Already 三丁目は夕日

徒然なるままの些細なブログ

ネット社会のコンテンツの所有権って、難しくもあり辛いものでもあり。。。

2014-02-13 09:02:05 | 日記
SNSで知り合って、仲良くさせて頂いた方が亡くなってから数日たった。吹雪が強い朝、Facebookのトモダチから知らされた。
実際に会ったこともなかったが、知り合ってから5年間仲良くさせてもらった。
仲良くなってから三年目くらいに癌を発症したとの知らせがあった。彼は出術後、自分の目標であった事を実現させた。
しかし、再発した癌でその思いは潰いえてしまい、闘病は二年に及んだ。「一回会って話をしたいよねぇ!」と言われたのは、たしか三ヶ月前だった。
今までとは違ったお願いみたいな書き込みに、かなり進行しているような悪い胸騒ぎがした。今すぐにでも会いにいって、励ましたい気持ちは大きかった。そんな気持ちはあっても、家族とのスケジュール、懐もあり、頑張ってゴールデンウィークあたりには顔を出したい、と思いながら過ごしてきた。
その思いも虚しく旅立っていってしまった。「友情」「尊敬」とかヴァーチャルな付き合いでも深くなることを実感した。
他の知り合いはオレと違い、何度か実際会っていて、オレだけ会うことができ無かった負い目と無念さだけが強くなった。
でも、亡くなった人は帰ってこない。そんなことを知っていながら、彼のTLに思いをそのまま書き込んでいた。
あの世からきっと読んではいてくれるものと信じながら。
本人が亡くなってしまっても、ネット上では生き続けることが出来る。実際、Facebookの近日予定のイベントに彼の誕生日の日付で微笑み続けている。彼の家族はパスワードを知らないわけではない。多分、トモダチに気を使って、削除をしていないのだろうと思う。
こんなに、ネット社会のコンテンツの「所有権」ってヤツで複雑な思いを感じたことは無い。
前に読んだ本でネット時代の情報ってヤツは、人の噂話のように忘れ去られるってことはなく、消されることが無いから厄介だ、みたいなことが書いてあった。特に悪い情報ほど広がり残ってしまう。
利便性を追求して行き着いた環境がネット環境。それを使うのは生身の人間。人間は寿命がある。噂話には「旬」があり、「旬」が過ぎれば忘れ去られる。ネット社会におけるコンテンツにも「旬」はあるものの、忘れ去られる時間と拡がる時間の差がありすぎ、なおかつ、何もしなければ残り続ける。
厄介といえば厄介だが、残り続けるという面からすれば良いことかもしれない。
「旬」ってヤツを考えれば、オレの「旬」ってもう終わったのかな。。


長い間、一緒に暮らして、その間に芽生える感情こそが「愛」by 谷川俊太郎。

2014-02-01 11:26:34 | 日記
この前、残業でもないのに、いつもより帰宅が遅くなり、カミさんに叱られる。
殆んど毎日、途中までカミさんと一緒に通勤している。
その時はたまたま、カミさんの自動車のキーロックを忘れたまま出社してしまった。
後からメールを確認してみたら、その旨の内容がかかれていた。カミさんは、キーロックをしていなったこととメールの返信が無いことで「事件に巻き込まれたのかも?」とか悪い方向に考えたようだった。
帰宅が遅くなったのは、サイクルショツプに初売りで買ったパーツの支払いをして、いろいろと話し込んでしまったから。
そういう時に限って、スマホの着信音量を低くしている。
家についたら、カミさんと娘の我が家の女性陣に「心配してたんだからぁ!」と叱られる。特に娘からの言葉は胸に刺さる。
まぁ、最近は毎日の通勤の車の中でも、あまり会話もしないし、「愛」とかそんな感情は考えないし、感じられなくなっている。他の家庭も同じなんだろうな?と思ってみたりする。
少し帰宅が遅くなるくらいで、「心配してたんだから!」って叱られるっていうことは、まだ愛されているということなのか、それとも他に何かあるのか良く解らない一月の終わり。