言葉の旅人

葉🌿を形どって、綾なす色彩に耽溺です。

鵜の瀬(4)-若狭

2006年11月30日 | Weblog
 この地は又、小浜市内でも紹介した例の「鯖街道」に於いても重要な所でもある。
 若狭湾岸一帯が、海産物を朝廷に貢進する為にあるような地域である。特に平安京時代以降については急速な人口増に供給する魚介物をほぼ一手に引き受けていたかのような印象すら有る。
 ”京は遠ても十八里”と言う言葉に端的に表されるように、決して近くはないが無理な距離ではない。そのような位置関係にあったことが、「みやこ」の文化が古京の平城京時代から連綿と流れ込んできた結果を生んだのである。
 良弁(ろうべん)上人にせよ、坂上田村麻呂にせよ、如何にも大陸文化の流れがこの地に根付いていることが証明されているのはこの位置にある地域性のなせる業なのである。
 湾岸全ての集落からは当に網の目のように「京」に向かって張り巡らされている中でも、中心地の小浜からの直線的な距離の短さから、籠一つを背負ってこの鵜の瀬を通り、根来(*「ねごり」だそうだ)から急坂をよじ登るかのような針畑峠越えをして出町柳へ降りたのである。
 今に伝える”グジの塩焼き””若狭鰈”も、全て一塩した後の塩味が染み込んだ美味さは生活上の知恵と時の結晶なのである。
 鵜の瀬はそういう遠敷川の静かな流れに沿いつつ、重い籠を背負って毎日のように多くの人々が踏みしめた道なのでもある。

鵜の瀬(3)-若狭

2006年11月29日 | Weblog
 細流ながらも名に負う遠敷川の右岸にはこれまた立派な資料館が建っている。
 これも誇らしい宝物の意義を証明していると言っていいだろう。
 そこにずっと人待ち顔に立っている一人の老人が居る。
 実は、資料館の管理を任されている人なのだが、いやに愛想が良い。
 僅かにお水送り行事を和紙で製作した模型やガラスケース入りの行者の像しかない。
 そんな資料館の中でも説明をしてくれるのだ。
 ”お水送りの時にわな。儂がその水を川に流す役なんじゃ。”と如何にも誇らしい様子で言う。
 ”東大寺のお水取りには、僧正の隣に座るんじゃ。”と、こうである。
 何故にかと思ったら、どうやら東大寺の初代の管長職に就いた「良弁」はここの川辺から鷲に掠われて東大寺の若狭井に落とされたと言うことなのだが、その良弁さんの住んでた家にこの老人が今も住まいしている事がかくも尊大な言辞に現れている根拠であるらしいのだ。
 儚いながらも人の誇りの拠り所とはそんな事柄から成り立っているのだろう。
 役行者の履き物は朴歯が一本だが、この白石明神の神様は二本歯であるという事で、否定したりと頻りに特殊性を強調するのだが、像の製作年代からしてもそれには意味がない。立派に役行者なのだ。しかも来歴は詳らかではない。
 白石ということからも分かるように、細流も時に流れ下る大水によってもたらされた岩の事を指し示す以外の名称でもない。
 昔から有る、いわゆる巨石信仰の一種なのである。

鵜の瀬(2)-若狭

2006年11月29日 | Weblog
 神宮寺から少し遡るにしても、かつてはひどく細い道で写真に見るような整備されたところではなかった。
 道どころか、ここ鵜の瀬の川岸も、大石を組み合わせて大勢の人が来ても大丈夫な場所になっている。
 何せ、年一度の大行事「お水送り」が行われるのだから。
 若狭では全国に喧伝される輝ける宝の様な存在なのである。
 奈良の旧都でも、冬の行事「若草の山焼き」に続いて行われる「お水取り」は全国区的なのだから、それに先立つこの行事は随分と重い位置を占めるわけだ。
 

