言葉の旅人

葉🌿を形どって、綾なす色彩に耽溺です。

「いくさ」(9)

2010年03月30日 | Weblog
 前回の翌日は鹿児島へ出掛けた。研修旅行である。
 旅人は6名、付き添う自衛官はO1佐、K3佐、N准尉の3名を合わせ9名。
 研修内容は、知覧と第8師団隷下の12普通科連隊見学である。
 
 伊丹空港09:45発ANA543便は、雨が上がったばかりの重い曇を突いて離陸したのはよいが、陽に輝く雲海を滑るように飛んでいく筈の予想を裏切って、およそ1時間少しの時間を灰色の空気を泳ぐようにして鹿児島空港に到着した。
 高度を下げはじめる時に微かに左手に海岸線が見えたが、どうやら宮崎平野が大隅半島に接する部分と推測した。殆ど墨絵の世界である。
 と、すぐに左旋回し機が水平を取り戻した時に平野部が真下に見えた。川が見えた。傍らの工場と思われる建屋の屋上にSONYの文字が大きく書かれてあるが見えた。窓外に目を遣る乗客を意識した看板なのだろう。この時は、まさかその側を通るとはこの時思っても居なかった。その記憶が地形を立体的に浮かべる事が出来る素となったが、かといってそれは私の地形感覚を自慢するだけの事にすぎない。
 
 旅日記を書くつもりではなかった。
 話題を「いくさ」の言葉に戻そう。
 少し前まで大阪に居た広報のK准尉の出迎えを受けて、連隊のマイクロバスに乗車した。
 平和会館の見学を終えて、連隊へと向かう車中の飛び交う会話で出た言葉である。
 何かの弾みのように“師団は何故「師」団というのだろう?”とK氏が発言したのだ。前回述べた事である。そんな講釈をする事になるとは思わなかったが、このブログの発信と同列と思い、説明をした。嫌な予感がしたが的中であった。次から次へと軍事関係の漢字の由来の質問が続くのだ。独演会をしに来たのではないのだが、成り行き上仕方がない事になってしまった。
 編成上、師団の次に浮かぶのは“旅団”であると予想した。その通りであった。
 
 「旅」は如何にも楽しそうな漢字ではないか。「師」があまねく人々を集めた集団なのだからこの漢字も恐らくそうなのではないかと思って貰えれば正解である。
 旗を靡かせる下に人々が列を作って行く姿が「旅」漢字の組成なのだ。
 周の時代500人の一組を意味した。師が2,500人だから、それに次ぐ軍事編成の大部隊なのである。師団に次ぐ規模の旅団の名称はそう言う次第なのである。

 予定ではそのまま宿舎へ向かう事になっていたのだが、連隊長が待ってくれているというのだ。
 先日の3連休の時に偶々ではあるとは言え、2日も我が家にわざわざ足を運び頂き歓談したT航空隊長の防衛大学での1期下だったのがその連隊長なのだ。
 話題がその事に及び、M連隊長を“M君は…”などと囁くような優しい声で抑揚を付けて連発してくれていたものだから、何だか可愛げな語感が脳裏に浮かんで仕方なかった。

 九州南半分から与論島までを管轄する8師団の南端の連隊の任務は重要である。その現実を背負った連隊の長なのだから相当な人物である。
 “只者ではない”T航空隊長がそういうのだ。T航空隊長自身が只者ではないのだからどういう人物なのかと思って身構えてしまったのだが、実物まさに証明された思いをした。 が、その中身についてはそれはまた機会が有ればと言う事にしよう。
 特別扱いの貴重な訪問はそう言う偶然のような産物である。と言えども、大いに感謝する次第である。
 「会談」後の「階段」で(駄洒落を言う為に書いたのだが)、少しばかり皆さんを待たせておいて立ち話をし、厚く逞しい手と握手をして辞去した。

