言葉の旅人

葉🌿を形どって、綾なす色彩に耽溺です。

呉紀行.5

2007年09月21日 | Weblog
 初めて訪れる地というのはいつもながら苦手である。
 およそ頭の中にある都市なら都市の景観が浮かぶ。規模の違いくらいがどう見たってせいぜいではないか。
 歴史を背負っている場所ならばその年代に相応しい”何か”が漂っていたりするものなのだ。
 それで、嘗ての軍港であり、叉現在も総監部で艦隊が現実に存在している諸々が脳裏に浮かんでいたのだ。勿論、舞鶴に長々と居たせいもあるのかも知れないが、漠然と想像はしていたのは当然である。
 ところが、はて南北に長い丘陵の谷間のような道を下って行き当たったのはどうにも低層階の建物群がやたらとくすんだ印象なのだ。
 妙な事だな~?と、三叉路に近い意味合いの交差点を右折しろとナビが告げる。
 しかも、まだ目指す目的地の”呉阪急ホテル”には時間的に掛かる様子なのだ。
 交差点付近の住所表示を見ると「広」とある。
 成る程、これが例の秘書君の言ってた団子屋の所在地かと分かったのだが、これでは宿泊先からは随分と距離がある事になるではないか!
 しかも、道は右折してからも想像以上に混雑していて、ノロノロと進む車列に突っ込んだまま従い行くしかない。
 もはや一瞬にして団子屋を訪れる事はあるまいと思ったのも無理はないと自分に言い聞かせていたのである。団子屋の主人の顔が浮かんだ気がしたのだが、これは単なる和菓子屋の主人というふくよかな顔というあやふや以外の何ものでもないのは言うまでもない事なのだが。
 ところで、進む方向の直ぐ前方に大きな山が塞がっている。どうもおかしいぞと思うものの、近辺の様子が目指す呉市内という雰囲気にないのだ。
 後になれば分かりきった事だと納得もするのだが、知らないというのは不思議なもので、脳裏に描きつつある地図のニューロンの枝が見渡す辺りの景色と結びついて形成されていくのを感じているのである。
 これは舞鶴市と同じ事なのかと、瞬間に理解した。
 旧市街地というか、古くからの伝統を持つ西舞鶴・田辺城から五郎が岳のトンネルを越えて中舞鶴から東舞鶴へと向かうのと同じなのかと思った訳である。
 少々は荒っぽい理解の仕方では在っても、軍港の持つ歴史は近代の歩みと同じ伝であって、急遽欧米列強に追い付いていかなければ国家の存立すら危うい侵略ありきの近代史からすれば、敢えて海軍にとっての良港というのは、立地としての成立はこの様な経過を辿るものなのかと腑に落ちた瞬間であった。
 緩やかな坂を上り、大きな口を開けたような余裕を持った広さのトンネルが近づいて来た。

呉紀行・4

2007年09月19日 | Weblog
 参議院公報 第十四号 平成十九年九月六日(木曜日) 参議院

       詔書

 日本国憲法第七条及び国会法第一条によって、平成十九年九月十日に、国会の臨時会を東京に招集する。

 御名御璽

 平成十九年九月六日
            内閣総理大臣  安倍晋三


 巨峰を食べた皮を捨てるのに何気なく使った紙の表にそう書いてある。
 何とも虚しいものが去来するのは、何も食べ終わっても未だ葡萄を食べ足りないという欲心からでない事は言うまでもない。
 国会という機関に於ける総理大臣として彼の最後の公式文書なのだ。

呉紀行・3

2007年09月19日 | Weblog
 山陽道を下る事は幾らでもあった。あちこちで高速道路を降りて北に南に走らせる事も多い。
 しかしながら今回は敢えて避けてきた感じの呉である。
 初の西条ICを降りて、普通に目的地へと南下するという平凡な道のりである。
 降りて直ぐに目にした光景は、予想通り、およそ近代とは関係のない地域であったのが、広々と買い占められたりして野も畑も一斉に地ならしされ、駐車場付きの各種の大型店舗が建ち並んでいこうとする様相であったのだ。
 早めに均一化されていこうとする或る意味で残酷無惨な景色から逃れたいという気持ちも働いて、前方注視のままにひたすら走らせることとなった。
 
