言葉の旅人

葉🌿を形どって、綾なす色彩に耽溺です。

孔子の夢

2007年05月10日 | Weblog
 儒教の祖である孔子の夢と言っても、大志を抱いた事ではない。
 彼の足跡として弟子がまとめたという「論語」の”述而篇”に、自分の衰えを嘆く場面として、彼の理想とする人物像の代表である周公旦(周の国の文王の弟として次の国王である武王を補佐した人物)の夢を見なくなったと嘆いている記述がある。
 この場合は尊敬する人物なのだが、一般的には”見たい・逢いたい”と言うような強く思えばその人が夢に現れるという俗信や観念が昔からあったと言う事だ。
 いつまでも見続けたい夢というのは、それこそ「夢」なのかも知れない。

夢は枯れ野を

2007年05月08日 | Weblog
 旅に病んで 夢は 枯れ野を かけめぐる
                  松尾芭蕉

 大阪は南御堂の前の舗道上にひっそりと碑が建っている。
 彼の骸は遺言通りに大津市の膳所にある「義仲寺」に葬られた。
 何故に義仲寺なのかはここでは触れない。

 三日前にふらりと義仲寺に出掛けた。
 久し振りと言うにはあまりにも遠い昔に一度訊ねたきりだ。
 それでも記憶にはハッキリと寺の様子が記憶されていて、この度に見回してもそのままであった。
 それも当然と言える程に、寺は狭いのだ。
 嘗てはと言うか、昭和の前半までは琵琶湖は度々の洪水に脅かされていて、門前一筋置いて湖岸が存在していたのだ。
 今はそのよすがも無く、ギッシリと建て込んだ家並みとパルコによって視界が塞がっているのだ。

夢と観音信仰

2007年05月07日 | Weblog
 と言うと、「更級日記」とかにある”長谷寺”が有名か
 何処の観音様でも構わないじゃないかと思うのだが、何にせよ旅をする楽しみと生活の変化を求めてチョイと出掛ける口実にも使われたのが”お寺籠もり”だ。
 色んなお告げを夢に見ては喜んだりしてたようだが、まさに本気である。
 夢のお告げは人生を左右する程であった。
 人生は結果からしか分からないものなのに、先々を知ろうとするのは人情というものか。
 長谷寺の十一面観音は夢を授けてくれるのだそうだから有り難かったのだろう。
 一方、前述した法隆寺には”夢違観音”さんが居られる。
 ひどい人生を送ると、見る夢までもが当然にして悪夢の延長だったりするだろう。
 醒めてなお嫌な辛い現実の生活が又しても朝から始まるのかと思うと、人生を放棄したくなるからね~。
 そんなこんなで、せめても夢だけでも良いものに替えたいというのはこれも叉人情だ。そういう夢を良い事に替えてくれる有り難い観音様ならすがりたくもなるだろう。災難を避けたいならいらっしゃいという観音様だ。悪夢に悩まされているのなら、気分転換に精神衛生上有り難い事には違いない。
 
 自前で悪い夢を処理したいのなら、「お呪(まじな)い」をしてみよう。
 夢を食べるという想像上の動物に”獏”が居る。
 音からして、猛烈に”バクバク”と食っている姿を想像すると頼もしい。
 うなされて目覚めた直後に、”獏喰え!悪い夢を獏喰え!”と唱えると気分としてはきっと効いてくるに違いない。
 

源平の夢・平家物語

2007年05月02日 | Weblog
 先日も登場した厳島神社の写真を見ると、それは風景としては画になるもんだと感心している。偶には、叉訪れてぶらついていても構わないという程度ではあるのだが。
 で、この場所を舞台として数々の歴史的な展開もあるのだが、現在は「夢」に関して書いているので、それに付いての話を続けよう。

 平清盛が安芸守だった頃、厳島に参拝した時の夢枕に厳島大明神が現れ「汝、この剣を以て一天四海を鎮め、朝家の御守りたるべし」のお告げと枕頭に銀製蛭巻の小長刀を得た。
 栄耀栄華を極めた後、慌て福原遷都した時、今度はいきなり枕元から忽然と消えてしまった。没落の予告である。
 次は、源氏の出番なのだが、どういう訳か源雅頼の若侍の夢に八幡大菩薩が頼朝に節刀を賜うという。何だか、夢の仲介者が多くてややこしいのだが、要は源平の力関係が逆転するぞと言う事だ。
 神様の勝手な辻褄合わせの権力交替予告編に使われた「夢」である。
 奇異譚としての物語の常套手段なのだ。

 個人の夢として見るのなら、血なまぐさい世俗の欲望にまみれたものは勘弁して貰おう。
 仄かに幸せを思う身を包むもので良いのである。

「夢」:僧正遍昭のいい訳

2007年05月01日 | Weblog
 夢に見ゆやと ねぞ過ぎにける
          (良峯 宗貞=僧正遍昭)
 〔いや、もしかしたらあなたに夢の中で逢えるかもと思っていたら、つい寝過ごしてしまいましたんですよ〕

 これは、「拾遺和歌集」にある気の利いた女との遣り取り場面である。

 (女)人心 うしみつ今は たのまじよ
 〔約束したのに貴方は丑三つ時=午前二時になっても来ませんでしたね。人心の薄情さというものがよ~く分かりました。もう今となっては頼みにはしませんわ。〕

 という、女からの誘いの歌に答える形式の、軽妙な洒脱の世界である。

 それにしても、真夜中に人目を忍んで女の所に通って行くってのは、時と場合によってはハラハラドキドキか?!

 深夜、車のライトをそっと点滅させて合図をし、足音を消す為に靴を脱いで家に近づき、そっと空けてくれた戸から恋する女の元に辿り着いた喜びと興奮は如何ばかり…。と思えばそういった感じか。
 情熱の行方は、現実との差異が大きければ大きい程劇的になるのだ。
 ん~、小説にするには想像力が膨らまないのでね。