山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

思ふどちそことも知らず行き暮れぬ‥‥

2006-02-23 12:16:52 | 文化・芸術
051127-078-1

Information<2006 市岡高校OB美術展>
2/19 Sun~2/25 Sat 於/現代画廊・現代クラフトギャラリー

-今日の独言- ナンダヨ、コレ?

 国会議員の国庫負担率2/3というお手盛りの特権的な議員共済年金の廃止論が、昨年から巷間では喧しいほど議論の俎上に上ってきたが、その一方で、平成11年3月末で3232あった市町村が本年3月末時点で1822にまで減ずる平成大合併の結果、地方の市町村議員数も約6万人から3万8千人へと激減し、市町村議員たちの共済年金も平成20年度には積立金0となり完全に破綻するとされ、この救済のために特例として公費負担を増額する法的措置が、今国会で議決されようとしているそうな。既に自民党総務部会には了承されているその内容では、特例措置は15年間とし、その間の上乗せ国庫負担は計887億円に上るという。
 おいおい、ナンダヨ、コレ? さっさと国会議員のお手盛り議員年金を廃止するなり、せめて一般公務員並みにするなどして、地方議員の此方も右へ倣えとすればいいだけのことじゃないか。特例措置期間15年とし、この措置でさしあたり20年間は安泰というが、なんで20年先まで保証しなくちゃならないのか、どうにも納得いかないネェ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-13>
 思ふどちそことも知らず行き暮れぬ花の宿かせ野べの鶯  藤原家隆

新古今集、春上、摂政太政大臣家百首歌合に、野遊の心を。
歌意は、気の合った者同士がどことも定めず遊び歩いているうちに行き暮れてしまった。今宵はお前の花の宿を貸してくれ、野べの鶯よ。
邦雄曰く、古今集の素性法師「思ふどち春の山べにうち群れてそことも言わぬ旅寝してしが」の本歌取り。鶯への語りかけが、現代人には童話風で愉しい。素性は「野遊」を心に思い描いて終り、家隆はそれを実現して、更にまた、花の宿を求める、と。


 きさらぎや野べの梅が枝をりはへて袖にうつろふ春の淡雪  順徳院

紫禁和歌草、建保元年三月当座、野梅。
邦雄曰く、春たけなわの二月に季節はずれの雪。枝を長く延ばして咲き匂う梅に、人の袖に、ふりかかり、かつたちまち消え失せる。二月-衣更着の語感が鮮やかに伝わってくる。総歌数1300首近く秀作名唱を数多含む紫禁和歌草は建暦元年(1211)で、即位翌年の14歳。この梅花詠も翌々年頃の作で、驚くべき早熟の天才、と。


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谷に残るこぞの雪げの‥‥

2006-02-22 15:29:46 | 文化・芸術
051023-002-1

Information<2006 市岡高校OB美術展>
2/19 Sun~2/25 Sat 於/現代画廊・現代クラフトギャラリー

-今日の独言- H.ホルン振付「ラーケンハル」を観て

 ドイツ・ダンスの新しい世代という触れ込みで、アルティ・ブヨウ・フェスの特別公演があった。ご招待いただけるというので折角の機会と観に出かけた。出演のフォルクヴァンク・ダンススタジオというカンパニーは何度も来日しているあのビナ・バウシェも’99年から芸術監督を務めるというチーム。
作品「ラーケンハル」とは織物倉庫の意味だそうな。ベルギーのフランドル地方といえば、ネロとパトラッシュの物語でお馴染みのフランダースの犬の舞台となったところだが、中世ヨーロッパでは織物業を中心に栄えた商業的先進地域であった。フランドル楽派と呼ばれるルネッサンス音楽を輩出するという時代を劃した伝統ある文化圏でもあったが、17世紀以降、近代国家化していく時代の波に翻弄され、ヨーロッパ各国の紛争のなかで支配と弾圧の蹂躙を受けつづけてきた。作品の主題とするところは、いわばフランドル地方のこういった歴史であり、この地域に生きつづけてきた人々のアイデンティティというべきか。