若狭-鵜の瀬

2006年11月27日 | Weblog
 小浜の数ある古寺の中でも、この二つを見れば”行った。見た。”と言っても良い代表的な寺院として、「明通寺」「神宮寺」がある。
 前者は美しく整った三層の塔が深い木立に囲まれて建っている。初めて見たときには国宝だとは知らなかったが、知って”成る程”という印象は残る。そんなスッキリとした寺だ。
 坂上田村麻呂創建の寺と言うが、実のところずっと疑問に思ってはいる。
 その事は別として、古寺の中でも仏像群は多く有り、天平文化の雰囲気が随分と濃密な事は間違いない。空気すらその濃さのために、鼻の奥がツンと来るような気さえするのである。
 門前の松永川は北へと流れ、下流域で小山一つを越えた西にある遠敷川と合流する。
 その東西対象のような形を取ってあるのが、宮寺である。
 その名前の由来からして分かるように、この寺そのものは本来は神仏混淆・本地垂迹の典型なのである。そうであるが故にこそ、今に繋がる歴史を保有し続ける存在であるのだ。
 若狭一宮として尊崇を受けてきた「若狭彦」「若狭姫」二社が、「宮」の対象であった事は言うまでもないだろう。
 神社の来歴は夫婦石の存在からしておよそ予想が付くだろうが、親しまれるべき理由ではある。そんな佇まいは又、微笑ましくもある。
 神宮寺は重要文化財の木造本堂と金剛力士像を安置した仁王門を”二つ目の看板”とする。
 第一の看板は何かというと、年に一度は必ずテレビで目にするという、季節の移ろい風物詩の中でも筆頭の「お水送り」の場所ということである。
 遠敷郡の中の遠敷川ということからしても、存在の意味は大きい。
 そこから川を遡って暫く行くと鵜の瀬である。

若狭-小浜(6)

2006年11月25日 | Weblog
 小浜の街の様子が元気なく変わってしまって、些か残念な気分を抱いたままに海岸通りに出た。
 アンデルセン並みに工夫した人魚像がある。
 現在では、通用しそうもない”八百比丘尼”を例えてあるのだが、今の時代にこれでは如何にも古い。
 伝説を知ることもなく、単に海に臨んで地中海風の景色だと思い込もうとしても案外にいけるのではないかと、余計な売り込みを考えたりもした。
 砂浜も港側の部分との棲み分けが出来るようになっており、活気を取り戻すのにもさほどの苦労は要らないのではないかという恵まれた環境にはあるのだ。
 しかし、役所というのは余計な予算や暇な時間があるらしく、「カジノ計画」まで策定して、市民に提案しているのだ。
 発想の貧弱さと軽薄さに呆れてしまうのだが、官の主導というものには碌なものがない見本のようなものである。
 

若狭-小浜(5)

2006年11月24日 | Weblog
 若狭小浜を長きに渡り実効支配した酒井氏について、余談ながら話を続ける。
 酒井氏がそもそも、最古参の譜代大名たる由縁は松平親氏という共通の祖先を持つことに端を発している。
 親氏が坂井五郎衛門娘婿から松平太郎左右衛門の養子となったが、それぞれに子をなしたのが両家の発端である。
 酒井氏と称し、早くも三代目に左右衛門尉氏忠と雅楽頭家忠に大きく二系統に別れて伝えられることとなった。
 雅楽頭酒井氏五代目政親の庶子で三男の忠利が武蔵の国川越に分家した後、子の忠勝が三代目将軍家光の側近として元和6年(1620)仕え始めたのが累進の切っ掛けとなった。二年後早くも、武州深谷城一万石を領し大名の席に連なり、続く9年に家光が三代目将軍に就任するや、幕政運営上の中心人物として存分に能力を発揮しては加増に次ぐ加増の結果、十一万三千五百石を以て若狭小浜の領主となったのである。
 職分としては、寛永元年(1624)老中となり、ついには十五年大老職(当時に於ける名称は「御家老」と呼ばれていたそうだが)に上り詰めた。
 大老という職は、大変にご大層なものであって、史上実質たったの九人しか任命されていない特別職であった。
 当初は、長年の勤めに対しねぎらいの意味が込められていたらしく、江戸城中に於いて将軍家光直々に”毎日の登城には及ばず、ゆるゆると出仕して、訊ねるときに相談に乗ってくれればそれでよい”とされたらしく、又”予の前にても堅苦しく居住まいを正さずとも、膝を崩して安座せよ。頭巾も被ったままでよい。”という破格の扱いを受けることにまで及んだことは、これ以降の大老職が日常業務に就くを免除され、重大事や非常事態の決定事項の相談に専念する役職として位置づけられたことが決定した瞬間でもあった。
 寛文2年(1662)七十六歳で没して、江戸の牛込の長安寺に葬られたが、大正十三年になって、小浜の空印寺に改葬されたのが今に残る墓所である。
 