 さて、漢字の話は下位分類の「連隊」である。
 幾つかの中隊を合わせたから「連」はいいだろう。
 「隊」である。
 部首は「岐阜」の「阜」と同じで“土盛り=ずっしりと重い積み土”を意味する。「丘」の意味である。
 それにその形から分かるように“ずっしりと重い豚”がくっついたのが「隊」なのだ。
 ずっしりとまとまった人間集団で、特に兵の集団を言う事になったのである。

いくさ(8)

2010年03月24日 | Weblog
 「軍」と「兵」は「つわもの」と訓じる点では同じである。
 が、軍隊の規模で言えば最大と最小の単位であってどうも具合が悪いというか落ち着かない。音読みする以外に区別は付かない。古代の一からげ表現で済んでいる方が良いというのでもないが、気分としては如何にものどやかな気分ではある。

 中国古代で、軍は一編成12,500人である。
 軍制の話になってしまった。
 周の時代に、その下の単位「師」の人数は2,500人とする。

 「師」の漢字の組成は、「集団」を表す部首部分+「あまねし」である。つまり、人々を集めた大集団をいうのだ。
 先生の意味を持つのは、沢山の人を集めて教えるから教「師」となった。
 一方で「いくさ」を教える集団と、もう一方の「教え子を戦場に送るな」というのが漢字として同じというのは何とも複雑である。

 最近は過激になってきたという指摘があるので本日はこれまで。 

いくさ・戦争(7)

2010年03月22日 | Weblog
 「軍」は訓読みとして「つわもの」とも読む。
「つわもの」とは「強+者」の合成語なのだが、つわものにあてる漢字としては「兵」も又それにあたる。
 この「兵」という漢字の組成は、上部に斧・斤などの武器相当の部分に左右にそれを持つ手を添えた形から成っている。
 手に手に武器を手に持って、並べ合わせて敵に向かう兵隊の事なのだ。だから、当然のこととして強くなくてはならない。強い兵の群が軍ならばまさに言葉の響きに頷く感触はある。強くてこそ「軍」なのだ。

 それは、名を変えてやむを得ず“自衛”の為の“隊”という、言葉としては何とも心細い名称にせざるを得なかった現在の日本の軍事組織は何と表現すれば妥当なのだろうか?
 又、明らかに「軍事的な存在」と誰もが認識して居ながらも、市民的な視点や国民的な支えを何処でどのように受け止められているのかという問いには些かも答えようのない存在とは一体何なのか?
 
 広義の「いくさ」は人の集団にとっては欠く事の出来ないものであったし、おそらく存在し続ける限りに於いては無くならないというか、無くしてはならない筈である。
 さて、話が佳境に入らんとして…。

「いくさ」という言葉(6)

2010年03月17日 | Weblog
 旧陸軍の特攻出撃の代表的な基地であった知覧には「特攻平和会館」がある。
 旧海軍のそれは、現在も海上自衛隊の航空部隊基地である鹿屋基地内に資料館がある。

 十年程前の終戦記念日に知覧を訪れた時は、流石に沢山の人々であふれていた。九州を十日間掛けて回っていた私には偶々その日になっただけの事なのだが、一旦到ってみると正直なところ、ある種の感慨を覚えずには居られなかった。それだけに、館内の展示されてある遺書類に目を通すのに夢中になりすぎて閉館時間まで居てしまったくらいだ。感情移入が過ぎて覚えず全身で感じるかのような見入り方をした為に熱くなり過ぎて、館外に出た時には真夏の暑い空気に包まれているにも拘わらず重苦しさから解放されてホ~ッと深呼吸をしたのを思い出す。
 ところが、何故かその直後から何とも言えない違和感が湧いてきた。何なんだろう、この気分は?
 
