
おはようございます。
信仰に縁がある時は、『経済的な困窮、病気の苦しみ、人間関係の対立、』どれかになります。
対立があるから、病気になり、仕事がうまくいかず、お金に困ることに、なります。
現在の生活は、とても贅沢になり、何でもあるのが当たり前、物が溢れ、感謝のおもいが、薄れているだ
けに、我慢や辛抱ができなくなっているから、やつかいです。
『不遇という意味』が、果たして理解されるのか。疑問に思うことがあります。
『不遇』の境遇にきずくのは、他と比較することで、自分の不幸を知ることになります。
不幸の根っこに、家族間、親族間の深刻な対立がありました。
御神尊様にご縁のない時代、平気で憎み合い、とがめ合いの生活でした。
飼っていた、犬、猫は、次つぎに、死んでいきました。
しまいに、病人が続出しました。
御神尊様の、『骨身を削っての、20年の苦行と、』
『運命の道理に、』目覚めた時から、人は変わり辛抱できるものです。
<闇路に、光を観るのが、信仰心。>
だから、耐えられるのです。
でも、人生苦で信仰の門に立ちながら、お陰がないと、信仰から立ちさる方もいます。
『神様が、私を試されている』と、思えることも、信仰心。
お陰は作るもの、与えられるものではありません。
苦しさのどん底にありながら、
何故楽しい日々を送れたのか?
それは、バラバラの家族が、ひとつになろうとする信仰心が育ったからです。
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