言葉の旅人

葉🌿を形どって、綾なす色彩に耽溺です。

国語(2)

2009年03月30日 | Weblog
 とすれば、近代とは何かという事になるのだが、今此処で触れる主題ではないので又の機会に譲るとして、一言で言えば”フランス革命”とかのたぐいの事だと承知されたい。
 日本で言えば”明治維新”なのだ。
 中国では孫文による”辛亥革命”を経て、国民・国家の成立を迎える事になる。
 
 その近代以前での様子は、古典の教科書を見れば直ぐに分かる事あのだが、記紀万葉から始まって井原西鶴と江戸時代までやって来ると、比較的ではあるのだがそれなりに現代語に近くなっていると感じられるだろうと思う。
 作者という書き手は、読者という読み手が有って初めて成立するのだから、有閑貴族層対象から広範な庶民大衆層への拡がりを理解できるだろう。
 が、その中にあっても擬古文為るものが存在し、現在に至っても文語文と口語文の区別があるというのは、一方ではその名残でもあるのだ。

 「三層構造の言語文化」と呼ばれるもので、日本で言えば、公家・寺社・学者などの上流知識階級、武家百姓町人上層などの中流実務階級、それより下と意識されていた下層階級間では言語が違っていたのである。
 「解体新書」(1774)を著した一人の杉田玄白は純正の漢文で書いているのだ。
 これは外国でも同じで、例えば英国の科学者ニュートン「プリンキピア」はもう当然お分かりのようにラテン語で書かれてあると言った具合なのだ。

 漢文・ラテン語と同じものとしては、梵語・古典アラビア語・古典チベット語などなどと何処にでも存在している。いわゆる「純正文語」と呼ばれるものである。
 中流のは「変体文語」と呼ばれる。文字の読み書きが出来ないのを「無筆」と呼ぶのだ。これはあまりに酷な表現ではないかと思うのだが、悔しい事ながら過去の事実は訂正が効かない。
 ま、こういった経過を経て来てる結果、世界が狭くなってきて国家という枠が設定されると国内という単位での言語の混乱は避けなければならないと考えるのは自然の成り行きである。
 その為の学校教育が「学制改革」として頻繁に繰り返される明治初期の混乱はその試行錯誤の表れなのだ。
 歴史的な不幸はその道筋の問題として存在する事になるのだが、明治という時代を迎えた”国家としての日本”は少なくとも侵略される事だけは避けなければならない絶対命題として目の前に突き付けられる形を持って提示されていたのだ。
 と言う意味からも「奇兵隊」は非常事態ではあるが、その後の国家の基本的な国民皆兵への道と曲折はありながらも繋がっていたのである。
 言語に戻ろう。
 とすれば、統一した言語を持たなければ学校教育は成り立たない。「無筆」が一種の悪として劣位の階級なのだという植え付けから蔭の部分を作るという矛盾含みで「国語教育」が開始されたのである。
 従って、自由部分を認めつつも「標準語」が作られた。それ以外は標準ではないという「方言」の劣位化だ。東京山の手の中流言語を”一応の基準”とした事の結果である。
 そういった事の延長線上として、時々Tvを見ていて思うのだ。メキシコ以南に位置する国々の人達が話しているスペイン語・ポルトガル語。自前の言語を失う事は民族の歴史も文化も全て失う事なのだと。根っこの喪失・断絶である。
 

 漢文については「近代と外来語」と言う深い深い関係にあるのだが、これ叉別の機会に。
 

国語

2009年03月28日 | Weblog
 長年にわたって「国語」教師という職業で人生を送ってきた身でありながら、しかしどうしても「国語」と言う表現に馴染む事がなかった。
 当時の文部省・現在の文部科学省は勿論、都道府県教育委員会においても、学ぶべき単位としての認定は「国語」という科目なのだ。国語科教員として採用され、小学校でも高等学校でも「国語」を教えてきたわけなのだが、授業を始める学年の始めに当たっていつも断って置いたセリフがある。
 ”私はこれから諸君に教えるのは「日本語」です。”
 