 それは、その翌日訪れた鹿屋基地資料館で感じたのとは違うのだ。
 展示の多寡を言うのではない。数的には少ないのは確かだが、遺品があり、遺書がありと言う意味では等質である。
 鹿屋基地を飛び立った特攻機は北へと向かう。一旦は大隅半島の山塊が尽きようとする稜線部に向かって高度を上げつつ左へと旋回し、朝日を受けて煌めき始めた錦江湾の上空を飛ぶ。湾と深く碧い太平洋を分ける印のような秀麗な開聞岳はすぐである。
 今生の別れとしては美しい墓標と言えると胸に納めたのかも知れない。ふと、そんな想いが浮かぶ。如何にも具体的なというか現実的なというかそんな像が脳裏に描かれていったのである。

 再訪したのは二年前である。同じく夏。梅雨が明けた直後だった。
 熱っぽく焦れるようにして入館を急いだ気分はもう無かった。それは、既に見てしまったからという訳ではないのだ。何かの理由が道の途中から分かり掛けてきたからだ。
 ”これでもか”という様々な標識や表示やまるで神社の参道のような灯籠群などがそれだ。 
 “軍神”の集合地としての“平和”会館。全てはそれであった。提灯行列と歓呼の声。繰り返してはならないのはそれなのに、平和の名の下に鎧が見え隠れする。本当の平和とは何か。何によって保ち、維持し続けて行けるのか?
 感傷的な気分に浸り、感情的な気分の高まるのを排除し、過去の事実を出来るだけ客観的に判断し、今を将来をどのような社会を国家を築いていくのかが大切なのだ。
 多言を要しないだろう。是非とも二つとも訪れて日本の在り方の判断材料として欲しいと思うのだ。
 さて、来週になってしまったが、三度目の訪問には何思う自分であろうか?

「いくさ」という言葉(5)

2010年03月11日 | Weblog
 直接戦闘は肉弾戦まで行けば凄惨の極みであることは言うまでもないのですが、いつもの例の“弥生時代の戦争”でもそう理解されているような気がしないでもないですね。
 近年には全く見かけなくなったんですが、パプアニューギニアの“儀礼的戦争(私の勝手な命名です)”という形態があります。
 部族間の争いが集団的な戦闘行為に発展し、その後解決するに至る顛末はまさに典型を示しているんですよ。
 ある種のいざこざ争いが殺人事件を引き起こした時に、被害者集団と加害者集団とがぶつかる事になります。しかしながら、そこには巧緻な駆け引きは無いんです。それぞれが示威行為を示しつつ距離を置き、声や動作で勢威を揮わんとします。
 何時戦闘が始まるのかと思っていると、遠くから矢を放ち合いをし始めます。中には威勢良く敵陣に向かって走り出し、槍を投げては走り戻ったりする者が出てきます。
 やがて負傷者が出始め、ついに戦死者が出ます。互いの損害に見合うという納得するところで戦闘は終わります。これで解決とは言えないのでしょうが、集団間にはもう以前のとげとげしく対立する場面は終わりです。
 恐らく初期の集団紛争はこんなのだったと思います。
 ところが、稲作の耕作が鉄器の導入によって益々盛んになり、人的需要増大と共に耕作地の拡大を目指すようになると、支配と被支配のピラミッドは高く大きく複雑になっていきます。
 力関係それだけだと野獣の群と同じじゃないかという話になりますが、そこが人の人たる由縁というか、悲しい性というか、神秘性を持たせる為の仰々しい儀式を伴った例えば「卑弥呼」の出番があるんですよ。
 ヒミコはヒ(日・陽)+ミ(御)+コ(子)というのかどうかという話は別にして、確かに狂気に似た恐ろしげな人物は必要だったでしょう。依代(よりしろ)みたいな中心となる人物は吸引力がありますからね~。
 脱線しすぎました。
 弓の話から始めようとしたのに、パプアを思い出した途端に(笑)。
 艦砲射撃に突撃予備砲撃と、直接戦闘の前に損失を出さない工夫として、出来るだけ遠くから遠くからなんだという知恵の一つが弓射だったと言う事ですね。
 距離を置いた原始的な攻撃武器としては他に石投げや投げ槍がありますが、一番効果が有ったんでしょうね。
 槍の殺傷効果が最も発揮される距離はおよそ15メートルと考えられますから。槍は攻撃よりも防御兵器と考えられますしね。長ければ長い程良かったのは木下藤吉郎で実証されてますから(^_^)。

「いくさ」という言葉(4)

2010年03月10日 | Weblog
 さて、口調を変えましょう。
 対象読者は限定されているからそれでも良いでしょう。ですね(^_-)?!

