Already 三丁目は夕日

徒然なるままの些細なブログ

家庭サービスとか思い出とか

2014-03-30 12:58:49 | 日記
なんていうか、家庭ではなくカミさんへのサービスが、家庭サービスっていうものなのかと。娘は友達と過ごすことが楽しくなってきはじめ、家族旅行っていうものでもないのかなと。息子はまた゛、母親べったりだから辛うじて家族全員という言葉を保つことができているようだ。なぜ、休みが続けば遠方に旅行をしなければいけないのか?子供に金がかかる時期にきて騒ぎたてるカミさんには疲れてしまう。二言目には「今月は出費か多い!」としか言わない。これは女性週刊誌の受け売りなのか。まぁ、確かに残業が少ない分、手取りは減っている。その他にも飲み会の誘いは殆ど断っている。「行きたい場所があったら、自分で方法を考えよ」と言っていたら、ようやく最近考え始めたようだ。カミさんの親からも良く云われる。「子供の頃の思い出つくりだから」とか言ってはいるが、とうの本人は子供の頃に行った場所は殆ど覚えていない。これは連れていった親としては残念極まりないと思う。まして、言うことを実現させてやった息子は、実家には足を向けたままで見向きなんてしないし、しようともしない。こんな現状を考えれば家庭サービスっていうものは、回数ではなく密度なんではないのかなと。まぁ、ここはこームインと肉体労働者の家庭環境の違いなんだろうけれど。肉体労働者の親父は、一年365日のうち、340日くらいは稼いでいた記憶がある。土日一緒に遊んだことはおろか、一泊の家族旅行なんて出掛けたことはない。でも、回数が少ないぶん、今でもJRで家族四人旅行したことは覚えている。オヤジは視力のせいで自動車の運転免許取得が無理だった。休みが無かったオヤジが日帰りでも、旅行に連れていってくれたことは死ぬまで忘れない。もしかすると、家庭サービスより仕事のほうが楽だったのかも知れないけれど。でも、あの時代は日曜日=家庭サービスという文化が薄かった時に国鉄で田沢湖まで行った。昼飯を食べた店、見えた風景は今でも覚えている。しかし、帰りの国鉄の車内の記憶は無い。もしかすると、記憶っていう奴は自分の都合がいいように育つものなのかも知れない。得てして、旅行なんてものはハプニングがあるからこそ、記憶に残るんだよなぁ。スケジュールとおりに進む旅行なんて、もしかすると記憶の中の大きな雑音でしかないのかも知れない。

Reader完走記

2014-03-20 05:48:38 | 日記
運命は人間が生きていれば、喜んだり 憂えたりするもの。血っていうもの は、体に流れていて傷がついて、初め て流れていることに気付く。血は流 れっぱなしにすれば死んでしまうし、 詰まってしまっても死んでしまう。だ から体がこの世に存在する限り循環さ せなければいけない。 争いの度に血っていうものは、少なか らず流れてしまう。そう、血が流れる ためには傷が必要なのである。傷って いう奴は、見た目ほど痛くなかった り、逆に見た目以上に痛いものだった りする。 血というものは、遺伝と見なすのが一 般的な考え。絶やす、絶やさないでか なりの差がある。自然動植物の天然記 念物とか。やはり、人間は頭脳、手先 とかなんだよな。それこそ昔は、親族 に悪人が出た暁には一族根絶やしなん て当たり前だったんだよな。そんなこ とを実感させられるるのが「虚けの 舞」。 織田信雄の憂鬱と北条氏規の血脈、領 民を安堵させるための思い、をモノ ローグで紡いでいた。 人は産まれ落ちたこと自体がラッ キー、そのあともそれなりの運で生き て行かなければならない。悲しいこと に、大概の日本人は 運ていうものを理 解しないで 、自分の努力が運命が全て だと思っている。真実なんてものは、 事実の積み重ねでしかない。本の少し の隙間に運っていうものが挟まってい るだけ。真実を受け入れることが、一 番難しいことなのかもしれない。 そして、「 血」の他にもうひとつ繋いで行かなければならない「ち」というものもある。それは「地」であるって いうこと。この両方の「ち」を繋ぐことをわれわれは、自分のことばかり気にして疎かにしている。この「地」を繋いで行かなければならない果たさなければならな い重要なことなのではと。

