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山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

藤ばかま誰窮屈にめでつらん

2008-04-23 16:12:40 | 文化・芸術
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―表象の森― 悼、釜ヶ崎の詩人こと東淵修

むかし さんじゅうねんくらいまえは たばこ ろくじゅっぽん さけは いっしょうざけであった
じゃんじゃんまちを いっしょうざけを はらにぶちこんで じぐざぐにに しょんべんを してまわった ことがある 
だから そのじぶんが わいの いちばんおもろかったことを おもいだす
きぶんがわるなったら そこいらに はいて まわった
いろいろ かんがえつめると そのじぶんが いちばんの わいの ごくどうぜんせいじだい だった
あるひ あんまり からだのちょうしが わるいので いしゃへ いった
おいしゃさんの いうのには あんた とうにょうびょうやで へたしたら ぽっくりやで といわれた
ほんで しらべたら しんぞうも わるいで けんさにゅういんせなあかん
ようようしらべたら しんぞうが ひだい している
それで こっちも びっくりしてしもうて けんさにゅういん することにした
けっか けんさで ふうせんちりょう することになり ぱあんと はれつ さした
それで いったんは なおった
とうにょうびょうのほうは くすりじゃなしに いつのまにか ちゅうしゃを うつことに かわっていった
いつのまにか いっしょうざけも たばころくじゅっぽんも ふっかつしていた
えんえんと ごくどうは つづいたのである
しあわせやったなあ
そんなときは さくひんも もりもり かけた
それが えいえんに つづくかとおもたが
あるひとつぜん しんぞうが くるしなって びょういんへ はこびこまれた
ついでに じんぞうも わるなって
いらい びょういんと このよに はいかい することになった
ごくどうの すえや しゃあない

  ―――東淵修-とうにょうびょうと、しんぞうびょうと、じんぞうびょうと-

釜ヶ崎の詩人こと東淵修氏の死が報じられたのは2月25日だったか、享年77歳という。

彼が主宰した「銀河詩手帖」は1968(S43)年11月創刊というから、以来40年の長きを、時に月刊として、時に季刊または隔月刊として、ずっと保ってきたことになる。まさに「えんえんと、ごくどうは つづいたのである」

嘗ての私の書棚にも、その詩誌は2冊か3冊、諸々の本に混じっていたと記憶する。
70年代のいつ頃のことであったか、いかつい体躯に人なつこいような柔和な笑顔を浮かべたこのおっさん詩人と、一度きり対座したことがある。なぜ、どんななりゆきで、そうなったものやら、だれかと一緒だったのか、てんで思い出せないのだが、とにかくその時の彼の印象だけはあざやかに脳裏によみがえる。その頃の彼はきっと「たばこ ろくじゅっぽん さけは いっしょうざけ」の日々であったのだろう。

今月の13日、その「おやっさん」を偲ぶ会が催され、全国から詩人たち50人ばかりが駆けつけた、とも報じられていたのを眼にした。
遺された「銀河詩手帖」同人らが、おやっさんの遺志を継ぎ、詩誌発行の火を灯しつづけていく、ともあった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-02

   酒しゐならふこの比の月   

  藤ばかま誰窮屈にめでつらん  芭蕉

次男曰く、秋三句目。
フジバカマは漢名を蘭または蘭草と云い、藤袴はその花の色と管状の弁をの形とからつけられた和名である。

「万葉集」巻八の秋雑歌に「萩の花尾花葛花瞿麦-なでしこ-の花女郎花また藤袴朝貌の花」-山上憶良-とあり、呼称も表記も早くから定着したものらしい-蘭・らにという名も並んで用いられた-。連・俳では初乃至仲秋の季に扱う。

