山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

いさ知らず鳴海の浦に引く潮の‥‥

2006-07-22 22:43:12 | 文化・芸術
Nakahara0509180931

-表象の森- 古層の響きと近代ナショナリズム

 昨夜(7/21)は、「琵琶五人の会」を聴きに日本橋の文楽劇場へ。
毎年開催され、今年でもう17回目というから平成2(1990)年に始まったことになるが、私が通い出してからでも6年目か、7年目か?
文楽劇場3階の小ホールは、その名の通り小ぶりで席数160ほどだから100名余りも入れば、まあ淋しくはない。このところ降り続いた豪雨も午後からはあがったせいか、開演前から客足は好調と見えて空席は少ない。
大阪やその近郊で活躍する琵琶五人衆のこの会は、薩摩琵琶の中野淀水、杭東詠水、加藤司水と、筑前琵琶の竹本旭将、奥村旭翠で構成されているから、四弦の薩摩と五弦の筑前を聴き比べられる点もうれしいことではある。


今夜の演目は、中野淀水の「河中島」で幕を開けて、
二番手に、杭東詠水が「本能寺」を、
つづいて加藤司水の「小栗栖」と、薩摩が三番並び、
四番手に竹本旭将が「関ヶ原」を、
そして紅一点の奥村旭翠が「勝海舟」で切りを務める。
「河中島」は、信玄と謙信と「川中島」のことだが、これを作した錦心流の祖・永田錦心が他の「川中島」と区別するため「河」の字を用いたらしい。
「小栗栖(おぐるす)」は明智光秀が最期を遂げた所縁の地で、現在の京都市伏見区小栗栖小坂町に「明智薮」と呼ばれる碑がある。
「勝海舟」は、江戸城無血開城を決した西郷隆盛との両雄対決の場面。


ざっとした感想だが、この二年ばかり、語りに枯淡の味わいを滲ませるようになった旭将さんは、そのレベルを維持しているように思える。演奏には定評あるものの語りは未だしの加藤君は、演目の所為もあろうけれど、哀調の音色を少しく響かせてくれた。

琵琶の音色は古層の響きをかすかに伝えてはくれるが、四弦の薩摩と五弦の筑前においてその楽曲は些か異なれど、ともに明治の富国強兵盛んな日清・日露を経た世相を反映して、近代ナショナリズムを色濃く蔵している。
平家の諸行無常の響き、滅びゆくものの哀調よりも、むしろ太平記的軍記物、武勇伝の類を題材としたものが多い。要するに、さまざまな地域に埋もれた中世以来の伝承芸能だった琵琶世界も、明治末期から大正期にかけてのナショナリズム的思潮のなかで、近代化の装いを凝らしつつ復活再生させたわけであるが、それは伝統の古い楽器を用いた新しい文化様式だといったほうが相応しいのかもしれない。しかも当時作られた新しいレパートリィ群は、主題も曲想も語りの技巧も似たり寄ったりで、ほぼおしなべてステロタイプ化している。それだけに琵琶の語り芸が本来有していたはずの古層の響きを、現在われわれが聴くことのできる多くの弾き語りからは表面だって聴き取ることは難しい。それは琵琶という楽器そのものがどうしてももってしまわざるをえない音の質として、通奏低音のようにかすかに響き、ナショナリズム化した主題も曲想も語りの技巧をもほんの少しだけ裏切りつつ、聴く者たちにほのかな余韻を残すのだ。
古いものが新しい皮袋に盛られるのは、歴史の常とするところだが、そろそろこの琵琶の弾き語りの世界も、温故知新とばかり、大きく反転させる必要があるのではないかと、私などは頻りに思わされる。決してもういちど新しくなれというのではない、むしろほんとうに古くなって貰いたいものだ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-31>
玉津島磯の浦みの真砂にもにほひて行かな妹が触れけむ  柿本人麿

