Ryo徒然なるままに

日々の暮らしを徒然なるままにつづる。
何でもありの日記のようなもの・・・

暑くても大晦日(初アップ版)

2005年12月31日 | ギニア
2005年12月31日(土)

いよいよ大晦日です。
朝は結構涼しいのですが、昼が暑いのでなんとも大晦日っていう実感はありません
(半袖でいるとじりじり日焼けします、こんな大晦日ってないでしょ?)

今日は村で学校関係者にお金やノートなどの贈呈です

やはり、チンパンジーの研究や保護、森林保全に最も必要なのは地元の理解と協力です。
そのためには、長期レンジかも知れませんが、教育はもちろん不可欠。
そのためには、学校が必要なのです。

昨年までは、研究所に学校関係者がばらばらと訪ねてきて、
「お金下さい」
という感じで、KUPRIから寄付していたらしいのですが、
着服などの疑惑があり(村中で噂になっているということなので黒に近いグレーかと・・・)、
不平不満が村で出ているとのことで、
牛田先生の判断で、公衆の面前で手渡すという方法に・・・

ここら辺り(この国?)では(世界中かも知れませんが特に)、いかに楽してお金を得るかということを強く考えるようで、
日本人が来ているとなると、それはまた・・・金づるですから。
実は、毎晩のように「金をくれ」と言うことで研究所に人が訪ねてきます。
実にいろいろな理由をつけては、金を欲しいと言ってくるのです。
公共的なことから個人的なこと・・・様々です。
また、信じられないくらい遠くからもやってきています。
(お金をもらっても往復したらマイナスが出るんじゃないかというひともざらにいます
「時は金なり」という概念はここでは通用しません

贈呈式が終わると、LOLA(ローラ)という町に買い出しに。
そこで昼食も。
怪しげな牛肉とタマネギを鉄板で炒めただけのものを買ってBarに持ち込んでBeerを飲みながらつまみます。
写真のようなお店で買い付けます。
必ずしも清潔とはいえないテーブルの上で肉を切り、
鉄板の上で焼きます。
鉄板にはたくさんの穴が開いていて、
半分直火、半分鉄板焼きというような状態にしているようです。
焦げ付かないように、肉の上からボロ布のようなものしみ込ませた油をたらしていきます。
何の油を使っているかは全くの不明。
店で使用しているお皿は、バケツに貯めた水で洗っているため、
日本人の我々がそのお皿に盛られたものを食べるのはきわめて危険
あきらかに、バケツの水は濁っていましたから・・・
焼き上がった肉は、ビニール袋に入れてもらって、
その炒め物を手でつまんで食ます。まさにつまみ食いって感じです

前にも書いたかも知れませんが、ここの町では冷えたビールが飲めるんですよね。幸せ・・・

でその後は、プロフェッサーはお金のChange(英語ではExchangeになるのでしょうね・・・)をする必要があるので、ある建物の中に消えていきました。

ここでは最高額の紙幣が5000FG(ギニアフラン)。
1USD(米ドル)ちょっとです。
ちなみに、ビールが2400FG程度なので、日本のビールの値段を考えると、
日本の貨幣で言うと50円くらいのものが最高額の紙幣です。
(それでも、ボッソウでは一日働いて5000FGくらいですから・・・)
したがって、両替するとどえらい束になるんです。
(日本円でもちょっとした金額が動いているので・・・)
そんな両替を公衆の面前でやっちゃうと危ないですからね

先生が消えていったすきに、KUPRIの方がお土産用にと、頭の上に荷物を載せたマッチョなアフリカ人をモチーフにした土嚢袋を買いました。
1枚2500FGだというので、「2枚買うから4000FGにしてくれ」っていうのに
(ここじゃ、値切りというか交渉は当たり前ですから・・・)
「それじゃぁ、2枚だったら5000FGだ」だって・・・いくら言ってもまけてくれない
「仕方ないから、それでいいよ」
っていってお金を支払うまでのちょっとした間に、僕たちの周りには人人人人・・・・

「お~、日本人がなんか買っとるぞ~。見に行くべ、見に行くべ。」
ってな感じで暇な人たちが寄ってくるんです。
暇な人たちが多すぎる、この国は・・・

夕食は、赤飯(タイ米ですが)とおすましで一足早い正月気分をと・・・(日本を感じておかないと正月って気がしないから)。

その後、プロフェッサーとまた、ローラの町に出かけました。
実は、偉い人には会っておかないといけないということで、
偉い人がいるローラで新年を迎えるパーティーに招待されているようなのです。
ボッソウの村長夫妻とIREB所長とプロフェッサーと僕。
(先生一人って言うのはちょっと、ということで僕も行くことになったんです)
5人を載せて、ジムニー(こっちではサムライという名前になっている)が舗装されていない道を1時間近く走っていきます