 (2)で「いくさ」の辞書的定義を三つあげましたが、その中に「弓射」に触れましたでしょ。
 日本書紀の持統3年の條です。“射(イクサ)を習ふ所を築く”です。
 いく(的)+さ(箭)→という図式になるという説があります。
 私も大体はそれに賛成です。
 ただ、箭(や・セン)は接辞なのかという曖昧さは残りますが、古来戦闘に於いて先立って使用される武器は弓射部隊でしたから。それは今でもそうだと思いますが、「突撃予備砲撃」と同じですね。
 「ヤーヤー我こそは…」なんてのは鎌倉時代位からのであって、荒荒しく活力溢れる戦国時代には姿を消していきます。講談本にはお馴染みですが、そんなことをしたら一番最初にねらい打ちですよ。
 例の弥生時代の話ですが、矢を射込まれた痕も生々しい多くの事例はまさにそれを証明していると言えるでしょう。
 接近戦では刀剣に因るのでしょうが、出来れば避けたいのは誰しもでしょうし。
 古語では、射撃する=射るは「いくふ」と言ってました。
 矢は「いくは」でした。

 今日は、言葉のお勉強だけでした。

「いくさ」という言葉(3)

2010年03月09日 | Weblog
 「軍星」とは?
 「スターウヲーズ」なら面白いのだが、”いくさぼし”は北斗星(北斗七星)のことである。いわゆる異名というやつだ。
 限定するなら北極星の事と言い直しても良いだろう。

 地球上の陸地部分はその北半分に多くを占める。
 だから、古来より人は移りゆく夜空の星を見詰めてその不思議と神秘に見せられていたのはまさに自然な成り行きであったに相違ない。
 その中にあって、ただ唯一殆ど動かない夜空の星を支配者的な位置に擬えたのも又、自然な思いだと首肯できる。
 天空を支配する神と信じるのも又その神秘の延長線上にあるのだろう。
 これは原始的な巫の拠り所としてもってこいの存在でもある。地上界の支配を成し遂げたと思った独裁者は常にこれを祀るを以て特権としたのだ。

 神の世界ばかりではなく、仏教の世界でもこれを尊しとした。
 「北斗供(ほくとぐ)」という修法がある。北斗七星を供養して息災、延命を祈るというのだから面白いではないか!
 釈迦の説教からてんでに離れ始めた仏教諸宗派は、或いは「大日如来」を作ったりし、独立した我を主張しはじめたのはよいが、その細工の果てが台密の最大秘法としてのこれだ!
 ただ勿論のこと、本尊ではなく“妙見菩薩”と呼び、夜叉の如き形象して図示しこれを“北斗曼荼羅”に作った。
 中国に古くから有る北辰(太一)信仰と仏教と結びついたものなのだ。

 北極星を意味する別の言葉である「北辰」と言えば、剣術の神様“千葉周作成政”が開祖の“北辰一刀流”が頭に浮かぶ。
 父親から受け継いだ“北辰夢想流”と、その後江戸に出て修行した“小野派一刀流”を合わせたものである。 

 さて、取り留めのない話だけれど、それだけのことである。
 因みに、西洋では「火星」が「軍星」に宛てられれるが、ギリシャ・ローマの軍神に迄飛ぶと果てがないので終わる事にしよう。

「いくさ」という言葉(2)

