言葉の旅人

葉🌿を形どって、綾なす色彩に耽溺です。

「夢」がさめて…。

2007年08月31日 | Weblog
 ”「夢」が醒める”と”「夢」が覚める”。
 どちらを使うかではなくて、「さめる」の意味が違うのだ。
 一般的には、「目がさめて、見ていた夢が消え」起き上がる様を言うのだが、「夢」が今となっては異次元の世界に属していて、「何を思っていたのだろう俺は!」という過ぎ去ってしまった近過去の余韻がさめやらぬままに現実を受け入れようとする状態を言う事が人生にはままあるのだ。
 心の迷いから醒めて、今の状態を良しとする精神状態から見て言える言葉なのだ。
 しかしながら、例えば去りゆく女の断ち難き想いを迷夢として分かりつつも、捨てきれぬ未練に囚われこれからも続く人生を投げ捨てる男には醒める事のない「夢」もあるのだろう。
 心の迷いから醒めると言うのは如何にもサッパリとして他人事としてはそうあるべき等と判断は付くだろう。
 こんな種類の危うい「夢」は幾らでも人生の歩み中に転がっては人を躓かせるのだ。
 「正常な精神状態に戻る。」、「正気付く。」のが”夢が醒める”という価値判断は、その情念がない時にこそ人は言う事が出来る。
 迷い苦しみ、およそどろどろした迷い「夢」の渦中にあってはそれは辿り着けない闇の中にある解答に近いものなのだと思う。
 かく言う己が、このような千鳥足に近い文章を書く事自体が未だにそういう種類の「夢」から醒めていない事なのかも知れないという、逆説的な迷いすら覚える。
 美しくない人生の軌跡は辿ってはならないと言える大人で居ようというのは斯くも難題であるのだ。

「夢」変身願望

2007年08月30日 | Weblog
 さて前回の「夢」の続きになるが、”あり得る”~”有り得ない”という範囲の事から「夢」を考えてみた。
 と言っても、工夫と暇さえあればという如何にも安上がりの「夢」の実現の話である。

 人というものの持つ性(さが)の一つに、現実からの逃避行為がある。
 そりゃ~、毎日が好んである状態・楽しくて楽しくて仕方ない日常なんて有るべくもないし、叉有っても困るものなのだが、その疎む嫌な事の充ち満ちた生活から逃げ出したいのは当たり前の事ではある。
 で、簡単で安上がりの「夢」=逃避行為ということなのだ。

 ”変~身!”と腕をグルグル回して何とか仮面などになると言うのなら少々のカロリーを消費するだけで済む。但し、これは相当の子供心が必要であって、しかも人目を気にしないで済む場所に限るという、ややもすれば”危ない”精神状態の時以外はお奨めはしない。
 ならば、そこらのおもちゃ屋か百均か夜店か、はて叉余裕が有れば東急ハンズ辺りで適当な仮面か衣装を買ってみるのも良いかも知れない。

 現実の自分が不遇であればある程、変身願望の念は強いものなのだが、そうでなくてもそういう気持ちは湧いてくるものでもある。
 人間の表面に現れた個性の看板たるものは『顔』だろう。何と言っても顔とその上にある髪の毛がその人の全人格を表すかのような錯覚さえ起こす程に大切な場所だと言えるに違いない。
 ならば、顔を変えれば別の人間性を備えた、別人格の自分が其処にいるのではないかという発想は無理からぬ事である。
 映画でしか観た事はないのだが、仮面舞踏会が中世期ヨーロッパ宮廷に登場する。如何にも意味ありげでいて、しょうもなさには恐れ入った退廃なのだが、積極的錯覚感覚を味わおうという向きには嬉しくて仕方ないものらしい。
 
 と考えてみると、その錯覚を日常的に意識的に毎朝繰り返し、電車の中でもパタパタと塗りたくっている女性という種族は、小さな「夢」を叶えているものなのかと感心するしかない。
 それに引き替え、せいぜい一分で頭髪を整えるだけの変身の快感を味わえない男のひがみと言われればそれまでではあるのだが。

「夢」を夢見る!

2007年08月29日 | Weblog
 暫く思考を中止常態に置いて、つらつらと推敲を欠いた拙い文章を読み返してみた。
 こんな程度の力量しかないのかと嘆いてため息ついた瞬間に、「夢」を見てしまった。
 「」という括弧付きの「夢」である。
 生身の身体の休息時たる睡眠時に見る夢ではなく、ぼんやりと想像の世界に入る”あれ”である。白日夢という極端な表現は相応しくない程度なのだが。

 さて、Dream a deream.の直訳的な”「夢」を夢見る”を言いたいのではなく、人の持つ可能不可能の限界境界線付近から無理な・有り得ない・想像を絶する迄の幅のある「夢」なのだ。
 「もしもピアノがあったなら…」なら金を稼ぐ事に勤しめば可能には為るだろうが、「もし僕が鳥だったなら…」は異次元の領域といえるだろう。
 これが「」付きの「夢」なのだ。
 「有り得ない、出来るはずがない、…」といったことが過去の事ならば、もう既に諦めも付いている事だろう。
 ところが、これが未来の事となれば俄然話は変わってくるに違いない。
 あくまでも「夢」は現実に向けての歩みを進めようという動機になる。
 つまりは人は「夢」を持たないでは生きていけない存在なのだ。
 と、自分自身で手短に確認したまでである。”もっと魅力的な文章を書く事が出来ないのか!?”という「夢」をね(^_-)