万葉集、巻九、挽歌、紀伊国にして作る歌四首。
邦雄曰く、紀伊国の歌枕玉津島、その玉が「真砂」と響き合って、「妹」がさらに匂い立つ。「匂ふ」には元来、まず第一に草木や赤土などの色に染まる意があった。彼女の触れて通った海岸の砂ゆえに、わが衣も摺りつけて染めていきたいほどだとの、愛情表現であったろう。「いにしへに妹とわが見しぬばたまの黒牛潟を見ればさぶしも」も挽歌四首の中の作、と。


 いさ知らず鳴海の浦に引く潮の早くぞ人は遠ざかりにし  藤原為家

続古今集、恋五、六帖の題にて歌詠み侍りけるに。
邦雄曰く、この歌、続古今・恋五の終り、すなわち恋歌の巻軸に置かれた。潮の退くように人の愛情も引いていった。冬の千鳥で歌枕の名の高い鳴海の海が、恋の終幕の舞台になったのもめずらしい例の一つ。初句切れの「いさ知らず」と結句の連体形切れが、心細げに交響して、これまためずらしい細みのあはれを奏でているところ、巻軸歌としての価値があろう、と。


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夢のうちに五十の春は過ぎにけり‥‥

2006-07-21 15:50:31 | 文化・芸術
Kaiba

-表象の森- 「海馬-脳は疲れない」

 新潮文庫版「海馬-脳は疲れない」は、とにかく解りやすく、面白くてためにもなる。新進気鋭の脳科学者・池谷裕二と糸井重里による対談で、脳と記憶の最新の知見に触れながら、老若を問わず読む者をあかるく元気にしてくれる本といえる。初版単行本は糸井重里の「ほぼ日ブックス」で2002年7月刊だが、新潮文庫版はその後の追加対談も増補して昨年6月に発刊、すでに20万部を突破しているというからベストセラーといっていい。
池谷裕二物としては出版のあとさきが逆になったが「進化しすぎた脳-中高生と語る大脳生理学の最前線」(朝日出版社)をたしか刊行直後に読んでいるが、こちらはアメリカのハイスクールの生徒たちを相手にレクチャー形式でディスカッションを交えながら、柔軟性に富んだヒトの脳のメカニズムについて語って、先端の脳科学に触れ得たが、解りやすく面白く読める点では本書が数倍するのは、やはり聞き手・糸井重里の引き出し上手の所為だろう。


