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日本人の建築家

2017年03月24日 | 雑記
世界でも有名な日本人の建築家。
よく知っている人もいれば、初めてきく名前もあります。

☆妹島 和世+西澤 立衛
☆安藤 忠雄 表参道ヒルズが有名ですが、あとはあまり知らなかったです。
☆丹下 健三 聖マリアカテドラル教会
☆槇 文彦
☆伊東 豊雄
☆石上 純也 1974年生まれの若い人 
☆隈 研吾 
☆原 広司
☆磯崎 新
☆藤本 壮介

安藤忠雄のことを知りたくて、調べてみました。
瀬戸内リトリートに行きたいですし。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以下はウィキペディアから抜粋。

大阪府大阪市港区生まれ、同市旭区出身。
双子の兄で、さらに弟がいる三人兄弟である。
双子の弟は東京で北山創造研究所を主宰している北山孝雄。
下の弟は建築家の北山孝二郎(ピーター・アイゼンマンとのコラボレーションで名を馳せた)。
一人娘だった母親の実家を継ぐために、生前からの約束にしたがって
大阪市旭区の祖父母安藤彦一・キクエの養子となる。
大阪の下町にある間口2間、奥行き8間の長屋で育つ。

大阪府立城東工業高等学校卒業後に、前衛的な美術を志向する
具体美術協会に興味を持ち、関わったこともあるが、
大学での専門的な建築教育は受けておらず、関西の建築家・都市計画家の水谷頴介などの
建築設計事務所でのアルバイト経験と独学で建築士試験に合格したという。

木工家具の製作で得た資金を手に、24歳の時から4年間アメリカ、ヨーロッパ、
アフリカ、アジアへ放浪の旅に出る。
ヨーロッパからの帰路、マルセイユで数週間待たされた後、
帰国の船に乗り、象牙海岸、ケープタウン、マダガスカルに立ち寄り、
インド・ムンバイで下船する。

安藤は“何かに導かれるように”汽車に乗り、ベナレスに向かった。
ガンジス川で牛が泳ぎ、死者が荼毘に付される傍らで多くの人々が沐浴するさまや、
強烈な太陽の下、異様な臭気に包まれた果てしなく続く大地、
生と死が渾然一体となり人間の生がむき出しにされた混沌世界に強烈な印象を受け、
逃げ出したい気持ちを必死にこらえながらガンジス川の岸辺に座り込み、
「生きることはどういうことか」を自問し続けた。

「人生というものは所詮どちらに転んでも大した違いはない。
ならば闘って、自分の目指すこと、信じることを貫き通せばいいのだ。
闘いであるからには、いつか必ず敗れるときが来る。
その時は、自然に淘汰されるに任せよう」と考え、ゲリラとしての生き方を決心する。
1965年、24歳のときである。この放浪中に安藤が撮影した写真は、
ルイス・I・カーンの作品集などで使われている。

過去にはプロボクサーでもあった。
高校2年の時にライセンスを取得し6回戦まで行ったが、ファイティング原田の練習風景を見て、
その才能に圧倒され、ボクサーとしてやっていくのを諦めた。

1977年のローズガーデン(神戸市生田区)等初期の作品のいくつかは、
弟の孝雄の所属していた、セツ・モードセミナー出身の浜野安宏が代表を務める
浜野商品研究所(1992年、浜野総合研究所と改名)と共に実現した。

1970年代には個人住宅などの小規模建築、1980年代には商業施設、寺院・教会などの
中小規模の建築の設計が多かった。
1990年代以降は、公共建築、美術館建築、また全国や海外の仕事も増えている。
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チェ・ゲバラに傾倒していた時期もあったとのこと。
こうしたものを読むと、平凡さを感じる今日この頃です。

旅人もいいですね。



写真を見ながら、旅をするのもいいかもしれません。

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ピント

2017年03月23日 | 雑記
可愛いふっくらスズメだったけれども、ピントが別のところにあっています。
カメラのピントは、枝になっていたようです。
せっかくのふっくらスズメ。

