ありゃりゃサンポ

近現代の建築と一日八千歩の散歩の忘備録。美味しいご飯と音楽と。
東京都全域を徒歩で塗り潰す計画進行中。

多摩美術大学

2024年03月25日 | キャンパス建築巡り

先に伊東豊雄の図書館だけ紹介した多摩美術大学のその他の校舎の写真です。
敷地高台側の東門から入って行くと多摩美出身で世界的彫刻家、長澤英俊のTINDARIが迎えてくれます。

都市部の学校と違って余裕のある校舎の配置。この日は卒業展の最終日、かつ卒業式の日でもあったので着飾った学生と父兄たちも多く見られました。

広場から反時計方向ににキャンパスを回ります。まず情報デザイン棟と芸術学棟。三層のブリッジで接続されています。

図書館前の坂道を下って正門の方へ。美大のイベント日なのでいろいろな服装の学生が見られます。

正門脇に多摩美術の正門玄関的役割を持って配置される本部棟。法人運営ゾーン、国際交流センター、学生課などが入っています。
水盤を渡る階段からからピロティで囲まれた中庭を越えて建物内に入るという演劇性の高い演出が見られます。

絵画棟北棟。絵画棟は北棟、東棟の大型の校舎が2棟。

絵画東棟ギャラリー。各科の校舎内に作品を発表できるギャラリーが備わっているのが多摩美校舎の特徴の一つです。
このギャラリーは赤黒コンビのタイル床にワッフルスラブと前川國男オマージュ的な要素が見られました。

連続水平窓が特徴的なメディアセンター。

アートテーク(左)と共通教育センター。
どの校舎のそれぞれに独特のデザインでありながら、単純な平面が少なく角ばった凹凸が強い主張をしてくるという共通点が見られます。
これら校舎群の設計は、多摩キャンパス設立から20余年が過ぎた1994年ごろに学内に設けられたに「キャンパス設計室」によるものです。
建築・環境デザイン学科教授で大岡山建築設計研究所を主宰する田淵諭を室長とし長期的にキャンパス全体の整備計画に携わってきました。

レクチャーホール。

ホールでは卒業式が行われていました。金沢美術大学の卒業式のようなことはなかったです。

坂の上から北側を眺めるとまだ未開発の丘陵地帯がほとんどです。



卒業展を少し見てきました。恵比寿ガーデンプレイスの学外展で見たやさぐれたヒーローにまた会ってしまいました。

印刷物の断面で作り出す模様。

文房具の虫たち。アイデアはありがちですが的確な造形とその量に圧倒されました。

violzatoと名付けられた新しい形のエレクトリックバイオリン。

こちらも恵比寿に続いて2度目となるこたさんの空想地図。

これはデザイン科の制作室。

多摩美の中には世界堂があります。

卒業写真。

ぐるっと回ってまた東門方向へ。帰りはバス橋本に戻りました。
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埼玉県立大学 =山本理顕=

2024年03月19日 | キャンパス建築巡り

獨協大学の見学を終えた後、獨協大学前駅から郊外に向かってさらに7駅でせんげん台駅に着きました。駅からまっすぐに歩くこと15分で埼玉県立大学に到着。
「保健・医療・福祉の連携と統合」を理念に1999年に開学した新しい公立大学で、校舎群は2024年のプリツカー賞を受賞した山本理顕の代表作です。

一直線に伸びる北棟(大学棟)は大屋根部分も含めるとその長さは330m以上。過去に見た建造物の中でも最長の部類です。

細い足で支えられて宙に浮かぶような部分の下に守衛室があります。ここで入館証を受け取ってからさらに本部棟の施設管理課で許可証に記入して中へ。

細長い校舎の北側(右側)が教室スペースで南側がアトリウム的な空間と移動のためのスペースになっています。



プレキャストコンクリートの格子に教室名の数字が大きく掲示されています。

ガラス張りのエレベーターで2階に。向こう側に南棟(旧短大棟)が平行に配置されています。(短大は2008年に閉校)

アトリウムの中に浮かぶような傾斜した床面。

中は席が階段状になった講義室。

平行に配置された大学棟と短大棟の間には平屋建ての共有施設や研究施設がランダムに配置されていて、その屋上部分が二つの棟を人工地盤的に繋いでいます。

屋外に飛び出した階段教室の下から見る北棟。

北棟と南棟の間は85mほど。直線的なウッドデッキ部分以外は芝生が植えられています。

旭硝子の銀座ガラス建築ツアーで学んだDPG工法(ドットポイントグレージング工法)。

大学より西側は全面的に農作地帯です。

南棟から見る北棟。外に飛び出した階段教室の傾斜面がそのままむき出しなのが良く見えます。
通常、柱とその上に床があればその下部分も使おうとするものですが、スペース的に余裕のあるこの学校の場合その必要性がありません。



随所で何種類かのオリジナル家具が見られます。このパンチングメタルは室内の壁面でも多用されているものを流用しています。

鉄製の角パイプのロングチェアは建物の構造材をそのまま置いただけのような感じ。

北棟と本部棟の間は大屋根の下で地上、2階デッキ、3階ブリッジの3層で接続されています。

体育館棟。

地上と2階デッキを繋ぐ階段をガラスで覆っただけのフリースペース。

短大にも飛び出した階段講義室があります。

本部棟の前に一か所だけ地上と2階を芝生のスロープとしている場所があります。



建物の形と配置をあえてランダムにしてその隙間の通路が迷路のようになっています。迷ったときは舟橋全二が描いたアートサインが居場所を教えてくれます。

支柱がなく空中に飛び出した非常階段が福生市役所の階段と同じです。

ガラスと鉄とコンクリートだけの無機質な空間に光が様々な模様を描きます。

これほどの規模のキャンパスで一人の建築家の設計で全てを同時に建てたというのは初めて見ました。
北棟、南棟、本部棟など構造的には複数の建物がありますが、建物間のデッキやブリッジも含めて全体として340m×130mの一つの建築と見做されるべきものです。
あらゆる部分が綿密で美しく、見学していて非常にわくわくしました。これだけガラス張りのスケスケな建物で使い勝手はどうなのかは気になりますが。
日本人建築家として9人目のプリツカー賞受賞者。国別ではこれでアメリカを抜いて最多になったそうです。
少々日本に肩入れし過ぎなんじゃないかという気もしないでもありませんが、そんな権威ある賞に選ばれた設計家の作品を気楽に見て回ることができるのは幸せなことです。
山本理顕の作品を見るのは横須賀美術館福生市役所に続いて3つ目。
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獨協大学

2024年03月17日 | キャンパス建築巡り

伝右川は江戸時代初期に新田開発を目的に伝右衛門によって開削された農業用水路です。
川の右(南)が獨協大学キャンパス、反対側がかつて日本有数のマンモス団地だった公団の松原団地、現在はURのコンフォール松原に変わりました。
奥に向かって5分も歩くと東武伊勢崎線の「獨協大学前(草加松原)」駅。2017年に「松原団地前」駅から名称が変わりました。