 つまり、日本語と国語とは同じではないのだ。
 国語の誕生は近代以降の現象であって、決して初めから国語ではなかったのだ。何だ、学校での話なのかというと、そういう事ではない。
 解答を初めから提示してお話ししよう。
 世界中の何処を見ても、近代以前の段階に於いては国語としての認識はなかったという事なのだ。いわゆる文明国であれ、発展途上国であれ全ては同じなのだ。
 国家が近代の衣を纏って「国家」が現れた時に、連れて「国民」・「国軍」が生まれ、そして身分・階級を超えた統一した言語を必要とした時に現れたのが「国語」なのだ。(続)

 今日の写真は今朝入ってきたばかりの露天風呂である。奥飛騨槍ヶ岳を望む絶景である。未だ冬から覚めていないかのような気分!

 

「~く」(2)

2009年03月26日 | Weblog
 こういう場合は、ノーベル賞受賞の会見談話とは基本的に同じで、偶然に発見した事柄の延長線上に成功を導き出すヒントがあるのだ。
 何もこんな些細な事にノーベル賞の話を持ち出すまでもない事なのだが、えてして人生とはこんな事の集まりで成り立って居ると思うので、大事だと思えば大事な事なのである。

 さて、その蜜柑の種をくわえていったのだから、実験継続の為には種を確保して毎日来させる事に努めなければならないというになった。
 更に、それだけでは発展も何もないので、様々な食べ物をファミレスの日替わりメニューの如く置く様にしてみた。それも、観察しやすいようにベランダ中程になる柚の木の根っこに。
 ピーナッツ、煎り大豆、カシューナッツ、アーモンドといった種子類から、おかき、煎餅、ビスケット…。いや~、まるで駄菓子屋である。
 買い物に出掛け、スーパーの籠の中にお八つの類を買い込むなんて久しくない事である。そういう習慣がないものだから、心中おかしさが込み上げてくるのだが、レジのおばさんの顔を見て、毎日は顔を合わさないようになんて余計な神経を使う羽目になってしまったのもこれも又我ながら可笑しい。そのお陰で神経過敏、自意識過剰を白状する事になってしまったのかも知れない。

 今も、毎日のようにやって来て、何度も姿を見せるようになっている。為に、姿を見ないか、やって来た痕跡もない日などは心配になっているのだから、もう恐らくは”病膏肓(やまいこうこう)にいる”状態なのだろうと思う。

 鳥の名前は「磯鵯(いそひよどり)」と判明した。
 家内がネット検索名人のような手腕を発揮して突き止めてくれた。腹から尾に掛けて茶色く、胸・首から背には青みがかった灰色という特徴から探してみたのだが、根気強さは到底敵う相手ではないのですよ。そりゃ毎日仕事で触っている人には敵わないわ。私は脱帽である。

 脱線したままで話が戻りません。どころか、宇宙果てまで果てしなく逸れたままになりそうである。鳥の名前なのだ。鳥名図鑑であった。それも、10年以上も前に訪ねた滋賀県野洲町の図書館で見たものの記憶なのだ。
 基本的には、様々の鳥自身の持つ特徴から名前が付くのだという原則を成る程と納得したのだ。記憶の中で、その代表として「鳩」がある。
 比翼するその羽根の音からというのだ。確かにその後、鳩の飛ぶ音を聞いていると「ハトハト」と飛んでいるのだ(^о^)。ま~、パタパタだろうけれどね~。
 そうすると、磯鵯は?
 切りが無くなってきた。それは後日に回します。