飲みたい酒を飲まぬというこだわりも窮屈だが、それを承知のうえで無理強いする行為はもっと窮屈な話だ。と気付いた可笑しさがこういう時宜の草花を思付かせる。袴の異名は窮屈袋である。句は、名づけの所以を咎めているとも読めなくはないが、「藤袴誰窮屈に」とあけすけに語縁をさとらせては、問答も興醒めだろう-「蘭草を誰窮屈にめでつらん」と作ればよい-。藤袴の名にふさわしい愛で様をさぐれ、と読んでおく。

フジバカマはキク科の芳草で、その縁の色-紫-を主知らぬ香や形見の香にことよせ、もともと詠み口窮屈な花である。

「やどりせし人の形見か藤袴忘られがたき香に匂ひつつ」-古今集・秋、貫之-
「主知らぬ香こそ匂へれ秋の野にたが脱ぎ掛けし藤袴ぞも」-同、素性-
「おなじ野の露にやつるる藤袴あはれは掛けよ託言ばかりも」-源氏物語・藤袴-

三首目は、父源氏の使として玉鬘を尋ねた宰相の中将-夕霧-が、序でに、同じ祖母の喪に服している縁を口実にして藤袴の花を贈り、従姉に言寄る歌である。これには源氏も亦、夕顔の忘れ形見を養女として引取っておきながら且恋もしている、という窮屈な筋が下地となる。藤袴が玉鬘の別名というわけではないが、芭蕉の句仕立から自ずと思出さぬわけにはゆかぬ話だろう。

発句の、同意を求めたげな、止むに止まれぬ心根を汲んで、持成しとなる物語の上をかすめる含もありそうな返戻を以てしたところ、この歌仙の形式が両吟であるだけに、さっそく展開の利く第三である。

露伴は「春秋左氏伝」に鄭の文公の賤妾燕姞-エンキツ-が蘭に夢に見て公子-後の穆公-を身籠ったとしるす話を引く。穆公-名は蘭-、父母の恩愛を銘ずること深く、縁の草を大切にし、病みて卆するに臨んでは悉くこれを刈取らせた、と伝える。゛其の窮屈に愛でたることも太甚-はなは-だし。周茂叔の愛蓮、林和靖の愛梅、其愛は深しと雖も、窮屈の愛しざまにはあらず」と露伴は云うが、芭蕉の句は「蘭」の句ではない。尤も、この話は俊成はじめ「新古今」時代の和歌の判にも見え、芭蕉も知っていたかもしれぬ。それなら、王朝人の藤袴の愛で様を、古代中国の故事にまで遡らせて娯んでいる、という句になる、と。


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酒しゐならふこの比の月

2008-04-22 15:13:18 | 文化・芸術
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―表象の森― 陽春の倦怠

昨日はめずらしく昼前から外出。
同期の旧友Kと逢うため地下鉄で梅田へ、約束の前に駅前第3ビル地下の古書店に立ち寄ってネットで注文していた書を受領、1500円也。
途中昼食をはさんでほぼ2時間半対座、話はとくに的もなくとりとめもなく進み、ただ声と語り口にともなうなにがしかの肉感が心地よいといえばいえそうな、そんな時間か。

そのあと連れ立って、同期4名が出品しているという市岡OBたちの写真クラブ作品展に立ち寄るべく、南森町のギャラリー「草片-くさびら-」へと移動。
会場にはT君が居た。写真はなべて4ツ切りサイズか、額も同じ仕様で統一されており、18人が各々2点ずつ、計36枚が整然と配列されているのだが、その平等主義?と些か空間の窮屈なこともあってか、却って個々の作品の鑑賞という行為を阻害させているような気がする。眼の動線に遊びが欲しいのだが、なんとかならなかったものか。

そこへU-出品者-さんが来て少し立ち話をしたが、暇と金にあかせた彼女の行動力は、写真というお道楽を得て、一気呵成に突き進んでいるようで、来週は岩手にとか、来月は礼文島にとか、云っていたのには少々面喰らってしまった。