獨協大学正門。奥に中央棟。左手の守衛所で見学に来た旨を伝えておけばキャンパス内は自由に歩き回れます。

中央棟の右側に4棟。キャンパス内には10棟ほどの校舎がありますが数字がついているのはこの4棟と敷地隅にある8棟だけ。残りは全て建て替わりました。

全ての校舎がこのように屋根付きの通路で行き来できるようになっているのはなかなか利便性が高い。

小さな庭を挟んで西館(創立50周年記念館)。2017年竣工。久米設計。

建物の建物の間に程よく植栽が配置されていて寛げる雰囲気。この部分は草加松原のイメージ。

40周年を記念して2007年に完成した天野貞祐記念館。NTTファシリティーズ一級建築士事務所。
獨協大学は明治初期にできた独逸(ドイツ)学協会が元となってできた大学なので、校舎もドイツの著名な建築をイメージして設計されています。
センターのドームが特徴的な天野貞祐記念館はドイツ国会議事堂がデザインの元になっています。

天野貞祐記念館1階。ドーム下は5階まで吹き抜けで円周に沿って階段、中央を2本のエレベーターが通っています。



秋ヶ瀬のさいたま市桜区役所の吹き抜け階段を思い出しました。

最上階から見上げるドーム。あの階段を登るのは恐ろしい。

35周年記念館。アリーナと学生食堂。

人工芝のグラウンド。奥に見える高層のマンション群の場所も20年前は4階建ての団地がびっしり並ぶ一帯でした。

URまちとくらしのミュージアムの展示の中に松原団地はなかったか調べた、団地の建物の配置の変遷を見せるパネルの中にありました。
まさか翌月にここに行くことになるとは知らないでぼーっと見てたな。

グラウンドの向かいに東館。2010年竣工、石本建築事務所。こちらはドイツのペルガモン博物館がモデルだそうです。
グラウンドに面したこの大階段はグラウンドで行われる競技の観戦場所にもなるそう。卒業アルバムの集合写真もここで撮るそうです。

ぐるっとまわって再び正門前に戻って2012年に完成した学生センター。こちらも石本建築事務所の設計。

1階は学生ラウンジや雄飛ホール。上にクラブ・サークル活動で使用する部室や武道場などが入っています。

最初に見た4号館の壁と同じ色がこちらでも。この濃いブルーがスクールカラーでした。

音楽練習室、ダンススタジオなどサークル活動に必要な場所がしっかり用意されています。今の学生はいいわね。

体育会系部室が並ぶフロア。元々建物があった場所が部室棟があったところでした。
伝統ある部の看板をちゃんと設置できるように考えなかったところは石本建築事務所のミスですね。

5階からルーバー越しに見る草加の街並み。

コンパクトですが端正で機能の充実した獨協大学キャンパスでした。全学部、全学年が一か所で学生生活を送れるってなかなか珍しくなりました。
生まれ変わった草加松原団地と合わせてこれからも栄えて行くことでしょう。
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早稲田大学 西早稲田キャンパス

2024年02月09日 | キャンパス建築巡り

高田馬場駅から大久保方面をぶらぶらしていたら戸山公園大久保地区に囲まれるように早稲田大学の理工学部キャンパスがありました。
名称としては「西早稲田キャンパス」というそうです。こちらは2008年にできた63号館。久米設計。

1階の吹き抜けに古のロボットたちが展示されていました。右の楽譜を読んでエレクトーンを演奏するWABOT-2は朝ドラの「半分青い」に出ていました。

1980年代、つくば万博の頃は日本のロボット工学が世界の先端に見えました。2000年以降もホンダのASIMOなど世界に誇る技術のように見ていたのですが。
ボストン・ダイナミクスのロボットがバク宙なんかを披露するようになってからは人型ロボットに関しては影の薄くなったように見える日本です。

西早稲田のシンボル51号館。建築家で早稲田大学建築学科の教授を長く勤めた安東勝男の代表作です。
ファーサード一面の格子は後年追加された耐震ブレスかと思ったらなんと最初からのデザインなんだそうです。インパクトあり過ぎ。

多くの他の校舎と共にキャンパス全体の設計も安東勝男によるもの。一人の建築家がここまで一つのキャンパスに関わるというのは成城大学と増沢洵の関係に似ています。

上の写真の左側の校舎のまどに見える市松模様は2012年の耐震補強でした。建物の外観は一切変えずに耐震補強を行う大成建設のT-Gridという技術を活用しています。

65号館。窪んだコンパクトな窓。たくさんの実験施設が中に入る理科系の校舎は文科系の校舎と基本的に違って見えます。

56号館。床を支える梁にあたる部分が斜めになっている所はなにか構造の特徴を表しているようです。全体がカンチレバーでできているのかも。

こちらも同じく梁がテーパードしている57号館。形も変ですがそのうちにキャンパス全体の色が変に思えてきました。

全ての校舎が銀色のペンキで塗られているのが変。妙な金属感が安いSF映画のセットのような印象です。上下の白色のブレスと比較すると銀色がよく分かります。

多くの校舎は1960年代に建てられたものを耐震補強して使っていますが、60年近く経っていよいよ一部で建て替えも進行中です。

51号館前のデッキ。

デッキから見上げる51号館。

よく見かける「部外者は立ち入り禁止」のような表示がまったく見当たらない西早稲田キャンパス。

51号館の最上階の18階に上がって下界を眺める。手前のアパートは公務員宿舎。左手前の緑が戸山公園。

51号館にあったキャンパスマップ。それぞれに特徴的な外壁の模様を目印にしているのがアイデア。

早稲田の理工といえば一つのブランドですが、これほど古い建物を大事に使い続けていたというのは驚きでした。

建物1階部分を埋め尽くす実験設備。
早稲田キャンパス、戸山キャンパスに続いて3つの目キャンパス。他に所沢、本庄、北九州などまだあるようです。
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駒沢大学・禅文化歴史博物館(耕雲館)

2023年12月15日 | キャンパス建築巡り

駒澤大学のことを知ろうとサイトで沿革を見たら年表の1行目がが「1592年(文禄元年)」だったので驚きました。ちなみに沿革の2行目は「1600年 関ヶ原の戦い」です。
前身である曹洞宗大学が駒沢に移転したのが大正2年、大学令による「駒澤大学」として認可されたのは大正14年のことでした。

パティオを取り囲む1号館、記念講堂、本部棟は1980年代の建物。全部で14~15棟ほどの校舎が狭い敷地にぎゅっと詰まっています。

こちらは開校130年の記念に2017年に建てられた13号館「種月館」。設計はNTTファシリティーズ。9階建ての高層部と4階建ての低層部で構成されています。

ちょっとだけ中も見ましたがなかなか立派。最近の学生さんはこんな優美な椅子で語らいをされてはるんですね。

種月館と向かい合う平屋建てには各種サークルのためにSEEDとMOONという2つのスタジオが用意されています。SEEDとMOONで種月デスヨ。
その屋上部分が緑の丘テラス。駒沢公園との境界部分にありますので公園の緑を借景として楽しめる仕掛けです。置かれている椅子がグルチッチのチェアワン。

