言葉の旅人

葉🌿を形どって、綾なす色彩に耽溺です。

いくさ(16)軍団編成

2010年04月28日 | Weblog
 さて、話しは古代軍制の話しになってしまったようだ。
 で、今回は漢字「毅」の説明だった。「大毅・小毅」といった軍毅は、軍団における最上官なのだ。
 ところがである、防衛省が防衛庁だった頃の悲哀にも似た気がしないでもないが、今で言う師団長か連隊長階級であるにもかかわらず、その社会的な位置付けは、律令制の位階でいえば六位以下の散位・有勲位者でしかないのだ。
 大宝律令・養老律令の軍防令に依れば、軍毅は所謂「庶人」の中での武芸に秀でた者を任命する規定となっている。
 位階での差は、五位以上を「貴族」とする。それ以下の階級者は幾ら足掻こうとも越える事の出来ない厳然たる壁に阻まれているのである。
 唐律に由来する「毅」の立場は理解出来る次第である。
 またまた逸れていきそうだ。戻そう。

 部首“ル又”の“ル”+“又”は、それぞれ「矛」と「手」の意味である。何だか、以前に述べた「兵」の漢字の組成と同じ組み合わせになっているようだが、この場合は動詞を表す記号符として機能している。
 とすると、「豙(キ・ギ)」部分が意味の主たる部分を表す事になる。では、その正体はとなると、何と豚がたてがみを振り立てて居る様を表すのだ。
 そりゃ荒荒しくあるが、親しみが湧かない訳ではない程度の動物である。カミソリ並みの牙も恐ろしいが、突進してきて体当たりされたら堪らない。そんな振る舞いをするという文字である。
 そこから「強い、押しが強い、力強く立っている、ひとたび決心したら他の何者にも邪魔をされない」という意味を持つ。猪武者・猪突猛進などの言葉はお馴染みであるが、余り高貴な気味はない。
 そうは言っても、N一佐やT一佐は気品も有ってとてもこの「毅」のイメージからは遠い(^_^)。ですな。

 「尉」は次回に。

いくさ(15)軍団編成

2010年04月19日 | Weblog
 思い付きのような軍事・編成に関わる言葉だけれど、始めた限りは切りの良いところまでやらないと、止められない義務感のようなものがある。
 
 前回は、兵(1人)→伍(5人)→火(10人)。
 中国の律令に倣って制定された大宝律令・養老律令の「軍防令」によれば、次の大きい単位は「隊」である。この長は隊長と行きたいのだが、そうではなくて「隊正」という。5の火を集めて50人の長である。
 この隊正二つを合わせて、「帥」がありこの長を「旅帥」という。つまり100人編成。
 「師」の漢字から始めたような気がするが、似ていてややこしい「帥」なのだ。元帥なんて階級があったから余計に混同しそうになる。
 どちらの漢字も部首は同じ。集団や小高い丘の意味である。すると、「巾」は?これは布である。タダの布ではなくて、旗を意味する布なのだ。
 旗印を掲げて部隊を率いる事を意味するのだ。だから、元帥は最高の将官の位を意味してたのは分かるが、古代では100人の長である。近代に出世したという事になる。
 率先と同じ意味の言葉に帥先がある。帥は先頭切って張り切らなくてはいけないのだ、本来は。椅子に座ってふんぞり返るのでは無いはずなのだが。“ひきいる”がそもそもの原義であるのだから、現在の「帥」相当の諸君は忘れないで居て欲しいものである。

 おっと、軍団編成の基準の説明をするべきだった。
 律令によれば、古代の軍団はおよそ1,000名を一軍団として編成された。小さい地域では600名編成もあった。
 その軍団を率いる長を「軍毅」と言う。1,000人編成の軍団の場合は、長を「大毅(1名)」と言い、その補佐役の次官を「少毅(定員2名)」と言う。但し、小さな軍団の場合は少毅が軍団が統率する。
 その下に、「校尉(定員5名)」が居る。これは200人の長である。
 これが古代の兵制に於ける全てである。
 大毅→少毅→校尉→旅帥→隊正→火長→伍長なのだ。事務官として「主帳(1~2名)」も居た。
 毅と尉の漢字説明は次回に!

いくさ(14)

2010年04月14日 | Weblog
 さすがに疲れたのは足らしい。
 朝の五時に出発した。吉野山上市橋渡ったところの指定駐車場に到着したが、早くも列を為してバスを待っている人達が居る。
 中千本行きと下千本行きの二通りのバス便がある。要するにバスを下車した後は登るか下るかなのだ。
 我々は、一直線に上るだけの「下」行きを選んで乗車したが、多くの人は「中」行きを待っている。中と下の間は坂と言える程のものではないのに、多くの人達は下るだけの楽さを選択するらしい。
 但し、上千本はつづら折れの坂を辿れば良しとして、奥千本に行くなら、「中」で下車後再び限られた本数のバスを延々と待たなければならないだけの話である。