 擬音語・擬態語である。ハトハト、パタパタなのだ。

 音が響くのだ。「響く=ひび+く」である。これは、元は「ひひ+く」である。「ひひ」とは”びりびりする”から出来た言葉である。

 ザワザワ→「さわ+く(騒ぐ)」。ドドッ→「とどろ+く(轟く)」に「ぞめく」、「わななく」、水の撥ねる音から「注く」、と随分と言葉が浮かんでくる。

 恋をすれば「囁く」よな~!「なびく」、「ゆらめく」となって来る自然さである。恋愛は「かかや+く(輝く)」から「おどろ+く(驚く)」事態を招かないようにご注意下さいな。

擬態語・擬声語+「く」は「~~く」という動詞を作る。

2009年03月25日 | Weblog
 昨年も末近くになった頃、我が家のベランダに一羽の小型の鳥がやって来た。幾ばくかの鉢植えの木々に惹かれてやってきたのだろうと思っていたのだが、比較的大きなオリーブの枝でバタバタと音を立てている姿が目に入った。
 オリーブの小枝が込み入った茂みの奥へ奥へとクチバシを突き立てているのだ。
 そっと覗いてみると、熟し切った実が残っていたのだが、それを食べようとしているのだった。
 それを見て、その幾日か前に濃い紫色した「もの」が転がった痕を残して居た事に合点がいった。彼か彼女か分からないその鳥がつつき転がしていたものだと。
 野生であるが故に、それはそれは相当に腹を空かせているのだと言う事を物語っていた。何とも不憫に思ってしまって、早速に手元にある林檎や蜜柑を剥いて枝に刺して置く仕業となった。

 ところがである。
 私も閑人である事を白状するようなものだが、鳥が飛んでくるのを待ちかまえて居たのだ。
 翌日もやって来たその鳥は、何と!そんな物には見向きもしないで、丁度こぼしてあった蜜柑の種を口にくわえて飛んでサッサと去って行ってしまったのだ。
 生態も分からないままだから、実をつついている限りに於いては果物で正解と思っていたのだ。しかし、現実はそうは行かないものである。
 それを見てからと言うもの、工夫を凝らして様々な物を置いて何を好むのかという実験を始める羽目に陥ってしまったのは言うまでもない。

 ”擬態語擬声語に「く」という言葉は動詞を作る”という話をしようとして、そうだそうだと鳥の名前の大図鑑を見たのを思い出して、そのまま連想でズルズルと我が家にやって来る鳥の話を始めてしまった。本題は、明日以降にしよう。

倭国大乱(2)

2009年03月23日 | Weblog
 倭国大乱とは中国から見ての事なのだが、弥生時代は中世の戦国時代と負けず劣らずの群雄割拠なのだ。
 規模の大小は問わないとしても、日本の列島西半分は戦いに明け暮れる緊張にあった時代だったのだ。
 統一というのは、政治に於ける力学としての軍事力は絶対不可欠要素なのだとは言うまでもない。それは現代に至っても変わる事はない。

 1975年に福岡県飯塚市スダレ遺跡で甕棺内人骨に磨製石剣の切っ先が完全に突き刺さった状態で発見された。これを契機に、弥生時代の甕棺埋葬人骨に銅剣も含めて200例を越える戦闘の痕跡が確認されだしたのだ。
 (19)で書いたように、1997年7月16日付けの新聞記事に触発されて、それ以来の歴史を社会の生成と結びつけて考えるようになったのである。

 一面に広がる湿地帯の開発から始まったとばかりイメージしていた米作り。
 実は、山間の谷間から流れ出る細流の水源を頼りにしてのものだったのだ。
 その状態が鎌倉時代が終わる頃までは変わらなかったのも驚きであるが、その山間地から、やがて平野部にある低いながらも丘陵地帯への進出が首長を出現させ、それが勢力争いを引き起こす元となり、より規模の大きい首長を創り出していく事になったのだ。

