言葉の旅人

葉🌿を形どって、綾なす色彩に耽溺です。

一昨日の想い出に関して

2016年03月13日 | Weblog
 偶々なのだが、司馬遼太郎「風塵抄」の一文に触れて思い出した先輩なのだ。

 彼のペンネームに「遼」とある。
 なぜ「遼」なのかと尋ねた時に、司馬遼太郎先輩(彼も又、古い先輩に当たる)の一字を拝借したのだと答えたのだ。
 やはり憧れがあるのだと強く感じた。
 司馬先輩が、単に有名であるという事では無く、無駄を省いてスッキリした力強く人を自然に説き伏せ納得させるという、あの文章は憧れられてとうぜんではないか。
 が、しかし、蒙古語科と朝鮮語科、アジアの一隅にある語科同士という感覚は、少数民族感覚と言うには場違いながらも、説明しがたい共通心情が共にあるというものだろう。

 アメリカ公文書館に通い詰めて、朝鮮戦争の発端が人民共和国軍の南進にあると結論づけた“勇気”は讃えられるべき彼の功績と今更に思う。
 教条主義的なあの思想や全体主義的体制は、とても受け入れられるものでは無いが、そこにあって批判的に愛するという彼の姿勢を忘れることは出来ない。
 人として見事と、時に思う。

もう10年も経過!

2016年03月13日 | Weblog
 平成18年に発足して早くも10年目となる統合幕僚監部。
 先日のことのようでもあり、そんなに経ったのかという感じでもあり、この10年という時間的経過感覚は表現しがたい。
 当時、航空隊長だった知人に内容について説明して貰った記憶がある。
 概要や運用についての基本的な知識に過ぎないのだが。それだけに、あ~、そうなんだという程度ではあるけれど記念式典の写真に見入ってしまった。
 副幕僚長も当時は団長職にあり、団本部を訪れた時の記憶も共に脳裏に浮かぶ。

 一に“統合運用機能”に中心がある。その機能を積み重ねた10年。

 2月17日の記念式典に臨んだ河野統幕長の挨拶にあるように、もはや伝統となり、「その積み重ねの上に更なる10年・20年の将来を見据え、…陸海空三自衛隊の運用の最適化に努め自ら先頭に立ち職責を全うする」と言う事なのだ。

北朝鮮と牡丹

2016年03月11日 | Weblog
 北朝鮮に触れたついでに、思い出した事がある。
 「赤旗」の特派員をしていた大学の先輩の話である。
 視察に出ていたジョンイルが大勢の供を連れ歩いていた時のことだ。
 
 ジョンイルは牡丹の花が好きで-何も中国かぶれのもたらした結果では無く単に好みの問題だと思うが-視察先でも丹精込めた花が無理繰りに盛んな華精を発揮して満開状態になっていた。歓迎の意を表さなくてはならないのだから。
 それは良かったのだが、その時に悲劇が起こった。
 あまりにも偶然に、沢山ある花の中で最前列の花がポロリと一つ落ちたのだそうだ。
 哀れなのは牡丹の管理人である。言うまでもなくそのまま刑場の露と消え去ったそうなのだ。

 先輩はしみじみと思い出して語っていた、
 “だから言ったではないか!花を針金で括っておけと!”
という述懐の苦々しさには、北での生活の中で個人的な繋がりがあったことなんだろう人を救えなかった思いが籠もっていたように、私には思えた。

 花一つで人の命が!
 まかり間違うと、国家全体がたった一人のこんな人物の機嫌一つで、そして判断一つで暗黒世界から抜け出せないまま幾世代も送らねばならない。
 我々日本人は、肝に銘ずべきである。

「北朝鮮」と司馬遼太郎「誇り」

2016年03月09日 | Weblog
 核実験強行、そして自称「人工衛星」打ち上げ、先日の短距離ミサイル発射と物騒過ぎる脅迫を以て援助を強請る北朝鮮。朝鮮半島の分断固定化以降、対抗図式は形を変えさえすれ、歴史が止まったままのようで全く変化が無い。
 司馬遼太郎「風塵抄二」の中に“誇り”として、このような文章がある。

(前略)…以上は前提である。
 この世はさまざまである。国によっては、個人の独立尊厳どころか、国家が個人にのしかかり、すべてを国家に奉仕させようという場合もある。
 人民個々が、自分を〝主体的に〟犠牲にすることによって国家が栄養を与え、国家に名誉を得させようという体制である。
 国家の誇りと名誉がふくらめばふくらむほど、そこに溶けた人民個々は、冥冥の内に至福の境地を得る、というあたり、或る種の新興宗教に似ている。

 「どうです、わが国の兵器工業の発展は素晴らしいでしょう」と、ひとびとが子供っぽい誇りで胸が満ちるときこそ人民にとっての至福である。
 そういう場合、案内人は、
「それらの発展は、すべてあの方のおかげなのです」と、大きな銅像を見上げたりする。
 童話風に言えば、その銅像は、千万の子供っぽい誇りを吸い込んで、毎日大きくなり、雲を衝くばかりになっている。

 「ゲンシバクダンを造って飛ばそうではないか」と、もしこの銅像をその後継者が命じたとすれば、国家の子供っぽさが極に達したときにちがいない。むろん、バクダンを飛ばすミサイルも製造される。

 ときに、人々は餓え、国庫にカネも乏しい。しかし誇りは、窮乏に逆比例する。
 貧乏が極に達したときこそ、誇りの表現として、そのバクダンが要る。
 どこに飛ばすかは、問題では無い。飛ばす能力の誇示こそ、目的である。
 子供っぽい誇りが国家としての威厳に転換できるのは、大量殺戮兵器をもつ以外に無い。四方が---東京も---おそれ、ひれ伏すだろうだからである。

 一大事だが、しかしまわりの国々は、はれもののように膨れあがったその〝国家の威厳〟に対して、あまり攻撃的な騒ぎ方をすべきではない。
 静かにおだやかに、練達の心理学者のように相手の理性の場所をさがすしかない。そのうち、時が解決するにちがいない。
 (一九九四<平成六>年四月四日

 既に二昔以上前、碩学一見識としての見方である。「時が解決するに違いない」の時とはどれくらいの時の流れを考えられたのか、今それを伺いのだが。

 キムイルソン-キムジョンイル-キムジョンウン王朝三代が続いた。この系譜に後々、中興の祖と仰がれる人物が現れるには、国家を国民をいかに幸せに導いたかという歴史を持たない以上望むべくも無い。
 人々を不幸せにするためにあるような存在は、決して解決するための時を待っているものではないと思うのだが。