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すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

斎藤学先生のツイート。

2014-10-04 17:17:39 | 心理メソッド・生き方
最近、一番お気に入りのツイートは
こちら


アディクションやアダルトチルドレンで多数の著書もある有名な精神科の先生です。


自分を「欠点を含めて受け入れる」ということと「諦める」こととは違うと思います。 「受け入れる」ときには、明るく陽気な感情が伴います。「諦める」ときには、さびしさと悲しみに覆われます。


あなたも「がんばれば何とかなる」という「ガンバリ教」なんでしょうか。人生、脱力が大切です。


人は悪事を働いて罪悪感を持つのではありません。非合理にも持つ必要のない罪悪感を勝手に抱き、その量に応じた悪行・愚行に走るのです。全ての罪悪感は無用。したいこと、する必要のあることだけをしてください。


いわゆる欠陥が修復される(人として成長する)ということは、無条件の受け入れという基礎条件を前提として生じるものです。


斎藤先生の言葉に触れると、どっちでもいいんだよ、と言われている感じがします。

こういうお医者さんがいるなら、精神医療も捨てたもんじゃない。また、うかつにも援助職に戻るのも悪くない、と思ってしまいます。

『わたしのままでママをやる』

よしもとばななさんは、↑のまえがきで書いています。

斎藤先生といると、刻一刻と少しずつ許されていくような気がした。そして、「なんであんなにがんばっていたんだろう、だれにどう思われたかったんだろう」とさえ思えてきた。

本人の中でバランスがとれているのかどうかを、斎藤先生はしっかりと見て、あとはなんでもいいと言って、ただそこにいてくる。


ばななさんの、こういう表現、絶妙ですね。

この本も、いい本でした。

内田春菊さん、中村うさぎさん、倉田真由美さんという個性の塊みたいな方たちと斎藤先生のパネルディスカッションをまとめたものです。

みんな、誰かに許されたい、それでいいんじゃないって言って欲しいんですね。




愛されて当たり前。

2014-09-27 12:53:48 | 心理メソッド・生き方
先日参加した趣味仲間とのランチの席で、不倫?をテーマにしたドラマが話題になっていました。(私は、見てないので内容知りません(^_^;)

不倫する主人公に共感して毎回涙するという知人が、

「寂しいから、不倫に走るんだよ。そういう気持ちになるのわかるよ」


とポツリ。銀行員の夫と2人暮らしで、その夫は重度の仕事中毒なんだとか。

その側で、別の1人が

「えー、不倫したいなんて考えたこともない。土日になると子どもとパパの取り合いだよ」


となんとも爽やかに言いのけます。その言い方が、ちっとも嫌味じゃない。


対照的な二人、どちらもタイプは違えど素敵な女性です。
ただ、私が感じる、手触りというか、感覚というか、で比べると、
明らかに、
前者は、重い。
後者は、軽い。

辛い思いをしたから重くなった、とか、いいダンナさんを選んだから軽いとも言えますが、ダンナ選びの段階で、すでに彼女たちの、重い、軽いは決まっているように思えます。


夫婦関係に悩む別の友人は、こんな風に言ったりします。

かまってくれない、
大切にしてもらえない、
どうでもいいと思われてる、
言ってもムダ、
何度か言ったけどダメ、
もう諦めた、


といいながら、
夫への恨みつらみを言い出すと止まらない。彼女もやっぱり、感覚的に重い。

趣味仲間の彼女も、友人も、きっと夫と何回かやりあった。傷つけあった。でも何も変わらなかった。だから、諦めた。諦めたことにした。

彼女たちの根っこにあるのは、

自分は愛されていない
自分は大事にされていない


という、とてつもなく悲しい実感です。相手とやりあえばやりあうほど、その思いが強くなる。

昔読んだ、精神科医 斎藤学先生(アダルトチルドレンで有名な方です)のブログにいいことが書かれていたのを思い出して必死に探しました。(2005年11月25日 恋人にしがみついてしまう)の相談です。