2010年03月05日 | Weblog
 現在の社会奉仕の団体の関連から、何となく「いくさ」の題目が浮かんで仕舞った為に書き始めたのだが、書くからには内容に責任を負わなくてはならない“重さ”が気にはなる。執筆料は無いとは言え、慎重にを心懸けて、辞書のお世話になろう。

 「いくさ」を日本国語大辞典(以降、断り無ければ国語辞書はこれが基本)で見てみると、
 ①武人。戦士。兵卒。または、軍隊。軍勢。*書紀-雄略八年二月高麗王、即ち軍兵(イクサ)を発して…
 ②弓矢を射るわざ。射芸。*書紀-持統三年七月「射(イクサ)を習ふ所を築く
 ③兵と兵が戦い合うこと。戦争。戦闘。合戦。たたかい。*宇津保-内侍督「唐土の帝のいくさに負け給いぬべかりける時…
 (この①~③の3点の違いについて触れた時の用意として書き抜いてみた。)

 昨日は、書き始めの気楽さで③の前提としたのはもうご理解頂けると思う。アチコチに話は飛びながら。

 さて、戦車の話から始めたので、戦車についてもう少し続ける。
 中国の歴史的な実在性を疑われてた位に古い時代の「夏」と「殷」は覇権争いの戦闘に於いて大会戦を経験したのだ。
 「呂氏春秋(簡選)」の記述では、“良車70乗(*輛のこと)必死(*決死隊のこと。非常に切実な表現である。)6,000人”とある。
 出土甲骨文にも“令300射、致300射”と記されている。
 つまり、一度の出撃に300輛の戦車が出動していると言う事なのだ。

 戦車の編成単位は、5輛である。戦車小隊とでも言うべきか、これが最小単位の戦術単位として戦うのが原則であった。
 それぞれの戦車の後ろには射手5名が付随している。合計25名の射撃手である。
 3輛が縦列に、残り2輛は後方の左右に配置して進撃そして突撃するのである。
 以上が、殷の時代の戦車部隊の基本陣形である。
 何とも勇ましい限りの戦車なのだが、実は実戦では背後配置の弓射兵の力量によって勝敗の結果が違っていたらしい。
 現在でも、限りなく正確さを要求される事態は変わりないのだから、常に軍隊は練度重視が全てである。結果はそれに付いてくるのだから。
(続く)

「いくさ」という言葉(1)

2010年03月04日 | Weblog
 「いくさ」を変換してみると、「戦」・「軍」と出る。ま、普通一般的には「戦争」という意味である。
 
 「軍」という漢字のそもそもの話から始めよう。
 軍という字面を眺めていると、直ぐさま了解するように「車」とそれを囲む形というのがお分かりと思う。車とはこの場合は「戦車」なのだ。(昨年の戦車に乗った日以来ブログを書いていないから、久々の罪滅ぼしに書き始めた訳ではなく、偶々書き始めたらそうなっただけの話である。)
 古代の中国では(これも注釈が必要なのだが、少なくとも紀元前頃までのと言っても良いかも)、中原に於いての大規模軍事作戦は戦車の戦いであった。兵車つまり戦車で円陣を作って取り巻く事から出来た漢字なのだ。
 軍隊にとって機動部隊は大事なんだという証拠でもあると言えるだろう。
 ローマ軍でも恐ろしそうな金属が車輪から突き出して走り回り、歩兵を滅茶苦茶にかき回そうという戦車を映画で見かけるのだが、中国のはそうではない。
 一両三人編成になっている。御者、右手には矛を持った兵、左には弓を射る兵が同乗しているのだ。これが基本である。
 戦闘は先ず、一大戦車戦から始まるのだ。見てる分には圧倒的なスペクタクルなのだが、当事者はいつの時代も悲惨ではある。ただ、少しだけでも救われるのは、戦車乗りは階級が上位者であって、チョットしたエリート層に属するという事くらいかな?
 それは兎も角、「ぐん=軍」という編成の中心が機動部隊だった意識が漢字から窺える事は間違いない。
(続く)