 上演時間は60分余り、巧みな構成は長過ぎるとも重過ぎるとも感じさせはしなかった。印象を一言でいえば、1920年代、30年代のドイツ表現主義、その良質な世界を鑑賞したという感覚。もちろんダンス・テクニックは現代の先端的な意匠が随処に散りばめられているのだが、シーンの割付や展開とその演出意図、その構成主義的ありようは、L.ラバンやM.ヴィグマンを輩出したドイツ表現主義とよく響きあっているのではないかと思われるのだ。私がダンスシーンに要請したい、各場面のなかで動きそのものの造形力がどんどん増幅し膨張していくという、そんな表現世界の創出には遠かったとしかいえない。私の勝手な造語で恐縮だが「レーゼドラマ・スケッチ」としての各場面がA.B.Cと連ねられていくだけだ。むろんそこにはドラマトゥルギィはあるのだが、劇的世界は舞踊の論理とはまた別次のことであり、その観点からの評価は舞踊の批評として対象の埒外にあるべき、というのが私のスタンスだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-12>
 谷に残る去年(こぞ)の雪げの古巣出て声よりかすむ春のうぐいす
                                    後鳥羽院


後鳥羽院御集、正治二年第二度御百首、鶯。
邦雄曰く、百首ことごとく青春二十歳の華。第四句「声よりかすむ」の水際立った秀句表現にも、怖いものなしの気負いが窺える。「梅が枝の梢をこむる霞よりこぼれて匂ふ鶯のこゑ」がこの歌に続き、同じく第四句が見せ所だ。言葉の華咲き競う13世紀劈頭の、爛漫の春を予告する帝王の、爽やかな歌、と。


 雪の上に照れる月夜に梅の花折りて贈らむ愛(ほ)しき児もがも
                                    大伴家持


万葉集、巻十八、宴席に雪月梅花を詠む歌一首。
邦雄曰く、酒席の趣向に即して創り上げた歌だから、雪月花に愛しい子まで添え、至れり尽くせりの結構づくめだ。祝儀を含めた挨拶の歌としてはまことにめでたい。花が梅ゆえに三者純白で統一され、さらに清麗な眺めとなった。古今集の物名歌と共通する一種の言語遊戯ながら、作者の詩魂を反映して格調は高い、と。


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春の夜のかぎりなるべしあひにあひて‥‥

2006-02-21 13:07:08 | 文化・芸術
051129-109-1

Information<2006 市岡高校OB美術展>
2/19 Sun~2/25 Sat 於/現代画廊・現代クラフトギャラリー

-今日の独言- 私の作業仮説

 これを書きつつあるいま、私の横では連れ合いが筑前琵琶の弾き語りを一心にしている。近く一門の年に一度のおさらい会ともいうべき公演が迫っているからだ。手は五弦を弾きつつ、その節にのせて語りの世界を表出する伝承芸能の琵琶は、その手も声も師匠の口移し口真似に終始してその芸は伝えられてゆく。

 芸術や芸能における方法論や技法を継承するということは、一般的には、その内懐に深く入り込んで、その内包するものすべてを洩らさず写し取るようにして為されるべきだろう。師資相承とか相伝とかいうものはそういう世界といえる。
だが、もう一つの道があるようにも思う。その懐から脱け出して、対抗論理を得て、その作業仮設のもとに為しうる場合もあるのではないか、ということだ。
このような営為は、ある意味では弁証法的な方法論に通じるのかもしれない。


 私が主宰する四方館では身体表現を基軸としており、それはもっぱらImprovisation-即興-をベースにしていることは先刻ご承知の向きもあろうかと思うが、その作業仮説について簡単に触れておきたい。
一言でいうならば、私がめざす即興表現の地平は蕉風俳諧の「連句」の如きありようにある。
この動機となる根拠を与えてくれたのは、もうずいぶん昔のことだが、安東次男氏の「芭蕉七部集評釈」という著書に偶々めぐりあったことから発している。
連句による「歌仙」を巻くには「連衆」という同好仲間が一堂に会して「座」を組む。その場合、たった二人の場合もあれば、五人、六人となる場合もある。実際、「猿蓑」などに代表される芭蕉七部集では二人から六人で座を組み歌仙が巻かれている。
さしあたり連衆の人数はどうあれ、発句の五七五に始まり、七七と脇句が打ち添えられ、第三句の五七五は相伴の位とされ、転調・変化をはかる、というように打ち連ね、初の折を表六句と裏十二句の十八句、名残りの折ともいわれる二の折は表十二句と裏六句の十八句、計三十六句で成り立つのが「歌仙」の形式で、四つの折からなる百韻連歌・連句の略式ということになる。
約束事はいくつかある。月の句は名残の裏を除く各折の表・裏に一つずつ計三句とされ、花の句は各折の裏に一つずつ計二句とされる。さらには春や秋の句は各々三句以上続け五句までとし、それに対して夏や冬の句は三句を限りとする、などである。
ざっとこのようにして、座に集った連衆が発句に始まり、丁々発止と即吟にて句を付け合い連ねて歌仙を巻くのだが、我々のImprovisation-即興による身体表象が表現世界として成り立つとすれば、この連句作法にも似た営為のうちにあるのではないか、連歌や連句の歌仙を成り立たしめる技法は我々の即興世界の方法論として換骨奪胎しうるのではないか、というのが私の作業仮説の出発点だったということである。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-11>
 春の夜のかぎりなるべしあひにあひて月もおぼろに梅もかをれる
                                 木下長嘯子