奥行きが複雑なものは、ピントが合わせにくいです。

お話のピントが合わないよりはマシかもしれません。



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『イン・ドリームス』殺意の森

2017年03月22日 | 映画
アネット・ベニング主演
『アメリカン・ビューティ』で、主演女優賞にノミネートされてから
なんとなく名前は記憶しています。
誕生日が5月29日。
ふたご座です。
『天国からきたチャンピオン』のウォーレン・ベイティの奥様。
この映画は、私の好きな映画の5本の指に入ります。

このころのウォーレン・ベイティは素敵でした。
この前のアカデミー賞授賞式で、史上最悪の受賞作品発表の間違いを
してしまったので、最近有名になりました。

そのニュースをみて、年を重ねたことを実感しました。
『天国からきた・・・』では、当然ながら若くて。
出会うべき人は、必ず出会う・・・そういう映画です。

その奥様のアネット・ベニング。
映画では、エキセントリックな役柄で、感情移入していました。
予知夢をみて、自分の子供が殺されてしまい
さらにはパイロットの夫も殺されてしまい
最後には自分も・・・

ロバート・ダウニーjuniorが若いです。


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体の機能

2017年03月21日 | 看護師の仕事など
「もういっぱいいっぱい」というそんな言葉もよくきかれますが、
人間は意外と予備能力が多いのです。
もうだめーーと思っても、いあ甲斐と切り抜けることができます。

なんとかなるものなのです。

患者さんたちも、脳に病変があっても、「できる部分」があるのです。
認知症の患者さんたちも、できない部分があっても、できる部分を
発見することも多々あります。

どこの臓器も、10%しか使っていないと言われます。
肺活量も一生懸命測定しても、日常は10%です。
脳の機能もそうですし、体もそうかもしれません。

肺がんでも、健康な部分が残っているから普通に呼吸ができます。
酸素の必要もありません。

脳の場合、予備能力が高い人は、小さい時に学習の機会が多いとか
学歴が高いとか、頭をよく使う仕事をしていた人だそうです。
そして、年を取ってからは、社会的なネットワークが豊富で
活動的な仕事をしている人だそうです。
小さい時には戻れないので、今、そう、活動的な生活をすることが重要です。

脳に刺激を与えることです。

何かにチャレンジするということは、ニューロンの密度が高まり、シナプスが形成されます。
ひとりぼっちでもあきらめず、
早歩き運動や、クロスワードパズルなどで頭を鍛えるといいそうです。
うちは母がクロスワードパズルを毎日やっています。
きっと認知症にはならないことでしょう。
父はなりそうです・・・・・。

これからの人生、
明るく、やりたいことをやって
難しいことに挑戦して
楽しく暮らしたいものです。



たとえば、こういうお花の数を数えるとか・・・・

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『インフェルノ』

2017年03月20日 | 映画
監督:ロン・ハワード
主演:トム・ハンクス
   
スターウォーズのフェリシティ・ジョーンズも。

『ダ・ヴィンチコード』のシリーズです。
ハーバード大学の宗教象徴学者ロバート・ラングドン教授が主人公となってるものです。
『天使と悪魔』も読んだのか、忘れました。
以下はサイトからのあらすじ。

数々の謎を解き明かしてきた宗教象徴学者ロバート・ラングドン教授(トム・ハンクス)が、
人類滅亡の恐ろしい計画を企てている生化学者ゾブリストが詩人ダンテの叙事詩「神曲」<地獄篇インフェルノ>に
隠した暗号の謎に挑む。
 ゾブリストは「このままでは人類は100年後に滅びてしまう」
と言われるほどの深刻な人口増加問題の過激な解決策として、
人類の半数を滅ぼす為のウィルスを生み出す。
そしてダンテが予言した人類の“地獄”の未来図=<地獄篇インフェルノ>になぞり計画を実行する。
「100年後の人類滅亡」または
「今人類の半分を滅亡させて生き残る道」どちらが正しい未来なのか?
宗教象徴学の天才に対して、生化学の天才が突き付けた挑戦状。
ラングドン教授は地獄篇インフェルノの暗号コードに挑み、その選択を迫られる。