 あとは煩瑣を省みず長くなるけれど、本書よりアトランダムなピックアップ・メモ
脳がコンピュータと決定的に異なる点は、外界に反応しながらどんどん変容する自発性にある。すなわち脳はその「可塑性」において、経験、学習、成長、老化と、人の本質ともいえる変化の相を生きる。-脳の「可塑性」という事実は、個人のだれもが潜在的な進化の可能性を秘めているということであり、個を超えた「可塑性の普遍性」は科学的に実証されている。
「ホムンクルス」の図、1950年、カナダの脳神経外科医ペンフィールドによる、大脳皮質と身体各部位の神経細胞関連図。-好きか嫌いに反応する「偏桃体」と、情報の要不要の判断をする「海馬」とは隣り合っていてたえず情報交換している。-好きなことならよく憶えていて、興味のあることなら上手くやってのけられるのも、脳機能の本性に適っている。-宗教の開祖はみんな喩え話上手なのは「結びつきの発明」に長じているから。-ものや人との結びつきをたえず意識している力、コミュニケーション能力の高い人、一流といわれるような凄い人は、みんな自分流ではあってもお喋り上手で、「結びつきの発明」能力が豊か。-脳自体は30歳や40歳を超えたほうが、むしろ活発になり、独特なはたらきをするようになる。つながりを発見する能力が飛躍的に伸びる。-すでに構築したネットワークをどんどん密にしていく時期であり、推理力も優れている。-ネットワークを密に深めていくことはどんなに年齢を重ねても、どんどんできる。
脳は1000億もの神経細胞の集合体だが、その98㌫は休火山のごとく眠っている。-神経細胞を互いにつなぐシナプスによる網状のさまざまなパターン、その関係性が一つ一つの情報であり、感情をつくり、思考を形成している。-「脳は疲れない、死ぬまで休まない」-夢は記憶の再生であり、夢も無意識も、tryとerrorの繰り返しを果てしなく続けて、いろいろな組み合わせをしている。-脳は刺激がないことに耐えられない。何の刺激もない部屋に二、三日放置されると、脳は幻覚や幻聴を生み出してしまう。-脳は見たいものしか見ない、自分の都合のいいようにしか見ない。
「海馬は増える」-脳はべき乗でよくなる。-方法的記憶=経験メモリーどうしの類似点を見出すと「つながりの発見」が起こって、急に爆発的に頭のはたらきがよくなっていく。-「脳の可塑性」、人間の脳の中で最も可塑性に富んだところが海馬。-海馬は記憶の製造工場、海馬の神経細胞は、ほぼ1000万個くらいだが、一つ一つの神経細胞が2~3万個の他の細胞とつねに連絡を取っている。-人は一度に7つのことしか憶えられない。Working-Memory=現在はたらいている記憶(短期記憶)の限界は7つ程度。-記憶は海馬の中に貯えられのではない、情報の要・不要を判断して、他の部位に記憶を貯える。-いろいろな情報は海馬ではじめて統合される。-脳の神経細胞は死んで減っていく一方だが、海馬では細胞は次々と死んでもいくが、次々と生み出されてもいる。その需給バランス次第で、海馬は全体として膨らんでもいく。-海馬と偏桃体の密接な関係は、好きなものは憶えやすいというように、偏桃体を刺激、活性化すると、海馬も活性化される関係にある。海馬は、偏桃体の感情を参照しながら情報を取捨選択していく。-ある一人の人間がその人である痕跡が残るように「入れ替えをしない構造」=固有性=を脳はつくるのだが、唯一、海馬は入れ替わるという不思議。しかもその海馬が記憶をつかさどるのである。-海馬にとって最も刺激になるのが「空間の情報」であり、絶えず偶発性の中に身を置いている状態は、海馬にとって刺激的であり、神経細胞の死と生が間断なく繰り返される。
クリエイティブな作業は脳への挑戦。-経験をすればするほど飛躍的に脳の回路が緊密に複雑になる。-凡人と天才の差よりも、天才どうしの差のほうがずっと大きい。-刺激を求めてはいるが、同時に安定した見方をしたがるのが脳の習性である。創造的な作業は、画一的なほうへと流れやすい脳への絶えざる挑戦であり、脳の高度化への架け橋となる。
シナプスの可塑性-海馬における可塑性は一つ一つの神経細胞に数万あるというシナプスにある。-ものを憶えるWHATの暗記メモリーとものの方法を憶えるHOWの経験メモリーでは、HOWの経験メモリーが重要。-眠っているあいだに考えが整理される。海馬は今まで見てきた記憶の断片を脳の中から引き出して夢をつくりあげる。朝起きて憶えていられる夢は1%もないといわれるが、夢というのは記憶の断片をでたらめに組み合わせていく作業であり、もし多くの夢を憶えていたら夢と現実の区別がつかなくなって、日常生活に危険が伴う。-睡眠は、きちんと整理整頓できた情報をしっかりと記憶しようという、取捨選択のプロセスなのだ。-眠っているあいだに海馬が情報を整理することを「レミネセンス(追憶)というが、この作業によって、突然、解らなかった問題が解けたり、なかなか弾けなかったピアノの曲が、次の日にすらすらできるようになったりする。
おなじ視覚情報が入ってくるにも拘わらず、認識するためのパターンの組合せが違う。だからそれぞれの人の見方に個性が出るわけだし、創造性が生れる。-認識のための基本パターンは現在のところ500くらいだとされているが、それだけでも、その中から適当に10個組み合わせるだけでも、10の20乗くらいの膨大な組合せが成り立つ。
カート・ヴォネカットが言う「世界は酸化していく歴史である。あらゆるものは酸化していく。」-酸化するプロセスは、「腐る」ということとほぼ同義であり、人間も酸化するプロセスで年を取るのではないか、と提唱されている。-「やる気は側坐核から生れる」が、自分に対して報酬があるとやる気が出るもので、達成感が「A10神経」という快楽に関わる神経を刺激して、ドーパミンという物質を出して、やる気を維持させる。-偏桃体を働かせ、感情に絡むエッチな連想をすると物事を憶えやすい、ということもある。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-30>
 夢のうちに五十の春は過ぎにけりいま行く末は宵の稲妻 藤原清輔