ここに書いてあることって、彼女たちの重さにつながる気がします。

「あたしは愛されて当たり前」と思っている人は、軽々と人を愛せる。まとわりつかれた相手は重く感じない。

彼女たちは、最初からその思い込みが弱くて、「愛されていない証拠」を積みあげて相手を責める。責められた相手は怒るか心を閉ざす。

夫婦でやりあった時に、夫は言ったかもしれない。

今は仕事にエネルギーを注ぎたいだけ

四六時中ベタベタするのは好きではないだけ


君を愛してない、とは、一言も言われてないのに、

愛していたら仕事よりも自分を優先するはず、

愛していたらセックスレスになんて絶対ならないはず、


という自分の価値観を握りしめて、相手の声が聞こえかったのかもしれません。

夫側も、確かにもう少し踏みこんでもいいかもしれませんよね。キチンと向き合うことをしないで、妻を腫れ物扱いしている。

うちの場合は、反対かも。
夫が、重かった、時期がありました。

「かまってくれない」オーラを出されたり、「嫌いになった理由」を聞かれたりすると本気でげんなりした。罪悪感を感じさせる夫がますますうっとおしいと感じることもありました。

私は、一人でいるのも好きなだけ。
ベタベタするのがうっとおしい時があるだけ。
でも、嫌いなわけでもないし、他に好きな人がいるわけでもない。


とは、なかなか素直には言えませんでしたね。だから、私も悪かったんです。

最近夫は軽くいいます。冗談交じりに。

「もう、嫌われてもいいことにした。自分が好きならいいやって」

まだ、少し重いけど前よりだいぶマシです(^_^;)

斎藤先生は、
「自分は愛されて当たり前」
に、根拠なんてないといいます。

根拠がないことを信じるのは難しいけれど、「思い込む」ことはできそうですよね。

「自分は愛されて当たり前」。この言葉が夫婦の関係を変えてくれるおまじないになるかもしれません。










イチロー選手とピンクのTシャツ。

2014-09-24 17:35:05 | 心理メソッド・生き方
通りかかったGAPで、バーゲンのTシャツを購入。


濃いピンクが、なかなか素敵です。1,200円にしては、デザインも悪くない。

ジム用にでもするつもりです(*^^*)




ピンクのTシャツで、イチロー選手が去年の年末にNHK の「プロフェッショナル」という番組で話していたことを思い出しました。


薄いピンクのTシャツを着てチームメイトに「女みたい」とからかわれるような時、僕は翌日もっと濃い色のピンクを着ていく。そうすると、もう誰もなにも言わなくなる。自分はそれを知っている。

強いともいえるけれど、自分は弱いから、チクショーと思うから、そうしている。強い人だったら、聞き流せる。本当に強い人は意識しないで聞き流せる。

(詳しくは、コチラを)

ざっくりと、こんな内容です。

彼の、その「屈したくない」という負けん気が、彼の一流勝負師としての根っこなわけです。

じゃあ、彼は強いのか、弱いのか、という点はどうなのか。

チームメイトは、あきらかにイチロー選手をからかう腹があって、ピンクのTシャツを「女みたい」と言っている。彼らにとって、イチロー選手は、まだからかうことのできる相手です。

イチロー選手が、ピンクのTシャツをやめたら、確かにそれはチームメイトのからかいを受け入れたことになるから、負けになります。

でも、イチローは負けたくない人です。ピンクがコンプレックスみたいなものだとすると、彼はそれをさらに大きくして相手に見せつける、「オレはそんなものに屈っするヤツではないんだよ」、「お前らがからかえる人間ではないんだよ」と圧倒する。

チームメイトたちは、イチロー選手の予想通りぐうの音も出ない。からかった方の完敗です。

凡人からしたら、これのどこがどう弱いのだ!となるわけです。

イチローにとっての強い人がどういう人なのかは、まあわかります。

他者の評価が全く気にならないくらいに悟っている人、といったところでしょう。

確かに、そういう人はからかい甲斐もないので、からかわれる事もないでしょうね。

ただ、そこまでの人は、もう人間の域を超えてます。強いとか弱いとかの土俵にはいない人です。

どんなに自己評価の高い人でも、普通はコンプレックスを刺激されたり、明らかにからかわれれば気持ちが乱れます。

自分大好きの甥っ子ナオ君も、小さい時のケガでできた頭のハゲを友だちにからかわれて泣いて帰ってきたとか。今では私にも見せてくれますが、それでもハゲが見えないように髪型には細心の注意を払っていますよ(^^;;


