞聖人「ならば、喜んで、お受け致します」
法然上人「よいか、親鸞。弥陀の本願には、
       出家も、在家も、差別はないが、
       天台や真言などの、聖道自力
       の仏教では、肉食妻帯は、
       固く禁じられているのは、承知の通りじゃ。
       彼らや、そして世間から、
       どんな非難攻撃の嵐が起きるか、
       わからぬぞ」
親鸞聖人「はい。それは、覚悟しております。
       すべての人が、ありのままの姿で
       救われるのが、真実の仏法で
       あることを、分かっていただく
       御縁になれば。
       親鸞、決して厭いは致しません」
法然上人「その覚悟、忘れるでないぞ」
親鸞聖人「はい」

親鸞聖人の肉食妻帯への
世間からの非難は凄まじいものであった。

「法然門下の坊さんが、嫁さん貰うたいうて、
 えらい騒ぎじゃのう」
「親鸞とか言うじゃないか」
「坊さんじゃいうても、カゲで何しとるか、
 分かったもんじゃない」
「その親鸞が、間もなく、あそこを通るそうだ」
「何?そりゃ、本当か」
「破戒坊主。どんなツラか、見てやろうじゃないか」

親鸞聖人と玉日姫は
玉日姫の父である関白九条兼実公から
送られた牛車で、仲良く
法然上人のご法話へと向われる。

大路を通られる聖人に町人たちがはやしたてる。
「おい、堕落坊主」
「気でも狂ったか。色坊主」
町人が石を投げはじめる。

「怖くて顔がみせられんのか。腐れ坊主」
「仏敵、親鸞。出てこい」
「み仏にかわって、オレが、成敗してくれるわ」
と僧兵までが聖人を襲う。

しかし、親鸞聖人は少しも動ぜず、
玉日に声を掛けられた。

聖人「よいか、玉日。今こそ、そなたに、
  言っておこう。
  僧侶も、在家の人も、男も、女も、
  ありのままで、等しく救いたまうのが、
  阿弥陀如来の本願。その真実の仏法を、
  今こそ、明らかにせねばならんのだ。
  阿弥陀如来の、広大なご恩徳を思えば
  どんな非難も、物の数ではない」

玉日「はい。私も、お従い致します」

聖人「うむ」

世間の人々の非難を、一身に浴びられた親鸞聖人で
あったが、その、不退の決意は固かったのである。

その後、親鸞聖人はどうなされたか。
こんな非難を受けるのならと人目のつかない道を
ゆかれたのではない。
同じように大路を進まれたのである。

その内に罵声を浴びせていた人達の中に
「あれだけ悪口雑言を浴びせられても
 親鸞聖人のご夫妻は仲良く、
 法然上人のご法話に通っておられる。
 ワシ等もあのご夫婦のようになりたい。
 法然上人のご法話を一緒に聞かせてもらおう」
と親鸞聖人の牛車に伴って、
法然上人の元に参詣される方が
多く現れていったのである。

法然上人が弟子親鸞聖人に
なぜ公然と肉食妻帯をすることを
許されたのか。

肉食妻帯は法然上人、親鸞聖人が
身体を張っての真実開顕であり、
正法宣布であったのだ。






親鸞聖人時代を生きた人々(52)(法然上人 69才、親鸞聖人の獲信)

2010年08月05日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(52)(法然上人 69才、親鸞聖人の獲信)

法然上人に出会われた親鸞聖人はそれから
雨の日も、風の日も、火のつくような
聞法求道が、始まった。

親鸞聖人 「上人様。今日は、何が何でも、ここひとつ、解決のい
    くまで、お聞かせ下さい。お願いでございます」

法然上人 「そうか。それでは、そなたの今の胸の内を、話してみ
    なされ」

親鸞聖人 「はい。私は、比叡山も、二十年の仏道修行も、捨てま
    した。京の町を、夢遊病者のように、後生の一大事一つ、
    解決できる教えはないかと、さまよい歩きました。そして
    上人様にめぐりあい、心の底より、救われた思いがいたし
    ました。けれども、阿弥陀仏の一声で、晴れて満足できる
    と仰せられますが、聞いても聞いても、その一声が聞けま
    せん。親鸞の心は、晴れません」
    仏法聞いている時も、思ってはならないことが思われ
    考えてはならないことが、浮かびます。一向専念無量寿仏
    どころか、雲の如く、疑いが沸き上がってまいります。
    こんな心のままで、臨終を迎えるのか、と思うと、ただ
    恐ろしいばかりでございます」