禅研究館。4階の座禅堂では一度に140人が曹洞宗の伝統的な作法に従った坐禅をすることができます。ようやく仏教系大学らしい顔が見えました。

こちらが本日のメインエベント。禅文化歴史博物館。昭和3年に大学図書館として建てられました。あと5年で100歳を迎えます。
1999年、東京都の歴史的建造物に選定されたことを契機に改装工事が行われ、3年後の2002年に博物館として一般公開されるようになりました。
博物館があると大学に入るのも気兼ねなくてありがたいです。

スクラッチタイルと幾何学模様のテラコッタと漆喰の白と。全体の造形と同じように表面テクスチャも多様です。

外観を見ても全体の形がよく理解できませんでしたが、平面図で分かりました。2方向のギザギザは強度を高めるための折板構造としてのギザでした。

45度と90度がせめぎ合う階段室。

1階メイン展示室A。狭い玄関周りからドア1枚隔てて予想外に大きな吹き抜け空間が広がっていました。建てられた頃はここが図書館の閲覧室でした。

天井はステンドグラス。上空からの写真を見ると現在でも天窓として機能しているように見えました。

博物館開館時に遷坐した一仏両祖像。

玄関上のテラコッタや、壁面装飾の意匠が「ライト的」と評されることもあるようです。
建物を設計したのは明治25年生まれの建築家、菅原榮蔵。かすかに聞き覚えがあったのは今年5月に放送の「新美の巨人たち」の銀座ライオンで取り上げられていたからです。

2階では博物館学専攻の学生が実習として「香の文化」の展示と解説を行っていたのでじっくりと説明を聞きました。「香の図」という文様の説明が特に興味深かった。

耕雲館でだいぶ時間を使ってしまいました。こちらは正門はいってすぐの場所にある図書館。設計は石本建築事務所。2020年に新築。

駒沢キャンパスから駒沢公園通りで500mほど南にある深沢キャンパス。元は三越の迎賓館だった場所を大学が買い取りキャンパスとしたもの。
通りに面した場所にそそり立つ建物に圧迫感を感じましたが、それはこの建物の背後にある吉田五十八設計の洋館と庭園を護るための設計でした。なら仕方ない。

奥に見えているのが吉田五十八の設計した「シルバーハウス」。一般公開日もあるようなので次はこちらの内部も見てみたいものです。
駒沢公園は子供の頃の遊び場で、隣の駒澤大学にも入ったことはありましたが、とにかく暗い場所というイメージでした。あれから50年経って今はキラキラです。

駒沢キャンパスマップ。箱根マラソンの青学との闘いも楽しみになりました。
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東京農工大学 工学部・科学博物館

2023年06月20日 | キャンパス建築巡り

武蔵野プレイスのある武蔵境駅から西に一駅歩きます。東小金井駅の少し南に東京農工大学の工学部があります。
ネットで農工大工学部を検索するとたいていこの場所で撮った写真が最初にあります。小金井キャンパスの顔のような場所ですが正門ではありません。
正門は中央線から一番遠いキャンパス南側にあります。どうしてわざわざ不便な場所に正門を作ったのか謎。

中央線に一番近い北側に2棟の学生寮があって、学生の多くは寮の横を通ってキャンパス内に入って行くようでした。
私もそんな学生にくっついて行ったので、学生寮を通り越して最初に見たキャンパスの風景がこちら。

東京農工大学は農学部と工学部があって、農学部のある府中キャンパスは2019年に先に見学しています。ドラマのロケ場所としてよく使われるところ。
工学部キャンパスのことはあまり話題にもならず、田舎の古びたキャンパスだろうと想像していましたが行ってみたら全然違いました。広いしきれい。かっこいい。

小金井図書館。中には入れないので4つ並んでいるガラスのシャフトがどう使われているのか見ることはできませんでした。(今調べたら学外者も利用可能でした)

国立大学はどこも敷地に余裕があって緑が豊かです。

エントランスが神殿風の13号館。

スカイブルーに塗られた垂直線が目を引く渡り廊下。

オーソドックスな建物が多い中で一つだけ強い主張を見せたのがこちら、新1号館。
各階に小部屋はありますが、それ以外の空間は吹き抜けていて使える場所はありません。

コンクリートの傾斜の中は1階部分は駐輪場がありました。2階、3階に接続していそうな部分の詳細はわかりません。

4階から見下ろしたところ。

傾斜の一番上が眺めの良いテラスになっています。建物全体が実用目的ではなくて、かっこいい大きなオブジェみたいなものでした。

正門入ってすぐの場所にある東京農工大学科学博物館。

筋骨格型ヒューマノイドロボット「小太郎」がお出迎え。人間の身体に極めて近い筋骨格を持ち、自らの体の動かし方を自ら学習、習得するための研究ロボットです。

機械展示室。日本が世界をリードしてきた明治以降の製糸、紡績。自動織機の実機が動く状態で展示・保存されています。

古来の機織りでは横糸を引く杼(ひ・シャトル)を手で投げて経糸の間を滑らせて通していました。
自動織機ではシャトルは機械によって左右に打ち出されます。その名も「弾丸織機」。

その後、横糸はシャトルを使わずに噴射水流で左右に運ばれることになります。この技術は繊維とは無縁だったプリンス自動車によって独自開発されます。
実演を見せてもらったこちらの機械は1966年の合併後の日産自動車の名前が付けられています。
ウォータージェット式の織機は織布産業に革命を起こし日本産の機械が世界を席巻しますが、近年ではその技術を剽窃した中国製の機械に取って代わられました。

こちらは日産製の自動操糸機。稼働できる状態で残っているのは世界でもここだけだそうです。
説明していただいたのは2名のおそらく退官された教授ではないかと想像しますが、他に人もいなかったのでたっぷり1時間以上お話を聞いていました。
製糸については富岡である程度知っていましたが、自動織機に関しては全てが初めてで面白かったです。

2階の展示室。こちらも機織りの機械やミシンが並びます。展示が繊維にばかり特化しているのか不思議だったのですが、展示されている大学の年表を見て理解しました。
明治初期の内務省の蚕業試験掛が発端で、小金井に移転した後に東京繊維専門学校となり、戦後に東京農工大学(農学部・繊維学部→工学部)という沿革だったのでした。
そりゃあ全ての展示が繊維になるのはあたりまえです。

階段の手すりに乳鋲が設置してあるのはなぜなのか聞きそびれました。
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一橋大学 伊東忠太となかまたち

2023年06月15日 | キャンパス建築巡り

国立駅から緑あふれる学園通りを歩いて数分。一橋大学の国立キャンパスにやってきました。
正門から入って50mほどは背の高い杉並木の間を進みますが緩やかなカーブと木立のせいでキャンパス内がほとんど見えません。何が現れるのかわくわくする演出です。

ロータリに到達すると視界が180度開けます。そして右手の一番近くにメインイベントである兼松講堂が見えます。
まずは思っていたのと違うその大きさに驚きます。向こうから歩いて来た教授風の型を縮尺代わりに入れて写してみました。

