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●〔99〕堀井憲一郎『落語論』講談社現代新書 2009(2009.10.18読了)〈2009064〉
○内容紹介
○「落語とは、ライブのものである。」
のっけから上記のような文章で始まります。その他にも「演題は符牒に過ぎない」、「登場人物の名前も意味がない」、「サゲにも意味はない」、「落語にはストーリーもない」、「あらすじにも意味がない」等のテーゼが出てきます。
私のように、地方在住で、落語をテレビで見たり、CDで聴いたり、落語に関する本を読んで楽しんだりするファンはどうしたらいいのでしょう。途方にくれてしまいます。
○異常人・圓生
○内容紹介
寄席で見つけた落語の真髄!なぜ繰り返し聴いても飽きないのか?うまい噺家はどこがすごいのか?日夜、浴びるように落語を聴き続けてたどり着いた渾身の落語論。
○「落語とは、ライブのものである。」
落語について語る。
落語とは、ライブのものである。
会場に客がいて、その前で演者が喋る。それが「落語」である。
場。客。演者。
このどの要素が落ちても落語は成立しない。それが落語なのだ。(p.6)
のっけから上記のような文章で始まります。その他にも「演題は符牒に過ぎない」、「登場人物の名前も意味がない」、「サゲにも意味はない」、「落語にはストーリーもない」、「あらすじにも意味がない」等のテーゼが出てきます。
私のように、地方在住で、落語をテレビで見たり、CDで聴いたり、落語に関する本を読んで楽しんだりするファンはどうしたらいいのでしょう。途方にくれてしまいます。
○異常人・圓生
(スタジオ録音された落語というものがあるが、あれ特殊である。かなりのベテラン落語家の中で、ある特殊な人たちしか商品にしていない。最たるものは六代目の三遊亭圓生の「圓生百席」であるが、あれは圓生の異常人たるところを存分に見せてくれる作品で、圓生は、スタジオでやっていようと、おそらく客が見えていたのである。いま、客が笑った、大笑いだ、今度はくすっときたな、というのが一人で落語をやりながら、見えていたのだ。その客に向かって喋っていた。尊敬すべき異常人である。客が見える人だけ、スタジオ録音が商売になった。志ん生にはできなかった。志ん生のスタジオ録音を聞くくらいなら、お風呂の中で屈の音で聞いていた方がまだ笑える。それぐらい、気の抜けた落語である。というか、あれは落語ではない。)(p.10)堀井憲一郎には、大上段に振りかぶった本質論ではなく、トリビアルなネタに終始してもらいたいと思います。