どこかで見たことある女優さんが出演していて、それがシセ・バベット・クヌッセンです。
でも、調べるとどの映画も観ていませんでした。
デンマーク出身の48歳。未婚でお子さんもいらっしゃる。
デンマーク映画の『アフター・ウェディング』というのに出演しているけれども
主演がマッツ・ミケルセンでした。
テレビドラマのシリーズドラマの『ハンニバル』の主演。
『カジノロワイヤル』の悪役です。

映画の旅は面白いです。


草間彌生の写真もいいです。

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『パニック・フライト』

2017年03月19日 | 映画
原題が 「Red eye」

レッドアイって、夜中に出発して翌朝着く飛行機のことをいうそうです。
朝方、みんな目が真っ赤だから。

レイチェル・マクアダムスが可愛いけれども、キリアン・マーフィーが恐かったです。
彼のもつ目の青さが、恐山を思い出させます。
不思議なブルーです。


ハラハラドキドキ、わくわくで楽しめました。
ちょこっとあらすじ・・・

ホテルのベテランフロント従業員のリサは、
遅れてを出発した深夜の飛行機に乗ったところ、
空港でのチェックイン時に知り合ったリップナーと隣同士になる。
だが、リップナーは実は暗殺グループの一員であり、離陸後、
リサの父親の命と引き換えに、標的の政府高官一家が泊まる予定の部屋を
変更するようにリサを脅迫する。
繰り返し対抗するリサだったがうまくいかず、
ついに部下のシンシアに変更を指示する。一家は変更された部屋に通された。
沖合では釣り船に偽装した暗殺グループが待機していた。
夜が明けた着陸直後、リサはあらかじめ乗客から盗んだボールペンでリップナーののどを刺し、
リップナーの携帯電話を奪って、開いたばかりの扉から空港ビルへ逃げ出す。
声の出なくなったリップナーは後を追う。

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『生きがいについて』神谷美恵子著書

2017年03月18日 | 看護師の仕事など
先日、タイのハンセン病院で働いている看護師さんに会って
思い出した本です。
学生時代に読んだものですが、そこでハンセン病を知りました。
それまでは知りませんでしたから。

そして、今、神谷美恵子氏に興味をもって、調べてみました。
下記はウィキペディアから抜粋です。

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神谷美恵子は1914年(大正3年)に内務省職員である父前田多門とその妻房子の長女として
岡山市に生まれた。
父親は内務省におけるエリート官僚として、外国との折衝を始めとした役職を歴任したため、
一家は頻繁に転居している。
美恵子は翌1921年(大正10年)に聖心女子学院小学部へと編入。
1923年(大正12年)になると、父はジュネーヴに新設された国際労働機関の日本政府代表に任命され、
一家はスイスへと向かった。
美恵子は市内に存在するジャン=ジャック・ルソー教育研究所付属小学校へ編入学した。
この頃両親は二人の結婚式の媒酌人であり当時国際連盟事務次長を務めていた新渡戸稲造と
親密に交際しており、彼を尊敬していた両親と同様に美恵子も新渡戸から大きな影響を受けた。

小学校卒業後はジュネーヴ・インターナショナル・スクールへと進学した。
スイス生活が長引く中で、兄妹はフランス語を日常会話においても用いるようになった。
後になっても「読み書きと思考は今でもフランス語が一番楽である」と語っている。

1926年(大正15年)に一家は帰国し、父は東京市制調査会専務理事として勤務した。
美恵子は一旦自由学園に編入学したが、そこでの教育が身に合わず数ヶ月の内に成城高等女学校へ
と転学している。
学校の他にアテネ・フランセにおいて語学を。
1932年(昭和7年)に成城女学校を卒業すると、津田英学塾本科へと進学し文学を専攻した。

1934年(昭和9年)に美恵子は金澤からオルガンの伴奏役としてハンセン病療養所施設の訪問に
同行するよう求められた。
叔父とともに多磨全生園を訪れた彼女は、患者の病状に強い衝撃を受けた。

