Already 三丁目は夕日

徒然なるままの些細なブログ

がんばらない、あきらめない。

2012-04-17 19:19:01 | 日記
鎌田實さんの著作「がんばらない」「あきらめない」を読んだ。人間の命は儚いながらも力強いものなのかと。
「がんばらない」で「あきらめない」のが最高の生き方。人間は、突然の事故で命を誰かに奪われない限り、「死に方」は選べるのだと。しかし、現代では医療機関から死に場所を指定されてしまのが現実。自分が人生の終末を迎える時、場所に拘るか、看取ってもらえる人間を選ぶのか。その時にならなければ判らない。まして、終末が近づいたことを受容するまでどれくらいかかるのだろうか。
身内に脳血管障害を患い、「なぜ、放っておいてくれなかった!」とか言われてことがある自分としては、「死に方」以前に受容することが高過ぎて超えることが難しい大きな壁だと思う。この大きな壁を越えることができれば良いなぁと思ってから、7年が過ぎた。いまだに受容することが出来ず、偏屈な考えしか持てない姿を見ていると、「これが尊敬していた俺の親なのか?」と何度思ったことか。それは、周りでくらしている者も「受容」しなければいけない。本当にツラいのは障害を患った自分ということは理解はしているつもりではいるが。お互いが「受容」出来たのであれば、「死に場所」「死に方」なんて選ぶ必要はなく時間が解決する方向に導いてくれるはず。


命というものは、生まれ落ちた時から砂時計が動き始める。その速度が遅いのか、早いのかは誰一人として理解できるものはいない。冬の寒さを耐えながら、いつ来るともわからない春を待つ花の蕾みたいなもの人生なのかな。だから、人間は生きている限り「がんばらない」「あきらめない」なのだなと。

電気がなければ。。。。。

2012-04-14 12:59:33 | 日記
日本海で発達を続けながら駆け抜けた爆弾低気圧の爪痕は大きすぎた。送電線の復旧まで二日くらいかかったようだが、一軒一軒の家屋まではもっとかかってしまったようだ。復旧宣言についてはサービス提供している事業者の社内常識と利用者の不便さとの乖離が有りすぎだったと思う。あんな台風なみの天候では基幹ルートの復旧が第一前提であることは確かである。復旧宣言についても、マスコミの報道次第で全然変わってしまう。確かに見聞きしたものに基づいて発表するはずであるが。災害復旧の進捗度合いを確認するためにホワイトボードが使われている。フクイチの際も使ったらしい。それが今ではデジタルサイネージとかいうタブレット端末のお化けみたいな機器を各ベンダでは売り込みしているらしい。まぁ、災害以外でも使い道はあるよう。
ホワイトボードでの時系列を記していく作業は、始めのうちは丁寧だが、時間がたち疲労が蓄積してくると、書いている内容ただの殴り書きになったりする。これを他の人が記録しようとすると、殴り書きの判読が不能になる場合が多い。張り詰めた精神状態で記入することは、いつ復旧に向けての時間との戦いであることには変わりない。まさに一歩先は読めないような夜のジャングルみたいな状態がホワイトボードの上に広がっている。サイネージであれば、記入したことがそのまま記録されるような説明を聞いたことがある。しかし、停電していては使いモノにはならない。震災前までは48時間以上の停電なんて予想もしなかった。自然の力を無視した結果なのだろうか。人類は次のステップへと向う試練を与えられているのかも知れない。とにかく「自然災害への対応」というサイコロは振られたようだな。「1」の目が出ても「6」の目が出ても前に進むしかない。もしかすると、今までの人類は「6」の目を追い続けたのかもしれないな。

制度の切り替えにつきものは

2012-04-12 20:59:10 | 日記
新しい法律、条例が施行されたりして制度がかわることが多いのが4月。
どうやら、勤務先では来年から給与体系がかわるようだ。今の世の中の流れにそうように賃金が切り下げになりそうだ。制度導入にあたっては、ロードークミアイを通して所属クミアイインに説明するのが労使間のルールらしい。しかし、「労使信頼関係」という都合のいい魔法の呪文に操られ、制度施行までのただのワンクッションにしかなっていない。かつての労働組合は業種別に体系たてられていたが、いつのころか日本では「企業名」+労働組合名が多くなってきている。これじゃ、単なる御用聞きにしかならない「ロードークミアイ」でしかない。既得権の堅持にしか眼が無く、本当の勤労者の生活なんて少しも考えてはいない。
日本の労働運動は三井三池争議で終わったような気がする。相変わらず、我がロードークミアイは「雇用の確保」を第一に叫んでいる。「雇用の確保」で「逃げ切り世代」を厚遇した結果、企業活動を衰退におとしめた事実については労使ともに責任があると思えるのだが。新しい制度では「頑張った者は報われる給与体系になっている」とはいうものの、基本給自体が切り下げられているのであればモチベーションもへったくれもない。まして、消費形態の成熟度合いが新興国と違い、作れば売れる時代とは違い、がむしゃらに働ける環境でもない。身の回りには全てのものがあふれ出し働いてまで欲しいと思うものがなくなった今、「余程のヒット商品」を考えなければ収益の拡大は見込めない。「余程のヒット商品」を考えずにズルズル今まで来て、ギャラの高いタレントを使うコマーシャルしか考え付かない会社に「労使信頼関係」の盾を持って、切り込んでいく必要もあるのではないのだろうか。
定年延長とかの流れで、相変らず「逃げ切り世代」は幅をきかせている。制度の切り替えには切り替え前と後では「得をしたもの」「損をするもの」が明らかになる。制度導入にあたっての会社の考えは「最小不幸の最大幸福」を柱とするような制度に変えてしまう。確かに「最小不幸の最大幸福」の恩恵を受けながら行き続けて現実は否めない。しかし、いざ自分が「最小不幸」の立場になってしまえば恨み、絶望しか残るものはないような気がする。かの大陸の国では、それを進めたばかりに結果的には「最大不幸の最小幸福」になり格差が拡大したのではないのか。
実労働をしていないもの同士が交渉しながら制度を決めてしまい、結局はドス黒い色合いになり歩みの遅いバカでかい組織にしかなりえない。交渉当事者は「制度導入」という結果を勲章に会社側は役職UP、ロードークミアイ側も役職UP。そしてともに最後は外郭団体への再就職。悲しすぎる日本の昭和の文化は脈々と受け継がれる。

