山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

わが背子を大和へやるとさ夜ふけて‥‥

2006-02-11 10:43:58 | 文化・芸術
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Information-Aliti Buyoh Festival 2006-

-今日の独言- Alti Buyoh Fes. 第1夜

 夕刻近く単身京都へ。アルティ・ブヨウ・フェスの第1夜を観る。客席の淋しいのが明日は我が身かといささか気にかかる。
傾向も異なる5つのグループの作品を観るのは、いつものことながら芯が疲れる。アフタートークには新田博衛・上念省三と新参加の菘(すずな)あつこの三氏。相変わらず新田さんの舌鋒が冴えるが、全体的には話題も低調気味。
なんとか日が変らないうちに帰宅。遅い食事のあと講評書き作業。三夜まとめ他日あらためて掲載する。
今夜は我々も出演するが計6作品である。しかも出番はトリになつているから、客席の長時間にわたる心理的疲れが問題だ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-19>
 わが背子を大和へやるとさ夜ふけて暁露にわが立ち濡れし
                                    大伯皇女


万葉集、巻二、相聞。
斉明7年(661)-大宝元年(701)、大来皇女とも、天武天皇の皇女、大津皇子同母弟、13歳で伊勢斎宮。大津皇子謀反の疑いで賜死した朱鳥元年(686)11月、斎宮を辞して帰京。万葉集に残る6首の歌はすべて大津を思い偲んだ歌。
邦雄曰く、伊勢へと秘かに訪ねて来た弟大津に、継母持統の張る陰謀の網を、二人はひしひしと見に感じていたであろう。帰したくない、これが生き別れとなる予感に、恋人にも等しい姉は暗然と声を呑んで立ち盡す。「わが立ち濡れし」、この終ろうとして終らぬ結句にも、作者の心緒が濃く滲んでいる、と。


 暁の涙ばかりを形見にて別るる袖にしたふ月影  土御門院

続後撰集、恋三、後朝恋の心を。
建久6年(1195)-寛喜3年(1231)。後鳥羽院第一皇子、4歳で即位、16歳で皇太弟順徳院に譲位、承久の乱に関与することはなかったが、後鳥羽院が隠岐、順徳院が佐渡へ配流に及び、自ら配流を望んで土佐に遷幸、後に阿波に移り、37歳で崩御。続後撰集初出、勅撰入集154首。
邦雄曰く、後朝の悲しみを実に婉曲に、曲線的な詞の駆使で表現しおおせたところ、殊に「別るる袖にしたふ月影」あたりは見事な技倆である。弟順徳院の歌才の蔭に隠れた形だが、勅選入集は157首。承久の乱では父帝に従わなかった気骨、進んで流された阿波での崩御が痛ましい、と。


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