正面から。何度も写真では見ていましたがもう少しコンパクトに見えていました。何度経験してもそう感じることって多いです。人は小さく見積もるもの?
一橋大学は明治8年に商法講習所として誕生します。名称を変えながら都内を何か所か移転。関東大震災で神田一ツ橋にあった校舎を失った後、昭和2年に国立地に移転します。
移転時の名称は東京商科大学。この兼松講堂は移転時に建てられた建物ので唯一現存しているものです。ロマネスク風の安定感のあるスタイルが素敵。

大きさの次に驚くのがその状態の良さです。築後80年を経た2004年に大規模修繕が竣工していますが、そこから20年後でも状態は完全と言えるほどです。
東大本郷、駒場、東工大、農工大、学芸大と都内の国立大学は一通り見て、一橋大学が最後となりましたが、古い校舎の保存の良さではトップクラスです。
ロマネスク様式特有の連続した半円のアーチが美しい。東大みたいにゴシック寄りになるとこれが尖って来ます。

設計は伊東忠太。なので建物のあらゆるところに謎の怪獣が組み込まれています。
ロマネスク様式が盛んであった時代のヨーロッパでは、まだ土着の精霊信仰が残っていたのでこのような謎の怪獣が教会建築に受け入れられました。
怪獣好きの伊東忠太が怪獣をくっつけ安いロマネスク様式を選択したのは当然の流れだった、という話は藤森照信の解説で読みました。



兼松講堂に来るなら内部にも入れるタイミングでと思っていました。この4月に一橋大学管弦楽団の演奏会があって行くつもりだったのですが大雨で断念しました。

アーチ越しに見るロータリー。右手に見えるのが本部です。

西洋庭園風の池越しに見えるのは附属図書館の入っている時計台棟。以下の建物は伊東忠太門下の文部省建設課陣によって設計されました。

昭和2年に兼松講堂で伊東忠太の思い描く基本デザインが提示されて、後はそれをベースに数年かけてキャンパスを仕上げて行ったような印象です。

図書館前のロビー部分。

全体を貫く半円のモチーフ。天井の廊下もやわらかいカーブで仕上げられています。

同じく昭和5年に完成した本部棟。

ポーチ上部と階段踊り場からの光がロビーを照らします。

日傘と時計台。

本部裏手。ロータリーから奥には戦後から近年の校舎も並んでいますが基本的なトーンはなるべく保つように努力されています。

本郷キャンパスの内田ゴシックとは建物の印象がまったく違うのに使われているスクラッチ煉瓦はほとんど同じものに見えます。

緑濃いキャンパスに立つ矢野二郎像。日本における商業教育の開拓者。草創期の校長を務めました。
余談ですが、私は未だかつて一橋大学の卒業生と知り合ったことがありません。他校と交流のあった学生時代にも社会人になっても。けっこうレアな存在なのかな。

グラウンド。

昭和7年に建てられた「別館」と呼ばれる建物にドーマーのついたいわくありげな木造建築がくっついていました。何かと思ったらトイレでした。

旧門衛所。昭和6年。趣きのあり過ぎる佇まいで有形登録文化財に指定されています。

学園通りを挟んで反対側にある東キャンパスへ。道路の突き当りに見える小さな参画が復元された旧国立駅駅舎。

東本館。戦時中、大学が陸軍に接収されていた時代には電波兵器練習部隊の予科校舎として使われていました。

斜めに見る東1号館。背丈が低いのがロマネスクの基本ですが、それにしても昭和初期の国立なので土地にも相当余裕があったからできた計画ではないでしょうか。

東1号館。近年の建物も色調や時計台上のロンバルディア帯で伊東忠太の遺志を伝えます。

一橋大学は若干舐めていたのですがとんでもなく美しいキャンパスでした。次回は本当に兼松講堂の中に入れる日に行きたいと思っています。
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北里大学/北里研究所

2023年06月13日 | キャンパス建築巡り

北里通りにある北里大学の白金キャンパス。
北里研究所と研究所病院、一般公開されている北里柴三郎記念館などが併設のため敷地に特に門はなくフリーで入構することができます。
左側にそびえる高層タワーは2015年に完成した物。

1980年頃まではこの場所には大正4年に建てられた北里研究所本館が建っていました。この写真は2012年に愛知県犬山市の明治村で撮影したものです。
1980年と言えば私は20歳。そのころせめて今と同じ程度の知性があればちょこっと見学に来て現役の洋館を見ることだってできたわけです。そう考えるともったいない。

白金キャンパスはさきほどのタワーを中心に2015年から数年間かけて校舎が一通り建て替えられました。設計は基本的に日本設計のようです。

タワーはプラチナタワーと命名されています。白金にあるので仕方ないんですが若干ドンキっぽい香りがしてしまいます。
筐体の周囲に1フロアに3枚のピッチで庇が取り付けられているもの。千葉大学のゐのはな同窓会館を巨大化したようなコンセプトです。

プラチナタワーの前は1段下に掘られていますがこれは特に地形とは無関係のようでした。

プラチナアリーナと呼ばれる体育館のロビーからプラチナタワーを見る。この単語、本当に学生や職員さんに使われているのでしょうか。



北里柴三郎記念館は北里柴三郎の業績を中心に北里研究所や日本の近代医学への役割を展示しています。

内部は写真は撮れませんがなかなか面白い。北里柴三郎は今度千円札の肖像になるんですが、渋沢栄一や津田梅子と比べると今一つその人となりがイメージできない。
ネームバリューや業績では渋沢栄一に負けていないと思うのですが、大河ドラマにするほどはキャラが立っていなかったのかも知れません。

展示室の前にあった旧北里研究所の模型。
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大正大学8号館

2023年06月05日 | キャンパス建築巡り

大正大学の前を通りかかるとたまたま学園祭期間中のようで、小さなキャンパス内にはたくさんの人で賑わっていました。

メインストリートの突き当りの建物が以前見たものと違う。金ぴかの巨大なものに変わっていました。

「以前見た」というのはこんな風景。これは2013年6月キャンパス見学をした時の同じ場所です。
10年前にはそれほど高さのない礼拝堂がありました(写真左側)が、それが2020年に新8号館として生まれ変わりました。
大正大学というブログを書いていますがこの頃はまだ「キャンパス建築巡り」というカテゴリーもありません。

中に入って見ました。目に飛び込んでくるのが金の階段。外観で使われているのと同じ大型のパンチングメタルが使われています。

建物の外からガラス越しに見てもこの階段が目を引きます。

上に上がって見下ろしたところ。

階段の奥は「ラーニングコモンズ」という大きな吹き抜けになっていて、学園祭のこの日は父母会が行われていました。

階段室もメタルで埋め尽くされています。同じ大きさの円または楕円を四分の一ずつ重ねる「七宝文」がモチーフになっています。

4階に上がると蓮がデザインされた厳かな回廊。右側の壁の中が新しい礼拝堂で、普段公開されていないご本尊様を拝むことができました。写真はNG。

同じく4階礼拝堂前ロビー。左手に見える壁画は10年前の旧礼拝堂でも見て写真を撮っていました。

新8号館の見どころは3階部分の図書館なのですが残念ながらこの日に見ることはできませんでした。
写真は新8号館を設計した大林組のサイトからお借りした物。大きな空間に階段とスキップフロア。見事な空間デザインです。
功名心が前面に出過ぎるアトリエ系有名建築家ではなく、力のあるゼネコンに設計から施工まで一括でお願いするのは合理的なことです。

