面白草紙朝倉薫VS安達龍真

夢と現実のはざまで

玉ねぎの皮をむきながら(ギュンター・グラス)

2008年06月28日 | Weblog
 駅売りの夕刊紙でギュンター・グラスの新刊「玉ねぎの皮をむきながら」の書評を読んで、紀伊国屋に寄ろうと思ったが、贖う前にTに電話をしてみた。もしかして、の予感通り、「今、読んでいるところです。先に読まれるならどうぞ」の返答。「うん、読ませて」と、即答した。と、いうのも460ページ、2625円もするので、借りて読めるならそのほうが貧乏作家としては助かるからだ。

 「ミッドナイト」の稽古が終わって、Tに借りたグラスを読み始めたが、一晩で完読は無理なようだ。イタロ・カルビーノや泉鏡花なら数倍の速度で読めるが、大江やグラスだと時間がかかるのは実は義務として読んでいるからである。昨今のノーベル文学賞作家の作品は、本当に読後感が苦い。つかこうへい流に言えば、竹を割ったら餅が詰まっていて食ったら砂だらけだった、という感じだ。「恥辱」など、映画にしたらどうなるのだろう。文学や歌が時代を映す鏡だとするなら、僕のメルヘン志向は時代に逆行するマイノリティなのだろうか。歌声喫茶もまた、時代の片隅でひっそりと咲くのが運命であろうか。

 うたごえ喫茶「ともしび」で感じた違和感に、似て非なるこの感触は何なのだろう。大江やグラスの作品に感じる疲労の原因は、もっと身体の奥にあるようだ。聞くところによると、グラスは知り合いを家に招き、得意の手料理を振る舞うらしい。たいていは内臓の煮こみ料理で、供される者はその複雑で苦い味が癖になるか、嫌いになるからしい。僕は招かれた時点で、辞退するべき人間なのだろう。科学も進化論も、幻影師アイゼンハイムには眩しい太陽なのだ。作り物の明かりが揺らめく見世物小屋こそが、心落ち着く桃源郷。僕が捜し求めるそこは、温泉町の場末にあるストリップ劇場の楽屋なのかも知れない。玉葱は何処まで剥いても皮だけである。単行本の帯にある大江健三郎氏の推薦文「すべての矛盾を含み込んで、あるいはさらけだして、彼の小説はある。その点を私は全面的に評価します」もまた、玉ねぎの皮である。人が人を裁くのと同様、人が人を選ぶのも難しいことなのだ。

 

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