前回の翌日は鹿児島へ出掛けた。研修旅行である。
旅人は6名、付き添う自衛官はO1佐、K3佐、N准尉の3名を合わせ9名。
研修内容は、知覧と第8師団隷下の12普通科連隊見学である。
伊丹空港09:45発ANA543便は、雨が上がったばかりの重い曇を突いて離陸したのはよいが、陽に輝く雲海を滑るように飛んでいく筈の予想を裏切って、およそ1時間少しの時間を灰色の空気を泳ぐようにして鹿児島空港に到着した。
高度を下げはじめる時に微かに左手に海岸線が見えたが、どうやら宮崎平野が大隅半島に接する部分と推測した。殆ど墨絵の世界である。
と、すぐに左旋回し機が水平を取り戻した時に平野部が真下に見えた。川が見えた。傍らの工場と思われる建屋の屋上にSONYの文字が大きく書かれてあるが見えた。窓外に目を遣る乗客を意識した看板なのだろう。この時は、まさかその側を通るとはこの時思っても居なかった。その記憶が地形を立体的に浮かべる事が出来る素となったが、かといってそれは私の地形感覚を自慢するだけの事にすぎない。
旅日記を書くつもりではなかった。
話題を「いくさ」の言葉に戻そう。
少し前まで大阪に居た広報のK准尉の出迎えを受けて、連隊のマイクロバスに乗車した。
平和会館の見学を終えて、連隊へと向かう車中の飛び交う会話で出た言葉である。
何かの弾みのように“師団は何故「師」団というのだろう?”とK氏が発言したのだ。前回述べた事である。そんな講釈をする事になるとは思わなかったが、このブログの発信と同列と思い、説明をした。嫌な予感がしたが的中であった。次から次へと軍事関係の漢字の由来の質問が続くのだ。独演会をしに来たのではないのだが、成り行き上仕方がない事になってしまった。
編成上、師団の次に浮かぶのは“旅団”であると予想した。その通りであった。
「旅」は如何にも楽しそうな漢字ではないか。「師」があまねく人々を集めた集団なのだからこの漢字も恐らくそうなのではないかと思って貰えれば正解である。
旗を靡かせる下に人々が列を作って行く姿が「旅」漢字の組成なのだ。
周の時代500人の一組を意味した。師が2,500人だから、それに次ぐ軍事編成の大部隊なのである。師団に次ぐ規模の旅団の名称はそう言う次第なのである。
予定ではそのまま宿舎へ向かう事になっていたのだが、連隊長が待ってくれているというのだ。
先日の3連休の時に偶々ではあるとは言え、2日も我が家にわざわざ足を運び頂き歓談したT航空隊長の防衛大学での1期下だったのがその連隊長なのだ。
話題がその事に及び、M連隊長を“M君は…”などと囁くような優しい声で抑揚を付けて連発してくれていたものだから、何だか可愛げな語感が脳裏に浮かんで仕方なかった。
九州南半分から与論島までを管轄する8師団の南端の連隊の任務は重要である。その現実を背負った連隊の長なのだから相当な人物である。
“只者ではない”T航空隊長がそういうのだ。T航空隊長自身が只者ではないのだからどういう人物なのかと思って身構えてしまったのだが、実物まさに証明された思いをした。 が、その中身についてはそれはまた機会が有ればと言う事にしよう。
特別扱いの貴重な訪問はそう言う偶然のような産物である。と言えども、大いに感謝する次第である。
「会談」後の「階段」で(駄洒落を言う為に書いたのだが)、少しばかり皆さんを待たせておいて立ち話をし、厚く逞しい手と握手をして辞去した。
さて、漢字の話は下位分類の「連隊」である。
幾つかの中隊を合わせたから「連」はいいだろう。
「隊」である。
部首は「岐阜」の「阜」と同じで“土盛り=ずっしりと重い積み土”を意味する。「丘」の意味である。
それにその形から分かるように“ずっしりと重い豚”がくっついたのが「隊」なのだ。
ずっしりとまとまった人間集団で、特に兵の集団を言う事になったのである。