法然上人 「親鸞よ。形の上で、捨てたつもりでは、ダメじゃ。
    無始より迷わせ続けた自力我慢の親玉は、そんな生ぬるい
    聞き方では、聞かないぞ」

親鸞聖人 「上人様。よくよく胸の内を見ますと、十年前も、上人
    様にお会いした時も、今も、心は煩悩と疑いでいっぱい。
    少しの変化もありません。こんな心が、いつまで続くのか
    と思うと、胸が張り裂けるようでございます」

法然上人 「親鸞よ。そのまま、恐ろしい罪を抱えて、地獄へまっ
    逆さまだ。このように、話しているうちにも、無常の殺鬼
    が迫っているではないか。まだ、わからんのか」

親鸞聖人 「上人様。長年の学問、修行も、後生の一大事には、何
    の役にも立ちません。それどころか、親鸞、今はもう、聞
    く心もございません。ただ、煩悩と疑いいっぱいで、阿弥
    陀仏の御声(みこえ)が、聞けません」

法然上人 「自惚れるな。そなたの心は、阿弥陀仏の御声が聞ける
    殊勝な心か」

親鸞聖人 「親鸞の心は、ただ暗い、それだけでございます。暗さ
    もわからぬ、真っ暗がりでございます。お助け下さい、上人様」

法然上人 「親鸞よ。そなたには、まことを聞く耳はないのだ。
    それが、そなたの、まことの姿なのじゃ。
     一切の自力の心を捨てよ。
     すべてのはからいを捨てよ。
     捨てようとする心も捨てよ」

『いずれの行も、及び難き親鸞、地獄は一定、すみかぞかし』
『弥陀五劫思惟の願は、ひとえに親鸞、一人がためなり』

親鸞聖人 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
    あー、不思議なるかなや、不思議なるかなや。
     弥陀五劫思惟の願は、親鸞一人がためなり。
    あー、多生にも値(あ)い難い本願力に、今値(あ)
    えたり。億劫にも獲難き、真実の信心を、今獲たり。
    本願まことだった。まことだった。
    南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

親鸞聖人 「聖人様、有り難うございました」

法然上人 「よく聞き抜かれた、親鸞殿。
    南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

建仁元年、法然上人69歳、親鸞聖人29才の御時であった。
かくて信心決定なされた親鸞聖人は、法然上人のお弟子となり、
弘長二年、九十才でお亡くなりになるまで、
全人類の救われるただ一本の道、弥陀の本願を、
『如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし、
師主知識の恩徳も、骨を砕きても謝すべし』
と、叫び続けられるのであった。






親鸞聖人時代を生きた人々(51)(法然上人 69才、親鸞聖人がお弟子となる)

2010年08月04日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(51)(法然上人 69才、親鸞聖人がお弟子となる)

法然上人が69歳の御時の、
親鸞聖人は40歳違いの29歳であった。

親鸞聖人が比叡山での修行に見切りをつけられ、
京の町を、さまよっておられた。
親鸞聖人が四条大橋のぐったりと、欄干にもたれ、
川の流れを見下ろしておられた時、
かっての比叡山での法友、聖覚法印と
会われたのである。

聖覚「おや、親鸞殿ではござらぬか」

親鸞聖人 「おお、あなたは、聖覚法院様では・・・」

聖覚   「やっぱり、親鸞殿であったか。いやー、久しぶりです
    なあ」
親鸞聖人 「あなたが、山を下りられたことは、聞いてはおりまし
    たが、お元気そうでなによりです」

聖覚   「有り難うございます。親鸞殿、少々、お顔の色が、す
    ぐれられないようだが」

親鸞聖人 「はい。聖覚殿。肉体は、どこも悪くはありませんが、
    親鸞、心の病気で、苦しんでおります。聖覚殿、あなたは
    この魂の解決、どうなさいましたか」

聖覚   「親鸞殿、私も長い間、苦しみました。山を下りて、ど
    こかに救われる道がなかろうかと、狂い回りました。そし
    て、吉水の法然上人に、お会いすることができたのです」

親鸞聖人 「法然上人?」

聖覚   「そうです。その法然上人から、教えを頂き、阿弥陀仏
    の本願によって、救われたのです。釈尊は、末法の今日、
    天台や真言などの、自力の仏教では、一人も助からない。
    ただ、阿弥陀仏の本願によってのみ、救われるのだと、明
    言しておられます」

親鸞聖人 「阿弥陀仏の本願・・・」

聖覚   「はい。阿弥陀仏の本願によってです。阿弥陀仏は、男
    も、女も、かしこい人も、愚かな人も、必ず、絶対の幸福
    に救いとると、誓っておられます。だからこそ、私のよう
    な、罪深い者も、救われたのです。私ほどの幸せ者はあり
    ません」