イチローは、「本当に強い人」にもなれる素質の十分にある人ですが、まだ彼はそこをめざさない。好きな野球で弱さと向き合うことを選んでいる。弱い自分が苦しむことを、楽しんでいます。

あー、ため息がでるほどカッコいい(o^^o)

彼は、全部わかってやってますよね。彼には、凡人には見えないものをしっかり見えている。

それにしても、イチローの言葉にはなんとも言えない臨場感がある。彼の言葉に触れると、涙がでます。

借り物の言葉、聞きかじった言葉は使わない。

自分で経験して、納得した事しか言葉で表現しないから、純度が高い。

力強くて普遍に向かうそのオリジナリティーが、美しい。

彼は、彼にしか操れない言葉を使っているのです。


苦しみが野球人としてのモチベーションを支えてきたというイチロー。まだまだ苦しめる余裕がある間は、選手でいるといいます。

苦しみ抜いてユニフォームを脱ぐとき、彼の人生は、どこに舵を切るのでしょう。

そこで初めて、彼の魂は、彼のいうところの本当の強さ、他人の評価を気にしない強さを求めていくのでは、という気がしています。



好きもあれば、嫌いもある。

2014-09-06 11:10:44 | 心理メソッド・生き方
辻仁成氏とミポリンの離婚騒ぎで、最初に形勢不利だったのは、辻氏の方でしたね。

「中性化する夫に、妻失望」みたいな感じだったかな。新聞の広告の見出しでしか見てないからわからないけれど、週刊誌なんかは、辻氏バッシングで凝り固まっていたイメージが強かったような。

結果的に離婚に至った後は、ミポリンバッシングの方に傾いたのかな。

まあ、有名人の離婚の原因云々は置いといて、

辻氏がそうやってバッシングを浴びているさ中、作家の田口ランディさんが、辻氏の昔からの友人として、辻氏の魅力や才能をわかっている同志として、自腹で全国ツアーをして頑張る辻氏を、心から応援している旨のツイートを残したことがあります。

それを読んで、思わず胸が熱くなりまさした。というか、ホッとして胸が温かくなったと言った方が適当でしょうか。

私は、辻氏もミポリンも直接的に知らないし、とくにファンでもないので、どちらかを味方したいわけではありません。

ただ、一方が叩かれている時に、その人を擁護する人がいるということ、その人は素晴らしい人だと、素敵な人なんだという人がいるということに、救われた気がしたのです。

もちろん、辻さんを悪く言うミポリンが悪いということでもない。彼女にとっては、辻氏はダメな夫だったのでしょう。でも、友人のランディさんにとって「辻仁成は素敵な人」ということなんですね。紛れもなく。

そういう面をしっかり見ている人がいると言う、この世のバランスに改めて安心しました。

身近な例では、幼稚園のお母さんで「性格が悪くて、決まったことをひっくり返すとんでもない人」という、もっぱら悪評を被せられた人がいました。

あだ名まで付けられて、クラス替えの時に一緒のクラスになったママたちは「睨まれたらどうしよう」「火の粉が飛んできたらどうしよう」と戦々恐々。

特に、上に兄弟のいる人たちのママ集団は、そのイメージを共有していました。
自分が直接被害をこうむったわけでもないのに、仲のいい人たちがそう言っていたからという理由だけで、そこまでの感情を持ててしまうのが、集団と、先入観の怖さかな。

まあ、たぶん個性的な人なんだとは思います。ドラマの「斎藤さん」みたいな人なのかな、と勝手に想像を膨らませたりして。

うちの息子はクラスも違って接点もないので、ある時そのママと同じクラスのママ友に興味本位で聞いてみました。

「面倒なママがいるってちょっと小耳に挟んだけど」

その人は上の子が他の幼稚園に通っていたので、先入観はほぼゼロ。元々自分の意見をしっかり持っていて周囲に流されないタイプの人です。

「もう、本当にあんな噂立てられて酷い話よね。どんな人かと思ったらとってもいい人で、私大好きだもの。私だけじゃないのよ。○○君のお母さんもお世話になってるみたいで『頼りになる人』だって言ってたよ」