若狭-小浜(4)

2006年11月23日 | Weblog
 小浜の平野部を東に望み、最初に城と言うほどのものが築かれたのは後瀬(のちせ)山で、南北に連なる峰峰を繋いだ山城であった。西から攻められることの懼れがないという要害で典型的な中世期の城であったようである。
 それが徳川氏の天下に帰趨すること確実になった慶長6年(1601)に、京極高次が北川と南川の合流して砂州を為すところである雲浜(うんぴん)に平城を築城したものが、そのまま江戸期を通じての城下を形成する基準となった。城の東に家臣団の屋敷町、西に町人の町や寺社は今に残る町の形である。
 城の主は、寛永11年(1634)に酒井忠勝(さかいただかつ)に変わり、酒井氏の支配が続いたが、築城と普請による漁民・農民の凄惨な苦労と明治維新時の慌てふためく顛末は後日触れて見ようとは思っている。
 百姓過酷(ひゃくせいかこく)と言うのは時代変われども、何時の世も犠牲を多数の民にもたらすという点では変わりないものである。
 

若狭-小浜(3)

2006年11月22日 | Weblog
 冊子「御食国(みけつく)」(2003若狭路博小浜市実行委員会発行)というのがある。
 古代より天皇家に、塩を中心とした海の幸の供給したことを誇りとする表題である。膳氏(かしわでし)という天皇直属の食事を世話する職掌を受け持っていた氏族の国造(くにのみやつこ)就任をみるに因る命名であるらしい。
 律令制下に国衙領として歴史上に現れ、国府が置かれ、と同時に国分寺及び国分尼寺が設けられたという華々しい来歴を持つ。
 やがては、中世期まで徴税の基本単位としての「名(みょう)」として、別の名「今富(いまとみ)名」で呼ばれることとなった。
 口分田(くぶんでん)、墾田(こんでん)等の所有者の名を冠して付けられる名前が登場したのであるが、あくまでも徴税組織として把握されていた事に変わりはない。
 「今」と付くのは、その時点での「最近・新参」の意味なので、新しい富をもたらす所と捉えられていた事は如何にも分かり易くていい。
 支配と被支配の関係でしかない直接的な表れである。
 時代が下って、荘園制下に於いても「今富荘」として、遠敷郡冨田郷を中心に、志万・東・西郷の四郡、東に山を越えて三方郡三方郷、西に大飯郡青郷を合わせて五十五町余の田地が営まれていた。
 中世期に至った時の領主として登場するのは、稲庭時定から若狭氏で、建久七年(1196)の出来事である。
 寛喜元年(1229)北条氏得宗と変わり、戦国期に至るまで一貫して守護領であり続けたのだが、内裏の供御料所としての役割も順調に果たしていたらしい室町時代の記録が残されてもいる。
 これらを以て、今に続く「御食国」の意識が有るに違いない。

 写真は、メノウ店隣にある「米太食堂」である。
 まったく久し振りに寄った。
 小柄ながらいそいそキビキビとした身のこなしの奥さんは、小浜に嫁いできて五十年になると言う。
 孫かと思われる青年が丁寧に食卓を拭いて廻っている。
 実はこの食堂は、僕が初めて「下ろし大根辛味そば」を食べた記念の店なのだ。
 口に含んで暫くは口がきけない辛味の驚きは忘れられない。山葵、胡椒とか唐辛子辛いのとは違って、口中舌下を雷が落ちるが如き衝撃が走る。
 以来、武生、鯖江、大野と蕎麦を食べるときはこの辛味蕎麦一本で通している。
 そういう事から考えると、辛味蕎麦を食べる事が出来る最西端の店という事になるのではないか?舞鶴には無い。高浜でも見かけない。断定しよう、ここで果てるのである!

