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山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

ことにてる年の小角豆の花もろし

2008-12-14 01:09:15 | 文化・芸術
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―四方のたより― 80歳の初心

「林田鉄さま
昨夜は、語りの舞台、楽しませて頂きました。
このごろやっと、舞台で自由に存在することの、楽しさと、怖さ(?)が見えてくるようになりました。
そのことと、役が求める“声”があることも‥‥。
かつて“巡礼”の時、耳にした声と、昨夜の声とは、全く異質のものでした。
声も亦、進化し続けることを確かめられたのは、幸せでした。
ありがとうございました。
ではまた‥‥。」

この短かい文は、初日の「山頭火」を観て、明くる日-11/30-の朝、届けられたFAXだ。
末尾に松田と記名したこの御仁は、松田春子という女優さんで、後半生はもっぱら朗読のほうに力を注いでこられている。

文中「巡礼」とあるのは「商船テナシティ」で知られたフランスの劇作家シャルル・ヴィルドラックの作品で、もう昔も昔、神澤師の演出で彼女と競演した懐かしの舞台である。
1965-S40-年の1月だったからもう43年も昔、私はまだ弱冠二十歳、駆け出しの若造だったが、男と女二人の3人だけの一幕物で、私は40歳代の役だったか、田中千禾夫の「父帰る」ではないが、巡礼のごとく長い放浪の旅に出た男が、姉と男の娘の二人きりが住む家へふらりと舞い戻ってくることからはじまる、そんな芝居だった。お春さん-彼女はみんなからそう呼ばれていた-はその姉の役だった。

そのお春さん、たしか神澤師より3つか4つ年上だったから、もう80歳になられたのではないか。そんな超ベテランともいうべき御仁が、「このごろやっと、舞台で自由に存在することの、楽しさと、怖さ(?)が見えてくるように‥」と仰るのだから畏れ入る。

懐かしい人に、遠路わざわざお運び願えたうえ、過分なお言葉を戴いた。うれしいかぎりである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-23

   御幸に進む水のみくすり  

  ことにてる年の小角豆の花もろし  野水

小角豆-ササゲ-一般には大角豆と表記、ささぎとも。マメ科の一年草、夏、淡紫色の蝶形花をつけ、秋、莢(さや)を結ぶ。

次男曰く、従者の棒持する姿からササゲを連想し、「小角豆の花」-仲夏-と遣って雑躰の句に季を添わせている。

御幸の途中で小休止をしていると、喉が渇いたと仰ったから、石清水を汲んで差し上げた。野水が読んだ情景の設けは、それだけのことだろう。

その「喉が渇いた」ということばを、「今年の暑さはことにこたえる」、さらに「ササゲの花もしおれる」という暗示的表現に置換え、一方、清水を水の御薬と云えば、従事にも表情が動く。これは、文の芸のと口にする以前に、日常会話の楽しみ方の問題だが、連句の基本もそこにしかない。

故事から離れるに季の会釈-あしらい-を以てした付だが、見どころは炎暑の候の会釈はことばのゆるめよう、緊張のほぐし方にある、と看て取ったところだろう。「水のみくすり」実はただの清水だ、という読みはそこから生まれる。したがって、「水のみくすり」は従者の、「ことにてる」は主人の、暑さの表し方だと考えてよい。共に、ひとふし持たせた表現だ、と。


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御幸に進む水のみくすり

2008-12-13 01:08:32 | 文化・芸術
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―世間虚仮― 瀬戸内の島々

毎日新聞の本日-12日-付朝刊7面、カラー版いっぱいに瀬戸内の離島マップと題された記事に思わず眼を奪われた。
瀬戸内海に浮かぶ大小727の島々、そのうち人が住む島は150近くだとされ、さらにその中で国の離島振興法の対象地域に指定された島がなんと99にのぼるというのだ。