清輔朝臣集、述懐。
邦雄曰く、知命までの歳月はたちまちに過ぎたと言う。清輔の五十年が「夢」であったはずはない。父の顕輔と不和が続き、鬱々たる日々を生きていた。「行く末は」と歌った時、十年先の永万元(1165)年、二条天皇崩御のため折角選進した続詞花集が、勅撰集とはならぬ憂き目に遭うのを、一瞬のうちに予感したのではあるまいか。清輔一代の秀作である、と。


 吹く風の目に見ぬ色となりにけり花も紅葉もつひにとまらで  慶雲

慶雲法印集、雑、寄風空諦。
生没年不詳、14世紀の歌人、二条為世門下で、兼好・頓阿・浄弁らとともに四天王と謳われた。
邦雄曰く、その昔、和泉式部は「秋咲くはいかなる色の風なれば」と歌い、定家は「花も紅葉もなかりけり」と歎じた。慶雲はいずれをも踏まえておいてさっと身をかわし、しかも題のような釈教的臭みもない。飄乎として麗しい一首を創り上げた。好ましい雑の歌として愛誦に耐えよう、と。


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底澄みて波こまかなるさざれ水‥‥

2006-07-19 21:35:36 | 文化・芸術
Ippenmokuzou

-表象の森- 承前・河野水軍の末裔、僧家と教職家系

 源平の戦いで名を馳せた河野水軍の河野氏は伊予国の豪族で、もとは越智氏と称し、伊予国越智郡を本拠とし、国郡制が定められてからは越智郡司として勢力を振るっていたとされる。
水軍を擁し源義経を助けて平家を壇の浦に全滅させた功績を認められて鎌倉幕府に有力な地位を築いたのは河野通信だったが、源家が三代で潰え、幕府が執権北条氏による支配となってからは、通信一族の殆どは後鳥羽上皇が新たに設置した西面の武士として参ずる。承久3(1221)年の後鳥羽上皇による承久の乱において朝廷方に味方したため、これに敗れた通信らは奥州平泉へと配流となっている。この事件によって河野氏の係累は没落の憂き目をみるのだが、唯一、通信の五男(?)通久のみ鎌倉にあって乱に荷担せず、その命脈を保った。所謂、元寇の第2次蒙古来襲(弘安の役-1281年)において、この通久の孫にあたる通有が戦功を立て、再び河野氏の勢いを盛り返した。以後、南北朝・室町・戦国の世を生き抜くが、天正13(1585)年、豊臣秀吉の四国征伐に反抗した河野通直は所領を没収され、その二年後に没して河野氏の正系は断絶する。


 ところで、念仏踊をもって全国を遊行した時宗の開祖・一遍は、河野氏の出身であることはつとに知られていることだが、その一遍は河野通信の孫にあたり、父は通広といい通信の四男であるが、承久の乱の時はすでに出家(法名・如仏)していたか、或いは何らかの理由で乱に加わらなかったのであろう。乱後、一旦は捕えられるも、後に赦免されて無事だった。その通広の二男として生れた一遍は名を智真という。四国松山の道後温泉近くに宝厳寺という寺があるが、この寺は代々河野氏の菩提寺であり、通広(如仏)はこの別院に住していたというから、智真(一遍)の生地はその別院であろう。以前に訪ねたことがある宝厳寺では一遍の木像を拝したが、高さ113㎝ほどの、右足をやや前にして立ったその姿は、裾の短い法衣から素足のままに大地を踏みしめ歩くが如く、胸元で合掌した両手は慎ましやかながらも少しく前方へと差し出されるようにあり、印象深いものであったが、なにより強烈なのはその顔形骨相で、頬こけ痩せた顔つきながら、卑近な例を持ち出すならジャイアント馬場にも似て、異様な程に長く大きなもので、太い眉と伏し目がちなれど眼光は鋭く、鼻腔あくまで高く真一文字の口と相俟って、粛然と静かな佇まいにあって、観れば観るほどに此方を圧倒してくる強さがあった。なにしろ15年にわたって全国を遊行放浪した身であるのだから、余程頑健な体躯に恵まれていたのだろう。武士にあってはその恵まれた体躯も体力もまた出家の白き道をひたすら歩まんとする身には、人より何倍も煩悩多く業の深みとなって我が身を襲ったにちがいない、と思われるのだ。
一遍が従う時衆たちとともに遊行放浪した北限は、現在の岩手県北上市稲瀬町水越だが、この地には今も「聖塚」の名で残る小さな墳墓がある。祖父・河野通信の墓だ。一遍の死後、弟の聖戒が製作した「一遍聖絵」には、一遍とその一行20名余が一様に墳墓の周りにぬかずいている墓参の光景が描かれているが、この故事にちなんで後々に至るまで残ったのが「薄念仏」とされている。薄の穂の出揃う名月の頃、庭に薄を飾り、それを廻って円陣に念仏を唱えながら踊るという宗儀が、長く時衆では残されてきたと。

