山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

くらがり風鈴の鳴りしきる

2005-07-13 12:18:18 | 文化・芸術
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   photo「うしろすがたの山頭火」より

<行き交う人々-ひと曼荼羅>

<おやじのこと、おふくろのこと>

父や母についてなにか書きとめてみようと思っても、父・母という表記では妙にあらたまって筆がすすまない。これもまた大阪の下町、ごく下世話な育ちゆえなのだろうが、やはり我が家ではおやじ・おふくろで運ぶのが似つかわしいし落ち着けるというもの。

もう半年くらいまえになるのだろうか。
ある日、なにを思い立ってか、小さなフォトフレームを買ってきて、死んだおやじとおふくろの写真をそれぞれ、いつでも眼に入るように居間の棚に並べて置いたのだった。食事をしようとテレビを見ようと或いは本を読んでいようと、視界には必ず入るところに小さな二枚の写真は仲良く鎮座している。
仲良くといっても、生前のおやじやおふくろが、とくに仲の良いほどの夫婦だったかといえばそんなことはあるまい。戦前のことだし、当時としてはありきたりの見合いというほどのこともなくお互い知らない同士の他人様の世話による紹介結婚のようなものだったろうし、戸籍によれば、長男の誕生後にやっと入籍しているところをみれば、跡取りを得てこそやっと夫婦たりえたというよくある家父長制色濃いパターンだったとみえる。
おやじは明治44(1911)年生れ、十年あまりにおよぶ長い闘病生活のはてに、昭和50(’75)年、おおかたの親族に見守られつつこの世を去った。享年64歳。あれからもう30年を経ている。
おふくろは大正3(1914)年生れ、連れあいに死なれてよりなお25年の歳月を平穏無事に生き、平成13年(’01)、その日は休日だっこともあってか同居の妹家族のだれにも気づかれぬままに息を引き取っていたという呆気なくも静かな往生だった。享年87歳。
私は5人兄弟の下のほうだから、したがって家には仏壇も位牌もないし、墓参だって年に一度行くか行かないかといったいい加減さで、供養とか祀りごとには縁遠い。長兄宅で毎年催される盆の行事にも、訳あって四年前から欠礼することにしている。
そんなこんなで、彼らの面影に触れる機会もずいぶん間遠になっていたのだが、二人の写真を並べて置いてからは、いやでも眼に入ってくるおやじやおふくろの決まりきった写真のなかのいつもの表情に、時折ふと甦ってくる古い記憶のなかに身をおいて、なんとはなく自分の来し方をふりかえり眺めているような時間をもつようになった。


あれは私が六つか七つくらいだったろか、小学校の一年かせいぜい二年までだったろう。
その頃のおやじは、すでに一度脳溢血で倒れていた筈なのだが、大事に至らなかったとみえて、夕刻近くになると、近所の居酒屋-この頃は居酒屋といういいかたはせずたんに飲み屋といっていたが-によく呑みにいっていた。
ある日、夕餉の支度を終えたおふくろが「お父ちゃん迎えに行くから一緒に行こう」と私に声をかけたのだろう。なんとなく気恥ずかしいような落ち着かない感じを抱きつつ、母親と手をつないで歩いて出かけたのだった。
近所といっても子どもの感覚からすると少しばかり距離はある。私たちの家は昭和通りとも租界道路とも呼ばれた幅25メートルほどの通りに面していたのだが、これは当時としてはかなりの大通りではあるが、その呼称からいっても空襲であたり一面すっかり焼け野原になったればこそ誕生しえた道路だったのだろう。
その我が家から裏のほうへ、というのは北東の方角になるのだが、2丁ばかり行くと九条新道という商店街が1km余り北西から南東へと伸びている。
この商店街は戦前からずいぶんと賑わった通りで、当時も映画館が六軒も七軒あったほどで、近在ばかりでなくかなりの遠方からも客足があったという。戦前にはちょいとした劇場もあって、人気者だったエンタツ・アチャコの漫才や市川右太右衛門の一座なんかがよくかかっていたと聞かされたこともあったっけ。
この商店街をまっすぐ横切って行くと、街並みの雰囲気がガラリと変わって松島遊郭の界隈となる。勝新太郎の映画「悪名」の主人公八尾の朝吉が女郎の足抜けだったかのエピソードを残したのは戦前の松島遊郭で、これは尻無川を挟んだ川向こうだっのだが、それが昭和20年3月の大阪空襲でほぼ壊滅状態となって、戦後は川の此方へと移ってきたのだった。赤やピンクのどぎついネオンの色に染まったこの界隈は、子ども心におどろおどろしくも妖しげで、中学生くらいまではそこを通る時はいつもなにやら後ろめたさと早まる動機に視線は定まらずキョロキョロと宙を泳がせながら歩いたものだ。
その遊郭界隈の戸口にあたるような通りの一軒の居酒屋の前で、おふくろが足を停める。店の中を覗きこむが自分からは入ろうとはしない。おやじの姿を見つけたらしく、店内のほうを指しながら「あそこに居るから入って呼んできて」と私にいう。ガラガラとガラス戸を開けたら、カウンターになつた奥のほうに背中を丸めて飲んでいるおやじの横顔が見えたので、そばまで駆け寄って声をかけた。「お父ちゃん、ご飯やから帰ろうって」 おやじの強面の顔つきが、それでも目尻の辺りだけニコリと皺を寄せて私のほうを見やる。
と、そこまでは記憶にあるのだが、それからはたして、おやじとおふくろと三人で家路についたものかどうか、まったく記憶が飛んでしまっている。ほんの少しだが屹り癖のあっただんまりやで無愛想なおやじが、子連れで女房が迎えに来たからといってすんなりと腰を上げる筈もなかろうから、おそらくは「すぐ行くから先に帰ってろ」という具合ではなかったか。まだ子ども心に怖いのが先立つようなおやじであったから、三人で連れ立って家路についたにせよ、楽しいほどに和気藹々ということにもならないのだが、記憶にないところを思えば、やはりおふくろと二人してもと来た道をすごすごと帰っていったのだろう。  -(この項おわり)