その島々の所在マップが描かれ、それらの人口事情が島ごとに列記されている。驚くべきは一向に歯止めのかからぬ島々の過疎化と高齢化だ。人口たった2人のみという島が2つ、5人という島もあれば、6人だけという島も2つある。数えあげてみれば人口100人に満たない島々がなんと46もあるのだ。

統計は’05年の国勢調査時、’00年時からの増減数と高齢化率も併せて記されている。人口30人の香川県の志々島は、なんと高齢化率93%とあるから、28人が高齢者ということになる。山口県には17人中15人が高齢者という前島や、14人中12人という笠佐島がある。

過疎化も急ピッチだ。同じ香川県の小手島など、’00年には96人だったのが5年後の’05年には51人にまでなっている。’00年から’05年の間に3割前後の減少を示している島がかなりの数にのぼっており、99の島々の殆どが深刻な人口減少に直面しているのが見て取れるのだが、なかに人口増を示しているのが4島のみ。

変わったところでは愛媛県の赤穂根島、’05年には2人となっており、しかも増減が+2となっているから、以前は無人島であったとみえるこの島に、おそらく夫婦者であろう2人が移り住んできたと云うことになる。

と、瀬戸内の島々の事情が一望できる紙面に、島の暮らしぶりなどさまざま想像を掻き立てられては、しばし釘付けとなってしまった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-22

  泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て  

   御幸に進む水のみくすり  重五

次男曰く、先に暁台が「拾ひ得て放す心」と云ったのは、この付にあてはまる。清水に放たれて蘇り王者の風格を取戻した大鯉をそのまま鳳輦-ホウレン-と見立て、霊験あらたかな水-水の御薬-をたてまつる、と作っている。

「続日本記」の霊亀3年9月20日の条には、元正女帝が多度山の美泉に行幸したことを伝え、後の条にその効について詳しく記している。よほどの大瑞だったか、この年の11月17日、霊亀3年は養老元年と改められた。

ここまで説けば前句の仕立に、「荘子-秋水-」篇の故事をからめて霊亀を匂わせた気転も読取れないではない。「尾を途中に曳く」神亀の説話を下に敷いて養老改元の心を詠んだ句、と解しておく。

重五のうまい思付であったか、それとも興の引出しについて連衆の誰かが助け舟を出したか、その辺はわからないが、はじめから杜国の句が「荘子」を下敷にしていると皆が承知していれば付ける楽しみは半減する。

諸注の中では、太田水穂が「神薬の水」とし、改元のことにも説き及んでいる。「前句の、霊亀を俤にした鯉から、美濃の養老滝へ行幸された霊亀の女帝-元正天皇-を現はしてきた‥、この附の神妙さかに驚らかるるのである」-芭蕉連句の根本解説-、と。


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泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て

2008-12-11 14:44:49 | 文化・芸術
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INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―四方のたより― ありがとうと自画自賛

ある人曰く
「うしろすがたの山頭火…
もはや「この人こそ山頭火である」という風情。
ああ、こういう人だったんだ。
いまそばにいる。
息の音がする、体の熱がわかる。
目に映じたもの、風のにおい、空の色。
それらが、ああそうだったのですか…というふうに、
伝わってきました。
林田先輩による山頭火の解釈から、一個の「山頭火」が立ち現
れて、ひとつの世界が完結されていました。
ぜひぜひ、みなさまご覧になることをおすすめします。
舞台と客席の境界のない空間で、かなり舞台の領域に侵入し、
行儀悪く体育座りで拝見していました。
想像以上に素晴らしかったです。
林田先輩、ありがとうございました。」

また別な人曰く
「『うしろすがたの山頭火』小生も見てきました。
芝居が終わって、出さた清酒『山頭火』の入った紙コップを手にしたら、
どこかで見た人が‥、 JJさんの@24さんでした。
『 林田先輩による山頭火の解釈から、一個の「山頭火」が立ち現 れて、ひとつの世界が完結されていました。』
というようにうまくは表現できませんが、
私からも 、『 ぜひぜひ、みなさまご覧になることをおすすめします。』
ほとんどがセリフによる表現なのですが、最後のフリも大変印象的でした。
カメラマンである私の視覚からみても、いいなあ、と唸りました。
九条にああいう場所があるというのも新発見ですね。
林田さんありがとう。」