 おそらくは、河野氏の直系から一遍が登場したことは、以後その係累にとって陰に陽にさまざまに影響を与えてきたことだろうと推量される。時宗へと結縁する場合もあれば、他宗であれ出家して僧家へと転身する場合などさまざまあったのではなかろうか。
恩師・河野さんの親の代で僧家18代といえば、室町の終りか戦国の世に始まるのであろうか。代々の宗派が何であったかは、迂闊にも聞き漏らしたが、必ずしも時宗にかぎるまいし、一遍の時世からはすでに200年は経ていようから、宗派の別はさほど拘るところではあるまい。それよりも、室町の頃の時宗はすでに芸能民との結びつきがとくに色濃く、半僧半俗の聖や比丘たちの遊行民たちに支えられていくという一面が強くあることを考えれば、一遍の時宗はむしろ敬して遠ざけられる運命にあったかもしれない。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-29>
 底澄みて波こまかなるさざれ水わたりやられぬ山川のかげ  西行

聞書集、夏の歌に。
邦雄曰く、水面に山河の投影を見てふと徒渉る足を止めた風情、「波こまかなる」とあるからには、その影も千々に崩れていたことだろう。旅の一齣が生き生きと描かれ、しかも心は風流に通う。「冴えも冴え凍るもことに寒からむ氷室の山の冬の景色は」は、夏にあって、厳しい冬の光景を思いやる作。四季を越えて、西行の人となりを映す歌の一例か、と。


 あつめこし螢も雪も年経れど身をば照らさぬ光なりけり  源具定

新勅撰集、巻二、述懐の歌の中に詠み侍りける。
生没年不詳、鎌倉初期の人。父は堀川大納言と称された源通具、母は藤原俊成女だが、若くして没した。
邦雄曰く、蛍雪の功もついに見られず、徒に努めたのみ、世に出ることは空しい夢となった。暗い諦めの歌の作者は、新古今きっての閨秀歌人俊成女と、別れた夫源通具の間に生れ、立身も果たさぬままに母をおいて世を去った。入選も二首のみ、いま一首は「春の月霞める空の梅が香に契りもおかぬ人ぞ待たるる」で雑一。母の歌の面影を伝える、と。


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暗きより暗き道にぞ入りぬべき‥‥

2006-07-17 11:12:47 | 文化・芸術
Oshigami_

-表象の森- 「押し紙」と新聞配達員の苛酷な雇用実態

 今日は十干十二支ひとめぐりして赤子となって2度目の私の誕生日だというのに、なんの因果か、暗いというか重い話題について書くこととなっってしまった。お読みいただく諸賢にはいつもお付合いいただいてただ感謝あるのみ。
2003年10月に刊行されたという同時代社刊の森下琉著「押し紙」と新聞配達員の苛酷な雇用実態」を読んだ。これを読んでみようと思うに至った経緯について書けばまた長くもなるので、とりあえず此処では省かせていただく。
本書は、静岡県のある大手新聞販売会社(この会社は専売店ではなく全国に珍しい多紙を扱う合売店)とそこで働く配達員たちとの間で、苛酷な労働条件や巧妙な搾取形態をめぐって争われた訴訟とその闘争記録である。