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蓮の葉に雨の音ある旅のゆうぐれ

2005-07-11 22:49:14 | 文化・芸術
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「ローマのコロセウムにて」

<日々余話>

<瘡蓋-かさぶた>

人の死や喪失はどんな場合であれ哀しみや悲しみをともなうものだ。
死者はだれでも悼まれてよいだけの重さを此方側-生者たちにのこして立ち去ってゆく。


吉本隆明は「追悼私記」のあとがきにこんなことを記している。
「現在でも、ひととひととの関係は、あるばあい痛切-切実-でありうる。だが痛切-切実-な言葉がその関係を媒介することはありえない。それは言葉がイロニーや羞かしさを伴わないでひととひととのあいだの痛切-切実-にわりこむことが不可能になっているからだ。別の言い方をすれば、現在では言葉はその程度の信用度しかなくなっている。言葉がまったく信じられると思いこんでいるものも、言葉をまったく信じているふりをしているものも、あとを絶たないが、それこそ真っ先に消失しなくてはならない倫理のひとつだとおもえる。死の痛切-切実-はいよいよ瞬間的になってゆき、すぐに忘れられ、土砂を被せられてしまう。」


痛切-切実な感情や想いというものは、たしかにいくら言い尽くしたとしてもなおあまりあるものがある、というのはそのとおりだし、そこには言葉の限界というものがあるのかもしれない。
しかし、言葉とはあるものやことをその限りにおいて封じ込めてしまうものだし、また同時に呼び起こすものでもあろうから、どんな言葉もその痛切-切実-を覆い尽せはしないとしても、言葉を尽すことの意味が掻き消えるものでもあるまいし、記憶が<記憶を想起したそのときに作られている>とするものならば、言葉を尽くそうとしないかぎり記憶として想起することも起こりえないものとなるだろう。
たえざる想起とは、たえざる言語化に通呈するということか。
死や喪失からくる痛切-切実-な重さとは、それに耐ええないような、我が身がうちひしがれるものであってはならぬということ。その重さを受けとめきることは、たえざる想起のうちにあり、たえざる言語化のうちにあるといえようし、その瘡蓋-かさぶた-は剥がれつづけねばならないだろう。


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待つでも待たぬでもない雑草の月あかり

2005-07-10 20:46:20 | 文化・芸術
Fumizuki-N

<日々余話>

<環境変われば‥‥、文月会展>

昨日、雨模様のなか、「文月会展」へ。
いざ出かける寸前まで電車で行こうかと迷ったが、帰りは疲れて正体もなくぐったりと眠り込むであろう幼な児を連れての電車の乗り換えや雨中の徒歩を思うと、やむなく車を走らせることにした。
大阪市内から一時間半余り。
会場の三条木屋町を上がってすぐの東側、ギャラリー中井は予想外にもビルの一階だった。
路上からガラス越しに会場内部がほぼ一目瞭然、展示された作品群も外からよく見える。
室内の中央奥に懇談用のテーブルと椅子が置かれ、何人かの先客が腰掛けている。立ったまま別の客に応対しているN氏の姿が見えたと思ったら、向こうでもすぐ此方に気づいて、やぁとばかり手を振ってくれる。外からガラス越しにすかさず此方も挨拶を送るのだが、昨年までの会場は二階が貸し画廊になっていたので、些かカンが狂った。
三組の夫婦6人のグループ展とは先日の紹介記事ですでに触れているが、もう何年も観てきているから見慣れた筈の六人六様の作品が三方の壁面に居並んでいるのだが、会場空間の変化ゆえであろう、まず全体から受ける印象が昨年までとずいぶん異なることに驚かされた。
個々の作風というものは年々それなりの変化を示すとしても、初心の頃とは違ってみんなベテラン乃至中堅作家となれば、そうそう大変わりするものではない。
それに比して、環境としての空間の変化は、そこにたとえ類似の或いはまったく同じ作品が展示されたとしても、全体として受ける印象は大いに変容を被るものだ、ということをあらためて認識させられた。
これは路上に面した入口側が全面ガラス張りという画廊としては開放的にすぎるほどの空間設計によるものでもあろうから、正直な私の印象からすれば、必ずしもプラスに働いたというのではなく、全体としては散漫な印象に流れたということである。
路上に面し、外から内部がほぼ手に取るように見通せるのだから、通りすがりの人たちがふっと立ち寄ることも結構あるという。木屋町通りという人通りの多さを考えるとフリの客はかなりの量になるのではないか。
そのことはこの会場選定の大きなプラス面だが、時々刻々変わる外からの光の影響をもろに受けるというこんなにオープン感覚な会場では、個々の作品の求心力も減じてしまいがちになろうし、全体の展示における空間構成もまた非常に難しいものになる。
その意味では、会場変更への対応が、来年に課題を残した展覧会であったと思われる。


