言葉の旅人

葉🌿を形どって、綾なす色彩に耽溺です。

「自衛官募集支援 北斗会」の行事です。

2014年01月22日 | Weblog
 明後日24日(金)は、「自衛隊を知る為の基礎講座・第3回」と「広報官の皆さんを励ます会」の開催日です。

 「講座」に関して
 今回の講師は、大阪地本の北東地区隊長です。
 場所は枚方出張所。時間は午後6時から約1時間弱。

 「励ます会兼ねる新年会」は
 京阪電車枚方市駅高架下にある“エル食遊館2階にある「志なのすけ」”
 時間は午後7時15分から2時間。会費:飲み放題食い放題で3,500円。



函館と土方歳三(3)

2014年01月12日 | Weblog
 

 「幕末酒徒列伝」(村島健一著)の新撰組の項の中に出てくる土方歳三像は如何にも暗い。
 かたや小説ではあるが、「燃えよ剣」(司馬遼太郎著)とは微妙にずれがある。
 が、似たようなモンだろう。真実の姿と取るかどうかは別として、伝わる資料から見ているだけに随分と成る程とゲンナリする部分も散見する。
 “土方も又、酒心を理解できない。箱館で、彼が指揮する隊だけは負けをしらなかった。二股口でも、見事に官軍を潰走させる。土方は酒樽をさげて部下の間を回った。…司令官は心から平の奮戦をほめる。そして、手ずから椀を注いでやった。「…酔っ払って軍律を乱す者が出るとまずい。ま、一杯ずつにしておこう。」”
 要は、労いを受ける兵士達にすれば恩着せがましく一杯こっきりをあてがわれるくらいならば、命を懸けて奮戦した兵士へは温かな言葉を掛けるだけにしておいた方がずっとマシという事である。
 確かに、飲ませるならそれは心ゆくまで飲ませるべきだろうというのは私も思う。
 何を今更この時点で“軍律違反”を持ち出すのかと言う事だ。



 男前として死に際を飾る美学、出陣姿としての想像は出来る。

函館と土方歳三(2)

2014年01月10日 | Weblog

 写真中央を函館山に向かって伸びる道が見える。それがほぼ五稜郭を出て維新政府軍が関を設ける一本木への行路と思われる。途中からやや右寄りにある道筋に土方歳三が戦死したとされる場所がある。

 港から五稜郭への道を少し辿るとこの標識があった。

 実際とは違うのだろうが、それらしき恰好の関柵があり石碑がある。

 ご覧の通りの解説が添えられてある。訪ねてくる人も多いのだろう。施設の中にあって、小綺麗な庭園の一部として溶け込んである。
 新撰組残党は新政府にとって幕末での報復の対象であり決して許されざるものなのだ。
 しかも、関の前線には屈辱的な敗北を喫した松前藩兵が報復に燃えて待ち構えていた。
 土方歳三にしても既に敗色は絶望的に濃く、生き残れる筈も無いのは百も承知なのだったろう。松前藩士の銃弾に当たって落馬し絶命したとされる。
 それにしても、新撰組美学というものなのかあちらこちらに歳三の姿を目にする。
 空港を降りたって荷物の排出口直上の看板に引き延ばした写真がある。五稜郭タワー一階にも鋳造の銅像が復元大砲と共に立って居る。
 石川啄木公園には並んで記念館がある。不思議な組み合わせなのだが商魂の前には恐れ入るしか無い。

函館と土方歳三(1)

2014年01月07日 | Weblog

 誰かさんがお待ちかねの件についてに移ります。

 ご覧の絵図の通り、港湾は陸地に三方を囲まれた典型的な港に向いた地形をしている。函館山の裾野が町として形成され、中心に発達してきたのが分かる。
 従って、松前藩の陣屋はその中腹に存在していたし、五稜郭に移る前に“奉行所”もあった。やがて戊辰戦争備えの移築が為されたのだ。
 見渡した限りではパラパラ人家があった程度だったのだから、籠城も良し、打って出て野戦も良しという築城つもりで五稜郭は建設されたに違いない。
 しかも、艦砲射撃の射程距離が3㎞と想定されていたので、その外に位置する筈だった。筈というのは、今もそうなのだが「想定外」という近視眼であって、将来という視点に欠けるものである。
 新政府の「甲鉄」の出現は北海道政府を驚愕させたし、その為に敢えて宮古湾への出撃もせざるを得なかった程の物だ。射程は6㎞と性能が遙かに向上し、最後の砦の意味をなさなくなった。
 しかも拙い事に、移築した奉行所の屋根を葺いた銅板である。キラキラと日を受けて反射し、それが目標となってまるで的になる為にそこにある羽目に陥ってしまっていたのだ。
 それがこの屋根である。見えていて届くのだから万事休すである。