全国には約22,000店の新聞販売店と、その下で働く新聞配達員が専従社員・アルバイトを含めほぼ470,000人を数えるというが、この世界に稀なる戸別配達制度を明治以来支えてきた、各新聞発行社-販売店-配達員の三者間には、旧態依然たる弱者泣かせの構図が今なお本質的に改善されることなく存在し続けているのが実態であるようだ。
まず、販売店は新聞社に生殺与奪を一方的に握られている。慢性的な過当競争に明け暮れている新聞社は過大なノルマを販売店に課すのが常態化しており、強制的なノルマは大量の売れ残り-「押し紙」-を発生させるが、これが販売店の経営を圧迫し、販売店はつねに経営的に「生かさず殺さず」の状況に追い込まれている。
再販制度と特殊指定に守られている新聞の公称発行部数と実売部数には、各紙共に2~3割程度の開きがあることはなかば常識となっているが、この数字の殆どが新聞社から各販売店に半ば強制的に押しつけられたもので、販売店は購読契約数以外のまったく売れる見込みのないものを恒常的に買い取らされているわけで、これが「押し紙」というものの実態である。
一説によれば、公称1000万部という読売新聞では全体ベースで2割、朝日新聞では約3割、毎日新聞にいたっては4割近くもの「押し紙」があるという凄まじさだ。全国の日刊紙で総発行部数の約2割、約1000万部の新聞が右から左へと毎日古紙として処分されており、その新聞代金は買い取りとして販売店にのしかかっているのだから恐るべき搾取構造だ。


新聞社と販売店におけるこの弱者泣かせの搾取の構図は、そのまま販売店と配達員の間に苛酷な雇用形態となって反映せざるを得ない。
販売店に卸される新聞の買取り価格は概ね月極新聞代金のほぼ半額とされるが、なにしろ「押し紙」相当分も余分に新聞社に支払わなければならないのだから、これを経営努力で吸収しなければならない販売店は、主たる配達業務自体がすべからく人手に頼るしかない性質上、その配達員たちにしわ寄せがいかざるを得ないことになる。雇用実態は販売店によってさまざまではあろうが、早朝勤務というよりは深夜勤務というべきが実情にもかかわらず、その賃金は労基法に照らして最低水準かもしくはそれを下回る場合も十分にありうる。専従の社員ともなれば集金業務も兼ねることになるが、期日内集金が叶わず未集金ある場合は集金の担当者が立て替えなければならないというのが当然の如く押しつけられているようだ。うっかりと誤配をすれば罰金500円が科され給料から天引きされるという。500円という罰金は、少なくとも1ヶ月間の1戸あたりの配達料より大きい金額なのだ。要するに一度誤配をすれば、まるまる1ヶ月間その家への配達はただ働きの勘定となるばかりか、さらにマイナスを背負い込むということになるのである。
と、まあ数え上げればきりがないが、この世界には戸別配達制度が全国網を形成してきた明治以来の古い因習的体質が遺されたまま今日に至っているというのが、配達員たちの雇用形態の実情といえそうなのだ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-28>
 木の間洩る片割月のほのかにもたれかわが身を思ひ出づべき
                           行尊


金葉集、雑上、山家にて有明の月を見て詠める。
邦雄曰く、弓張月といえばなにか雄々しく、明るく感じられるが、「片割月」は冷たく暗く、衰微する趣あり。序詞に含まれた負の幻影は、下句の悲しみをさらに唆る。誰一人、自分を思い出してくれる人などいようかと、みずからに問うて打ち消す。「大峰の笙の窟にて詠める」と詞書した、「草の庵をなに露けしと思ひけむ盛らぬ窟も袖は濡れけり」も見える、と。


 暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月
                         和泉式部