若狭-小浜(2)

2006年11月21日 | Weblog
 それにしても、古くから続く城下町というものが持っている筈の、気品と凛とした街のたたずまいが、単に人気(ひとけ)の無い田舎町に過ぎないような雰囲気が漂い始めているようにみえる。
 人の通りが少ないと言うだけの話であれば、それはそれで静かなしっとりとした奥行きというものに感じもするのだろうが、城下町特有の香りがいか程か薄れてしまっているようなのだ。
 小浜という町の魅力を近々数十年の時が数百年の過去の遺産を激しい勢いで消し去ってきた結果である。
 前の写真は「森下めのう店」、今回のは「若狭塗り箸屋」を写したものだが、半世紀以上を遙かに超えてもそのままの姿を見せてくれている。
 入り口の構えも、飾りケースも、入ったところの上がり框も全く変わっていない。
 それは伝統を受け継いできた誇りというものを感じさせてくれていた。
 その何も変わらない同じ姿なのに、辺りの空気が違っている。
 訪れる客はそんなには居ないだろうという囁きが聞こえてくるようなのだ。 
 小浜が生んだ歴史上に知られている人物としては、良弁上人・伴信友・杉田玄白・幾松・梅田雲浜・山川登美子が代表格だろう。
 江戸時代の殆どの時期を支配した酒井家も挙げなければならないだろうが、今に通用するものではないだろう。
 この地を訪れる人は皆が一様に、港先端に出来た観光用の魚市場へ行き、定食を食べ、土産を買い込めばそれで終わりらしい。
 市街地とは切り離されて、何処にでもある買い出しツアーの対象の場所にしか過ぎない。
 嘗て、小鯛雀寿司が売りで五~六軒の店を構えていた寿司屋も消え去り、彼方此方で竹串に刺さった名物の焼き鯖も商店街に一軒を残して姿を消した。
 中央角には、つばき回廊なるショッピングセンターが聳えているが、そこでも人を集めきらず閉鎖した階が目立つ。
 しかも、その隣にあった町並みが無くなり更地のままの地面を見せている。
 時の重みを持った風は去ってしまったままになるのだろうか?

若狭の國紀行-小浜(おばま)

2006年11月20日 | Weblog
 倭名抄にある遠敷郡(おにゅうぐん)である。
 古来、若狭の國の中心部であり続けた。
 それは一に天然の良港であるに加えて、熊川の宿を越えて琵琶湖畔に出るという、何よりも都に近くに位置するという幸運に恵まれた事が挙げられる。
 いにしえの「塩」を贄(にえ)として貢を負わなければならないという事情が、現在の特産品の代表と言うべき「塩鯖」を生むことにもなった。
 お陰で、「鯖街道」などという生々しい名前の割りには、趣のある響きを感じさせる道も生じた。
 現在でも「鯖街道」という言葉は生きてはいるものの、先程の熊川から近江今津に出る山一つ手前、「朽木(くつき)」の谷を京の北東へと導く行程を主な道筋とするのではあるが、それは大回りに過ぎていて、実際には網の目を思わせる様々な道筋を通っていたのである。
 その様子の一端を知る資料も多く見られる。
 更に、若狭と京を隔てる山々に生えているのは今もブナである。
 ブナの木の原生林を行く道の傾斜は厳しくもあるが、日常的な往来に随分と整備されてもいたらしく、広葉樹特有のカラリと明るい道は随分と救いでもあったのではなかろうかと想像される。
 それぞれの事柄については、小浜市街地の中心部にあるいづみ町商店街に設けられた「鯖街道資料館」でも知ることが出来るので、駅通りを歩き、市内散策兼ねて是非とも立ち寄られることをお奨めする。
 