ある種の「召命感」とともに自分が身を捧げる生涯の目的がはっきりとした、と語っている。

美恵子は医師としてハンセン病患者に奉仕しようと決意し、東京女子医学専門学校の受験勉強を開始した。
両親や津田英学塾の星野塾長はこれを諌め、1935年(昭和10年)に本科を卒業すると
塾長の薦めに従い大学部へと進学した。
当時の津田の大学部では、数名の生徒に対して西脇順三郎が英語を、
玉川直重がラテン語を教えるなど貴重な教育体制がくまれていたが、
美恵子はハンセン病治療に寄与したいという思いを捨てきれなかった。

彼女は結核に感染したため軽井沢へと療養に送られたが、組織的な勉強の重要性に気付いた彼女は
その訓練をかねて秋には旧制高校の教授資格である英語科高等教員検定試験に受験し合格している。
一旦は病状が収まったものの、翌年に再発し再び療養生活へと入った。
死ぬまでに古典文学を読んでおきたいとベッドの上で独学に励み、イタリア語でダンテを、
ドイツ語でヒルティを、さらに古典ギリシャ語で新約聖書を読み進めていった。
その中でもマルクス・アウレリウスの『自省録』(ギリシャ語)は彼女の生涯を通しての座右の書となった。
結核は医師の薦めで受けた人工気胸術によって完治している。

朝日新聞で論説委員を務めていた父親は、二・二六事件の頃から軍部および特高の注意を引くようになり、
これを危惧した友人らの斡旋によってこの施設の初代館長に任命された。

以前から渡米の話を持ちかけられていた一家は、揃ってニューヨーク近郊スカースデールに移り住んだ。
美恵子はこの頃にも医学への転向を再三父に申し出ている。
父はこれを許さず、彼女はコロンビア大学大学院古典文学科で古典ギリシア文学を学びはじめた。

翌年にはフィラデルフィア郊外に存在するクエーカー運営の学寮ペンドル・ヒルで寄宿生活を送り、
生涯の友人となる浦口真左と出会っている。

医学部進学に対する父の許しを得た美恵子は1940年2月からコロンビア大学医学進学課程に入学した。

翌年戦争の勃発を危惧した一家は父を残して帰国し、
美恵子は東京女子医学専門学校本科に編入学した。

この頃コロンビアにおいて出会った人物と婚約したと見られるが、すぐにこれは解消された。
翌1941年(昭和16年)12月には日本海軍のパールハーバー攻撃によって日米は開戦し、
父はエリス島でしばらく抑留生活を送った後に第一次交換船で日本へと帰国した。

1942年(昭和17年)の10月には当時ハンセン病の権威であった太田正雄(木下杢太郎)の研究室を訪問し、
さらに卒業前の1943年(昭和18年)には岡山県の長島愛生園で、12日間を過ごして
日本のハンセン病治療史における重要人物である、光田健輔と知己となるなど、
ハンセン病治療に対する関心はこの頃になっても変わっていない。

友人が精神分裂病を病んでいたことから、精神医学にも興味を持つようになり、
1944年(昭和19年)女子医専を卒業すると、東京帝国大学精神科医局へ入局して、
内村祐之教授のもとで、精神科医としての教育を開始した。

1945年(昭和20年)3月11日の東京大空襲によって、東中野の実家は全焼し、
家族がみな疎開するなか一人で精神科病棟に移り住んで患者の治療に当たった。

8月に日本がポツダム宣言を受諾、父は東久邇宮内閣において文部大臣に抜擢され、
美恵子はその仕事を手伝うために父の秘書としてGHQとの折衝および文書の翻訳作業などに
従事することになった。

美恵子は文部省における仕事を続け、事務嘱託の身分でGHQ教育情報部との折衝にあたった。
語学の才が他に代え難かったことから、大臣よりも高額の俸給を受け取っていたともいわれる。

