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あみの3ブログ

029【国宝】松本城 @長野県松本市 平成25年(2013)10月 資料収集編

【国宝 松本城】




【近世以前】
戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。
天文年間には甲斐の武田氏による信濃侵攻が開始され、1550年8月27日(天文19年7月15日)には林城・深志城などが落城し、信濃守護・小笠原長時は追放された(『高白斎記』)。武田氏は林城を破却して深志城代として馬場信春を配置し、松本盆地を支配下に置いた。その後は信濃小県郡の村上義清、越後国の長尾景虎(上杉謙信)と抗争し、北信濃に至る信濃一帯を領国化した。
1582年(天正10年)、武田氏滅亡により城代馬場昌房から織田長益に明け渡された後、織田信長によって木曾義昌に安堵されたが、本能寺の変後の武田遺領を巡る天正壬午の乱において、同年6月には越後の上杉景勝に擁立され、小笠原旧臣の助力を得た小笠原洞雪斎が奪還する。さらに徳川家康の麾下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名した。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ当時の松本城主小笠原秀政も下総古河へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う。
その後、大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が再び入城。大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の藩庁として機能した。水野家の後は松平康長にはじまる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。
1727年(享保12年)には本丸御殿が焼失、以後の藩政は二の丸で執務がとられた。

【構造】
典型的な平城。本丸・二の丸・三の丸ともほぼ方形に整地されている。南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、さらにそれを四方から三の丸が囲むという、梯郭式に輪郭式を加えた縄張りである。これらは全て水堀により隔てられている。現存12天守の中では唯一の平城。実は5段構造に見えるが6段構造だという。

【天守】
5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。大天守は、初重に袴形の石落としを付け、窓は突上窓、破風は、2重目南北面と3重目東西面に千鳥破風、3重目南北面に向唐破風の出窓を付けている。辰巳附櫓・月見櫓は、第3代将軍、徳川家光が長野の善光寺に参拝する途中で、松本に立ち寄るという内意を受けたため、当時の藩主、松平直政が建てた。赤い欄干を配して、風雅な雰囲気を持つ。家光の善光寺参拝は中止になったが、天守に付属する月見櫓としては唯一の遺構となった。
大天守は構造的には望楼型天守から層塔型天守への過渡期的な性格が見られ、2重目の屋根は天守台の歪みを入母屋(大屋根)で調整する望楼型の内部構造を持ちながら外見は入母屋を設けず強引に寄棟を形成している。ただ、強引とはいえ外見的には層塔型の形状を成立させているため、各重の屋根の隅は様々な方向を向いており、松本城天守の特徴のひとつとなっている。3階の、低い天井に窓のない特殊な空間が生まれたのはこのためで、パンフレットなどでは「秘密の階」と説明されているが、構造上は2重の上に生じた大屋根構造の名残りともいえる屋根裏的な空間を階として用いたことによるものである。内部は最上階(6階)の他に4階を白壁造りにするなど、ある程度の居住性が考慮されている。外壁は初重から最上重まで黒塗の下見板が張られており、この黒の原料は1950年(昭和25年)の修理工事着工までは墨によるものであったが、解体修理の際に漆塗りの痕跡が見つかったことから、修理工事が竣工した1955年(昭和30年)以降は黒漆塗りとなっている。乾小天守も構造的特徴は大天守と同様であるが、最上階に華頭窓が開けられている。