挙白集、春、月前梅。
あひにあひて-合ひの強調用法、ぴったり合うこと、嵌まること。
邦雄曰く、春夜は梅に月、これを極限の美と見る宣言する。安土桃山末期に現れた突然変異的歌人長嘯子は若狭小浜の領主で、秀吉の北政所の甥にあたる武人であった。30歳頃世を捨てて京の東山あたりに隠棲、文に生きる。京極為兼や正徹に私淑した歌風は新鮮奔放、と。


 有明の月は涙にくもれども見し世に似たる梅が香ぞする
                                後鳥羽院下野


新勅撰集、雑一、題知らず。
見し世に似たる-嘗ての在りし世、最愛の人と過したあの時にも似て、ほどの意か。
邦雄曰く、人生のとある春の日を回想して、消え残る月は涙にうるむ。「見し世」とは簡潔で底知れぬ深みを覗かせる歌語だ。後鳥羽院側近の筆頭、源家長の妻である下野は、歌才夫を凌ぎ、院遠島の後も歌合に詠草を奉った。「梅が香」は彼女の最良の歌の一つであろう、と。


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難波潟まだうら若き葦の葉を‥‥

2006-02-20 13:10:07 | 文化・芸術
051129-147-1

Information<2006 市岡高校OB美術展>
2/19 Sun~2/25 Sat 於/現代画廊・現代クラフトギャラリー

-今日の独言- 承前「市岡OB美術展」-梶野さんあれこれ

昨日はいつもの稽古のあと、夕刻近くになってから現代画廊へ行って、一日遅れの出品設営をした。会場には梶野さんはじめ、世話役の板井君(19期)他、馴染みの数名のOB諸君が居た。
そういえば過日、復活成った新創美展が京都市立美術館で開かれると案内を貰っていたのに、とうとう行けずじまいだったが、梶野さんの談によれば、会員も多勢集まりかなりの盛況だったらしい。
美術教師だった梶野さんは、昭和32年(1957)から58年(1983)まで市岡に在職していたというから、10期生から34期生あたりまでが、市岡の同じ空気のうちに同衾?していたことになる。
梶野さんの初担任が私のクラスで、しかもこちらは新入生だったから、私の市岡時代は彼流の放任主義が良くも悪くも大きく影を落とすことになる。ご念のいったことで2年まで梶野担任となったから、お蔭でずいぶん自由に振る舞わせていただいたし、懐かしい思い出はこの二年間に濃密に凝縮している。
梶野さんの父君が京都大学の著名な美学教授だったことを知ったのは、神澤さんに連れられて京都の下町にひつそりと佇むその父君宅へお邪魔したときだった。同じく京大教授だった井島勉の「美学」という小冊子を読みかじっていた頃だったろうか。遅まきながら近頃になって、梶野家が中世期より京の都で代々つづいた絵師だったか芸能の職能家系だったことを私に教えてくれたのは、博覧強記の谷田君(17期)だ。
私の手許にいまも残る、昭和37年(1967)2月の、神沢和夫第1回創作舞踊リサイタルの公演パンフは、梶野さんのデザインだ。彼曰く「あれは名作だ」と今でも自賛する自信作だが、たしかに当時の観念的抽象世界だった神沢作品によく沿いえた、と私にも思えるレイアウトだ。
神澤さんと梶野さん、市岡教員時代の先輩後輩だった二人のあいだには、当時、兄弟にも似た奇妙な友情が交錯し、惹き合うがゆえにまた反撥もし合う、そんな出来事がいろいろあっただろうし、二人のあいだの糸は、神沢さんと私のあいだに結ばれた糸とも縒れ合って、縺れた糸のつくるその模様は迷宮化つつもいつまでも風化することのない心象風景だ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-10>
 難波潟まだうら若き葦の葉をいつかは舟の分けわびなし  藤原良経