東大へと戻り、東京裁判において東條英機の頭を叩くなどして精神科に収容された大川周明の
精神鑑定を手伝っている。

東大医学部では、ある同僚の若い精神科医から、「ストーカー」的執着を示され、大変困惑していたようである。

7月に、東京帝国大学理学部の講師を務めていた植物学者神谷宣郎と結婚した。

神谷は美恵子と同時期にアメリカ東海岸で研究生活を送っており、
同じく植物学を修めていた浦口真左のペンシルベニア大学サイフリッツ研究室における同僚でもあった。
二人は世田谷に新居を構えた後、上北沢へと転居し、ここで長男の律が誕生した。

結婚後十年ほどの間の暮らしは戦後の物資不足や次男の粟状結核などもあり、
極めて苦しいものであった。
栄養失調により、律の体調が悪化した際にはララ物資による粉ミルクの支給を受けなんとか小康を取り戻した。

1949年(昭和24年)に夫の宣郎は大阪大学教授に招聘され一家は大阪へと移った。
12月には次男の徹も生まれ、主婦として多忙な生活を送る一方で、
以前愛読したマルクス・アウレリウスの『自省録』の翻訳書を創元社から出版した。
1950年(昭和25年)に宣郎はペンシルベニア大学に招かれたが、美恵子は子供二人とともに
大阪にとどまりアテネ・フランセやアメリカン・スクールで語学を教えた。

1951年(昭和26年)に宣郎は帰国し一家は芦屋に移り住んだ。
結核に感染した次男の治療薬を闇市で手に入れるために、
自宅での私塾やカナディアン・アカデミーでフランス語を、
1956年(昭和31年)からは神戸女学院大学で非常勤講師として文学を教えた。
1954年(昭和29年)に初期のガンが発見されラジウム治療を受けた。

1957年(昭和32年)に、長島愛生園におけるハンセン病患者の精神医学調査を開始した。
この業績をもとに1960年(昭和35年)に大阪大学で学位を取得、神戸女学院大学の教授に任命され、
1963年(昭和38年)からは母校の津田塾大学教授に就任した。

精神医学およびフランス文学などの講義を担当しており、
芦屋の家から岡山県と東京を往復する生活を続けている。
愛生園での研究や1958年(昭和33年)に京都でおこなわれたゴッホ展を見たことがきっかけとなって、
後に『生きがいについて』を構成する文章を書き進めていった。

1963年(昭和38年)にはアメリカで研究生活を送っていた宣郎のもとを訪れ、
その帰途に同地におけるハンセン病施設および英仏の精神病施設を見学している。
スイスではユネスコの政府代表となっていた兄の陽一からミシェル・フーコーを紹介された。

1965年(昭和40年)からは、長島愛生園の精神科医長に就任し、
自宅から療養所へと通って治療にあたった。
1966年(昭和41年)には、第二次世界大戦中に自殺したヴァージニア・ウルフの病跡を調べるため渡英し、
夫のレナード・ウルフと面会した。
二人はレナードの死まで文通を続けている。

この年にみすず書房から『生きがいについて』が出版された。

その後は愛生園での医療に携わる傍らでフーコー[5]、ジルボーグの翻訳、
自身の著書の執筆、ウルフの病跡学研究などをおこなった。
1972年(昭和47年)に心臓を悪くして以降は、心身に大きな負担を強いていた愛生園での仕事を辞め
家庭と執筆を中心として生活したが、晩年の数年は十数回にわたる入退院を繰り返し、
1979年(昭和54年)10月、心不全のため、65歳で死去した。

二人の妹はそれぞれソニー創業者井深大、伊藤忠商事の副社長を務めた人物と結婚した。
父 多門は後述の野村胡堂と共にソニーの前身である東京通信工業に出資しており、
名誉職であるが初代社長を務めた。

美恵子の長男神谷律は父の宣郎と同様に生物学者となった。
東大大学院理学系研究科教授、学習院大学理学部客員教授などを務め、
藻類がもつ鞭毛の構造および運動機構に関する研究を手掛けている。
次男神谷徹は、京都大学理学部で宇宙物理学を修めた(1973年卒業)
のち古楽器演奏家となり、リコーダーとユニークなストロー笛の演奏で人気を博している。