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2014-03-15 18:21:35 | 日記
今週の12日は春闘一斉回答日だった。。政府手動で泣く泣くベアアップ回答をした会社、業績の見通し不明でうまく労組を丸め込んだ会社、いろいろあったようだ。
労使交渉に臨んでいた役員の腹の中ってのは、どんな色なのかなとテレビのニュースを見て思った。
経営者と同じテーブルに座ることができるのがステータスなのか、本当に困っている末端組合員を思いながら交渉することがミッションだと思っているのか、よくわからない。
この頃よくわかってきたのは、企業内労組っていう組織はただの馴れ合いだっていうこと。正規、非正規労働者という身分が違うものの存在を受け入れた時点で労働運動的に問題があるのではないのか?と思う。
既得権の維持に意地をはっても、時代のカウンターカルチャー、もしくは経済発展のための経営側とのカウンターパートナーにはなることができないのではと。そして、構成員の意識の低下こそ労働組合から仲良しケンカゴッコに成り下がった元凶ではないのか。
上層部がイケイケドンドンで少しばかり頭が悪くても、底辺がしっかりしていれば組織は動く。
悲しいことに底辺の労働をしているのが非正規労働者っていうことと、グダグダ文句を言いながら大した仕事も出来ず、身分が保証されている正社員という現実の中で「ダイバーシティ」とか労使で胸を張って意識合わせしている時点で茶番。
賃金労働者はそろそろ目を覚まして社畜から卒業しなけりゃ、この国はダメになっていくような気がする。
しかし、企業別労組になれば条件、賃上げの統一は難しくなる。それを避けるために企業内労組になり、労働運動のメンツを保っているような感じ。せめて、大企業が判断したベアを中小企業に波及してほしいものだ。

Reader感想記

2014-03-08 19:10:45 | 日記
 今日、新しく書籍を購入したのだが、どうもオンボロパソコンだとダウンロードに手間取ってしまう。
仕方が無いので、電話をかけて対応策を聞かなければならないハメに。XPはやはりダメだよな。早く買い替えしなくちゃ。
先月購入した分の最後の書籍山河果てるとも 伊東潤 著を読み終える。
織田信勝と伊賀国衆の戦いを小説化したものである。「信長公記」等からの史実を引用して、伊賀攻めの残虐性を浮き彫りにしていた。
天下統一までには、これまで冷酷にならなければならないのか。伊賀衆は血、地を守るために少ない数で武士たちは戦った。
伊東潤という作家は、教科書等で知ることができる史実ではなく、大きな戦いの影に埋もれていた、重要な戦いにスポットを当てているようだ。かなり勉強になっている。また、人間の欲は海のように深くなり、山のように高くなっていくことも、上手に文章で紡いでいく。
「石山本願寺の焼き討ち」「長島一向一揆」の鎮圧等は、教科書、テレビ番組等で知られているが、伊賀攻めがここまでドロドロしたものであるとは、これを読むまではわからなかった。
伊賀衆は各々が地域で独立し災いが近づけば、一致団結して対応していた文化は500年続いていた。この共生という文化は、たった一人の武士によって壊されてしまった。そして、一人のリーダーが世の中を動かしていくという時代は今も続いている。
一人のリーダーのおかげで何人涙を流したり、何人微笑むことができるのだろうか。
時代、運命とかで片付ければ、事足りるかもしれない。これを読んで、いろんなことを考えさせられた。
さて、次は何を読もうかな。キープリストが伊東潤でいっぱいになってきた、春の訪れが遅い2014年3月一週。


紙、液晶、そんなもの関係ない

2014-03-07 05:57:19 | 日記
更新をサボりっぱなしな、今日この頃。
何にも感動があったわけでもなく、適度に廻りが忙しかったからなのか。
一月、二月は気持ちが落ちつかない。実家の屋根の雪降ろしのせいなんである。ネットの天気予報を見ながらウィークエンドのスケジュールを検討していた。今年は昨年より少なめで冬を終わることが出来そう。
三寒四温で少なくなっていく雪を見ながら、自動車の運転をしているとラジオから「あなたは本を読むとき、電子書籍、紙のどちら」というテーマで、リスナーからの意見を集めていた。電子書籍派の自分からすると、予想通りの「紙」派の圧倒的勝利だった。意見の大半は「手触り」「読後の達成感」「画面のチラツキ」とか。書籍っていうのは、中身が大事なのであって、手触りとか達成感とかは二の次であることが忘れ去られていることを、テーマにしているっていうことに「ホントに、こいつら読書ってしたことがあるの」「電子書籍で読書したことあるの」って思った。
コーヒーはブラック派、砂糖、ミルクを入れる派?とは違うような気がするのだが。
紙はマーカーが出来るからイイ、付箋紙が貼れるからイイ、とか言っていても、それは電子書籍でも可能なのである。
媒体が紙であろうが、電子データであろうが、面白いものは面白いし、ツマラナイものはツマラナイ。
個人的には、電子書籍は手触り、ページ数とかの心理的影響が少ないので、中身に没頭できるような気がするので、その分、読了する時間は短いような気がする。
何だかんだ言っても、テクノロジーの恩恵を受けているくせに、認めたがらない人間がかなり居るってことかなのかなと。