僕は、タイヤの張り出しの真上に乗った状態で、
堅い堅い鉄板の上に座っているような状態。
しかも、舗装されていない道や舗装されていても穴だらけの鬼のような道ばかり。
これは、修行のようなものです・・・

なんとか生きてローラにたどり着くと、郊外で別荘地のような趣のある場所に立派な別荘のような建物が現れます。
その建物のEnteranceにソファーがコの字型に並べられています。
その手前には、テラスがあって、スペースが設けられ、
その周辺にいすが置かれています。
どうやら、迎賓がソファーに座って、その他の人たちはテラス周辺のいすに座るようです。
大きなスピーカーからは信じられないような大音量で音楽が流れています。
(音が割れている・・・)
(この国では でかい=偉い って感じらしいです。ラジカセなんかでもでかい方が高級。
でかい電池がたくさんはいる方がエライんだそうです・・・文化の違いだぁ)

どうやら、ダンスで新年を迎えるようなのです
飲む→ダンス→飲む→ダンス→・・・って感じです。
(イスラム教の人も結構いるのでジュースっていう人も多い)

12時になった瞬間は、偉い人に人だかりです。
偉い人から握手してもらっていく、というのが習慣(というか売り込みに近い)のようです。
僕たちも迎賓として座っていたのでたくさん人と握手(欧米式のエアーキッスをするやつね・・・)しました。
(そのくせ、僕は作業ズボンという出で立ちでしたが・・・)

そのパーティーも途中退席し、また修行のようにしてボッソウへ。

実は、最高に偉い人がコナクリからやってくる予定だったらしいのですが、
夜中1時の時点でンゼレコレという町に到着したという案内が・・・
その町からは1時間弱くらいかかるのです。
待ってられないので、逃げるようにして、退席したのです=3=3

ボッソウにたどり着くとそこでも村のはずれの青年会館とかいうところで、同じように音楽ならしてダンスしています。
会館の外に席が設けられていて、ビールを出してくれたので、ビールを1本ご馳走になって、
その後は、またダンス
(ダンス苦手なのに・・・)

ここは電力不足で暗くて(あえて暗くしているのか)、踊っている相手(もちろん女の子です)の顔もよく見えない。
後から聞くと十代の女の子たちばかり・・・
夜遅くまで若者が騒ぐのは日本と同じようです。
男たちは20代もいたようですが・・・

ここも途中退席して、何とか研究所にたどり着いたら午前の3時。
アフリカの年末年始も疲れますね・・・
体がもちませんよ

その後はもちろん深い眠りへついたのは言うまでもないです

日本語だけの生活到来初日の出来事(初アップ版)

2005年12月30日 | ギニア
2005年12月30日(金)

今日の朝はKIMの旅立ちです

ついにこれで研究所の中には日本語が母国語の人だけになりました。
(やっぱり、会話が日本語って言うのはずいぶん楽です。べらべらしゃべっていたわけではありませんが、聞いているだけでも大変疲れます・・・。語学がもっとできればと感じたものです・・・

朝早いにもかかわらず(6時頃)、KIMの置きみやげが目的の人や見送りの人たちがたくさん来ていました。
どちらかといえば、純粋に見送りに来ていた人の方が少なかったように思えます・・・

かなり、KUPRIはここの村の人々に大きな存在で、生活の一部になり、
何かしらアテにしているんだなぁとつくづく感じる情景でした。

KIMを見送った後はいつも通り、GreenCorridorで一日を過ごしました。
しかし、天気はいつもと違います。
いつもは9時頃には霧がかかっていて見えない山々が今日は見えます
昼過ぎからは風が出てきて、蒸し暑さを感じません。
湿度は、昼過ぎから20%前後になっています。
これまでは昼でも30%以上はあったのに、これから完全な乾季になるということなのか・・・

疲れて、帰ると研究所から締め出しを食らっていました。
(ここの鍵は持っているのですが、内側からの閉め方によっては鍵があっても開かないという困った代物なのです。)

京都大学がこの地ボッソウでチンパンジーの研究を始めて30年になるそうです。その30年前からチンパンジーのガイドをしていた方が亡くなったとのことで葬式があったらしいのです。

夕方おそくになって、ようやく葬式に参列していた研究所の人たちが帰ってきました。
汗もかいていたのですが、夕方の気温が下がってきているような・・・
水浴びにはすこし寒いような・・・