拾遺集、哀傷、性空上人の許に、詠みて遣しける。
邦雄曰く、法華経化城喩品に「冥キ従リ冥キニ入リテ、永ク仏名ヲ聞カズ」とあり、これを上句に置いて上人へ願いを托したのだろう。調べの重く太くしかも痛切な響きを、心の底まで伝えねばやまぬ趣。長明はその著「無名抄」で、式部第一の名歌と褒めている。「第一」は見方によっては幾つもあるが、確かに女流には珍しい暗い情熱で、一首を貫いているのは壮観である、と。


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北山にたなびく雲の‥‥

2006-07-14 14:36:55 | 文化・芸術
0505120181

-表象の森- 河野水軍の末裔、僧家と教職家系

 私の小学校時代の恩師について二度ばかり触れたことがある。
一度は昨年の暮近く居宅訪問した際のこと、続いてはこの3月、彼の趣味の版画の会・コラゲ展についてと。
恩師の姓は河野、決して少なくない姓だが、念の為問うたことがある。ひょっとして先祖は河野水軍に連なるのではないですか、と。源平の屋島や壇之浦の合戦で勝敗の帰趨を制するほどの活躍をしたとされる村上水軍や河野水軍のことだ。
「家に系図なんて残ってないけれど、堺で父親の代まで18代続いた僧家で、昔、寺を焼かれて以後再建されることなく、代々寺を持たない僧侶の家系だったのは確か。」との答が返ってきた。
寺を焼かれたというのには歴史的背景があって、豊臣家滅亡となる大阪夏の陣のさなか、前の冬の陣以後、徳川方に占拠されるようになった堺の豪商たちは東軍の御用商人となっていたのだが、これを恨み、報復の意もあって、大阪方の大野治胤は、ほとんど無防備だった堺の焼討ちを断行するという事件があった。どうやら、河野家先祖の寺は、この折りに焼失の憂き目をみたらしい。時に慶長20(1615)年4月28日のことで、大阪城の落城はその十日後の5月8日であった。
寺は焼失したとて、檀家は残る。それが昔の寺請檀家制度である。
子どもの頃、堺は宿院の寺町界隈に住まいし、少林寺小学校に通ったという恩師の家は、代々続く檀家筋を頼りに、同じ宗門の寺に寄宿しながら、細々とはいえ僧家として糊口を凌いできたのではなかったか。
明治になって、祖父は僧をしながらだが、小学校の教壇に立ったという。父親もまた僧籍を有しながら、大阪市の小学校教員に奉職していた。昭和5年生れの恩師は天王寺師範学校(現・大阪教育大)を経て、やはり大阪市の小学校教員になったが、彼の場合はすでに僧籍はなく、教職一筋をまっとうする。
こうしてみると、明治の学制以来の、教職家系における一典型ともいえそうであるが、おまけに恩師の夫人は嘗て幼稚園教諭であり、夫婦の間には男子と女子の二子がいるが、男子は大阪府の高校教員だそうである。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-27>
 北山にたなびく雲の青雲の星離(サカ)り行き月を離りて  持統天皇

万葉集、巻二、挽歌、天皇崩(カミアガリ)ましし時。
邦雄曰く、天武天皇崩御の時、後の持統天皇-鵜野皇后は長歌、短歌の幾つかをものした。万葉に伝わるもののうち、「星離り行き」は最も鮮麗で、それゆえに深い悲しみが伝わる。完璧無比の、恐るべき好伴侶であったこの人の、心の底の映っているような深い翳りをもつ挽歌だ。青雲が星を離れ月を離れるようにとは、自らを「太陰」とする心。凄まじい執念ではないか、と。


 蓬生にいつか置くべき露の身はけふの夕暮あすの曙  慈円

新古今集、哀傷、無常の心を。
邦雄曰く、文治3(1187)年、作者32歳の厭離百首の「雑五十首」中の一首。要約するなら、いつ死ぬかはわからぬというにすぎないが、慈円の線の太い華やかな詠風は、墓場を指す「蓬生」に緑を刷き、曙の露には紅を含ませている。同五十首中の「雲雀あがる春の山田に拾ひおく罪の報いを思ふ悲しさ」も、無類の面白みを見せた述懐の歌である、と。


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