 桜の木々群の並木が始まるという下千本に到着してみると、開花状況は未だ満開状態と聞いていたのだが、既に花弁は無く赤い萼を残し葉を開きかけているものも多く見かけた。
 それでも、どちらにせよ花見気分として大雑把に眺めれば、如何にも全山桜色に包まれているという情景に変わりはなく見える。
 蔵王堂を経て道を進むと、道の反対からこちらに向けて何だか騒がしい群が見える。TVカメラが見えたので、単なる花見の中継をしているのかと思ったら旅番組の放送だった。ラッシャーが喋りまくりながら歩いてくるのだ。テンションを高めたままでず~っと話し詰めである。これは或る意味では最前線で生き死にの緊張感を保つのに似て大変だと思った。どの職業も仕事中は大変なのは同じなのだが、楽しかるべき旅も「見せる」となればチットも本人は楽しくないに違いない。
 と、余計なお世話だと思いながらも私もミーハーよろしくその光景を写真に収めて居たのだからね~。TVカメラに向かってピースなんて気分は全く無いけれど、やや非日常の出来事というのは面白いものである事は間違いない。
 と言うところへ、自衛官募集のチラシ撒き手伝いの催促が来たので出掛けます。

いくさ(13)行軍

2010年04月09日 | Weblog
 明日は朝早くから起きて吉野へと出掛ける。引き続き花見である。
 T航空隊長は去年午前六時に官舎を出たら人は疎らだったと言うのを聞いたものだから、今年も出掛けるというのだ。お陰で、出不精な私も行かなくてはならなくなった。計算上、こちらは午前五時よりも以前に出発しなければならないではないか!とすると起床時間は?強行軍である。しかも昼前に帰ってきたら、直ぐさま飲み会に変ずる事は間違いなし。 

 で、ふとこの「行軍」は一体いつから使われるようになったのか?と疑問が湧いてきた。 「日本国語大辞典」をみてみると、令義解の用例が掲載されてある。
 もっと以前にはどうなのかと思ったが、念の為に「律令」を開いて調べてみたら、「軍防令第十七の六」に“行軍之日、計火出給。(行軍の日には、火を計えて出し給えへ。)”とあった。しかしこれは、「ぎょうぐん」と読み、軍団兵の動員のことである。「火(くゎ)」は前回に説明した十名の単位である。
 義解の用例も“行軍之所録事以上也>叙勲、定簿”。軍隊を進めること。軍隊を一定地域へ行進、出征させること。
 確実な現在の用法使用は明治かららしい。江戸時代末、洋式フランス式軍隊教練を導入した時にとは思うのだが、如何せん資料を集めて等という時間は無い。

いくさ(12)

2010年04月08日 | Weblog
 先週の土曜日は黄檗駅から数十秒の距離にある「関西補給処」一般開放だった。毎年の花見の最適日を見計らって行われる。
 それに合わせて実施する私の「会」も花見会を開催した。毎年の事ながらも思い出す事は多い。又しても一年過ぎたのかと訪れた春にも感慨が脳裏を去来する。

 鹿児島の12普通科連隊の花見一般公開は一週間早かった。南に位置する分だけはやはり春の訪れは早い。
 というところへ、阪神基地の副長だったK1佐から大湊に異動したというお知らせが届いた。海上訓練指導隊司令に着任したのだそうだ。
 これは又春のやって来る日がチョットばかり遅いに違いない。竜飛岬のビュービュー吹く風を思い出してしまった。想像するだけでブルブルッと身震いがきそうである。イヤイヤ、国の防衛を担う大切な役目である。花見に浮かれている私とは違って、キリリと身を引き締めて任務に励んで居られるのだ。
 それにしても立ち寄ってご苦労様って慰問に行くには実に遠い。マグロ目当てに行くという動機が強烈に湧いてくれば別の話なのだがと、脇道の理由を探してしまう仕業となる。

 言葉の話である。
 「兵」が五人集まれば「伍」となる。「五」は上下の横棒の間に「×」が挟まった形である。「十」を指折り数える時の折り返し地点にあたる意味で、指事文字なのである。「隊伍を組む」と言う言葉のそれである。少数単位集団である。まとめ役は伍長というのだが、現在の自衛隊にはない。但し、確か「先任伍長会」(?)の看板を呉総監部で見かけた。今で言う「士長」にあたるんでしたっけ?
 軍隊編成の最小単位としての五人組であった。伍長は下士官の最下位の位置づけだ。
 律令制以来の伝統的な位置づけでもある。
 律令では、次の単位を「火」と言う。
 十人の単位である。何故「火」なのかというと、野営する時、食事を考えてみよう。先ず火をおこす。その単位なのだ。同じ釜の飯を食うか、同じ火を囲む一群である。その長を「火長」という。

 目まぐるしく天候が変わる。今日はスッキリとした晴れ。未だ花見は可能である。が、中性脂肪数値が高いのをことさら取り上げて通院を強要するS女医のお陰で今日は通院日である。あ~ぁ!