汗ばむほどの陽春の昼下がり、地下鉄に乗り込んだ身体になにやら物憂いようなけだるさを感じていた。

―今月の購入本―

ダグラス.R.ホフスタッター「ゲーデル.エッシャー.バッハ あるいは不思議の環」白揚社
1985年初版の中古書。ウィキペディアに曰く「GEBの内容を一言で説明するのはむずかしい。中心となっているテーマは「自己言及」だが、これが数学におけるゲーデルの不完全性定理、計算機科学におけるチューリングの定理、そして人工知能の研究と結びつけられ、渾然一体となっている。エッシャーのだまし絵やバッハのフーガやカノンは これらをつなぐメタファーとして機能している」と。先に図書館から借りて少し囓ってみたが、とても読み切れずむなしく返本。のんびり時間をかけてみるしかない。

陳舜臣「曼荼羅の人-上」「 々 -下」TBSブリタニカ
1984年初版の中古書。若かりし私度僧空海の長安滞在期を描いた小説。作者の陳舜臣は、先に「空海の風景」をものした司馬遼太郎と、大阪外国語学校-現在の大阪大学外国語学部-の同期だったというのは偶然にしてはできすぎている。

黒田俊雄「王法と仏法-中世史の構図」法蔵館
初版は1983年だが、2001年増補新版の中古書。「黒田史学」と称される、天皇を中心に公家・武士・寺社など諸権門が相互補完をなして中世国家を形成していたとする「権門体制論」、あるいは、中世宗教の基軸を顕密仏教に求め、その構造と展開を論じる「顕密体制論」

篠田謙一「日本人になった祖先たち」NHKブックス
副題は「DNAから解明するその多元的構造」、2007年2月の新刊書。最近のDNAデータから、アフリカ出来の人類がどのような道をたどって東アジアに到達し、日本列島へ渡ったのか、また、先住の縄文人と大陸渡来の弥生人という日本人の二重構造論をも検証する。

松岡正剛「世界と日本のまちがい」春秋社
副題に「自由と国家と資本主義」、2007年12月の新刊書。公開講座の語りおろしによる著者独自の史観で読み解く近現代史。

吉本隆明「情況への発言-2」洋泉社
私誌「試行」の巻頭「情況への発言」、第45号-1976年4月-から第61号-83年9月-まで。

広河隆一編「DAYS JAPAN -戦争と人間と写真-2008/04」ディズジャパン

―図書館からの借本―

佐藤次高編「世界各国史-8-西アジア史①アラブ」山川出版社
嘗てオスマン帝国下に統合されていたアラビア半島からマグレブまでの範囲を各王朝毎に詳細に辿る通史。

松岡正剛「空海の夢」春秋社
71年の創刊から82年まで雑誌「遊」を編集した松岡正剛が工作舎を離れ、初めて書き下ろしたもの、84年初版。

大石直正/高良倉吉/高橋公明「周縁から見た中世日本-日本の歴史14」講談社
奥州と琉球および列島周辺の海洋世界から浮かび上がる日本の中世像。

別冊日経サイエンス№151「人間性の進化-700万年の軌跡をたどる」河出書房新社
別冊日経サイエンス№154「脳から見た心の世界-Part2」河出書房新社
別冊日経サイエンス№156「宇宙創生紀-素粒子科学が描き出す原初宇宙の姿」河出書房新社

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-02

  雁がねもしづかに聞ばからびずや  

   酒しゐならふこの比の月     芭蕉

この比-ころ-

次男曰く、越人が陽性の大酒呑だった証拠はいくらもある。「性酒を好み、酔和する時は平家をうたふ」男は、貞享4年冬の伊良胡行でもさっそく酔態を師の前にさらけだしたらしい。「笈の小文」には入れていないが、「伊羅古に行道、越人酔て馬に乗る、ゆき-雪-や砂むま-馬-より落-おち-よ酒の酔」という句が「あま津なはて、さむき日や馬上にすくむ影法師」、「鷹一つ見付てうれしいらこ」と共に「合歓のいびき」-蝶羅編、明和6年跋-なる集に収められ、芭蕉真蹟詠草も遺っている。