 権威とかは、そういう階層序列を生み出していく途中に微妙な心理に依存しつつ文化をも生み出す要素となったと言えるだろう。
 戦乱は文化と文明を創り出す一大要素なのだ。戦いを悪とする論理は前提が問題なのだ。
 確かに、安定した社会に暮らす為には平和である事が一番であるとは誰しもが思うことである。
 しかし、その平和とは単純に平穏な手を拱いている「平和」からは決して得られるものではないのだ。

 「愛」が「憎しみ」と裏腹であるように、対立極として存在しているからこそ、その実感が実像が有るのだと言えるのだ。
 平和は精神的にも物質的にも常に備えて維持する意志を持っていることで成り立っている事を忘れてはならないだろう。

ロクでもないの「ロク」。

2009年03月18日 | Weblog

 ふと、「ロク」は何だったっけ?と。
 碌か禄くらいの意味かと思っていたのだ。
 調べてみて、思い出した。「陸」だった。
 漢音ではなくて、呉音なのだ。
 すると、音符の”坴”はキノコのボコボコとした連なり。
 偏の”阝”は丘の意味。
 足した”陸”は海に対する高い土地。やがて水平、真っ直ぐの意味が加わり、満足すべき状態まともであるという意味も生じてきたらしい。
 だから”ロクでもない”とは、まともな物じゃないの意味になったのだ。
 それにしても、どのワープロソフトを使って、どう変換したって「ロク→陸」になりっこないな~!? 皆さんのはどうでしょうか?

「刀自」

2009年03月17日 | Weblog
 家の中にいても出勤途中であっても、家内から読書中の言葉で分からない事の説明を求められる事がしばしばある。要するに私は辞書代わりなのだ。

 今回は、「刀自」、「中山一位局」、「天誅組」である。
 今まで、「刀自」は「家刀自=侍の家の主婦」と簡単に理解しているだけで済ましていた。
 が、いつから、どうして出来た言葉かな?と思ってチョット調べてみた。
 「戸」+「主」→「とぬし→とうじ→とじ」であった。

 これは面白い。何となれば、家の中で一番偉いのは女性だったのだ。
 古代までは母系制社会だったからなのか。
 ただ、戸籍制度が出来た時には、筆頭は男だったのだが、事実上の家庭を切り盛り運営していたという事なんだろう。その時代の或る実態を表している事なんだろうとは想像に難くない。

 そういえば昨日、”金の減り具合が近頃は早い”と指摘されてしまった。最近の事件で、忙しい→金が要る、なのだ。我が家の「刀自」さんの痛撃な指摘でありました。

原点は倭国大乱

2009年03月09日 | Weblog
 書斎を縮小しつつ転居を重ねてきたような数年間だ。遂に、”3畳一間の…”とでも表現するのが最も似合った一隅に書棚を積み上げて居る仕業となった。

 20数年も持ち続けた新聞記事の切り抜きも整理して、先週の土曜日に故紙回収の新聞束と同時に消え失せた。
 
 とは言え、その中でもどうしても捨てられない記事の幾つかが新しいファイルに綴じ直されてある。
 その一つが「倭国大乱」なのだ。
 1997年7月16日から3日間の文化欄に連載されていた記事である。

 倭国とは何か?という国家としての形態は兎も角、大陸からの大雑把なつかみから記録される”倭国”の枠はどういったものであったろう?
 後漢の桓帝と霊帝の期間に大いに乱れた時代が記録されている。西暦紀元からいえば、147年頃から189年頃である。
 卑弥呼の「魏」への遣使は239年。
 何とも、あまりにも古い時代なのだ。幾つもの弥生時代の環濠集落を見ては戦いから戦争と移行する原点に思いは溯る。
 V字型に深く掘られた掘り割り環濠や逆茂木の防御施設を見ていると、城砦という在り方は此処に始まると実感する。
 文学から歴史への興味の転換と現実との接点の転換点でもあったのだ。これ以降、調査の為の旅は「戦い・闘い」に絞られていく事になったのだ。
 弥生時代に始まる倭国=和國=日本の戦いの有様を、思いつくままに書いてみる事にしようと思う。