もう一度外観。東洋風なものが何もないのに佛教大学だと強く主張するデザインです。金の帯の内側は外からは想像できないようなおしゃれなテラスになっています。

仏教系でもバンド活動はやります。初々しいバンドでしたがボーカルが美声でした。

今どき風のツーブロックとガチの剃髪が何やら打ち合わせ中。10年ぶりの大正大学面白かったです。
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東京学芸大学

2023年01月28日 | キャンパス建築巡り

三鷹台から連雀通りを歩いていて武蔵小金井駅を通過してからしばらく行ったところに東京学芸大学がありました。武蔵小金井駅から1.6km。大半はバスで通学です。
正門に一直線に続く道はまだ公道なのかな。両脇の桜はこの界隈でも花の名所として知られています。

入場はフリーでしたが、本当は守衛所で必要事項の記入をしなければいけなかったようです。すみません。
正門の奥にケヤキに囲まれた広いウッドデッキがありました。このパターンは東工大と同じです。

バス通学と並んで自転車通学も多いので駐輪場もたくさんありました。

ケヤキ広場に面して図書館。

キャンパスは付属の小学校中学校も含めて約800m×570mの平行四辺形型。かなり広いです。

かなり年季の入った体育館。

第二むさしのホール。食堂です。全体的に学生たちがほのぼのした印象。北海道大学の雰囲気に近いかも。おしゃれして来ても無駄に浮いてしまいそうです。
東京学芸大学は東京府立の4つの師範学校が統合して昭和24年に生まれた大学です。小金井のこの地に移転したのが1964年。
どのくらいの学生が実際に教育者になるかは不明ですが、学芸大を選択した時点で他の総合大学とは生徒の分類が変わるかも知れません。
学芸大学に進学した知人って片手に数えられるくらいしか知りませんが、確かにあまりガツガツしていないタイプでした。実は私の次男も学芸大卒でそういう感じです。

キャンパス見学をしていると斬新なデザインのモダン校舎や、歴史を感じるレトロ校舎が目に入って来るものですが、学芸大学では驚かされる建築物がありません。
私立、効率を問わず全国の大学がこの20年ほどの間に繰り広げて来たキャンパス整備がほとんど行われていないようです。

そういう計画はないのかと調べていたら「キャンパスマスタープラン2022」という文書がありました。考えてはいるようです。
上のキャンパスマップはそのマスタープランの中にあった校舎の建築系年数をまとめたもの。建築後61年以上が赤、茶色が41~60年。ほとんどが該当します。

多少新しい中央棟の2~4号館。上のマップで見ると建築後16~30年という黄色の建物です。

ちょっとだけモダン。竣工年は不明です。

全面に弓型のベランダをつけたデザインは成蹊大学を思い出します。

メタセコイア? 土地にはまだ十分余裕があります。

芸術館学芸の森ホール。卒業展をやっていました。
自然に年月を重ねて来たキャンパスの雰囲気は好感が持てました。ほんわかした人がここで学んでさらにほんわかして卒業するイメージです。知らんけど。
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東京都市大学

2022年11月28日 | キャンパス建築巡り

多摩川駅から丸子川に沿って30分ほど歩いた場所に学校がありました。校門はありますが特に門の前に守衛室もなく中に入るのはフリーパス状態。
ちょっと雰囲気も良さそうだったので丸子川から離れてちょっとだけキャンパス見学させてもらいました。

門には「東京都市大学」と書かれていましたが思い当たる学校はありません。その場で調べて見ると2009年まで武蔵工業大学と呼ばれていた学校でした。それなら分かる。
昭和4年に工科学校として開校し昭和24年に武蔵工業大学に。数年後に東急グループの五島育英会の経営となり2009年の創立80周年を記念して東京都市大学に改称。
という流れのようです。基本的に理系の大学で建築学科は情報システム学科と並んで看板学科のようでした。窓辺に建築模型が並んでいます。

この大学では現在敷地面積の約3分の1をリニューアルする「東京都市大学キャンパス再整備事業」が進行中です。
これは今年春に落成したばかりの新7号館。エッジの効いた造形がなかなかかっこいい。デザインはシーラカンスK&H。構造・設備が東急建設の共同設計。

新7号館での授業風景。「日建設計」とか「山下設計」という単語が聞こえてきました。



建物の外に飛び出した斜めは内側にある階段をなぞっただけの飾りでした。ふざけてのぼってしまう学生とかいないのかな。

サクラセンターという愛称のついた14号館。前庭では木材を使ったフォリーを製作していました。

上層階が体育館、下層階が食堂。明るくて雰囲気の良い食堂です。
浅草の老舗レストラン大宮と提携したメニューがあるそうです。右の方見える「唐揚げ専門」の看板も気になる。

上の写真の食堂の反対側はCafe SORA。

体育館の脇の壁の奥に「祈りの場所」がありました。留学生がいると必要なスペースがあるんでしょう。

14号館の外に飛び出していくデッキ。左の建物は図書館。

半円形に飛び出した玄関は五島記念館(3号館)。

外から見ても分かりませんでしたが奥に進むと円形に空が抜けていました。

東急グループの祖、五島慶太の障害と業績をパネル展示していました。考えて見ると東急沿線で育ったのに創業者のことはまったく知りませんでした。
この後で五島美術館に行くのでこの日は五島祭りになりました。
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成城大学

2022年10月31日 | キャンパス建築巡り
成城学園駅付近は二度の野川歩きや先週の仙川、世田谷通り歩きなどで何度も来ているのに、不思議に成城大学を見ようと思いつきませんでした。なんでかな。
学生時代には楽器を担いで何度か訪れた成城大学。40年ぶりに足を踏み入れます。

成城大学へは駅前の信号からまっすぐ200m直進してから右折して、銀杏並木を歩いて正門に向かうというのが一番ドラマチックな入り方です。

正門付近。成城大学は学内見学は随時可能。「受験生に限らずお気軽に本学にお立ち寄りください」と公式サイトに書かれています。素晴らしい。
ちなみにこの写真は一通り見学して最後に門を出た時の写真です。入る段階でいきなり写真を撮りまくると不審者として咎められかねないので入る時には撮りません。
この日は大学内を徘徊する予定で来ているので、一応ジャケットなど羽織って客員教授くらいに見えるようにしていきました。

入ってすぐ。広場のようなスペースを、左から3号館、2号館、1号館が取り囲んでいます。

2号館の手前を右に、小田急の線路に近づく方向へ。表門から地上を歩いてきましたが奥に進むといつのまにか地面は1フロア低い所になっています。

成城大学が仙川沿いの傾斜地にあることは分かっていました。高台になる正門と川沿いの校舎とは地表の高さが6mも違っています。
なので平らに歩いてきたつもりでも奥の7号館、8号館前では連絡ブリッジの上にいることになるのでした。