「酒しひならふ」と芭蕉が付けたところで、先の「しづかに聞ば」の滑稽ぶりがようやく見えてくる。乏しい暮しとはいえ、夜毎芭蕉が越人に酒を勧めなかった筈はない。又、居候の分際で、越人がこれを辞退しなかった筈もないのだ。当夜の状況に即して云えば、「この比の月」とは後の月-9月十三夜-の頃で、今宵ぐらいはせめて存分に飲みたまえ、というのが亭主芭蕉の唆誘-さゆう-である。対して越人の答は、水入らずで手ほどきを受ける記念すべき今宵だけは、誓って盃を手にしません、だろう。これは、飲まぬと云うなら代ってこちらが飲もうか、と煽ってでもその気にさせてみたくなる遣取で、充分に俳諧のたねになるものだが、客-越人-は「しづかに-素面で-聞ば」と、こだわって辛抱している。そう読んでよい。

時に越人33歳、芭蕉は45歳。この夜の興は挨拶の出ばなからして、李白が杜甫の拘泥癖を飯顆-ハンカ、めしつぶ-の粘着に喩えてからかった有名な話を思い出させる。天宝3-744-、4年、二人共河南・山東あたりで放浪の生活を送っていた頃である。「酔別、復幾日ゾ、登臨 池台ニ偏-あまね-シ、何レノ時カ 石門ノ路、重テ金樽ヲ聞クコト有ラン、秋波 泗水-シスイ-ニ落チ、海色 徂徠ニ明ルシ、飛蓬 各自ラ遠ク、且尽ス手中ノ杯」-李白、魯郡の東、石門ニテ杜二甫ヲ送ル-。天宝4年秋のことで、李白45歳、杜甫34歳だった。深交僅かに一年、その後二人はついにめぐり逢うことはなかったらしい。

越人と芭蕉の対吟は、後にも先にも「雁がねの巻」だけだった。状況と云い年齢と云い、偶然というには出来過ぎた符号である。。李・杜交遊のときのそれぞれの年齢を、芭蕉たちは知っていたのではないか。少なくとも大凡の一致には気付いた筈で、とすればこの付合は、芭蕉が李白を、越人が杜甫を演じるという、役どころ取替にも仕掛の妙を生むだろう。

むろん芭蕉の杜甫好は周知の話である。今宵のきみが強いて李白に倣わぬというなら、ぼくが代りに飲んで、大切な杜甫をきみに預けようか、と読めば俳諧になる。芭蕉も杜甫も下戸ではなかったが、無くて過せぬほどの酒好でもなかった、というところが満月にはなれぬもう一つの名月-9月十三夜-の興のミソである、と。


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雁がねもしづかに聞ばからびずや

2008-04-21 10:23:24 | 文化・芸術
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―表象の森― 両吟歌仙「雁がねの巻」

「雁がねの巻」は、貞享5(1688)年9月半ば、深川芭蕉庵において興行された、芭蕉と越人の二人による両吟歌仙。

越人は越智氏、通称十蔵、槿花翁・負山子とも号す。明暦2(1656)年北越の生れ、流浪して名古屋に到り、野水・杜国・重五らの庇護を受けて染物屋を業とした。俳諧は杜国に学び、入集は「春の日」-荷兮編、貞享3年刊、七部集の第二集-の10句が初見。

貞享元年「冬の日」興行のとき名古屋連衆に付して直門にむ移ったと思われるが、芭蕉に親炙したのは貞享4年11月、杜国の謫居を慰めるべく、鳴海から三河伊良胡崎に案内して以来のことである。

芭蕉の「更科紀行」-貞享5年-に「さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹きはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、又ひとり越人と云。木曽路は山深く道さがしく、旅寝の力も心もとなしと、‥」と越人の名が見える。