結局は自分が大事

2012-04-07 10:49:52 | 日記
Reader購入から1年経過。年間100冊の購入はいかなかったが、週刊誌を含めて83冊くらいになった。今までにない読書をしたような感じがする。最近、読んで心に残ったというか、腹立たしくなったのが.....


メルトダウン ドキュメント福島第一原発事故 - 大鹿靖明(著)


東日本大震災での福島第一原発事故の影での東電、経産省、議員、金融機関等のドキュメンタリーであった。誰もかれもが保身に時間を費やし、自分達の判断が今後どのような事態を招くのか考えもしない行動をとっていた。メディアの歪曲した報道で大衆が躍らされ、無意味な怒り、安堵の繰り返しをしながら一年間過ごしてきたのかと。日本は原爆被害国なのに、程度の低い学者しかいないのかと愕然とした。経産省から東電の天下りラインの強さは知っていたが、これほど強いものだとは思わなかった。Twitter上の回文で「保安院アホ」というRTがあったが、まさにそのとおりだと思った。菅元首相はマスコミからもの凄いバッシングを受けたが、あれほどまでにバッシングをする必要があったのかよくわからない。これを読んだ限りでは、経産省の先を読んだ立ち回りをしていたことに対し、マスコミの筆頭株主を占めている電力ファミリーが影で仕組んでいたようにしか思えない。
天下り問題については、今の政権では良い方向に進めないような気がする。最近の原発稼働開始についても閣僚は既に官僚に握られていることが明らかになってきている。トップに行けないキャリアの救済のために、所属した省庁の関連団体に再就職するシステムは到底崩すことは難しいような気がする。
天下りといえば、旧公社から民営化された企業、大企業等でも、ある程度の役職になると定年前に関連企業に再就職するというケースが業界での暗黙のルールとなっている。受け入れた会社にしてみると上流会社のOBがいることで好都合なことが多いことは確か。天下りは競争からこぼれた官僚の救済がであるが、このケースは自分が努力して会社のために尽くした、ということで会社としての労いという意味合いもあるのかも知れない。しかし、そのように前の会社並みの給与でポストに居座るということはどうなのだろう。そのポストに支払う給与があったら、今時の収益が伸びない状況で経費削減が進められている中では、もっと実労働をする社員に支払ったほうが 世間にオカネが廻って景気回復の一助にもなると思うのはあまりにも短絡的か。
「絆」という言葉が震災以降どこからともなく発生して頭の中を通り抜けていった。去年の今頃は気が付けば「絆」しか聞こえて来なかった。二次元的に言うのであれば点の繋がりが線になるのなら、「自分が大事」なものだけの無機的な繋がりが「絆」なのか。残念ながら「カネ」「名声」等という有機的繋がりしか頭の中にしか無い人達は「絆」とは無縁なのだろう。

混沌としたなかで

2012-04-04 12:05:56 | 日記
大型ショッピングモールに来るといつも思う。果たして需要と供給とはなんなのだろうかと。ここに来る者は買い物する目的なんかない、ただ何かありそうだと思いながら、時間潰ししているだけなんだと。こんな低成長時代は無理してまで買う必要のあるモノなんて無い。だからは人はお金を貯め始める。モノの価格は下がり続け、もうちょっと待てば値段は下がると思いながら買い控える。ますます、モノは売れなくなる。企業は収益確保のために経費削減をせざるをえない。こんな悪循環はいつまで続くのだろう。悪循環の中で、庶民の怒りの矛先は、当然のように公務員に向けられる。何もかも知ったような顔をした、テレビタレント上がりの議員、首長たちは、人気取りの為に公務員の給与カットと大声で叫ぶ。国の中で、お金を廻す手立ての一つも考えないで給与カットとはどうなんだろう?この前の震災の時、町役場、市役所の職員は不眠不休で働いていたはずだ。そんなに働いても給与カットとかするのであれば、住民サービス向上なんて普通の感覚であればやる気なんて起きない。人々は人のカネを使うことには平気になり、身銭はビタ一文払いたくない。復興?金があるところが出せばいいじゃん、くらいの稀薄さの蔓延。本当にこのままでいいのだろうか。正義めいたことを呟いてみても、健康保険料、年金、介護保険の算定基準額が残業続きだった給料をもとに算定されるている状態が半年続いている。最近は残業もなくなり、手取りは思いっきり減っているのだが、社会保険料はそのまま天引きされる。こんなことにブツクサ文句を言っている自分も、身銭はビタ一文払いたくないという根性が染み付いている。もっと広義にお金の意味を考えなければな。