【天守の建造年】
天守の建造年には、いくつかの説がある。 「天正19年(1591年)説」、「文禄3年(1594年)説」、「慶長2年(1597年)説」、「慶長5年・6年(1600年 - 1601年)説」、「慶長20年(1615年)説」である。いずれも、主に大天守の建造年を示したものである。
天正19年説は、大類伸・鳥羽正雄の共著『日本城郭史』に見られる説で、宮上茂隆は1992年(平成4年)に発表した論文において石川数正とその子康長により建てられた第1期天守の建造年と考え、大天守ではなく現在の乾小天守であると主張している。
慶長2年説は、1940年(昭和15年)に城戸久が論文において述べた説で、当時定説となっていた竣工文禄3年説[9]また慶長5年・6年説を否定し、文献を元に文禄3年着工、慶長2年竣工が至当であると主張している。
慶長20年説は、大坂の役(1614年 - 1615年)前後の建造とする宮上茂隆の説と同様で1615年(慶長20年)に小笠原秀政によって建造されたとするものである。
層塔型天守に分類されているが、1597年(慶長2年)建造とする場合、最初の層塔型天守とされる丹波亀山城(1609年 - 1610年ごろ建造)に10年以上先立つので、建築史の観点から望楼型と見なすことがある。その一方で、1950年(昭和25年)から1955年(昭和30年)に行われた解体修理の時、いくつかの改築の痕跡が見つかっていることなどから創建当時は、望楼型で最上階には外廻縁高欄があり、各重の屋根には多くの破風を取り付けた姿であったと推定されており、松平氏により付櫓と月見櫓が増築された1633年(寛永10年)に現在のように造りかえられたと考えられている。


【遺構】
明治時代に筑摩県庁が設置されていた二の丸で発生した火災で焼け残った切妻造の土蔵が現存している。この土蔵は御金蔵として使われていた。
移築現存門としては、安曇野市内堀金地区に大手門二の門を移築したという伝承のある薬医門がある(安曇野市指定文化財。)。また、松本市新村地区には、城の南門の扉を使用したという長屋門がある。このほかにも、松本市および周辺の市町村には松本城内にあった侍屋敷より移築したとされる民家の門が数多くある。

【総堀】
三の丸の周囲をめぐっていた総堀は明治以降に埋め立てられ、一部に水路跡や土塁が残るのみである。このうち、松本市大手2丁目54番の土井尻土塁は2007年に史跡松本城に追加指定された。

【外堀復元計画と断念】
南側と西側の外堀の一部は、大正から昭和にかけて埋め立てられて民有地となったが、松本市はこの外堀の復元をめざし、用地買収を進めている。2012年にはこの旧外堀該当地0.9ha(住宅・店舗80棟)のうち、土地権利者の同意を得た0.7ha(約60棟分)について、文化庁に国の史跡への追加指定を申請した[18]。2013年3月に当該部分が「史跡松本城」に追加指定され、史跡指定面積は従前の8.4haが9.1haとなった。
旧外堀については2014年3月、2015年3月にも史跡の追加指定が行われ、指定面積は9.27haとなっている。
しかし、土壌汚染調査で基準値を超える鉛が検出されたことから、松本市は外堀の復元を断念して芝生の広場として整備する方針に変更すると、2018年7月10日に発表した。


傾いた天守(明治時代)
明治時代の天守の傾きの原因は、軟弱な地盤の上に天守の基礎工法として採用された天守台の中に埋めこまれた16本の支持柱の老朽化により建物の自重で沈み込んだことにあると見られている。また安政元年(1854年)の安政東海地震で大規模な被害や火事の記録があり、この時本丸と三の丸の櫓、大手門枡形の塀などが潰れ、天守や太鼓門、本丸の裏門などが大破したとされている
貞享騒動(加助騒動、嘉助一揆)の首謀者・多田嘉助が磔刑に処せられる際に、天守を睨んで絶叫した怨念によって瞬時に傾いたといわれる伝説があるが、これは天守が傾き始めた明治になってから作られた話である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


【松本城】

《石川氏が完成させた信濃一の大城郭》

名称(別名);深志城
所在地;長野県松本市丸の内4-1
城地種類;平城
築城年代;文禄2~3年(1593~4)
築城者;石川数正・康長
主な城主;石川氏・小笠原氏・戸田(松平)氏・滅平(越前)氏・堀田氏・水野氏
文化財区分;大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓、、、以上国宝。他国指定史跡
近年の主な復元等;平成11年に太鼓門を復元
天守の現状、形態;五層六階木造(現存)
地図;



※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
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