杜国を伴って吉野・高野山・須磨・明石と巡遊した芭蕉が、京都から帰東の途に就いたのは同5月10日ごろ、大津・岐阜に逗留ののち7月尾張に入ったが、信州更科の月見を思立って、美濃へと越えたのは8月11日。この折、杜国と別れ代わりにと越人が尾張から同行したかとみえる。越人はそのまま江戸まで随行、8月下旬に芭蕉庵に帰りつき、食客となってしばらく江戸に滞在した。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-01

  雁がねもしづかに聞ばからびずや  越人

詞書に「深川の夜」とあり。

次男曰く、「雁がね」は雁が音と読んでもよいが、「雁-かりがね-」でよい。
「からぶ」は枯ぶ・乾ぶ、これを枯淡・枯寂の趣にとりなして表現美の一様式としたのは「新古今」時代あたりからで、建仁2(1202)年3月22日、和歌所において後鳥羽院以下7人が試みた「三体和歌」に、「春・夏、此二はふとくおおきによむべし」と六題の約束を定めたのが、文献初出だろう。

晩秋から日本内地に飛来し、翌年仲春頃から北帰する雁の代表的なものは、真雁-マガン-と鴻-ヒシクイ-である。真雁の声はやや細く高く、鴻のほうは太い濁声だが。共に鳴き交しながら群飛する習性があり、けっこう騒がしくきこえる。「からぶ」という印象は必ずしもあたらない。

越人は「秋・冬、此二はからびほそくよむべし」という約束をよく承知していて、少々外れた物に目を付たのではないか。とすれば、句作りの工夫は中七文字にある、と容易にわかる。

その中七を、「深川の夜」とわざわざことわったうえで「しづかに聞ば」と駄目押をした、芸の無さが気に掛かる。下手と云えばそれまでだが、越人ほどのプロなら、「雁がねも水面にからびずや」という類の改案ぐらい思付かなかったとは考えられない。発句の挨拶は、亭主ぶりひいてはその住まいぶりなどを賞めるのが通例だが、「しづかに聞ば」とは、とはどうやらそれとは別のところに含を持った云回しらしい、と気がつく。

深川の夜は格別だ、と云っているわけではない。師弟二人水入らずの秋夜の興は何者にも替えられぬ、と云ってるだけでもなさそうだ。この「しづかに」の含は、当然、亭主芭蕉が釈いてくれる筈である、と。


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その望の日を我もおなじく

2008-04-19 16:40:41 | 文化・芸術
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―表象の森― ただ即きゆく‥。

「冬の日-霽の巻」も芭蕉の挙句「その望の日を我もおなじく」をもって了。
この安東次男の「芭蕉連句評釈」にはじめて触れたのは、季刊雑誌「すばる」-集英社-の連載であった。

70年代末には月刊となっている「すばる」だが、季刊時代であった1970(S45)年6月の創刊から5.6年は毎号欠かさず書店から取り寄せていたかと記憶する。

その創刊号で私の眼を惹きつけたのは、梅原猛の「神々の流竄」であり、もう一つがこの前書となる「芭蕉七部集評釈」であったのだが、当時の私にとってこの連載を読み遂せていくことは荷が勝ちすぎていたから、到底まともな読者であったと云える筈もない。ただ、ゆくゆくはこの鬱然たる樹海に迷い込んで存分に呼吸してみたいと思ったものだった。

本書「風狂始末-芭蕉連句評釈」-ちくま学芸文庫-巻末の解説で粟津則雄は、

「彼は、この座に身を投じ、それにとらわれ、とらわれることによって、そこでの連句のはこびを、あの緊迫した対話へ奪いとろうとする。そのとき、たとえば歌仙は、すでに巻きあげられたものとして眼前にあるものではなくなる。この対話を通して、再び新たに巻き始められるといったおもむきを呈するのである。対象にとらわれ、とらわれることによって対象とのあいだに緊迫した対話を生み出すことは、「鑑賞歳時記」においてすでにはっきりと見られる、安東氏の終始一貫して変わることのない姿勢であるが、対象が発句ではなく、たとえば歌仙である場合、彼はさらに強くさらに濃密にその場にとらわれることとなる。」

