すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

自分を開いていくということ。

2016-03-22 18:39:20 | ひとりごと
自我を捨てる、
自分を手放す、

という表現を時々見かけますが、これは、わかりやすく言うと、

自分を開いていくこと、

なんじゃないかな、と。


堀澤祖門さんインタビュー/「泥仏」としての自分を生きること(1~4)


↑そんなことを、このインタビュー記事を読んでふっと思いました。

この記事は本当に素晴らしくて、たくさんの気づきをいただきました。ぜひ、仏教に関するあらゆる先入観を捨てて読んでみてください。

こんなことを、こんな風に、わかりやすく教えてくれる偉いお坊さんがいるんだな、とそれがまずは驚きです。枠にとらわれず、スピリチャルな世界への共感も深い。

あの、京都の大原三千院。庭園が美しくて、私が京都で一番好きなお寺に、こんな素晴らしい方がいらっしゃるんだ、と感銘を受けました。

仏教に関する本を読んだり、法話というものも京都や鎌倉で何度か聞いた記憶がありますが、こういう話を聞けたことはなかったですね。

「これが、仏教なんだ!」と読みながら膝を打ちたくなりました。



堀澤さんのおっしゃる、「空」、全てを捨て切った状態で、空っぽの状態になれ、というのは、

つまり、

自我を捨てる、
自分を手放す、

ってことだと思います。

捨てるのは、手放すのは、自分そのものではなくて、自分を隠しているもの、自分を覆っているものの方。

それは、もっと噛み砕いて言えば、

自分を出したら嫌われるんじゃないか、
私なんて大したことないしうまくいかない、
人に甘えたり甘えられたるするのが怖い、
他人に与えたり与えたりして損をするのが嫌だ、

という、自分を否定する方の自分。


堀澤さんは、人はみんな「泥仏」だとも言います。泥をかぶっているから見えないだけで、もともと仏なんだと。

仏なんですって、私たち。
なんて、温かい言葉なんだろう。

だから、捨てるの捨てないの、泥を拭おう拭おう、と考えるより、まずは、とにかく、

自分自身にも、他者にも、世界にも、

自分を開く、
自分を開いていく、


っていうことなんでしょうね。
なにせ、素の私たちは、仏なのですから。

勇気や覚悟の使いどころも、きっとここなんでしょう。

そして、自分の生き方は、仏の方の自分を捨てようとしている生き方ではないか、ということに思いを馳せる事も大切なのかもしれません。


このインタビュー記事を書かれた小出遥子さんの文章も、しびれます。