言葉の旅人

葉🌿を形どって、綾なす色彩に耽溺です。

辨正法師は滑稽(!)

2015年04月09日 | Weblog
 先日来、ほぼ欠伸をかみ殺しながらと言う程に退屈な漢詩集「懐風藻」を読んでいる。
 のだけれど、奈良時代の古語の中には時として現代語との差異がありすぎて面白い言葉がしばしばあって、ふむふむと突っ込んで調べて思わず時の過ぎるのを忘れることがある。

 題字に揚げた「辨正法師」は秦氏出身で少年時代に出家、すこぶる頭が良かったようで大宝年間の遣唐使の一行に加わっている。遣唐使粟田真人の選りすぐりの中に混じっているのだから凄い!この時の政権の意気込みは壮観であるのだが、その息吹が感じられる派遣名簿に載っているのだ。
 また、囲碁も達人並みで持て囃されていると言うのだから、切れる頭の使い道も達者だったようだ。

 その人を評して“性滑稽”とあるのだ。彼を褒める言葉として「滑稽」なのだ。

 「滑稽」は、日本国語大辞典の説明によると、異同を混乱させる意とある。また別に一説として揚げてある方が納得いくのだが、それは“「滑」は酒器の名で、転じて、酒があふれ出るように言葉が次々と出て尽きない意”とあるのだ。
 言葉が滑らかに出るというのは頭が悪くては出来ないことで、知恵が良く回る訳である。巧みに言いなすのだと言う事は、チョット悪知恵方面に働くと問題ではあるのだが。
 これが転じて、馬鹿馬鹿しくおかしい言葉や言い方、諧謔、おどけ、ざれごとの意味になって今日に至る。と言っても、江戸時代に滑稽本類の小説はあれど、未だ本来的な意味に用いられる事もあり、いつから現在の意味に定着したのか線引きの微妙な言葉ではある。
 江戸の終わり位からと言えば当たらずといえども遠からずだろう。漱石に出てくると完全に現代語的意味としてあるのだ。

 しかしながら、何だか釈然としないのは、その“転じて”と言う転換点なのだ。江戸時代の漢籍読みでは当然にして“知恵が回る”なのに、口語的には諧謔的な使用法に移りゆく。
 要は口滑らかに喋る知恵者を冷やかしたくなった江戸時代人の反逆的精神が働いたのでは無いかと勝手に想像しているのだが、どうだろう?