若狭の國紀行-大島半島

2006年11月19日 | Weblog
 東西におよそ3~4㎞もある深い青戸入江の口に当たる本郷と犬見を結んで大きな橋が渡されている。
 和田・安土から大島半島の南岸を行く道は、橋の付け根の手前まで細々ながらも続くが、急激な山に気圧されて恐ろしくて通った事はない。
 敢えて通る必要性がない、単なる入江を挟む道に過ぎないこともあるが如何にも魅力に欠けるのだ。
 この「本郷」は「本+郷」で、「青郷」が「青+郷」であるのと同じである。
 つまりは、ここがこの辺りの「本(もと)」なのだと宣言している場所である。
 が、その割りには、人家が小さく固まって居るのみである。
 若狭三郡の内の一つ大飯郡の名を受け継いで大飯町の中心を自負はしているのだろう。
 釣り渡船があり、チヌの筏釣りでは名は知られている。
 これもかなり以前の話だが、夜明け直前を待って筏まで数回渡ったことがある。
 粘度の団子を握る手で茶色く染まった手を思い出す。
 今も、さほど変わらず渡船屋は健在であった。

 いつもながら立派な橋を渡って東海岸を北上し、脇今安集落の上に位置する中腹に在るのが「大飯原子力発電所」である。
 ここにも電力会社に付き物とも言えるPR館がある。
 嘗て原子力発電所内を見学することが出来たのだが、9.11以降は防止策を取っていて、一般への開放はしていないという。
 変わらぬPR展示の中身ながらも、地元対策の一環とも言う地元小学校児童の書いた説明書き等もあって工夫はしている様子ではあった。
 それにしても、一日に何人来るのか分からない喫茶コーナーに三人、案内係の女性も三人と、如何にも採算が取れそうもない人員には恐れ入った。
 地元雇用対策なのだろう。
 これが、電気代金に跳ね返ってくることを考えると、どうにも複雑な思いが湧いてくる。
 と言いつつ、エネルギーについては資源の無い国家に生まれついた為に、近代以降の日本の歩みが密接に絡んでくる事には明快な自分なりの答えを見いだせないのも現実である。

青戸入江-若狭の国紀行

2006年11月17日 | Weblog
 備忘録というか、想い出の記にも心して書く必要がありそうだ。
 ニューカレドニア日記には予想を超える読者があり、数ヶ月で一気に萬の位を突破してしまった。
 正直なところ、恐れをなして削除して引っ越してきたのだ。
 だから、メモのつもりでそろそろと書き始めたのが、この若狭の国紀行なのである。
 読んで回想してくれている”しょうちゃん”を読者として認識しているから居心地が良くもあり、整合性無しでボチボチと綴ることが出来る。
 何を言いたいのかというと、思い浮かべることを、知っていることを、新に知ったことを、昔と変わってしまっていることを、気の向くままに書いておこうという魂胆に過ぎないと承知して欲しいだけなのだ。では、続けよう…

 若狭國とは、青葉山山頂の僅かに西側にある「鎌倉」集落を丹後の国と接する最西端として始まり、東は敦賀半島の脊梁でほぼ二分する西半分を以て終わる。
 旧郡名としては、三方郡・遠敷郡・大飯郡の三郡なのだが、北陸道の一国として畿内に至る日本の玄関口としての役割を果たしてきている。
 これからは、歴史も含めながらも、青春時代のほろ苦・ほろ艶の記憶を悟られることなく、さらりと述べる。
 廃藩置県は明治4年(1871)のことである。
 江戸期を通じて、老中酒井家の知行地の一つ小浜藩としてあったのが、小浜県とてなった。早くもその年の内に、隣接する鯖江県を合わせて敦賀県となったのだが、そのままで滋賀県に編入され、歴史的な結びつきからしたら妥当な思いはあるのだが、明治14年になって又しても石川県から分離した越前南部の7郡と共に福井県という現在の県域が確定した次第である。
 明治初期という時代の慌ただしさなのだろう。県域の定着の一事でも窺い知ることが出来るではないか。
 お陰で、天気予報では福井県は苓北・嶺南の区別があるが、福井県設置の最後の顛末を物語っているようで如何にも面白い。
 若狭一国は、つまりは西から東へと南の山塊をグルリと丹後・丹波・近江・越前に囲まれている日本海に面した細長い國なのである。
 手持ちの資料としては、「倭名抄(元和三年古活字版)」というか細い物しかないので、詳細を知りたくなれば調べにも行こうと考えている。
 何となく、堅苦しくなりかけているようだ。オタクになりかけているかもしれない。要するに、若狭湾に面する場所なのだ、は粗すぎるだろうが。

