言葉の旅人

葉🌿を形どって、綾なす色彩に耽溺です。

博物館-展示物

2006年12月29日 | Weblog
  いわゆる飛び道具。
  距離を保って、獲物を狙い、敵を倒し等の工夫は人類の不可欠の武器。
 防具も武器の一種なのだが、何せ植物性のものなので腐敗して遺物としては殆ど残らないのが残念である。
 絵に描いた方が分かり易いのだが、なかなかに込み入った技術である。

 さて、今から旅に出る。続きは、年明けに。
 良い、お年をお迎え恵下さい。

博物館

2006年12月29日 | Weblog
 展示物でも最近興味を引くのは、古代の武器だ。
 是もある意味では、生活に欠かすことが出来ないものだからだ。
 常に技術の最先端をいくものであるという意味でも凄いことなのである。

縄文博物館2

2006年12月28日 | Weblog
 縄文と言いながらもこれは古墳時代になるがな?と思いつつも、遺物は何でもかんでも展示しておけば賑やかで良いのだろうと勝手に解釈して、一般の見物で済ますことにした。
 全てを縄文遺物で充たすには足りないだろうって事は、以前の資料館時代の内容から推測して分かっていたつもりだったからね。

三方五湖-地元売店

2006年12月27日 | Weblog
 ここで思いっきり「梅酒漬け」残りの梅を大量に買った。
 先程の、レストランで添えられてあった梅肉がとても美味しかったからだ。
 帰宅後、鍋に入れて沢山な料の砂糖をドバッと入れて煮込んだ。
 ふっくらと仕上がってツヤツヤした光沢を見せて、今は瓶詰めのエメラルドが卓上に鎮座している格好である。

三方五湖-食事(2)

2006年12月26日 | Weblog
 開店するや否やの如くに押しかけて席に座った。それだけに早い時間帯過ぎて暫くは他に客は居ない。店内をウロウロ見学して廻って水槽の魚の種類まで教えて貰ったりとゆっくり楽しめた。
 景色は水辺特有の雰囲気で結構と言うべきだろうし、先程のドライブコースを山の稜線に辿れる眺めも良い。

三方五湖レストラン

2006年12月26日 | Weblog
 ダチョウのお肉。
 随分と昔には話題になったけれど、口にしたことはなかった。
 レストランもあって、何時でも行けたのだけれどそんな気にはならなかった。
 わざわざが向いていたりいなかったりの性向が祟っているのだろう。

鳥浜貝塚

2006年12月20日 | Weblog
 若狭で一級の有名なところと言えばこの貝塚に及ぶものはない。
 小さな資料館が一つあって、あの貴重な発掘資料を展示していたのだ。
 それだけでは観光資源にもならずに居たために、縄文人なるどでかいポール状の人形を立てたりして滑稽な場所になっていたのだ。
 それが、近くに半地下風の古墳を思わす一風変わった博物館が出来ていた。
 名前は長い。「縄文ロマンパーク若狭三方縄文博物館」。
 道の駅風の「縄文プラザ」という結構なレストランも丸太作りで湖畔に出来ているのだ。眺めはよいし、ダチョウのカツやステーキなるものまで出て来る変わり種だ。
 思わず、珈琲まで飲んでゆっくりしすぎてしまった位だ。

三方五湖・梅丈岳

2006年12月19日 | Weblog
 クネクネと曲がりつつ、高度を上げてくるにつれ同じ海の景色も違って見えてくる。
 思わず、何度も車を止めてしまい海を眺める羽目になるのだけれど、それでもやはり頂まで来ると360度の眺望は格別に違っていて言葉を失う。
 感じていた、墨絵の感覚が色彩を帯びつつも錦を銀を加えて、屏風絵のような展望を見せてくれるのだ。
 かつては、出身の歌手五木ひろしの歌がやかましく響いていたのが無くなり、公園自体もスッキリと整備されていて散策するのにも垢抜けしたではないかと感心した。
 ま、中国の古楽器の鐘群や愛の鍵などは我慢の範囲かも知れない。かわらけ投げの値段もチト高いんじゃないと思うのもその範囲内だろう。
 晴れた日で風もない穏やかな日本海と五湖という南北に違った水面の容貌を見せる。 こんな景観は他所には無い。
 地図上では北に伸びる半島も、眺望としては柔らかすぎてベタッと垂れている五段重ね草餅状に拡がっている。

