●〔60〕小谷野敦『東大駒場学派物語』新書館 2009(2009.07.11読了)
○内容紹介
小谷野敦のブログ「猫を償うに猫をもってせよ」に載っていたものが元になっています。
やはり、ゴシップと月旦は面白いです。
○人脈修行
○すごい話
○「日本広しといえども」(笑)
○恨み言
○内容紹介
東大駒場は日本の大学の縮図。学者の人脈とその知られざる生態を浮き彫りにする。
小谷野敦のブログ「猫を償うに猫をもってせよ」に載っていたものが元になっています。
やはり、ゴシップと月旦は面白いです。
○人脈修行
もっとも、一般の人は知らないだろうが、比較に限らず、学界における人脈というのは、とうてい部外者に察知できるようなシロモノではない。学問的には対立しているはずの人同士が仲が良かったり、同じことを言っているはずの人同士が激しく敵対していたりするから、大学院での修業というのは、学問修業である以上に、その人脈に関する情報を得る過程でもあるのだ。
私など大学院生のころ、人脈一覧表でもないかと何度も思ったことがある。(p.11)
○すごい話
政治的にはともかく、御三家はこの頃、「現代思想」「文学理論」に対して拒絶の姿勢をとっていたのみならず、学生には、「日本」を研究対象とすることを強要する観があった。これが、芳賀・平川時代の暗部である。「比較文学」の看板をあげるからには、ドイツとフランスでも英国とロシヤでも構わないはずである。また抽象的議論は嫌われた。
小林康夫はボードレール論を修論として出し、これは比較文学ではない、と言われたが、激昂した指導教官の阿部が、「日本人がボードレールをやれば比較文学なんです」と叫んだとか、平川は修士論文中間発表会で、気に入らない発表者がいると、そのレジュメを紙飛行機にして飛ばしたとか、誰かが「ディスクール」という言葉を使い、教官の一人が「蓮實的ですね」と軽口を言ったら、いきなり平川が「蓮實はいかん!」と叫んだとか、すごい話がたくさんあるのである。(pp.178~179)
○「日本広しといえども」(笑)
榊のものは、当初、『源氏物語』とE・M・フォースターと蘇東坡における水のイメージを比較するという破天荒な計画だったが、修論中間発表会で、伊東が「これこそ比較文学の王道だ!」と叫び、しかし蘇東坡は無理で谷崎潤一郎に変えたが、これが漏れ聞くところでは論文審査でひどく評判が良かったという。けれど私は読んでみて、日本広しといえどもこの論文で修士号が貰えるのはここだけだろうと思った。(p.190)
○恨み言
この本は、五、六年前に書き始めていたものだが、出せなかったのは、主要登場人物が生きているせいもあって、プルーストが関係者が死ぬのを待って『失われた時を求めて』を出したように、何人か死ぬのを待って出そうと思っていたが、みなたいへんお元気で、いっかな死ぬ様子もなく、これでは九十近くまで生きるのではないかと思え、それでは自分が先に逝ってしまうかもしれず、また東大とおさらばしたという事情もあって、出すことにした。筒井康隆の『文学部唯野教授』に、主人公の唯野仁が、小説など書いていることがばれたら、学部長とかの出世の道が断たれる、と編集者に言い、編集者が、いいではありませんかと言うと、唯野が、人は自分の所属している世界での上昇を望むものだと反論する箇所がある。それでも唯野は、母校の教授なのだからいい。私の場合、「駒場学派」では、著書の数は四方田、亀井に次いでおり、四方田にはない博士号まで持っているのだから、在野の学者で終るのは、客観的に見ても、さぞ無念だろうと思われるだろう。四方田夫彦は、著書が百冊になったと言っているが、翻訳や文庫版など全部からげて百冊なのだろう。私の数え方では五十四冊だが、それでも「駒場学派」ではダントツの一位、二位が亀井先生の三上ハ冊だが、本書は私の三十五冊日の本になる。ロラン・バルトは六十過ぎてコレージュ・ド・フランスの教授になったが、日本でこれほど不遇な学者はちょっと思い当たらないくらいである。牧野富太郎とか森銑三とか、学歴がないため不遇だった学者の話というのはよくあるが、学部から生え抜きの東大で、博士号までとって、私大の教授にさえなれないというのは、自分で断っているならともかく(ただし地方の立派な大学への就職を平川先生が斡旋してくれたことがあって、ただ飛行機に乗れない私がそんな遠方へ行くのは不可能だったから断った)、前代未聞かどうか知らないが、雇い止めと決まってからだんだん、私の気拝は大学から離れ始めている。などと言えばまた「あの葡萄は酸っぱい」式にとられるのだろう。(p.290~291)