 それにしてもこの日本全国何処に行こうと「以前に見た事がある?!どころか、近所に幾らでも転がっているありきたりの景色でしかない」のは、スーパーマーケット郊外店が”大型店舗規制法”というお役人と中小既成商店街店主の一票を期待した代議士や議員が目先の欲にくらみ、既得権益を保持するのみを目的として企んで作った一篇の法律の結果である。
 駅前商店街を復活させようなどと今更叫んでみても、「商い」の世界は、経済活動の原理原則の下で時代を歩んでいくものなのだ。
 変わらないものはないという極く常識的な発想からすれば何という事もない変化なのである。勿論、そういう意味からすればこの光景も次の時代へと変わる時には如何なる事になっているか?楽しみでもあり”怖さ”でもあるのだが。

 とか何とか感想を抱きながらひたすら南なのだ。
 ナビの到着予想時間を見ると、まだまだ随分と有るようなのだ。
 私のいつもの癖で、地図上で勝手に地形や距離を見て一気に行ってしまう感覚が常に付きまとうのだ。
 嘗ての我が儘放題の自由旅は、行くべき土地も決めず、従って目的地無し、宿も当然予約どころか泊まれる当てもなく出掛けてしまっていたのだった。
 旅の最果てが歌謡曲の通りの”竜飛岬”だったこともあるのだ。

 さて開発地域が気の済む程度に離れてくると、道を挟む両脇の光景は普段着姿の何十年も前からの家並みなのだ。
 やれやれホッとしながら走らせていると、携帯電話が尻のポケットでブルブルと震えだした。
 あ~やれやれ!と思った。案の定、謀議員の公設秘書君からである。
 おなじやれやれでも、この場合はあまり居心地の良い気分に為れないやれやれである。
 車を道脇に停め、彼と暫く話をしたあと、自分の居る現在地を述べたところいきなり広本町の団子屋へいけという。
 そう言えば、彼は広島大学出身であった。
 名前からして広島大学というのは、てっきり広島市内にあると思っていたのだがこの道筋の中に在るではないか!
 成る程、知り合いも居てる訳である。
 その通りにキャンパス表示が現れ、如何にも移転してきた風の最近の大学の立地条件を満たしているのであった。独立行政法人化を受けて、経営努力を求められる方向性がこれなのだ。

 あれやこれやと要りもしない情報を提供されて、随分と距離があるものだという感想と共に呉市内に近づいてきたナビ表示を見た。
 もう少しで、呉市に到着と思ったら、前方に予想外の車の多さが目に入った。

呉紀行・2

2007年09月14日 | Weblog
 その上に実を言えば、旅を思った時には久し振りに鹿児島までを考えていたのだ。
 桜島をグルリと縁取るように、錦江湾を一周する所から始まる旅を。
 しかし、嘗ての強行軍で九州を一回りしたような、一気に成し遂げようとする気力や体力がそれ程残っていない事が最近はつくづく感じる。
 そういう消極的な理由が片隅にあるとはいえ、初めての土地という魅力と期待感は旅への思いを加速させる。
 呉とは?という一点に集中という意味である。

 「呉」の読みは「くれ」である。
 言葉にこだわる。
 日本書紀応神天皇37年2月”阿知の使主・都加使主を呉(クレ)に遣(また)す”という記事がある。中国の呉国に使いを出して、縫工女を求めさせた有名な事柄がある。古代は、先進国中国からの文物と技術は必須の事であった事情がよく分かる。
 その「呉・くれ」は、勿論「呉国」で「ご」の国である。訓読みと音読みを区別して考えなければならないが、兎も角も、中国の南方の「呉国」を指して「くれ」と呼んでいたのだ。
 それは、日本から見て遠く西の方角、即ち日が暮れる所に当たるから「くれ」なんだという理屈が成り立つ。ここで”なる程”と感心してしまっては身も蓋もない。
 語源説としては、他に「高麗国」の朝鮮語音「コグリョ」を略した「クリョ」からと言うのもある。大陸の人や文物が朝鮮半島を経由してきたという、歴史的な事実から金沢庄三郎が言い出した説である。
 調べていて馬鹿馬鹿しくなるような説もある。異国から来るという意味からだ、というのだから、こうなると何でも有りの思いつきに過ぎなくなってくるようで可笑しいこと限り無しである。
 だからそうではなしに、地名起源の原則論に立ち返ることから始めるのだ。
 その土地の現場に立って考えるのである。
 「くれ」は、鳥取県「久連」・土佐一本釣りで有名になった「久礼」・福岡県行橋市「呉」・熊本県五木村「久領」がその候補の主な所か。
 複合語としてはまだまだあるのだが、思い出してみても地形上の関連性は現在の時点では確信的に述べる事が出来る状態にはない。残念ながらなのだ。
 只一つ言えるのは、語源説からでは「呉市」に関しては阿知臣伝説以外の直接的な関連性は希薄である事だけである。