秋篠月清集、十題百首、草部十首。
難波潟-摂津の国の歌枕、淀川河口をさす。
邦雄曰く、今はまだ幼い白緑の葦、初夏ともなれば茂りに茂り、人の丈を越え、淀川の舟も視界を遮られて、分け入り分け出るのに難渋するだろう、と未来の光景を幻に視る。「いつかは」には、春の三ヶ月、その歳月の彼方を思う溜息が籠る、と。


 君がため山田の沢に恵具採むと雪消の水に裳の裾濡れぬ
                                    作者不詳


万葉集、巻十、春の雑歌、雪を詠む。
恵具採(えぐつ)む-恵具はクワイのことでクログワイとされる。 雪消(ゆきげ)の水-雪解けの水。
邦雄曰く、黒慈姑(クロクワイ)を採りに、裾をからげて、氷雪をさりさりと踏んで沢に下りる人の、熱い息吹が伝わってくる。平安期の宮中行事となった若菜摘みより、万葉の鄙びた心尽しが新鮮で、生き生きと訴えてくる、と。


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雪のうちに春は来にけり‥‥

2006-02-19 00:58:22 | 文化・芸術
IchiokaOB2006

Information<2006 市岡高校OB美術展>
2/19 Sun~2/25 Sat 於/現代画廊・現代クラフトギャラリー

-今日の独言- 市岡のOB美術展

 ‘98年、辻正宏一周忌の追悼企画からはじまった市岡高校OB美術展も、回を重ねて今年は8回目となるのだろうか。
とっくに人生の折り返しを過ぎたこの身には、年月は坂道を転がるごとく過ぎ去ってゆく。
彼の面影がちらりと脳裡をかすめば、途端に40年余りをスリップして、市岡時代のあれやこれやが甦ってくる。私の市岡とは、なによりも彼と出会った市岡であり、彼の存在がなければ、私の市岡は文字どおり高校時代の三年間を、卒業と同時に一冊のアルバムとして思い出の扉の内にあるがままだったろう。
彼の存在ゆえに私の市岡は、その扉も開け放たれたままに、折りにつけては40年余を一気に駆け戻り、踵を返してまた立ち戻る。思えばこの一年だって、そんな往還を何度したことか。
辻よ、君への追悼の集まりからはじまったこのOB展も、今はもうその俤もほとんどないにひとしい。この会はすでに何年も前から新しい歩みをはじめているが、それはそれでいいのだろうと思う。
けれど、だれかれと私が繋がっている部分、其処はやはり私の市岡そのままに、君はなお生きつづけている。
辻よ、私も去年につづいて、Video-Libraryを出すよ。なんでもありの市岡流だ。まあ、むろん梶野さん流でもある。でもこの参加の仕方も二度までだな。三度目はキツイだろうな、そう思うよ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-9>
 春風に下ゆく波のかず見えて残るともなき薄氷かな  藤原家隆

六百番歌合、春、春氷。
歌意は、春風が吹く頃ともなれば、氷の張った下を流れてゆく水にさざ波が立つ――その数が透けて見えるほどに、もうほとんど残っているともない薄氷よ。先例類歌に藤原俊成の「石ばしる水のしらたまかず見えて清滝川にすめる月かな」千載集所収がある。
邦雄曰く、玻璃状の氷、その一重下を奔る水流の透観。12世紀末、新古今成立前夜の、冴えわたった技巧の一典型、と。


 雪のうちに春は来にけり鶯の凍れる涙いまや溶くらむ  藤原高子

古今集、春上、二条の后の春のはじめの御歌。
承和9年(842)-延喜10年(910)、藤原冬嗣二男権中納言長良の息女、摂政良房の姪にあたる。9歳下の清和天皇の女御となり、貞明親王(後の陽成天皇)以下三人の子をなす。晩年、東光寺座主善祐との密通を理由に皇太后を廃されるという事件が伝えられる。また、「伊勢物語」によって流布された業平との恋物語もよく知られる。
邦雄曰く、「鶯の凍れる涙」とは、作者高子の運命を暗示する。業平との恋を隔てられて清和帝の後宮に入り、悲劇の帝陽成院を生み、盛りを過ぎてから東光寺僧との密通の廉で后位剥奪、宮中を追われる、というこの悲運の主人公の作と思えば、一首の鋭い響きは、肺腑を刺す。「いまや溶くらむ」と歌ったが、彼女の魂は生涯氷のままであったか、と。


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