三方五湖-若狭

2006年12月14日 | Weblog
 海と湖とを交互に見るようなドライブウェーの頂上「梅丈岳」からの眺望はいつ来ても良い。
 まだ日が昇りきって間がないために、東の海が黄金色に輝いている。
 時間の経過と共に、湖の色もやがて鈍い銀色に拡がり始め、南に控えている山々も薄く白い靄を被って墨絵のような重厚感を与え始める。
 目を北に転じると、澄んだ青い青いどこまでも青い日本海が広げた両の手一杯に!
 う~ん美しいと、月並みな感想が湧き上がるが充分に満足する。
 

「三方」は「三潟」

2006年12月11日 | Weblog
 海岸、湖岸、河川などのおよそ水辺に関しては、多くの潟(かた)が存在していた。
 今や、潟はおろか浜も磯も無くなって人は水の風景から遠ざけられて久しい。
 そういう意味では、瀬戸内海よりも日本海側を行く時は心和む。
 山人間よりも海人間なのだろう。海を一日見ていても飽きることがない。
 関門の海を見ていて、何日過ごしたことか!

 現在、三方五湖というように「湖」の数は五つある。
 ところが、縄文時代には一番海に面している「久々子湖」は大きく海に開口していたのだ。更に、細長い平野部一帯は湿地帯でその大部分は水没していたのだった。
 「管湖」「水月湖」「三方湖」の中心部を占めている部分は島でもあった。
 すると如何に勘定するかという事からすると、人と海とを生活の場を提供する役割からすれば、潟が注目される。
 と言うことから推測すれば、おそらくこの地域を称して三つの潟を言ったのではないか。「方」は「潟」なのだ。
 縄文時代の代表的な遺跡である「鳥浜遺跡」はそういった環境の典型的な姿を今に残してくれている貴重な遺跡なのだが、幸いにも泥質の土中に埋もれてたお陰で現代の我々にその様相を明らかにしてくれているのである。

三方郡-若狭

2006年12月10日 | Weblog
 三方というと、三方五湖。
 これから若狭三郡の東端に至ろうとするときになって、初めて「若狭(わかさ)」は何故、わかさなのか?という話に及んでみよう。
 と言っても、論を展開するのではない。
 大抵の大地名は元々は小地名に発するものである。
 小地名といえども固有名詞。
 固有名詞と言えどもこれも元々は普通名詞から発する。
 伝説は先ずは小話程度の面白さを持つが、何の関係も縁由も持たないものである。
 ところで、若狭は普通名詞の候補は見つからない。
 30~40年前頃は、例の神宮寺の住職が、雑誌に朝鮮語論を披露して主張していたのを思い出す程度だ。
 朝鮮語の「ODA」は「来る」という意味。その連用形は「O+A=WA」。
 同じく、「行く」は「KA」。連用形の修辞形として「SO」。
 全部を合わせると、「WAKASO」で、「わかそ」が「わかさ」になったという、大陸や朝鮮半島との交流があったことを踏まえての論である。
 だけど、「来て行って」が往来した事実として地名になるものじゃないのだが。
 古来若狭と言った事実があるのみである。
 旧国名は多くは”3音”よりなる。恐らくは「2+1」だろうというのが多い。
 難しいことは止めておこう。