 「青戸+入江」と言うのは分かる。青戸の入江なのだ。
 「青+戸」は、「青」への戸口だ。つまり以前に信号の所で触れた「青=粟生」という地域へと向かう口という意味になる。
 ようやく、小浜湾の西の端「青戸」集落を通過するのだが、ここから若狭本郷集落に至るまでの幅数百㍍の入江は南半分というか、一帯が埋め立てられてしまって、道の駅だか何だかやたらとコンクリートの建物ばかりの殺風景な場所となりはててしまった。
 嘗て、数両連結の列車の走るのと競うように海際を撫でていたのが、全く様相を変えてしまっていた。
 もはや、何の眺望もない。それこそ青い波の立つべくもないような静かな入江は大島半島際に残っているだけに過ぎないだろうというのは推測でしかない。
 

 

安土-若狭紀行

2006年11月16日 | Weblog
 この大島半島付け根の部分は一続きの集落のようになってはいるのだが、高浜地区が海岸線を延々と海の幸による風情を感じさせるのに比べて、細い通りを挟んで東に行くと途端に何やら普通の住宅地を思わせる家並みとなっている。
 その如何にも細い道の東側集落を「安土」という。
 そう、「安土(あづち)」なのだ。
 織田信長の築いた近江の國にあった安土城の「安土」なのだ。
 この地名の由来の確認には、長い年月と、大変な労力とが掛かっている。
 実は、その「安土」の本家本元のような安土町に於いても、何故「あづち」という土地の名が付いたのかが理解解明されていなかったのだ。
 言ってみれば、何とも簡単過ぎることなのだ。
 が、弓矢の発達と大いに関係があるといえば、不思議な事と思われるだろう。
 だから、物事の解明は面白いのだ。その意外性と成る程と納得する感覚が一番の醍醐味なのだから。
 で、最初の内は、幾ら安土城跡の周辺をウロウロしても理解できなかった。
 最近の整備事業なんて未だ何も行われていなかったし、天守閣跡に上る道も藪に覆われていて、謂わば登山のような気分であったのだから。
 しかしながら、継続は力なのである。何でも諦めずコツコツと努力をしよう等と教訓を垂れたくなるほどの根気が成果を結ぶ日がやって来た。
 というか、切っ掛けと資料が手に入ったのである。しかも、全くの偶然に。
 大日本帝国陸地測量部発行の明治25年則図同33年製版「八幡町」が手に入ったのだ。
 日本の地形図の図式変遷史は、13年式(フランス式)→18年式(ドイツ式)を経て、陸地測量部が発足し→28年式→33年式→42年式と進んだという。
 言ってみれば、5万分の1の最古の地図と考えて貰っていいだろう。
 嬉しくて、舐めるように眺め回したのだが、地図の丁度真ん中上に琵琶湖の内湖
に突き出すように安土山が有るではないか!
 嘗ての安土城は南を除いて湖に囲まれていたのが地図上で確認されたのである。
 大手門も大手筋も南面に有るわけだし、城全体を眺めるのも南面からなのだ。
 そこで、よくよく山形を眺めてみると、或る特徴を持っていることに気がつく。
 今ではもっとハッキリと分かるようになっている。
 やはり、台形をしているのだ。
 何故やはりなのかというと、「あづち」と言う言葉は、元は「(編)あむ(土)つち」と言い、矢を射る的が据え付けられてある後ろに盛ってある台形の土の部分を指す言葉であったのだ。
 だから、弓道・弓術が日常的に鍛錬訓練する場が設けられ、それによって作られたという技術的・時代的背景を必要としたのである。
 そして、「あづち」という物が生じて、台形を指して「あづちがた」と言うようになったのだ。
 しかし、この地以外にも存在しないことには弱いのだ。
 傍証の例としての証拠が要る為もあり、彼方此方へと走り回ったのである。
 山形県温海町、長野県松本市、岐阜県春日村、島根県太田市(*異字)、愛媛県三瓶町、長崎県大島村(的山)、そしてこの福井県高浜町と、それなりにあることはあるのである。
 おかげで、大いに疲れることもあったのだが、兎も角今回、お見せする次第である。
 漁港海面の上にある山を安土山公園という。
 その山様の突き出た形の輪郭をなぞってみて欲しい。
 この写真ではやや右に振ってはいるのだが、大島半島の山塊がこの部分を以て尽きている。右手辺りから見れば、ハッキリとと示すことが出来たのだろうが、正確に見るには、人家が有って難しい。
 写真に撮れなかったのは残念だが、確認は出来るであろう。 
 こういった苦労も分かってみると、本当に嬉しいものなのだ。