と書いているが、私もまた叶わぬまでも、新たに巻き始められるとみえるこの濃密なる場に、ただ即きゆきたいものと願っている。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」-36

  こがれ飛たましゐ花のかげに入 

   その望の日を我もおなじく   芭蕉

望-モチ-の日

次男曰く、「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」。家集、異本家集、御裳濯河自歌合に入り、「続古今集」にも撰ばれた歌で、西行はこの願どおり文治6(1190)年2月26日、河内弘川寺に73歳で入寂した。歌は壮年修行中に詠置いたものらしいが、実は先の「ほとけにはさくらの花をたてまつれ」は「山家集」春の部で右の歌の次に配列されているものだ。これは芭蕉の意識に不可分のものとしてあったかもしれぬ。間髪を容れず裁入れている。

句のおもてに季語はないが、「その望の日」を新季語の工夫と見做したくなる心憎い作りである。むろん含は、私もそんな極楽を味わってみたいものだ-そんな可愛い女に会ってみたい-というジョークにある。味な挙げ方をする、と。

「霽の巻」全句-芭蕉七部集「冬の日」所収

つゝみかねて月とり落とす霽かな  杜国  -月・冬 初折-一ノ折-表
 こほりふみ行水のいなづま    重五  -冬
歯朶の葉を初狩人の矢に負て    野水  -春
 北の御門をおしあけのはる    芭蕉  -春
馬糞掻あふぎに風の打かすみ    荷兮  -春
 茶の湯者おしむ野べの蒲公英   正平  -春
らうたげに物よむ娘かしづきて   重五  -雑 初折-一ノ折-裏
 燈籠ふたつになさけくらぶる   杜国  -雑・秋
つゆ萩のすまふ力を撰ばれず    芭蕉  -秋
 蕎麦さへ青し滋賀楽の坊     野水  -秋
朝月夜双六うちの旅ねして     杜国  -月・秋
 紅花買みちにほとゝぎすきく   荷兮  -夏
しのぶまのわざとて雛を作り居る  野水  -雑
 命婦の君より来なんどこす    重吾  -雑
まがきまで津浪の水にくづれ行   荷兮  -雑
 仏喰たる魚解きけり       芭蕉  -雑
県ふるはな見次郎と仰がれて    重五  -花・春
 五形菫の畠六反         杜国  -春
うれしげに囀る雲雀ちりちりと   芭蕉  -春 名残折-二ノ折-表
 真昼の馬のねぶたがほ也     野水  -雑
おかざきや矢矧の橋のながきかな  杜国  -雑
 庄屋のまつをよみて送りぬ    荷兮  -雑
捨し子は柴苅長にのびつらん    野水  -雑
 晦日をさむく刀売る年      重五  -冬
雪の狂呉の国の笠めづらしき    荷兮  -冬
 襟に高雄が片袖をとく      芭蕉  -雑
あだ人と樽を棺に呑ほさん     重五  -雑
 芥子のひとへに名をこぼす禅   杜国  -夏
三ヶ月の東は暗く鐘の声      芭蕉  -月・秋
 秋湖かすかに琴かへす者     野水  -秋
烹る事をゆるしてはぜを放ける   杜国  -秋 名残折-二ノ折-裏
 声よき念仏藪をへだつる     荷兮  -雑
かげうすき行燈けしに起侘て    野水  -雑
 おもひかねつも夜の帯引     重五  -雑
こがれ飛たましゐ花のかげに入   荷兮  -花・春
 その望の日を我もおなじく    芭蕉  -春


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こがれ飛たましゐ花のかげに入

2008-04-18 18:44:35 | 文化・芸術
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―世間虚仮― 子どもというものの激しさ

