夫婦で新しい人生にトライしてます~日本編

15年ぶりにカナダから帰国。終の棲家と選んだ北海道美瑛町から日々の生活を綴ります。

松浦武四郎

2024-06-09 08:01:53 | 山歩き

松浦武四郎という人を知っていますか?私は、恥ずかしながらこの名前を知ったのは北海道に住んでからのことでした。

結構歴史や地理が好きだった私でしたが最初にその名前を聞いたのは、去年大雪山を登る「ひぐま大学」に入って初めての山行として愛別町の石垣山という525mの低山を登った時に松浦武四郎が登山中野宿をした場所というものに出会ったことでした。その時は明治の初めに蝦夷地を探検して歩いた人という程度にしか認識はしませんでした。

松浦武四郎も見たであろう石垣山からの眺望

ところが、その後北海道の山を歩いていると各地で彼の名前が出て来るのを見るようになり、先日の十勝岳の噴火の現状の学習会では「松浦武四郎が見たのは安政の噴火だったのか?」とか、昨日たまたま訪れた美瑛町の新栄の丘に彼が訪れた木碑が建っていたり、今月「ひぐま大学」の山行で出かける予定の富良野の原始が原には彼の通過地の碑が建っているといった感じです。

新栄の丘から見た十勝岳連峰

新栄の丘の碑

しかし、江戸時代に北海道を歩き地図を著した人としては伊能忠敬や間宮林蔵は歴史で習っているのに松浦武四郎と言う人は全然出て来ません。どういう人なのだろうと言うぼんやりした思いがあったところ、先日たまたま図書館で彼のことを書いた小説「北海道人」(著者:佐江衆一)を見つけたので借りて来て読んでみました。

彼は時代的には幕末から明治の人で、伊能忠敬によって北海道(当時は蝦夷)の地図が正しく著されたのは1821年で彼が生まれた頃でしたが、しかしその頃は松前藩が道南を領地にしていたものの多くはアイヌ民族が暮らす未開の地でした。伊勢(現在の三重県松坂市)生まれの彼が蝦夷地に関心を持ったのは、当時のロシアが南下政策で蝦夷地を狙っていると聞きながら対抗策を持たない江戸幕府や松前藩に対する危機感だったようです。

伊勢神宮の国に生まれた彼は日本を神国、皇国としてそれが許せず、20代の頃から個人として後には幕府の雇い人として6度も蝦夷地を探索して歩き、蝦夷地経営の現状やそこで暮らすアイヌの人々との交流をつぶさに観察して幕末には蝦夷地に対する随一の地誌学者であり探検家であり作家となっていました。

アイヌの人々との交流でアイヌ語を身につけ、私などは明治以後と思っていた和人のアイヌの人々に対する熾烈な支配は既に江戸時代から始まっていて、これに対する義憤もあらわにして人物志なども多く残しています。

松前藩や江戸幕府の蝦夷地政策の駄目さから当時最も優れた政策を表わしていた水戸藩徳川斉昭に心酔し、尊王攘夷の運動にも関わっています。

70歳で富士登山をして亡くなるまで登山家、探検家として生きた人でしたが、明治になって蝦夷地を北海道と改めたのは彼の提言であり、それは彼の雅号が若いころから「北海道人」であったことに由来するそうです。

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