階段降りた先はすぐに仙川です。右が8号館、左が7号館。

8号館の中に入ってそとを眺められる窓を探しました。小田急線の線路が近い。写真下の道はつい先日歩いた仙川沿いの左岸です。

8号館Lounge #08。かっこいいカフェは岐阜県羽島郡に本社のあるバウハウス丸栄の設計。店舗内装インテリアで豊富な実績のある会社です。

さきほどの階段を下りて一番川に近い通路へ。見えている橋は先日のこの写真の橋です。

右手に植えられているのは桜です。春は素晴らしい眺めになるんだろうな。

7号館。

3号館。2007年に新築された成城大学の中では新しい建物。設計は山下設計です。

3号館1階のラウンジ。今まで見てきた中で最もコンパクトなキャンパスですがこういうフリースペースはとても充実しているという印象です。

3号館の高低差を吹き抜けとして生かしたきれいな階段スペース。かっこいいですね~。

3号館の外。一つ上の写真の外の川沿いです。すでに低くなっているのにさらに奥(北)に向かって下がっています。

下り坂の先にあったのは成城池。大学の裏手にこんなのあるの知りませんでした。
昭和40年頃まではすぐ後ろの仙川と同じ水面レベルでした。現在では河川改修の結果川より2m高い独立した池になっています。

成城池の先に仙川を渡る歩道橋があります。川向こうにも成城学園の所有地は広がっていて、歩道橋の脇にはスポーツセンター、その先には初等科があります。

正門前まで戻って大学食堂棟(左)の前の道。40年ぶりに成城大学に来て初めて見覚えのある風景でした。
学生の頃、成城大学のオーケストラ(レストロ・アルモニコ管弦楽団)のエキストラで正門からこのコースで突き当りに見えている講堂に行ったのでした。

学生食堂の中。さすが成城大学というおしゃれな空間。天井から下がる白いネットは、光をやわらかく拡散させるのと、反響を抑えるためのものと推察しました。
ちょうどお昼だったので、440円のネギラーメンを食べましたがとても美味しかったです。

40年前にオケのリハーサルで行ったのはここ。現在は学園創立者の名を冠した柳沢記念講堂ですが、以前は五十周年記念講堂でした。
1967年に建てられた講堂を2015年に日建設計の設計で大幅改修して柳沢記念講堂としてリニューアルしました。
こちらが公式サイトにある1985年の講堂の姿です。建物自体は依然と変わっていないことが分かります。

柳沢記念講堂の斜め向かいにある成城学園歴史記念館。残念ながらこの時は中を見ることができませんでした。

歴史記念館からガラス越しに中を覗く。奥にある階段を見て建築好きの人なら思い出すものがあります。私もすぐに分かりました。
高崎にある群馬音楽センターの階段のミニチュア版なのです。2019年に訪ねたブログこの写真の階段
どうしてここにレーモンドのエッセンスがあるのか訪れている時には分かりませんでしたが、帰って調べてその理由が判明しました。

成城大学の建築について新しい部分では3号館の山下設計や講堂改修の日建設計の名前がすぐに出てきますが、それ以外の古い校舎の設計はなかなか情報がありません。
東京建築アクセスポイントというサイトで成城大学見学ツアーの記録を見て、そこで初めて設計者の増沢洵の名前を知りました。
wikipediaの増沢洵の項目を見たのですが、成城大学について書かれているのは「1977年 成城学園の建築で日本建築学会賞」という略歴の1行のみ。
そこから増沢デザインという増沢洵氏のご子息幸尋さんのサイトで「増沢建築設計事務所の記録」に行きつきました。
その記録も年代別に建物の名前が書かれているだけのそっけないものですが、そこからなんとか成城大学の名前があるものをピックアップしてみました。

増沢建築設計事務所による成城大学の建築物一覧
1958 1号館・第2体育館
1963 2号館
1967 50周年記念講堂
1968 旧図書館(現在は4号館)
1970 旧3号館(2007年に山下設計の設計で建て替え)
1977 5号館
1979 中学校第2校舎(2021年にリノベーションで大学9号館になる)
1980 本部大学食堂棟
1988 新図書館
1991 中学校音楽ホール(ここまで増沢洵氏の設計・2020年10月に歴史記念館となる)
1995 7号館(幸尋氏の設計と推測)
1996 スポーツセンター (幸尋氏の設計と推測)

増沢洵氏は1990年に65歳で亡くなられています。年齢から考えると1988年の新図書館までは関わっておられたと想像します。
1995年以降の2点については後を継がれた幸尋さんに拠ると考えて差し支えないように思います。
成城大学は1~9号館までしかありませんので、こうして見ると現在でも3号館と8号館以外は増沢親子の設計の校舎が使われていることが分かります。
以上を大学サイトのキャンパスマップにまとめてみました。(一次資料に基づかない推定が含まれることをご承知おきください)

いろいろな大学の建築を見て来ましたが、ここまで長年一つの設計事務所に設計を任せて来たキャンパスというのは記憶にありません。
成蹊大学と三菱地所設計がわりとこんな感じですが、あれは大学創立者の岩崎弥太郎と系列会社の関係なのでまあ理由は分かる。
学習院大学と前川國男という関係もありますがここまでの偏りではありません。

さて、成城学園歴史記念館の階段とレーモンドの群馬音楽センターの階段との類似についてです。
増沢洵氏のwikipediaの履歴にこうありました。

・1947年 レーモンド設計事務所入所。アントニン・レーモンドに師事。

そしてなぜか成城大学関連がひとつも記載されていない簡易な作品リストの中に「群馬音楽センター」の文字がきっぱりと書かれていました。
増沢洵氏はレーモンド事務所にいるときにあの階段に関わっていたんですね。歴史記念館の階段が師匠レーモンドへのオマージュであることは疑う余地がありません。
ただ、残念ながら8号館と歴史記念館の設計者についてはまだ行きつけてはいないのでもうちょっと調査を続けなければなりません。
【追記】
その後の調べで、成城学園歴史記念館の建物が成城学園中学校のミュージックホールとして1991年に建てられたことが判明
改めて増沢建築設計事務所の作品リストの1991年の項を見ると確かに「成城学園中学校音楽ホール」の文字がありました。
1991年は増沢洵氏がなくなる前年ですが、幸尋さんの年齢・経歴などから音楽ホールの設計も増沢洵氏が主体と考えるのが妥当なように思えます。
ということで、建築物リストとキャンパスマップの一部を修正しました。
マップにある13の建物のうち、3号館と8号館を除く11の建物が増沢父子の作品でした。増沢率84.6%。残るは8号館の設計者だけです。
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北海道ぐるぐる 北海道大学

2022年09月22日 | キャンパス建築巡り

北海道大学正門。日本の大学でも有数の歴史と広大なキャンパスを誇るあの北大の正門としては予想外にシンプルで質素とも言える正門でした。
が、そこから一歩入ると内部はどこを見てもさすがと驚きの連続でした。

