夢殿で触れたように、嘗ては神託として神様の独擅場(どくせんじょう)であった世界に仏教が入ってきて、宗教的な大系が完成されていた為に取って代わられただけの話なのだが、仏様が沢山登場する。
日本初の仏教説話集「日本霊異記」には多くの仏や僧が夢の中に出て来る。
昨日の聖徳太子の教典解釈書の不明部分を夢に出てきた僧が解いてくれるという類の話なんかは当然ここにもある。
前世で誤って教典の一字を焼いてしまった因果で、生まれ変わった今どうしても覚えきれない一文字がある事を教えてくれたのも夢である。
誇張やこじつけがある事からして、話半分以下に楽しめばいいのだが、恐ろしく宗教が訃術が生活と密接に関連していた事も同時に理解しておけば更に良しである。
作者である”景戒”の「心の迷い」や「愛欲の世界」、「俗世への執着」などが正直な告白として読み物として今に伝わる力ともなっているのは古典として耐えうる元として面白いと思う。
男遊びが過ぎて死後に乳房が腫れる女が出て来る。最後は往生するという話だが、「邪淫の生活」なんてのは言葉からして魅力的ではないか。
”人間的”な事であるという其の一点において、生きるという事の意味をはしなくも表しているように思えて為らないのだが、どうだろう?
日本初の仏教説話集「日本霊異記」には多くの仏や僧が夢の中に出て来る。
昨日の聖徳太子の教典解釈書の不明部分を夢に出てきた僧が解いてくれるという類の話なんかは当然ここにもある。
前世で誤って教典の一字を焼いてしまった因果で、生まれ変わった今どうしても覚えきれない一文字がある事を教えてくれたのも夢である。
誇張やこじつけがある事からして、話半分以下に楽しめばいいのだが、恐ろしく宗教が訃術が生活と密接に関連していた事も同時に理解しておけば更に良しである。
作者である”景戒”の「心の迷い」や「愛欲の世界」、「俗世への執着」などが正直な告白として読み物として今に伝わる力ともなっているのは古典として耐えうる元として面白いと思う。
男遊びが過ぎて死後に乳房が腫れる女が出て来る。最後は往生するという話だが、「邪淫の生活」なんてのは言葉からして魅力的ではないか。
”人間的”な事であるという其の一点において、生きるという事の意味をはしなくも表しているように思えて為らないのだが、どうだろう?