goo blog サービス終了のお知らせ 

山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

年も経ぬいのるちぎりは‥‥

2006-01-08 23:37:58 | 文化・芸術
051129-054-1
Information-Aliti Buyoh Festival 2006-

<Alti Buyou Festival 2006-相聞Ⅲ-のためのmemo>

「定家五首」- 塚本邦雄全集第14巻・第15巻より

一、 散らば散れ露分けゆかむ萩原や濡れてののちの花の形見に

     卯月は空木に死者の影
     皐月の盃にしたたる毒
     水無月に漲るわざわい
     夏の間闇に潜んでいた
       私の心も
       秋は炎え上る
       風なときのま
       花はたまゆら
        散れ
        白露
        靡け
        秋草
       散りつくして
       後にきらめく
       人の掌の窪の
       一しづくの涙
     文月の文殻の照り翳り
     葉月わづかに髪の白霜
     長月は餘波の扇の韓紅
     皆わすれがたみの形見


二、 まどろむと思ひも果てぬ夢路よりうつつにつづく初雁の声

     ながすぎる秋の夜は一夜
     眠ろうとすれば眼が冴え
     起き明そうと思えば眠い
     夢みようと瞑れば人の声
     見たくもない夢に移り香
     秋はことごとく私に逆う
     この忌わしい季節の中で
     ただ一つ心にかなうのは
        初雁の
        贐ける
        死の夢
     常世というのは空の涯に
     ななめにかかる虹の国か
     露霜のみなもとの湖には
     鈍色の霧が終日たちこめ
     人はそこでさいなまれる
     逆夢をさかさにつるして
     闇の世界によみがえれと
     つるされる一つは私の夢


三、 かきやりしその黒髪のすぢごとにうちふす程はおも影ぞ立つ

     漆黒の髪は千すじの水脈をひいて私の膝に流れていた
     爪さし入れてその水脈を掻き立てながら
     愛の水底に沈み 
     私は恍惚と溺死した
     それはいつの記憶
     水はわすれ水
     見ず逢わず時は流れる
     この夜の闇に眼をつむれば
     あの黒髪の髪は
     ささと音たてて私の心の底を流れ
     その一すじ一すじがにおやかに肉にまつわり
     溺死のおそれとよろこびに乱れる


四、 今はとて鴫も立つなり秋の夜の思ひの底に露は残りて

     露が零る
     心の底に
     心の底の砂に
     白塩の混る砂
     踏みあらされた砂
     そこから鳥が立つ
     秋の夕暮のにがい空気
     いつまで耐えられるか
     うつろな心に残る足跡幾つ
     私も私から立たねばならぬ
     -夕暮に鴫こそ二つ西へ行く-
     田歌の鴫は鋭い声を交して
     中空に契りを遂げたという
     西方をめざしながらの
     名残の愛であったろう
     それも私には無縁
     心の底の砂原には
     まだ露が残る
     死に切れぬ露
     露の世の
     未練の露


五、 年も経ぬいのるちぎりははつせ山尾上のかねのよその夕ぐれ

     祈り続けたただ一つの愛は
     ついに終りを告げ
     夕空に鐘は鳴りわたる
     私の心の外に
     無縁の人の上に
     初瀬山!
     なにをいま祈ることがあろう
     観世音!
     祈りより
     呪いを


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

都鳥なに言問はむ‥‥

2006-01-08 03:30:48 | 文化・芸術
ichibun98-1127-062-1
Information-Aliti Buyoh Festival 2006-

-今日の独言- 人と人のあいだ-親和力

 昨年2月に急逝したという旧友N.T君のお宅にお悔みに行った。賀状のお返しに夫人からわざわざ電話を戴いて遅まきながら訃報を知ったのは三日前だった。幼馴染みというか、近所だったし、家業も同様の鉄工関係で親同士の関わりもあった。幼・小・中ずっと一緒だったが、彼は中3の二学期から他校区の中学へ転校していった。引越しの所為ではなく高校進学のためだった。12、3年前から小学校時代の同窓会が再開されるようになって、三年毎に3回催されその都度顔を合わせてきたし、何年か前の「山頭火」には夫人と末の愛娘も連れ立ってわざわざ観に来てくれていた。心臓発作による殆ど急死に近いものだったと夫人から聞かされた。バブルが弾けて以降の十数年、不況業種の最たる家業の維持も大変だったろう。心優しいはにかみやの彼は意外に神経が繊細に過ぎたのかもしれない。仏壇の脇に置かれた遺影を前に、夫人と娘さんと三人で向き合ってしばらく想い出話に花を咲かせていたが、そこには生前の彼がそのまま居るかのような空気が伝わってくる。そういえばお互い笑い声にはずいぶんと特徴があったけれど、遺影のいくぶんか澄まし気味の笑顔から、その特徴ある彼の笑い声が聞こえてくるかと錯覚するほどに、懐かしい空気のような感触に、ほんのひとときだが包まれていた。
 情感あふれる懐かしさというもの、その源泉は、家族であれ、旧い友であれ、言葉になど言い尽くせないお互いのあいだに成り立ちえている親和力のようなものだと、あらためて再認させられた出来事ではあった。
N.T君よ、こんどは山頭火がいつも唱えていたという観音経を手向けよう。―― 合掌。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-7>
 都出でて今日みかの原いづみ川かはかぜ寒し衣かせ山
                                 詠み人知らず


古今集、羇旅、題知らず。
みかの原-瓶の原、いづみ川-泉川、かせ山-鹿背山、いずれも山城の国(京都府木津町界隈)の歌枕。
邦雄曰く、山城の歌枕を歌い連ねて、巧みに掛詞を綴った。機知というより頓智、むしろ遊びに傾いた歌ともみえるが、一説には田部副丸なる人物が作った首途の歌ともいう。やや俗な面白みの生れるのは結句のせいであろう、と。


 都鳥なに言問はむ思ふ人ありやなしやは心こそ知れ  後嵯峨院

続古今集、羇旅、都鳥を。承久2年(1220)-文永9年(1272)。土御門天皇の第一皇子、子には宗尊親王、後深草天皇、亀山天皇ら。2歳の時承久の乱が起こり父土御門院は土佐に配流となり、叔父や祖母の元で育つも、仁治3年(1242)、四条天皇崩御の後、鎌倉幕府の要請のもと即位。4年後に譲位、後深草・亀山二代にわたり院政を布く。承久の乱後沈滞していた内裏歌壇を復活させ、藤原為家らに「続後撰集」・「続古今集」を選進させた。続後撰集以下に209首。
邦雄曰く、伊勢物語、東下りの第九段の終り「名にし負はばいざ言問はむ都鳥」を本歌とするというより、むしろ逆手にとって「なに言問はむ」と開き直ったあたり意表を衝かれる。「ありやなしやは心こそ知れ」とはまさに言の通り、希望的観測や甘えを許さぬ語気は、清冽で、鷹揚で、快い、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。