正門からすぐに中央ローンと呼ばれる低い芝生の谷津が続いています。

芝生の上では思い思いに敷物を敷いて輪になって座る学生や木陰で眠る人。芝生の中央には蛇行する川の流れが。
まず、これが本当に日本の大学なのかとびっくりしました。東京を中心にいろいろなキャンパスを見ていますがこんなに美しく長閑な場所はどこにもありませんでした。

明治42年に古河財閥より寄贈された古川講堂。
明治9年に創立、大きな自然災害も戦禍にも遭わなかったキャンパス内には明治、大正、昭和初期に建てられた建築遺産がごろごろあります。

メインストリート。札幌キャンパス内をほぼ南北に貫くこの道は一番南のクラーク会館前から環状通のロータリーまで約1.2km直線が続きます。
1.2kmというと渋谷駅から表参道駅くらいの距離です。けっこう長い。ちなみに私が通った都内の大学のメインストリートの長さは150mもありませんでした。

現在は総合博物館となっている旧理学部本館。スクラッチタイルにゴシック風の装飾が見られる校舎は内田祥三のようにも見えますが設計は大学内の営繕課。昭和4年の建物です。

紹介しきれない数の歴史的建造物が芝生の敷かれた木立の中に並んでいます。こんな環境ですごす学生生活ってどんな感じでしょう。
広大な公園のようなキャンパスが札幌駅の直近にあるのが不思議な気がしますが、調べてみると大学の開校(明治9)の方が札幌駅ができた明治13年より先でした。
鉄道(現在の函館本線)の方が路線を札幌農学校に寄せて来た感じです。

とにかく広いキャンパス内は自転車がなければどうしようもありません。どうやって撮ったんだこの写真?

メインストリートの先にある第二農場。クラーク博士の提唱で畜産農業近代化のモデルとして作られました。

牧牛舎。北海道での対応性を評価するため入り口の左右で壁の材料、換気機構などが異なる形式で作られています。1909年。重要文化財。

模範家畜房。日本最古の洋式農業建造物。ツーバイフォーの原型となる木造バルーンフレーム構造。太い梁や柱を用いずに薄い板と釘だけで頑丈に作られています。
これらの建物は元々は現在の正門付近にありましたが、北大が農学校から総合大学に変わるにつれて2度の移転を経て、現在の位置で文化財として公開されています。
初日の北大散歩はここまで。

北海道3日目の昼前に再び訪れた北大。有名なポプラ並木にやってきました。天気いい。

並木から西側は第一農場。奥に見えている高い木立の連なりはもうひとつの平成ポプラ並木。

最初のププラ並木の写真の位置にはチェーンが貼られていて侵入できないのですが、農場を回り込んで行けばポプラ並木の奥まで行くことができます。
この周辺は農場ですので舗装もされておらず、またあちこちで進入禁止となっています。

北大と言えば「動物のお医者さん」の舞台となった獣医学部。ここでハムテルやチョビや二階堂が漆原教授に振り回されていたと想像すると感慨深いです。
7巻で菱沼さんが勤務先から大学に近道をして雪に埋もれる場面がありますが、その位置関係も把握できました。

マンガでは菱沼さんは丸大製薬という会社の研究員になっていますが、それらしい位置にシオノギ製薬の研究所があるので、そのあたりがモデルではないでしょうか。
モデルと言えば菱沼さん自身にも実在のモデルがいるのですが、それはなんと男子学生だったようです。現在は鳥取大学で教授を務めておられます。

北大中央食堂。巨大キャンパスの中央食堂にしては意外に普通でこじんまり。

白い衝立を見ながら食べるのも嫌だったので屋外で豚丼を食べました。セイコーマートの真ん前にあった人工雪誕生の地の石碑の前で。
2013年に仕事で「中谷宇吉郎の森羅万象帖」という本を担当したのですが、それが世界初の人工雪の結晶を作る話でした。
仕事で関わっている時はそれほど興味もなかったのですが、こうやって10年経ってそのことが不意に目の前に現れると、一度読み返してみようという気になります。

食後のコーヒーを持って最後にもう一度中央ローンへ。この川はサクシュコトニ川というそうで、かつては構内の湧水から自然に流れていた川でした。
現在は石で作った吹き出し口が作られていてそこから流れが始まっています。現在は地下水を汲み上げているか、もしくは流れを循環させているかと思われます。

札幌の重要な観光地として開放されている北大キャンパス。構内を歩いているのは学生・教授より観光客の方が多いという文章も見ましたが本当にそうかも知れません。

北大構内サンポの軌跡です。たぶん7~8kmほどはぐるぐるしたようです。
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東京工業大学 大岡山キャンパス

2022年06月09日 | キャンパス建築巡り

呑川から台地に上がる途中、最初に見えて来る真っ黒な建物が大岡山北3号館(環境エネルギーイノベーション棟)。
環境エネルギーの最先端を研究する研究施設として、前面に張り巡らされた太陽電池パネルで棟内のほぼ全ての電力を自給自足で賄います。
建物の真正面で東急大井町線と目黒線が立体交差しているところはまるでプラレールでも見ているかのようです。
ブログでは何度も東村山周辺での西武線の路線図が意味不明と書いていますが、この近辺の東急4路線の絡みも普段利用しない人には分かりにくいでしょうね。

坂道を登りきると大岡山駅。その対面に見えるのが東京工業大学のシンボル、博物館・百年記念館。1987年ですから35年も前の作品です。
設計は東工大の建築学科で30年以上教鞭をとった篠原一男。メタボリズム後の日本建築界のリーダーとされた大物ですがここで名前が出るのは初めてです。

シリンダーと呼ばれる半円の筒が最上部に突き出ています。

逆側の坂道途中で撮った写真で東西の両面で飛び出ていることが分かります。

3階の談話室。シリンダーが建物内部も貫通しています。

正門正面に回ると主に留学生との交流やワークショップのために建てられたToki Plaza。地下に続く階段と、左の階段状の外壁が印象的。
建物と地形の境界線が曖昧なこちらの建物は2020年の隈研吾事務所の設計。

外壁でもあり通路でもありコミュニティスペースでもあるユニークな造り。内部もすごそうでしたが学生証がないと入れませんでした。残念。

2本のV字の脚て中空に浮いたガラスの建物が東京工業大学附属図書館。

正面に回るとすごい角度のトンガリ物件でした。設計は東工大の安田幸一研究室と佐藤総合計画との共同設計。2011年竣工。

Toki Plazaを左に回り込むと両側に桜並木のウッドデッキ。桜の木を囲むように置かれたベンチが気持ちよさそうです。

ウッドデッキ左に建つ事務局1号館は先ほどの百年記念館を設計した篠原一男の師匠である清家清の作品。1967年。55年経っても古びることのないデザインがさすがです。

台東区蔵前にあった東京高等工業学校が関東大震災で被災し大岡山に移転。7年後に大学への昇格が決まり、官立大学の震災復興事業として建てられたのがこちらの本館。
設計は東工大学内に設置された「復興部」。昭和9年に完成した校舎は第2次大戦の空襲から奇跡的に逃れて、現在は国登録有形文化財となっています。