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こういった人生、あるものですね。

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『GODZIILA』

2017年03月17日 | 映画
アメリカのゴジラ、GODZILLA
昔の日本のゴジラと違って、いじわるっぽい気がします。
が、ゴジラは本当は悪い怪獣じゃないと思うのです。 

卵を200個も生んで、そこから生まれてしまう。
タクシーに乗ったまま、ゴジラの口の中にはいるくだりとか
ちょっとコメディっぽかったです。

追いかけられても、絶対に助かるんですから。

卵から孵るところが可愛かったりしました。


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クッキーの考察

2017年03月16日 | お料理


材料をこねて、冷蔵庫でねかせて、カットして焼くと
なんというか、さくっとしますが、密度がしっかりしません。

間があくのです。

★バター 200
★小麦粉 300
★卵 1個
★グラニュー糖 150
★アーモンドプードル 80
★パルメザンチーズ 120ぐらい



一度冷蔵して、そのあとまた形成したものを焼くと
密度がしっかりしています。

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弟の誕生日

2017年03月15日 | 雑記
もう、何年も会っていない弟。
元気でいると思います。

家にいることが多かった弟が、マラソンやっています。
信じられません。
ホノルルマラソンは毎年走っていたようですし、東京マラソンも
なんだか走っていたような気がします。

富士山も、走って登るみたいなやつをやっていました。
そういう弟ではなかったのですが。

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ホワイトデー

2017年03月14日 | 雑記
何ももらいませんでした。
パーティとかお食事会とか、さまざま男性が工夫して
女性をおもてなしされている方々もいらっしゃいます。

そういう気持ちを忘れないって、いいことですね。

患者さんのご家族も話していました。
何もくれないですよーーーって。
寂しいですね。
代わりにクッキーを私が差し上げました。

私はクッキーはあまり好きじゃないから、いいけれども。
お花をいただいたら、嬉しいものですよね。

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予算の会議

2017年03月13日 | 看護師の仕事など
赤字なので、なんともつまらないです。

訪問看護って、大変なのに赤字続きです。
みんなそうみたいです。
儲けようと思ってやっている仕事じゃないんだなとしみじみ思う今日この頃です。

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SNSの世界

2017年03月13日 | 雑記
いろんな種類が増えました。
いろんな人が、会ったことのない知り合い、よく会っている知り合い
孝行の時の友達、仕事関係の方々などなどたくさんいます。

なぜか看護学校の知り合いはひとりしかいません。
高校の友達は数名。
あとはゴルフ仲間でしょうか。

ラインで何気に今日のことを話しているのに、実際はどこにいるか
知らないこともあります。
よくよく聞くと、へーーーそうなんだーーって思うこともあります。
毎日連絡して、仕事のこととか、遊びのことなど話していても

「今日はおでかけ」とか、SNSで知ることもあります。

そういうとき、少し「あれ?」って思うのは
どうしてなのでしょう。
コミュニケーションとっているときに、言ってくれればいいのにって
思うことがたまにあります。
いいそびれるってことも、あるんでしょうね。
私もあります。

あれ、言うの忘れてたわとか。
その程度のもので、深く考えてはいないのかもしれませんね。


「忍び難い愛の行方」


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草間 彌生展に行ってきました。

2017年03月12日 | 雑記
ドッツ模様が好きなので、国立新美術館に行ってきました。
確か、彼女は統合失調症だと思いました。
で、調べてみました。

「松本駅近くで種苗業を営む裕福な家に生まれ、幼いころから草花やスケッチに親しむ。
その一方、少女時代より統合失調症(医学博士:西丸四方が診断)を病み、
繰り返し襲う幻覚や幻聴から逃れるために、それら幻覚や幻聴を描きとめる絵を描き始める。
草間は現在に至るまで水玉をモチーフに制作する事が多いが、
これは耳なし芳一が幽霊から身を守るために全身に経で埋め尽くした様に、
彼女が恐怖する幻覚や幻聴から身を守るために、作品全体を水玉で埋め尽くす儀式でもある、とされる。