いくさ(11)

2010年04月07日 | Weblog
 「つわもの」という言葉に「「軍」と「兵」それぞれの漢字が当てはめられる、という話(5)は既にした。
 斧を両手で持った形が「兵」であると言う事も述べた。それはまさに、最前線で直接戦闘を行う生々しい漢字の成り立ちを表している。武器を手に持って、並べ合わせて敵に向かう兵隊なのである。
 この兵を扱う役所を古代「兵部省」と言った。中国では隋の時代以降も長官を「兵部尚書」、次官を「兵部侍郎」、定員外の属官を「兵部員外郎」などと言い、「国防省」・「防衛省」という単体とした国家を意識した呼称ではなかったのは当然と言えば当然なのかも知れないのだが。
 律令の時代を待つまでもなく、大小それぞれの首長は自分の支配地域に於ける徴兵権を持ち、戦争を起こす時には自前の武器を持参させて戦にあたったのである。
 集落というか国というかは別にして、支配的地位にある者が権力にモノを言わせて兵を組織したのであって、組成員自体の自発的意志で集まったものでは決してない。
 擬似的な自発的様相を示すのは極々最近の事と考えなければならない。
 「国」を守るのだという意識を「愛国心」というとすれば、これは一方的な押しつけであってはならない事は言うまでもない。あくまでも外部からの圧力や攻撃を受けるかといった危機感を感じるかという自体の中で醸成される筈のものなのだと考える。
 気を付けるべきは愛国が偏狭な民族主義に先鋭化する「愚」をおかしてはならない事である。排他的な民族主義は独善的な専制下への道でもある。
 では、この思想的な危険性を除去しつつ、日本という国家を安定的に保つ為にはどうすれば良いのだろうか。
 その一つの考え方として、常に言うのだが“市民革命”なのだ。と言っても、嘗ての近代化を形成する過程でのそれではない。似ているというか、その核心の部分は「我々の手で!!」という事なのだ。
 この社会とこの郷土たる国土を危機から守り救う当事者は我々自身なのではではないかと言う事なのだ。
 その意識は植え付けられるものではなく、学び獲得して国民的合意の上に成立したものだという前提なのである。
 なにも徴兵制を敷いて国民皆兵などと言う時代錯誤に落ち込む必要はない。永世中立という理念も時としてあり得るのだが、スイスに於いてそれを可能にしてきたのも定期的な兵役義務があってこそなのだ。
 そう言う意味で、現在の日本に於いても退役自衛官の「即応予備自衛官」は勿論の事、「予備自衛官補」集団の確立と拡充と質的充実は時代の要請でもあると思うのだが、これを過激というのだろうか?

 

いくさ(10)

2010年04月01日 | Weblog
 先日の日曜日に実施したヘリコプター搭乗体験の疲れがなかなか取れない。私は乗った訳ではないのだから幾分損をしたような気味がないでもない。何事でもそうなのだが、人を引率して無事に終えるまでは、こういった性格ではあっても随分と気の張る事なのだ。

 ましてや、フライト毎の乗り降りを見守って居るだけというのは、機影が消えてから着陸までの時間が長い。
 搭乗してきた人達は嬉々として口を揃えて“あっと言う間でした!”と言うのだが、こちらはそれどころではない。引き連れてきた責任のような気分がずっと続くのだ。
 解散して初めてヤレヤレと安堵する迄は、正直なところずっしりと体重が増えたような生理的にも重い感じがするのだ。
 
 早朝から確認をして、3台に分乗した車輌を途中の時間調整の為のMacでの待ち合わせを含めて旅行社のガイドでもしているのとちっとも変わらないではないか!

 明後日は補給処での一般公開に合わせて花見会を開催する。
 今回は参加者が少なそうなので準備も要らず、悠々散策の心持ちで、行き当たりばったりでも良いかと思っている。
 翌日の「入隊式」は今年も列席を見送った。施設団の団長・群長が僅かでも気を使って下さるのが申し訳ないというのも理由の一つである。

 さて、師・旅・隊と述べてきて、団・群の編成がある上は漢字の組成について述べなければならないようだ。入隊式という“枕”を振ったのもこれはこれで一工夫というものなのだ(^_^)。

 「団」は、旧字体「團」である。真ん中の「専」は人類が繊維を編もうとし始めた時に“縒り”があれば強くなる事に気がついた。その為に、日本の歴史で言えば縄文の時代に、紡錘車という物を発明した。丸い石を紐で吊し、クルクルと回して糸を縒り揚げていくのだ。その形である。それを囲む形から“丸い”という意味を持つ。団子なのだ。軍隊で言えば連隊のようなモノとされている。実際はもうチョット大きい組織であるのだが。
 「群」は一目見て理解するように「羊」が丸くまとまって群れを為す事である。部首部分は「口」音符(イン)である。

 左足の具合が悪くて歩む一歩一歩が足の存在を訴えかける。序での機会と飛び込んだ外科でMRIを撮るという。先程、明日の昼予約が取れたという電話があった。生きるとは身体をなだめつつと言う事なのだ。