生活のリズム変化による子どもの体調管理というものはなかなか難しいものがある。
新一年生になって2週目に入ったK女がとうとう変調をきたしてしまった。

昨日の午後4時過ぎ学校から突然の電話、前日の水曜日から始まった「いきいき活動」の担当者からで、「熱はないが、お腹が痛いと云って、横になっている」とのことで、すぐ駆けつけてみると、なるほど朝出かけたままの制服姿のまま、ちょっぴり青ざめた表情で力なく横たわっていた。

「イキイキ活動」というのは大阪市が始めた学校内での放課後保育のことで、全市的に実施するようになったのは平成13年からだ。この施策には、すでに民間にひろまっていた学童保育への支援補助費がどんどん膨らんでいくことや、組織化された学童保育連絡会などが学校開放をめざした請願要求の盛りあがりへの対抗措置的な意味合いもあったのだろう。

このところ就寝につくとかならず軽いとはいえ喘息の発作も出ていたし、アトピーの湿疹もつねより増していた。保育園から小学校へと、環境と日常リズムの変化は、相当なストレスとなっているに違いないと思っていたが、それを上回っての旺盛なハリキリぶりが、起きている限りは快活で元気な振る舞いをさせていたのだろうか、どうやらそれが破綻をみせ、とうとう身体のほうが悲鳴をあげた、ということか。

とすると、新一年生になったという環境変化に対するK女の幼いなりの思い入れは、此方の想像をはるかに上回る強さだったとみえ、このところの彼女のハリキリぶりは、一種の躁状態を呈していたともいえそうなほどに、心身のバランスを欠いていたことになるが、幼い心理にそれほど激しい精神の運動があるなどと気づきもしなかった此方が迂闊だった。

なるほど、子どもの心身こそ、おとなたちの想像を超えて、激烈なものなのだ。だからこそ自身のコントロールも効かず、ここまで変調をきたしてしまうのだ。

報せをうけた母親も早々に帰ってきたので、雨降るなかを背負って、近くのかかりつけの医院へと歩いていった。折悪しく車を修理に出していたのでそんな羽目になったのだが‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」-35

   おもひかねつも夜の帯引  

  こがれ飛たましゐ花のかげに入  荷兮

飛-とぶ、入-いる

次男曰く、名残の花の定座である。帯引に負けた女は行灯消しに起つかわりにそのまま男の胸にとびこむ、と読取っていなければこういう付は出来ない。男二人の帯引では成立たぬというところが滑稽のみそで、甘えもくすぐりも可憐さも自家薬籠中のものとした付だが、座巡ecbed、挙句が芭蕉とあれば、荷兮には用意の作文がある筈だ。

伊勢に、吉野に、つい先頃西行の跡を尋ねてきたばかりの、風狂人を迎えての興行である。句はそのまま眼前のまろうどの姿でもある、とは誰の目にも瞭かだろう。
「西行山家集、あくがるる心はさても山ざくら散りなん後ぞ身にかへりなむ。この歌を踏みて、前句の恋のをかしみを巧みに花に添へて作れるは、流石に荷兮力量ありといふべし」-露伴-。

晩年、「思ひ返すさとりや今日は無からまし花に染めおく色なかりせば」-御裳濯河自歌合、寛文七年の板本がある-と述懐するに到った西行の花数奇は、挙げればきりがない。一つを以て証とするわけにもゆかぬ。

「思ひに堪へ兼ねて魂もうはの空に吾が思ふあたりに飛び去りしを花にあこがるる情に取りしにて、こがれに恋を含めしつもりならむも、此の付意また妙とは謂ひ難く、何かと言ひ方ありさうに思はる。談林臭を呈びし付方なり」-樋口功-

「女を花に喩へた心はもとよりであるが、桜咲く春の夜の艶なさまも想はれて面白い」-穎原退蔵-、と。


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