じつは昨夜は最悪のコンデイシヨンであった。
その前夜は2時間ほどウトウトとしたきり、その前は4時間足らずの睡眠、こんなことでは喉によかろう筈もない。

私の声帯は、奇形もゆくところまでいって、もうボロボロである。
そんな喉の状態とはうらはらに、この頃になってようやく、自称「即妙枯淡」の語り、融通無碍の芸の域に達しつつあると自負できるようになったのも皮肉なことだが、まあ万事そんなものかと思う。

演者としての私自身、野に咲く一輪の名もない草にすぎないけれど、近頃は稽古をしていても、自在に、闊達に、もの言い、また動けるようになっているのを覚えるようになっている。
たとえどんな高名な俳優が山頭火を演じたとしても、それに負けぬだけの自負も、いまはもてるようになった。

などと、これを綴っていたのは11月30日の朝であった。
書き留めたもののBlogへupする暇もなく、二日目の舞台を務めるため、こんどの芝居小舎たるMulasiaへと出かけたのだった。舞台の出来は、初日よりもさらに自在境に遊べたようで自身納得のいくものであったと思う。芝居がはねた後の客たちとの酒宴はまことに快く愉しいひとときであった。今は懐かしの九条新道、その道筋の和食の店で遅い食事を摂って帰宅したのは午後11時頃であったろう。

その疲れ切った身体を一息休めてからパソコンに向かったのだが、どうしたことか立ち上がらない、ウンともスンともまるで反応がないのである。
とうとうその夜は諦めてゴロリと横になったが、翌朝になってもPC不調は治まらない。カスタマーサービスに電話などしては、機械内部を触ってみたりと、悪戦苦闘すれど一向駄目である。まだまる2年が過ぎたばかりだというのに、このざまはなんとも情けないが、名もなきメーカーのオリジナルパソコン、どだいMotherboard自体たいした代物じゃない。まして我が使用環境は負荷のかかるずいぶん酷いものであろうから、さらに寿命を縮めたか。

仕方なく新機を求めたが、休眠すること十日余、この間PCのみならず身辺色々あって疲労困憊の体だったが、ようやく本日Blogに復帰、無事生還というわけだ。
今日の連句「泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て」のごとく「鯉を拾ひ得て」となるのであれば万事めでたしなのだが‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-21

   乞食の蓑をもらふしのゝめ  

  泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て  荷兮

次男曰く、陰の極ゆえ陽転の兆しを「しのゝめ」含ませた荷兮の注文を承けて、泥中に思いがけぬ鯉を拾うと作った、瑞祥の趣向である。

とくに巧拙を云うべき句ではないが、前に「乞食の蓑」とあればさっそく奪って己の用とし「泥のうへに」「尾を引」と大鯉魚らしく匂わせたあたり、「しのゝめ」の心をよくつかんでいる。

露伴は「前句を奪ひて転じて附けたり。乞食の蓑に拾得たる鯉を裏-つつ-みて持つとなり。尾を曳く亀は荘子に出づ。寧ろ死して骨を留めて而して貴きを為さんか、寧ろ其れ生きて尾を泥の中に曳かん乎、とあり。それを尾を曳く鯉と作りたるは、例の諧謔なり」と云う。

「荘子-秋水篇-」に見える神亀の説話は升六の「注解」にはじまり、樋口功や太田水穂、天野晴山なども拠所としている。二句一意で大愚大悟の境涯の如くとも読めなくはないが、この杜国の句は面影を云々するほど特徴のある用辞を設けてはいない。次句が見込んで用いればむしろ面白かろう、という性質の寓言である、と。


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