和田-若狭紀行

2006年11月15日 | Weblog
 「和田(わだ)」という地名は如何にも多い。
 河川が蛇行して、流れが緩やかになっているところ、湖沼や海がグッと湾入している岸辺などには付きものの地名と言っていい。
 若狭和田というのも、まさにその地である。
 高浜の海では唯一の漁港ともなって居るのも当然である。
 ただ、ここをか細い付け根とするかのように、大島半島が辛うじてくっついている。
 この半島の名を「大島」と言うように、嘗ては島であったことが分かる。
 「高浜」という程の量の砂が、海流と北からの厳しい風によって、あたかも寄せるべき格好の場所として堆積したのであろう。
 漁港岸壁の手前の海浜公園は随分と整備されていて、のんびりと釣り糸を垂れている人も風景の中に溶け込んでいる。
 しかも、最高の景観として、真西に青葉山が見事な麗姿を見せてくれてもいる。
 一昨日掲載した写真の中央に見るとおりである。

高浜和田-若狭紀行

2006年11月14日 | Weblog
 「言葉の始まり」と言っても、「始めに言葉ありき」という聖書にあるような事ではない。
 物や在り方や観念やらを人が人類としての歩みを始めてから、「言葉の発達と変遷」もあるが、多様な展開を見せ始めたことを含めて、言葉とは何だろうという原点を考え始めると止まらなくなった時期があった。
 といっても、現在は速度は落ちても止まっては居ないようだ。
 「高浜」だって、何故高浜というのだろう?くらいは言わなくても既に考えたことはある。当たり前ではないかなんて言っても尊大ではないだろうかな。
 その段階からもっと溯って、「浜(はま)」って何?となると、かなり時間も手間暇が掛かるのだ。
 辞書を見たって、定義としての”海や湖の、水際に沿った平地”しか無い。
 辞書は、現状の有り様を言うのが役目なのだから。
 問題は、常に語の始まりなのだ。
 語源と言うやつだ。
 端海(はあま)・端網場(へあみば)・踏むと足がハマルから(*これ本気なの?)・土地と海辺との端間(はま)・辺間(へま)と説が山と有る。
 笑ってしまうのだが、それでも了とするものが無い訳ではない。
 が、一向に胸の内にストンと晴れて了解はしない。
 一語に拘って考えるべきではなく、この高浜とか小浜や砂浜、砂利浜という範囲や、「磯」・「渚」も含めて「場」のあり方から考えるべき物なのだと思う。
 そうは言っても、「はま」を中心とする語の群は大量だ。
 殆どが、既に「はま」が「浜」という前提であるから、成り立ちについての参考になる物は見つからない。
 僅かに「蛤(はまぐり)」が、砂の浅い海底部にある「くり」が浜の有り様を言う事が分かる程度である。
 「くり」とは土木用語でも言うところの「くり石」と同じ岩石のことである。
 だから、「浜」とは砂地で有ることがそもそもの起こりであるとは推定できる。
 
 「和田(わだ)」に触れる前に草臥れてしまった。
 次回に回すことにしよう。