1945年(昭和20年)、大戦下に疎開してきた画家らが立ち上げた「第一回全信州美術展覧会」で
並み居る顔ぶれの中16歳で入選。
松本高等女学校(現:長野県松本蟻ヶ崎高等学校)を卒業後、京都市立美術工芸学校の
4年生最終課程に編入して日本画を学び、翌年卒業。
後に役立つ絵画技法を身につけるが、旧弊な日本画壇に失望。
松本の実家へ戻り、寝食も忘れ毎日数十枚以上を描き、没頭する。

1952年(昭和27年)、地元の松本市公民館で2度の個展を開く。
1度目の折、精神科医の西丸四方が立ち寄り感銘し絵を購入。
関東精神神経医学学会で紹介するほか、知人でゴッホ研究で有名な精神科医・式場隆三郎が、
東京日本橋の白木屋百貨店などでのつてを紹介される縁を得る。
2度目の個展では師と仰ぐ松澤宥に賛助出品してもらい、パンフレットに松澤宥と懇意だった
当時著名な美術評論家瀧口修造らの寄稿文も掲載される。
西丸博士と瀧口は、その後生涯にわたるよき理解者となった。

1954年(昭和29年)から翌年にかけ、東京で4度の個展。
白木屋百貨店ほか、瀧口の関るタケミヤ画廊でも個展。
瀧口がニューヨークの第18回国際水彩画ビエンナーレへ彼女を紹介し、渡米の糸口を作る。
この時期、素描のほかにコラージュなども量産している。

「シャングリラの華」(霧島アートの森)
1957年(昭和32年)に渡米する。
活動の中心をニューヨークに置き、ドナルド・ジャッドやジョゼフ・コーネルらと親しくなる。
絵画のみならず男根状のオブジェを既製品にはりつけた立体作品やインスタレーションを始め、
ハプニングと称される過激なパフォーマンスも実行、1966年にはヴェネツィア・ビエンナーレにもゲリラ参加し、
1960年代には「前衛の女王」の異名をとった。
平和・反戦運動にも携わる。

1968年(昭和43年)、自作自演の映画『草間の自己消滅』が第4回ベルギー国際短編映画祭に入賞、
第2回アン・アーバー映画祭で銀賞受賞。また、第2回メリーランド映画祭でも受賞。

1973年(昭和48年)、親友でパートナーのジョゼフ・コーネルが死去した。
草間は体調を崩し日本へ帰国、入院した。
1978年(昭和53年)、処女小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』を発表、
1983年(昭和58年)、小説『クリストファー男娼窟』で第10回野性時代新人文学賞を受賞するなど
小説家としての活動も行っている。
小説もその芸術創作と主題がリンクしており、少女時代の幻視体験をモチーフにしたものもある。

草間の活動が再び活発になったのは1990年代初頭である。
1993年(平成5年)、ヴェネツィア・ビエンナーレに日本代表として参加。
世界的に再評価熱が高まった。
2009年には正方形の絵画群である「わが永遠の魂」シリーズの作成を始める。
同年にauのiidaブランドの端末をプロデュース、2012年にはルイ・ヴィトンとの共同コレクション
(マーク・ジェイコブスによるディレクション)を発表するなど、
商業分野での活動も盛んに行なっている。

現在の取扱代理画廊は、1980年代よりオオタファインアーツ、
2007年よりVictoria Miro Gallery、2013年よりDavid Zwirnerである。」

「戦争の足跡」


「戦争をやめよう」



「天国へのぼる入口」

これらの絵があるお部屋は、自由に写真撮影してよかったのでした。

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地震を知らずに

2017年03月11日 | 雑記
14時26分、大きな地震があった日です。
勤務していた病棟では、床のワックスがけが始まり、いろんなものを廊下に
出していました。

ぐらぐらっと、一瞬の出来事でした。

家には息子がいましたが、連絡はとれずに帰宅するまで
心配でした。



あれから6年。
いろんな命も生まれていることでしょう。

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