この地は又、小浜市内でも紹介した例の「鯖街道」に於いても重要な所でもある。
若狭湾岸一帯が、海産物を朝廷に貢進する為にあるような地域である。特に平安京時代以降については急速な人口増に供給する魚介物をほぼ一手に引き受けていたかのような印象すら有る。
”京は遠ても十八里”と言う言葉に端的に表されるように、決して近くはないが無理な距離ではない。そのような位置関係にあったことが、「みやこ」の文化が古京の平城京時代から連綿と流れ込んできた結果を生んだのである。
良弁(ろうべん)上人にせよ、坂上田村麻呂にせよ、如何にも大陸文化の流れがこの地に根付いていることが証明されているのはこの位置にある地域性のなせる業なのである。
湾岸全ての集落からは当に網の目のように「京」に向かって張り巡らされている中でも、中心地の小浜からの直線的な距離の短さから、籠一つを背負ってこの鵜の瀬を通り、根来(*「ねごり」だそうだ)から急坂をよじ登るかのような針畑峠越えをして出町柳へ降りたのである。
今に伝える”グジの塩焼き””若狭鰈”も、全て一塩した後の塩味が染み込んだ美味さは生活上の知恵と時の結晶なのである。
鵜の瀬はそういう遠敷川の静かな流れに沿いつつ、重い籠を背負って毎日のように多くの人々が踏みしめた道なのでもある。
若狭湾岸一帯が、海産物を朝廷に貢進する為にあるような地域である。特に平安京時代以降については急速な人口増に供給する魚介物をほぼ一手に引き受けていたかのような印象すら有る。
”京は遠ても十八里”と言う言葉に端的に表されるように、決して近くはないが無理な距離ではない。そのような位置関係にあったことが、「みやこ」の文化が古京の平城京時代から連綿と流れ込んできた結果を生んだのである。
良弁(ろうべん)上人にせよ、坂上田村麻呂にせよ、如何にも大陸文化の流れがこの地に根付いていることが証明されているのはこの位置にある地域性のなせる業なのである。
湾岸全ての集落からは当に網の目のように「京」に向かって張り巡らされている中でも、中心地の小浜からの直線的な距離の短さから、籠一つを背負ってこの鵜の瀬を通り、根来(*「ねごり」だそうだ)から急坂をよじ登るかのような針畑峠越えをして出町柳へ降りたのである。
今に伝える”グジの塩焼き””若狭鰈”も、全て一塩した後の塩味が染み込んだ美味さは生活上の知恵と時の結晶なのである。
鵜の瀬はそういう遠敷川の静かな流れに沿いつつ、重い籠を背負って毎日のように多くの人々が踏みしめた道なのでもある。