聖覚   「親鸞殿。あなたのその苦しみは、必ず解決できます。
    ぜひ、法然上人に、お会いして下さい」

親鸞聖人 「聖覚殿。ぜひ、法然上人のもとへ、お連れ下さい」

聖覚   「いいですとも。さあ、行きましょう」


吉水の草庵での法然上人の説法

法然上人 「釈尊が、この世に、おでましになったのは、阿弥陀仏
    の本願一つを、説かんがためでありました。この法然も、
    弥陀の本願によって、救われたのです。十三才で出家して
    より、二十七年間、比叡での難行・苦行も、京都・奈良で
    学んだ、華厳・法相(ほっそう)などの学問も、この法然
    の後生の一大事の解決には、なりませんでした」
    泣く泣く山を下りました。黒谷で、七千余巻の、釈尊
    の説かれた経典をひもどくこと五回。法然のような者でも
    助かる道がなかろうかと、探し求めました。
     そして、ついに、私一人を助けんが為の、阿弥陀仏のご
    念力が、届いた一念に、法然の暗黒の魂が、光明輝く心に
    救いとられたのです」
    その不思議、その驚き、尊さは、心も、言葉も絶えは
    てて、ただ、泣くだけでした。まことに、みなの人、一日
    も早く、阿弥陀仏の本願を聞き開いてください。いかなる
    智者も、愚者も、弥陀の本願を信ずる一念で、救われるの
    です。よくよく聞いて下さい。」


親鸞聖人 「初めてお目にかかります。親鸞と申します」

法然上人 「親鸞殿か。よく来られました」

親鸞聖人 「上人様。私は、二十年、叡山で求めて参りましたが、
    未だに、後生の一大事、解決はなりません。欲や、怒りや
    愚痴いっぱいの親鸞、救われる道がありましょうか」

法然上人 「ああ、親鸞殿。あなたは、二十年か。この法然は、二
    十七年、お山で苦しみました。だが、法華経ではダメでし
    た。阿弥陀仏の本願は、僧侶も、在家の人も、男も女も、
    どんな極悪人でも、必ず救うと、誓っておられる。この、
    阿弥陀仏の本願を、真剣に、聞きなされ。必ず、晴れて、
    満足できる世界があります」

親鸞聖人 「ご教導、よろしくお願い申します」







親鸞聖人時代を生きた人々(50)(法然上人 排他と真実の慈悲)

2010年08月03日 | 親鸞聖人時代を生きた人々
親鸞聖人時代を生きた人々(50)(法然上人 排他と真実の慈悲)

昔、明遍という真言宗の僧がいた。
法然上人の『選択本願念仏集』を読み、
成程、法然の言うことも尊い所があるが、
一切の聖道仏教を捨てゝ、
阿弥陀仏の本願に帰せよとは何事か。
聖道仏教だって、釈尊の説かれた法ではないか。
それを、
「聖道仏教では、千人のうち一人も助からない。
 阿弥陀仏の本願のみが、われらの助かる道なのだ」
とは、余りにも偏執であり、排他的ではないか。

法然は排他的で、喧嘩腰で、頑固で、
量見のせまい坊主だ、とののしっていた。

ところが、ある晩、明遍は夢をみた。
天王寺の西大門に憐れな病人が沢山集まっていた。
その中に実に懐かしい面ざしをした墨染の衣と袈裟をつけた
一人の聖者が、鉄鉢の中に重湯を入れて、
小さな貝でそれをすくいながら、
病人の口に一人づつ入れてやっている。
親にも兄弟にも妻子にも、見捨てられた憐れな癩病患者を、
たった一人の僧が看護しながら、静かに病人を拝んでいる。
そしてその看護のしぶりが、実に親切であり懇切である。

夢中で明遍は何という貴い人だろう。
末法にも、こうした人があったのか、と傍の人に尋ねた。
「あの方こそ、吉水の法然上人である」
という声を聞いて、びっくりした時に夢さめたという。

法然上人は高慢で、排他的だと思っていたのは、
大変間違いであった。
あんな病人に御飯を喰べよと言ったって無理なのだ。
あの病状では、どんな滋養になるものが、
どんなに沢山あっても何にもならない、
喰べられるものは一つもない。

彼らの糧は重湯より外にないのだ。
重湯こそ、あの病人が生命をつなぐ
唯一の糧であることが判った。

一如法界を開けば、八万の法蔵はあれども、
我ら凡夫には無きに等しい高嶺の花でしかない。
末法の我々の救われる道は、
弥陀の本願以外にはないことを知らされ、
深く懺悔して法然上人の弟子になっている。