熊川(4)-若狭

2006年12月07日 | Weblog
 ぼんやり見詰める景色は、描かれ終わった絵画のように動きはない。
 高い空を流れる雲だけが一人急いでいるのみである。

 どれだけ時間が経ったろうか、まどろんではいないままに断絶した意識を覚ますかのように柔らかい金属音がする。
 何かと思って縁側から下を覗いてみると、染みるような赤いセーターを着た女が庭先に積もった雪をかいている様子が目に入った。
 雪かきなどしたことがない都会生活をしていると、こんな事でも珍しく見える。
 その気儘な衝動に又しても小突かれたようだ。ゴム長靴を借りて、僕も手伝うことにした。
 見よう見まねで幅広のショベルを使い、力任せに方形に切っては斜面下へと放り投げるのだが、力の入れ具合が違うのだろう、やがて頭にツンと来る痛みが走ってだらしなくも動けなくなってしまった。
 知らず、汗もかいていて、このままでは風邪を引く羽目に為りかねない。それに何時の間にやら一人きりで懸命になっていた自分がおかしくもあり、妙な済まない気分を庭先に残して部屋に戻った。
 身体を動かしたことで、サッパリした気分が湧いてきたらしく、又旅の続きをするべく身支度をし、宿の勘定を払うために階下に降り立ち声を掛けた。
 ハイという返事と共に、短い丈の暖簾をくぐって出て来た女将さんをみて、宿の様子に関心が行っていた上に、夜の闇と電灯との明暗でしか輪郭が分からなかった事に気がついた。
 和服を普段着として着なれている風なキッチリとした姿勢の良さを感じる。ハキハキした受け答えの声にも弾みがあり、いかにも働き盛りの気を表していた。
 そういえば朝方、小学校に登校する女の子の声が玄関先でしていたのを思い出した。それも二人いたようだ。そんな年齢なのだろう。
 
 さて山を下りるにしても、来たときにはタクシーを利用したので地理が頭に浮かばない。朝の光景からして東に開いた渓谷を遡ってきたのは分かる。途中、小さな橋を渡って直ぐを右折した光景もタクシーのライトの照らす方向と共に思い出した。そこから道が急に細くなり、暫く走って到着したという時間の経過も大体分かる。
 そういう思案顔を見て取ったのだろう、川を下った所の街道筋に出るとバス停があるという。
 そこまで教えてくれてから、思い出したかのように、あなたさんが泊まったお部屋は水上勉さんが暫く滞在されたお部屋なんですよと言う。

熊川-若狭

2006年12月06日 | Weblog
 旅館というものが持つ雰囲気というのは、女将さんとか女中さんなりとの遣り取とりの軽い緊張感が付きまとうこともその中に含まれるらしい。
 トントンと軽く階段を上がってくる音に、今まで見ていた景色が急に普通の風景となってしまった。意外なものを見た興奮が落ち着きへと時間が過ぎた経ったのである。そんな時間の経過を時に感じさせられる節目を持つのがホテルとは違うのだとこの時も思った。
 襖の向こうから声がした。朝食が出来て、階下の食堂に用意してあると。
 階下の細長い部屋には小さなテーブルが幾つかあり、夏の盛りの時期にはそれなりに人が沢山やってきて賑わうのだそうだ。
 そんな話を聞きながら、何の変哲もない谷川に沿った宿にそんなにもやって来るのだろうと不思議に思った。
 訊いてみると、未だこの奥にも集落があるがのだそうだ。
 その途中の川筋が別れていて、一方には瀁鱒場がありイワナ・虹鱒を育てていると聞いて行ってみたくなったのだから確かにそれなりの客は来るのも理解できた。
 
 階下は居宅を兼ねているのか、朝食の匂いには生活の匂いも混ざって漂っている。
 ふと雑多な匂いに混ざる御線香の匂いは、如何にも旅館の古い羅歴を物語っているようだ。建物は渓谷の南斜面下に位置しているのも裏庭の蔭から分かる。
 隙間から入り込んでくる冷気に、藪に代表される山の空気まで感じられるのだ。
 
 漬け物の感触を口中に残した程度の簡単な朝食を済ませてみると、何だか一切の行事が終わったような気抜けがしてしまった。
 食べ終わった旨の声を掛けて、部屋に戻た。
 とは言え、特にするべき事は何もないまま仰向けに転がって手枕をして、すっかり日が昇ってしまった風景を胸に吸い込むように眺めていた。