お話ししたでしょうか?
ここの生活では、電気が基本的にはありません。
(大きな発電機を入れて、施設全体が通電できるように作られているのですが、発電機が壊されて動かないのです。修理屋を頼んだら、更に壊されたとのこと・・・部品も調達が困難ですし、技術屋がいないのです
その電気を頼りに、水道を引いてきます。
つまり、裏庭に研究所用の水道塔があり、そこにモーターポンプで井戸水をポンプアップして、蛇口をひねれば水が出るという風になっているのです。
トイレも同じようにして、水洗になっているのですが・・・
電気がないので、水道は止まっています。
温水器も電気で動くようになっていると思われ、しかも水道が機能していないのでシャワーも出るはずもなく・・・
となると、井戸水をキコキコくみ上げてバケツに水をためて、その水を浴びて体を清めるほかない、ということなのです。

案の定、夕方になってからの水浴びは寒かったです・・・


ちなみに、今日の夕食はチャーハンでした。
こんなにチャーハンってありがたい食べ物だったのか・・・と思ってしまうここの生活って一体・・・


写真は、研究所裏庭の井戸と水道塔です。
毎日、ここで水浴びしてました。
夜にはここはホタルも飛ぶんですよ~結構きれいだったなぁ・・・

言葉の壁(初アップ版)

2005年12月29日 | ギニア
2005年12月29日(木)

GreenCorridorでマルチが不十分な区画があったので、手直ししに出かけました。
(マルチとは、地面に何らかのカバーをすることがあるのです。雑草が生えてくるのを防いだり、乾燥を防いだり・・・様々な目的で農業でも行われている手法です)

「マルチは絶対にしてね」
って言っていたのですが、
ここの人って、徹底して仕事ができないようなのです・・・
片道歩いて1時間ちょっと。
いつもはCorridor道を歩いていくのですが、
今日はNionという村を経由してCorridorへ・・・。
かつて植栽された場所などをゆっくり観ながら現場へ向かいました。

結構大きくなっている木々があるんだなぁ、という印象です。
これまではほとんど成果が出ていないというようなお話を伺っていたので、意外な感じでした。

現場に到着すると、おばさんたちが3人草刈りをしています。
こっちはこっちで仕事があるので、もくもくと仕事をしています。
(話しかけるにも、フランス語はムリ・・・

すると、おばちゃんたちは遠目にじ~っとこっちをみています。
「怖いんですけど・・・」
っていうくらいこっちを観ます。

そうそう、日本だと
「あんまりジロジロ人のことみちゃいけません
っていう教育を受けると思うのですが、
こっちはそういう教育は皆無のようです。
そういえば、子供たちも穴が開くくらい
「じ~~~~」
ってみるもん・・・

で、おばさんたちもそんな様子で、
遠目にこっちを見る(というより観る)→草を刈る→遠目にこっちを観る→草を刈る→・・・
しばらくこれを繰り返して、こっちに近づいてきます。

「えなになに・・・

そして、「○△※●※▲・・・・」と何を言っているのかよく分からないのですが話しかけてきます。
「え?」
って顔をしていると
「チッ」って顔をします。
「フランス語解らん(一応フランス語で言いました)」って言ったら、
「チッ」って顔を再び。

(怖いんですけど・・・

そのくせ、一生懸命話しかけてきます。
「○△※●※▲ビラージュ・・・・」
かろうじてビラージュという言葉だけ聞き取れます。「村?」セリンバラ村の人でしょうか・・・
「セリンバラ?」って聞くと、うんうんと頷いています。
「おぉ、分かる・・・」
書いてもらった解るかも、と思って
「書いて(これもフランス語で)」
っていうと
「できない」って・・・

そうです、基本的に学校教育というものがつい最近までなかったこの辺りでは字が書けない人が多いのです。
うかつでした・・・
一人だけかろうじてかける人がいたのですが、何を書いているのか読みにくい・・・
辞書を引き引き、「これ?」「これ?」って単語をみせながら確認します。
すると「ここは村への近道ではありません」とかいう文章に・・・
意味解らん・・・

その後も一生懸命話しかけてくるおばさんたち。
どうやら
「GreenCorridorで働いているのよ」
ってなことを言っているようです。
そして「ここで最後だ」とか「ここで最後なのか?」とかいうことを言っているようです。
いずれにしても、一番セリンバラという村に近い現場だったので、
(おばさんたちはセリンバラ村の人たちらしいのです)
「ウイウイ」ってとりあえず・・・
それで納得したおばさんたちは仕事に戻って、しばらくすると帰って行きました。

その後も僕は頑張って残って仕事をしていたのですが、15時には水が尽きて、体力も尽きて帰ることに。
フラフラと歩いて帰ったら16時半です。喉は渇くは、暑いわでクタクタ。
さすがに、
「ハーモニカでも・・・
という気分にもなれず・・・