旅人は6名、付き添う自衛官はO1佐、K3佐、N准尉の3名を合わせ9名。
研修内容は、知覧と第8師団隷下の12普通科連隊見学である。
伊丹空港09:45発ANA543便は、雨が上がったばかりの重い曇を突いて離陸したのはよいが、陽に輝く雲海を滑るように飛んでいく筈の予想を裏切って、およそ1時間少しの時間を灰色の空気を泳ぐようにして鹿児島空港に到着した。
高度を下げはじめる時に微かに左手に海岸線が見えたが、どうやら宮崎平野が大隅半島に接する部分と推測した。殆ど墨絵の世界である。
と、すぐに左旋回し機が水平を取り戻した時に平野部が真下に見えた。川が見えた。傍らの工場と思われる建屋の屋上にSONYの文字が大きく書かれてあるが見えた。窓外に目を遣る乗客を意識した看板なのだろう。この時は、まさかその側を通るとはこの時思っても居なかった。その記憶が地形を立体的に浮かべる事が出来る素となったが、かといってそれは私の地形感覚を自慢するだけの事にすぎない。
旅日記を書くつもりではなかった。
話題を「いくさ」の言葉に戻そう。
少し前まで大阪に居た広報のK准尉の出迎えを受けて、連隊のマイクロバスに乗車した。
平和会館の見学を終えて、連隊へと向かう車中の飛び交う会話で出た言葉である。
何かの弾みのように“師団は何故「師」団というのだろう?”とK氏が発言したのだ。前回述べた事である。そんな講釈をする事になるとは思わなかったが、このブログの発信と同列と思い、説明をした。嫌な予感がしたが的中であった。次から次へと軍事関係の漢字の由来の質問が続くのだ。独演会をしに来たのではないのだが、成り行き上仕方がない事になってしまった。
編成上、師団の次に浮かぶのは“旅団”であると予想した。その通りであった。
「旅」は如何にも楽しそうな漢字ではないか。「師」があまねく人々を集めた集団なのだからこの漢字も恐らくそうなのではないかと思って貰えれば正解である。
旗を靡かせる下に人々が列を作って行く姿が「旅」漢字の組成なのだ。
周の時代500人の一組を意味した。師が2,500人だから、それに次ぐ軍事編成の大部隊なのである。師団に次ぐ規模の旅団の名称はそう言う次第なのである。
予定ではそのまま宿舎へ向かう事になっていたのだが、連隊長が待ってくれているというのだ。
先日の3連休の時に偶々ではあるとは言え、2日も我が家にわざわざ足を運び頂き歓談したT航空隊長の防衛大学での1期下だったのがその連隊長なのだ。
話題がその事に及び、M連隊長を“M君は…”などと囁くような優しい声で抑揚を付けて連発してくれていたものだから、何だか可愛げな語感が脳裏に浮かんで仕方なかった。
九州南半分から与論島までを管轄する8師団の南端の連隊の任務は重要である。その現実を背負った連隊の長なのだから相当な人物である。
“只者ではない”T航空隊長がそういうのだ。T航空隊長自身が只者ではないのだからどういう人物なのかと思って身構えてしまったのだが、実物まさに証明された思いをした。 が、その中身についてはそれはまた機会が有ればと言う事にしよう。
特別扱いの貴重な訪問はそう言う偶然のような産物である。と言えども、大いに感謝する次第である。
「会談」後の「階段」で(駄洒落を言う為に書いたのだが)、少しばかり皆さんを待たせておいて立ち話をし、厚く逞しい手と握手をして辞去した。
さて、漢字の話は下位分類の「連隊」である。
幾つかの中隊を合わせたから「連」はいいだろう。
「隊」である。
部首は「岐阜」の「阜」と同じで“土盛り=ずっしりと重い積み土”を意味する。「丘」の意味である。
それにその形から分かるように“ずっしりと重い豚”がくっついたのが「隊」なのだ。
ずっしりとまとまった人間集団で、特に兵の集団を言う事になったのである。