 さてさて、話はなかなかに呉市に辿り着けないままである。

呉紀行

2007年09月13日 | Weblog
 「呉」という土地は旅の候補地に浮かんではきても、長い旅の途次にあっては飛び地のように離れた位置にあり、気にはしつつも常に海上のあの辺りの島々付近に在るのだろうと遠望するだけであった。
 広島市から岩国市にかけて海岸を通る時も、見えもしない海上自衛隊の艦船を想像し、訓練中の殆ど白い服装の隊員が群がっている漠然としたものでしかなかった。
 それが、今夏二度の大阪湾上の護衛艦・練習艦に身を置いてみると、嘗て呉鎮守府と呼ばれ、多くの帝国海軍の主要艦船を擁していた土地は是非とも見ておくべきという強迫観念に取り憑かれてしまったように自分を追い込んで仕舞われている自分の気持ちを宥めるべく、旅の目的地と選んでいたのだった。

 呉という地は、後に触れる事になる「音戸ノ瀬戸」の例を引くまでもなく、日本の古代から中世期を経て現在に至るまで日本の交通の要の一つでもあり続けた所である。
 が、鎮守府という語の重みが示すように、本格的なありようを発揮するに至った最初の歴史は、明治19年(1886)の事である。
 この年の5月、広島湾全体の東端に吸い込まれるような形状が、軍事的な意味合いに於いて成る程というよりも、此処しかないような適地として選定されてきた既成の上に「安芸国安芸郡呉港」と正式に定められた事を以て始まったのであった。
 
 話は叉余談にと逸れる事になるのだが、安芸の国の中に於ける「安芸郡」である。国名を郡名とするのはそれなりに特記されるべき事なのである。
 旧国名の中でも名前を負う土地というのはそれなりに重い。
 六国史『三代実録』貞観4年(862)7月の條”安芸國安芸郡、始置主政一員”が初見である。
 この事からすれば、上代にはさしたる重要性は認められないが、この頃には船舶の航行上の都合からして大きな位置を占め始めていたと推察される。
 郡内には安芸郷も存在していた。古代以来「府中」でもあったことからすれば、律令制以前から主たる地ではあるのだろう。弥生時代になってからの遺跡も多く、律令制下官道の整備に伴い内海航路との接点の地という用地の意味を益々確かめていった経過が語られるのだが又の機会に置いておこう。
 
 今回の旅する切っ掛けは述べたが、目的としては更にもう一つ加えられる事があった。それは、潜水艦「いそしお」が神戸の川崎造船で建造されつつあった約3年という期間に、初代艦長として艤装監督の任にもあったY2佐と会う事である。
 艦が完成し、送別の宴の場として京都東の鴨川や高瀬川を飲み下った時以来なのである。
 しかしながら、いつもの悪癖とでもいうべき突然の思いつきに似た旅立ちでもあった。

「夢通う」

2007年09月06日 | Weblog
 互いに見る夢の中で行ったり来たり、自由に通い合うという言葉である。
 離れて居てこそ、このような夢物語が叶わぬ願望として言葉が口を突いて出てくるのだ。

 夢通ふ 道さえ絶えぬ 呉竹の ふしみの里の 雪の下折れ
                  新古今和歌集・冬・藤原有家

 そのせいなのかどうかは分からないが、否定的な表現が多い。
 あくまでも叶わぬ願望なのだ。
 それで良いのではないかと思う。
 現代のように呆気なくも、音声も映像もPCにカメラを取り付けるという工夫さえすれば幾らでも伝える事が出来るのだ。
 必要が有っての事なのだろうが、そのお陰で失ったものがある。
 ”心を養う・魂を育てる”っていうこと。
 自分の心の中で反芻し、考え、時間を掛けて大切なものを育てるという工夫と我慢をしなくても済むようになったのだ。
 一見良い事のように見えるものの、その実、人が人として成長するために失ったものは大きい。