異なる色の石を合わせたアーチ式の玄関がきれい。白いタイルの外壁で内田ゴシックとの差別化を図っています。内部の階段室にはスクラッチタイルも使われています。

横から見た玄関。本館から南西に下り斜面になっているおかげで横浜方面まで見通しがあります。

大物を3つ見たのであとはのんびりキャンパス内を散策。新旧の校舎が混在する中でこちらは昭和11年の大岡山南実験棟2。鮮やかに塗られた扉が素敵。

扉が開いていたので中を覗かせてもらいましたが、見えているの翼の断面。
どうやらこちらが鳥人間コンテストで2連続を含む5度の優勝を誇る名門、東工大Meisterチームの作業所のようです。

大岡山南5号館脇の草むらの中にロボコン発祥の地の石碑がありました。ロボコンは昭和57年にここ東工大でスタートしたのでした。
最初の課題が乾電池2本で人を乗せて規定の距離を走りぬくタイムレースだったので、記念碑は2本の乾電池の形をしています。

やたらと巨大なタンクが並んでいるのが理科系大学の特徴です。

キャンパスの南のはずれ見晴らしの良いエリアですがあまりこの辺りまで来る学生は多くなさそうです。中央のビル群は中原街道沿いの雪が谷大塚付近。

こうやって見ると学生の服装だけでそれが1980年なのか2020年なのか判別するのは意外と難しそうです。理科系大学だと特にそうかな。

大岡山西一号館(旧分析化学実験室)。本館と同時に有形文化財に登録されたロマネスク風の2階建て校舎は本館より古い昭和6年の完成です。

本館前の芝生広場。終戦後はこの斜面で芋などを栽培していたそうです。

図書館の背後から東急の線路を越えて大岡山北キャンパスと結ぶ富士見橋。
画面中央に見える黒い環境エネルギーイノベーション棟の左にがっつり富士山が見えるらしいです。

ということで久しぶりのキャンパス散歩は清家清から隈研吾まで、まるで建築博物館のような東工大の大岡山からお届けしました。
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成蹊大学

2021年12月29日 | キャンパス建築巡り

五日市街道を散歩中、吉祥寺を過ぎてしばらく進んだところにこんなにきれいなケヤキの並木がありました。そこにあったバス停を見て成蹊大学と知りました。

正確には成蹊学園という学校法人が運営している小中高等学校と大学がこの地にあって、大学の名前が成蹊大学です。

日本における貧富や身分の格差のない自由な教育の場を求めた中村春二によって明治後期に開かれた私塾「成蹊園」が後の成蹊学園の基礎となっています。
東京高等師範学校附属中学の同級生だった岩崎小弥太(三菱財閥総帥)と今村繁三(銀行家)が中村の理想に共感し、経済・運営の両面で支援します。
大正3年より中学校、小学校、女学校が開校、大正13年に中村が逝去した後も岩崎、中村が遺志を引き継ぎ、昭和24年に成蹊大学が開学しました。

現在成蹊大学本館となっているこの建物は大正13年に竣工した旧制成蹊高等学校の校舎です。設計は日本人初の英国の王立建築家協会建築士となった桜井小太郎。
微妙に見覚えがあると思ったら呉鎮守府司令長官官舎を設計した人でした。とりあえず名前を書いておくと後で繋がります。
明治3年生まれの海軍技師でしたが、この成蹊高等学校を設計した頃には三菱合資会社地所部(現在の三菱地所)の社員として丸の内ビジネス街建設に携わっていました。

まもなく100年を迎えようという建物にしては外装の状態がとても良好。最近に、大正風のレンガ建築を模して作ったと言われても信じてしまいそうです。
もちろん重ねての補修はしているんでしょうが、壁面のどの部分を見てもレンガタイルに傷がほとんど見当たりません。

本館の右手に建つトラスコンガーデン。室内運動場。本館と同じく大正13年の竣工。アメリカのトラスコン・スティール社の鋼材を輸入して建てられたことによる命名。
第二次世界大戦の頃には三菱電機の成蹊工場として学徒動員に拠るレシーバーの組み立てに使われました。

平成になってすぐに体育館としての使用は終了し、内装を一新して学生たちの憩いの場になりました。繊細な骨組みや窓枠が本当に素敵な場所です。
ここを見た一週間後に有村架純と菅田将暉の「花束みたいな恋をした」という映画を見たのですが、早い段階でここがロケ地に使われていてびっくりしました。

同一敷地内に小学校から大学まで全てがあります。正門から見て右側が小学エリア。ずっと奥左側に中学高校エリアがあります。

大学14号館。大正13年の本館を除けば他に近代の建築は見当たりません。2012年に創立百周年記念事業としてキャンパスの再整備が行われ大半の建物が建て直されました。
全てを調べた訳ではありませんが、校舎の設計は三菱地所設計が請け負っています。創立時に岩崎小弥太が援助して以来、三菱との強いつながりは変わりません。

12号館と13号館の間の通路。コンクリート打ち放し。実利的な設計が主体の中で珍しくデザイン性を求めた部分でした。

百周年事業で生まれたアトリオ(中庭)ごしに8号館(右)と3号館(左)。ほぼ同じ設計の2棟が渡り廊下を挟んで線対称に建てられています。
先ほどの14号館と同じくフロント部分が弓型に張り出しています。これが三菱地所設計がここに定めたテイストなんでしょうか。
この創立百周年のキャンパス整備では土木・環境整備・地域開発・都市デザインの分野で評価され、2011年のグッドデザイン賞を受賞しています。

3号館のさらに左に繋がる6号館。キャンパス内で唯一のガラスウォールモダン。2014年。もちろん三菱地所設計。ちょっと中に入って見ます。

1階の「ふらっとコモンズ」と名付けられたオープンスペース。ステンレスパイプをSの字型に曲げた大型のベンチが目を引きます。

吹き抜けの階段スペース。

6号館から見る本館。正面からでは分かりませんが建物自体は中庭を二つ持つ「日」の字の形をしています。
これ確か5階から見ていたんだと思いますが、吉祥寺くらいだと5階からでもずいぶん遠くまで見渡せるものです。

情報図書館。2006年。小学校から高校まで成蹊学園に通った坂茂と、三菱地所設計の共同設計。
2014年のプリツカー賞受賞者でありながらほとんど作品を見たことがない坂茂さん。このブログでは秋田の田沢湖駅に次いで2度目の登場です。
本来であれば成蹊学園内で最も見るべき建物なのがこの情報図書館なのですが、この写真で見ても何が面白いのか全く伝わらないと思います。

ガラスの内側に白いスクリーンが下りていなければ、情報図書館はこのような姿で見られます。5層の吹き抜けアトリウム内に林立するガラスのキノコ。すごいでしょ。
現在は諸般の事情で一般人は見学ができませんが、いつかこの中を見学したい。小さな夢の一つです。

学園の門を出て五日市街道に戻る並木道。この日は中でTOEICの試験が行われていてちょうど終わった所。皆さんお疲れさまでした。
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