やっぱりそうか。そういうことなんだな、とまたまた安心しました。

自分を含めて、ひとりの人間にはいろんな面があって、それをいいと言ってくれる人もいて、嫌いという人もいるのだということ。

あるいは、いい面で接することができた人がいれば、悪いイメージを持たれる面で接することになった人がいるのだということ。

その事実は曲げようもないし、曲げる必要もない。誰かに好かれたら、他の誰かにはやっぱり嫌われることだってあるものです。

ただ、先入観だけは余分。

自分の好き嫌いで他人を巻き込んでもいけないし、他人の評価に巻き込まれるのもごめんです。

好き嫌いは、自分だけのものだと肝に銘じておきたいものです。







許すとか、許さないとか。

2011-05-13 22:28:35 | 心理メソッド・生き方

許すとか、許さないとか、ってどういうことだっけ。

そんなことを考えたりする。

そもそも許すってなんだろう。ひどいことをされても、傷付けられても、なかったことにするってこと?忘れるってこと?

大したことではなければ、それもありだろうけれど、心が大きな傷を負った場合は、なかったことにすることも、忘れることもそれほど簡単じゃない。

だったら、なかったことにするでもなく、忘れるわけでもない「許す」ってどういう状態を言うのだろう。

相手が謝って反省する、というのは大前提ではあるけれど、相手の側の問題というよりも、結局は、自分の心の問題になっていく。

「許す」というのは、間違っても相手を無罪放免にして楽にさせることじゃなく、自分のほうこそが、楽ちんになることを指さなくてはならない。

つまり、一時的な決心や相手への情から生まれるべきものじゃなく、傷ついた自分を癒す、そしてもう二度と傷つけられない自分を獲得する、そのプロセスといっしょにゆっくり立ち上がってくるものでなくてはならない。

もちろん、自分を傷つけた相手に、相応の責任を突き付けること、うやむやにするのではなく、その過程を見届けていくこと、もセットにはなる。相手がそれに応じなければ、関係を断ち切るとかね。

許す、許さない、と言えば、クドカン脚本、阿部サダヲ主演の映画「なくもんか」の中に、印象的なセリフがあった。

幼い兄弟を捨てた放蕩親父と大人になった兄弟がすき焼きを囲んでいる。
弟が父親に、「兄さんに謝れ」と詰め寄ると、兄さんの阿部サダオは言う。

「それぞれ腹に何かを抱えていても、黙って一緒に飯を食うのが家族」

「謝る、謝らない、ってなれば、許す、許さないって話になるだろう。そんなの許せないに決まってる」

ほぉーっ。

クドカンってこういう軟らかい感性なのか。ただ、わかるような、わからないような。というか、わかりりたくないような。でも、カウンターパンチのセリフだ。

あと、いつか参加した、精神科医なだいなださんの講演会を思い出した。

なだいなださんが印象に残っている家族の話として、何十年もアルコール依存症の夫に苦しめられ、何度かの修羅場をくぐり、今は回復して仲良く暮らす夫婦のエピソードが語られていた。

その妻の述懐。

「夫がしてきたこと、今となってはもう許してはいるけど、でも、決して忘れることはできませんよ。夫にも時々そう告げています」

許しても、忘れない。
言いえて妙。深いなぁ。

許す、許さない、も、角度を変えればいろんなことが言えるってことか。

どっちか、って白黒つけなくてもいいことも、と、いうか、つけられないことも人間関係には多々あるし。

ただ、許した方が楽、なんてよくいうけど、あれだけは詭弁だなって思う。許して楽になるんじゃなくて、楽になった自分がいて、すなわちそれが許す、ってことじゃなくっちゃ。

楽が先にあって許せるんじゃなきゃ、
それはやっぱり許すっていうのとは本質的に違う。

頭の中で描いた「許す」や、周囲から促されただけの「許す」は脆いよ。

私も、夫といろいろあった。

夫への気持ちは、許す、許せない、では、なんとも形容できない。許したか?と言われれば、NO、と即答する。それなら、どうしても許せない?と問われれば、返答に困る。

許したわけではない、でも、どうしても許せない、というわけでもないだろう。

許せない部分のあることを自覚しながら、許すことを目標にせず、あきらめるわけでもなく、うやむやにするでもなく、とりあえず、一緒に生きていく。そこから始めてもいいのかな、と。