言葉の旅人

葉🌿を形どって、綾なす色彩に耽溺です。

「いくさ」という言葉(5)

2010年03月11日 | Weblog
 直接戦闘は肉弾戦まで行けば凄惨の極みであることは言うまでもないのですが、いつもの例の“弥生時代の戦争”でもそう理解されているような気がしないでもないですね。
 近年には全く見かけなくなったんですが、パプアニューギニアの“儀礼的戦争(私の勝手な命名です)”という形態があります。
 部族間の争いが集団的な戦闘行為に発展し、その後解決するに至る顛末はまさに典型を示しているんですよ。
 ある種のいざこざ争いが殺人事件を引き起こした時に、被害者集団と加害者集団とがぶつかる事になります。しかしながら、そこには巧緻な駆け引きは無いんです。それぞれが示威行為を示しつつ距離を置き、声や動作で勢威を揮わんとします。
 何時戦闘が始まるのかと思っていると、遠くから矢を放ち合いをし始めます。中には威勢良く敵陣に向かって走り出し、槍を投げては走り戻ったりする者が出てきます。
 やがて負傷者が出始め、ついに戦死者が出ます。互いの損害に見合うという納得するところで戦闘は終わります。これで解決とは言えないのでしょうが、集団間にはもう以前のとげとげしく対立する場面は終わりです。
 恐らく初期の集団紛争はこんなのだったと思います。
 ところが、稲作の耕作が鉄器の導入によって益々盛んになり、人的需要増大と共に耕作地の拡大を目指すようになると、支配と被支配のピラミッドは高く大きく複雑になっていきます。
 力関係それだけだと野獣の群と同じじゃないかという話になりますが、そこが人の人たる由縁というか、悲しい性というか、神秘性を持たせる為の仰々しい儀式を伴った例えば「卑弥呼」の出番があるんですよ。
 ヒミコはヒ(日・陽)+ミ(御)+コ(子)というのかどうかという話は別にして、確かに狂気に似た恐ろしげな人物は必要だったでしょう。依代(よりしろ)みたいな中心となる人物は吸引力がありますからね~。
 脱線しすぎました。
 弓の話から始めようとしたのに、パプアを思い出した途端に(笑)。
 艦砲射撃に突撃予備砲撃と、直接戦闘の前に損失を出さない工夫として、出来るだけ遠くから遠くからなんだという知恵の一つが弓射だったと言う事ですね。
 距離を置いた原始的な攻撃武器としては他に石投げや投げ槍がありますが、一番効果が有ったんでしょうね。
 槍の殺傷効果が最も発揮される距離はおよそ15メートルと考えられますから。槍は攻撃よりも防御兵器と考えられますしね。長ければ長い程良かったのは木下藤吉郎で実証されてますから(^_^)。