そして、今晩は外国人の共同研究者キムが最後の夜だということで、夕食はIREBの所長を招待して牛田シェフのお料理でおもてなし。
ステーキとポトフという晩餐でした。
相変わらず、素晴らしい料理でした・・・

再びマルシェ(初アップ版)

2005年12月28日 | ギニア
2005年12月28日(水)

今日は例によってマルシェの日なのでお休みです。
朝もゆっくりとしていました
実に、久しぶりに朝寝坊です。
これまでは、作業があったり、それなりに周辺に気を遣っていたりで、
朝ゆっくり眠ることはできませんでしたから・・・
幸せな気分ですね、朝寝坊って・・・

昼からマルシェに出かけて、昼食も村で済ませました。
ご飯の上に何かしらかかっている食べ物です。
(日本で言うとカレーが一番近いかなぁ・・・)
この国の主食は日本と同じようにお米です。
そのご飯に何かをかけて食べる、それが超スタンダードなのです。
それ以外の料理があるのか?
と聞かれても分からないくらいスタンダードなのです。
それを村で調達して、Barでビール飲みながら食べました。
昼からビールっていい身分でしょ
でも、ここにいると飲むくらいしか娯楽というか楽しみがないのですよ

ちゃんと味付けされた食べ物で、少し文化の味を感じました。
(ここの人の料理って、ただただHotなだけで味が付いていない、ってことがままあるんです)
付け合わせに(オプション)、
魚のフライやロコ(スペイン語でクレイジーって意味らしい)といってバナナを揚げたものを牛田先生たちが買ってきてくれました。
どちらも、結構なお味でした。
一人当たり、1ドル弱の昼食でした・・・
(ビールは別ですが・・・)
この前のネズミは更に高価だったことを考えると(間でぼったくられている可能性は否定できませんが)、理不尽な気がしました

ちなみに、夕食はパスタでした。
きわめて文化的な食事でしょ。
かなり、現地での生活に慣れてきた、今日この頃でした・・・

セリンバラ村を訪問

2005年12月28日 | ギニア
この原稿の冒頭に、
’少しずつ現地の環境に慣れてきました。最初よりは楽になってきました。
手の抜き所がわかってきたからかもしれません。結構元気にしています。’
と、添え書きがありました。ご安心くださいね。

2005年12月20日
19日の夕食がネズミだったこともあって、朝から微妙に気分は優れません

今日は、セリンバラという村を訪問した後、GreenCorridor予定地を歩く。
セリンバラ村というのはボッソウ村よりもニンバ山より(東側)の村で、
GreenCorridorの終点(もしくは始点)に近い村だ。
ボッソウと比べるとまだまだ小さくて、貧しい村。
ただ、雰囲気はとってもいい村で、牛田先生もこの村の雰囲気はかなり好きらしい。
ボッソウよりも、貧しいというか、前時代的なのだ。
ゴミが少ない。
近代的なものが入ってきていないから、昔ながらの生活をしているし、
この気候だから生ゴミとかは分解されるのが早い。
あっという間に分解されるから、ゴミが残らないのだ。
この国では、急激な?近代化が進んでいるためか、プラスチック製品などが大量に入り込んできている。
そのくせ、処理の方法などは完全に遅れているから、(というか、これまでは道ばたや庭に捨てておけば勝手になくなったものだから、同じように捨てる)
町などにはゴミがあふれてい。

しかし、セリンバラにはそれがないのだ。

しばらくすると椰子から作られた酒が運ばれてきて、
「まぁ、とりあえず飲めよ」
ってな感じだ。
僕も少し頂いた。
少し酸味があって、カルピスに少し似た味だ。
酵母の発酵と同時に乳酸発酵が行われているらしい。
朝から飲む酒なので、少し回る。しかも暑いし・・・
その状態でサバンナに歩いていくことに・・・。
サバンナに向かう途中によった場所がある。小学校だ。
まだ完成には至っていないが、稼働している。
この地方の建物は土レンガを積み上げたもので、
つなぎとして新しくはコンクリートでつないで、
さらに新しいものはコンクリートで表面を固めている。
しかし、土レンガ(日干しレンガ)を全部作る前に雨季に入っちゃったということで、
残ったコンクリートでレンガを作ったらしい。
で、そのレンガは重いので放置。
そして、コンクリートは足りなくなった・・・
「また、お金くれよ」ってことらしい。

しかし、それよりもこの村には井戸がない。
ボッソウまで歩いて水をくみに来ている。
結構遠いんだなこれが・・・(たぶん片道1時間以上かかる)。
で、学校よりも井戸だろ、って牛田先生。
あちこちで、井戸掘るのってどのくらいかかるのか聞いて回るんだけど、
値段はバラバラ。
予算のたてようがない・・・

しかし、今日はしんどかった・・・
サバンナってほんとに暑いよ・・・