明日から寒波

2023年01月22日 21時05分00秒 | 家のこと

 今朝はマイナス2.5℃。

明日は0℃予報。

でも、明日の朝の雪の確率80%のようです。

来週はとても寒い日が続きそうです。

 

 

 

 

 今朝の果物

お昼前の空

段々と薄雲がかかってきました。

それでも、やはり、日中陽が射すと暖房がなくても大丈夫でした。

これからの寒い1週間、このバラ達がどうなるか。

まだ蕾もたくさん付いています。

そろそろ剪定の時期ですが、切るに忍びず

 

 

 

 

 シスターからお電話がありました。

今度の土曜日、家を貸すかどうかについて「皆で話し合いましょう」と言われました。

シスターとしては両方が心配なのですが、ベトナムの人と生活してみてやはり私が大変なのではないかと思われています。

シスターは2つの交流センターで関わっていらっしゃいますので大人数が絶えず来るわけですが、皆が助け合い精神が旺盛だから、我が家へ時間に関係なく大勢行ってしまうのではないかということ。

(教会が近いですからからそれは大丈夫かなと思いましたが、赤ちゃんが生まれたらわからないですね)

でも、その前にご主人は夜勤をなさっているそうで、もし家を完全に仕切れるのでなければ、シャワーの時間等絶対に大変だと思うと言われました。

ただ、あちらの情報が全くわからないのでいろいろな懸案事項が想像の域を出ないそうです。

女の子を二人位引き受けた方がまだいいのではないかと母心。

とにかく、お互いの要望を話し合ってみないとわかりません。

give-and-takeでお互いに助かる部分も多いことは確かです。

完全にお貸しする為に家を分けることは可能ですが・・・

この話は1年前から考えてはいますので目新しいことではありません。

駐車場にしようかという話まで出ました。

ただどちらもかなりの決断が要りますね。

半分になってもまだお部屋数は母と二人で暮らすには多いです。

ただ使い便利は悪くなるかな。。。

今まで全部それなりに使っていたわけですからそれは当たり前ですね。

昨日も書きましたが、今後の私の人生も考えて、真剣に考えてみないといけません。

こういう場合はメリットとデメリットをノートに書くのがいいので洗い出してみます。

 

 

 

 

 

 今日の母は2時半頃まで起きていましたが、その後ベッドへ。

調子はそんなに悪くはないです。

お食事も朝からよく食べています。

寒い時期に母がショートに居ることが出来るのは寒くないのでいいことなのですが(家はやはり会寒い)、行き帰りが寒そう。

 

 

 

 

 

 

★致知一日一言【今日の言葉】

 

90歳の登山家・三浦雄一郎さんのリーダー論

 

リーダーは、いつでも
どんなに落ち込んでいようが、
上機嫌で旗印を
掲げていなければならない。
これを降ろしてしまったら
誰もついてこなくなる

━━━━━━━━━━
三浦雄一郎(史上最高齢エベレスト登頂者)
月刊『致知』より
━━━━━━━━━━

◎三浦さんも『致知』を愛読されています◎

『致知』には古今東西の不変の訓えと、
それを実践している人の
魂の言葉が表現されていて、
来るたびに僕は読んでいて感動します。
素晴らしい本だと思います。

三浦雄一郎氏(プロスキーヤー・冒険家)


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◆三浦雄一郎はなぜ困難に挑み続けるのか?
父が歩いた「探求一筋」の道を辿って

  ↓  ↓  ↓

【記事はこちら】  

 

 

 

 

 

★致知出版社の「ご縁メール」 

 

≪「俺が、俺が」からの解放 ≫


卒寿を迎えてなお禅の指導に勤しみ、
仏の教えを説き続ける窪田慈雲老師。

最新号では、「仏道の原点」について
お話ししただいておりますが、
その中でも、ご自身の迷いの根源を
断ち切ったくだりには引きこまれます。

人から「バカ野郎!」と言われても、
笑っていられる自分をつくる。

自我意識からの解放に至る道には、
清々しい風が感じられます。


取材の様子はこちらから
─────────────────
【自我意識こそ迷いの根源】慈雲老師

 

そんなある日、
仕事を終えて地下鉄の駅のホームに立っている時、
ゴーッと電車の入ってくる音を聞いた途端、
フッと自分がいなくなったのです。

これまで通りちゃんと体はある。

けれども自分はいない……。

それまでに体験したこともない奇妙な感覚でした。

「窪田死す。後任、急派請う」。

不思議な状態が一週間も続き、
明日はそんな文面で本社へ電報を打とうと思い至った矢先、
遥か彼方からゴミの塊のようなものが猛烈な勢いで飛んできて、
両腕、両脚、胴体、頭になり、ガチッと一つの身体が形成されました。

あぁ、自分はまだ生きている。

そう胸を撫で下ろした瞬間、
自分という塊は元々どこにも
なかったのだと私は得心したのです。

束の間の体験ではありましたが、
お釈迦様が至った悟りの世界というのは、
そうした気づきの先にあるものなのかもしれません。


いまの教育は、個性を尊重し、自我の確立を重視します。


自我というものを大切にして、
それを育てなければならないというのが
社会の通念になっています。

しかしお釈迦様は、自我というのは錯覚であり、
坐禅によって執着を外していけば、
自我から解放されると説きます。

そして完全に解放されると、
人は死ぬことがなくなる。

つまり、死ぬ自分がいなくなるのです。

これこそが、長らく私が追い求めていた疑問の答えでした。

坐禅の目的は、心を静め、潜在意識に巣くっている
「俺が、俺が」という観念を薄めていくことです。

人から「バカ野郎!」と言われても、
「そうか、この人から見ると俺はバカなのか」
と笑っていられるくらいになれば大したもの。

人は自我に囚われているがために自分のことが可愛くなり、
心の眼が曇って様々な過ちを犯してしまいます。

しかし「俺が、俺が」という執着から解放された人は、
己の幸不幸にこだわることなく、
すべてに奉仕する心境に至ることができるのです。

 

※続きは本誌でお楽しみください。


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