往きは名神を走ったが、帰りは1号線を走り、心配された渋滞もなく、守口で阪神高速へ。
なんとか午後9時前に自宅へと辿り着いたのだが、出発が午後3時半頃だったから延べ5時間半の外出。雨中のドライブはこの年には少々疲れを残す。遅い食事を摂ったら、はやばやと眠りについてしまった。


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こんなに耳くそが、いつまで生きる

2005-07-06 17:01:08 | 文化・芸術
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<風聞往来>

<米国産牛肉輸入再開、ほんとに安全か?>

先日、アメリカで2例目のBSE感染牛が確認され、
「輸入再開に影響はない」と農水省はしているものの、
消費者不安を払拭しきれるほどの情報公開もないまま事態は推移している。


ここで少し前に読んだ、狂牛病に関する警鐘の書「もう牛を食べても安心か」について紹介したい。
著者の福岡伸一は1959年生。訳書にR.ドーキンスの「虹の解体」などがある分子生物学専攻の学者で、時宜につきすぎるタイトルに比して、本格的な先端科学の知見に触れえる硬派の良書である。


先ず著者は、狂牛病の発生及びその蔓延の背景について、
そもそも「<スクレイピー>という羊の風土病であったものが、イギリスにおいて<BSE-狂牛病>へと変異し、世界へ拡がり、<CJD-ヤコブ病>という人間の病へと、種の壁を越えて乗り移ってきた連鎖の背景」を明らかにしていく。
発生国イギリスの致命的な責として、「<種の壁>を越えさせた人為である-レンダリング-という名のリサイクルで作られた高濃度の病原体が残存したままの「肉骨紛」がイギリスから世界へと輸出、分散された」ことを挙げて告発する。
「狂牛病の病原体はヒトの消化システムが不可避的に持つ<脆弱性の窓>を巧妙にかいくぐって私たちに乗り移ってきた。タンパク質、その構成要素である20種のアミノ酸に分解されるが、これはまだ身体の<外側>の出来事である。消化管は皮膚が身体の内部に折り畳まれた、いわば<内なる外>だからだ。消化管からアミノ酸が血液中に取り込まれるとき、初めて<体内>に入ったことになる。入れ替わっているのはアミノ酸より下位の分子レベルである。現在では、タンパク質、脂質だけでなく、私たちの身体を形作っているすべての臓器、すべての組織のありとあらゆる構成分子が、速度の違いこそあれ、代謝回転していることが判明している。」
などと、狂牛病の発症システムを詳述したうえで、いわゆるシェーンハイマーの<動的平衡論>に関して解説しつつ、対処の基本姿勢をどう考えるべきか結論づけてゆく。
「シェーンハイマーの<動的平衡論>-生命は<流れ>のなかにある。 チベット医学の生命観を記した17Cの「四部医典」によれば「身体という小宇宙と環境という大宇宙は絶えずともに手をたずさえて躍っている」とされる。食物を構成する分子のほとんどは高速度で分解されて外へ出てゆく。生体を構成している分子はすべて高速に分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。私たちの身体は分子的な実体としては数ヶ月前の自分とはまったく別物になっている。」
さらには、「<動的平衡>のもつ意味-外界(環境)の変化に応答して、自らを変えられる、という生物の特性、つまり生物の可変性、柔軟を担保するメカニズムとなる。動的平衡は、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるが、その仕組みは万全ではない。廃物の蓄積速度が、それを汲み出す速度を上回り、蓄積されたエントロピーが生命を危険な状態に追い込む。これはタンパク質のコンフォメーション(構造)病として最近注目されている。その代表例がアルツハイマー病やプリオン病である。」
「クールー病、ヤコブ病 CJD、狂牛病 BSE、スクレイピー。これらはいずれも同じ病気、すなわち伝達性海綿状脳症が異なる動物種で発生しているものである。動物とヒトとの界面にこれまでなかったような病気が現れる。あるいは単一ではほとんど問題とならなかったごく微量の化学物質が複合的に作用して予期せぬ問題を引き起こす。操作が新しい操作を必要とする事態を引き起こす。問題はすべて、人為的な操作に対して環境がその平衡を回復するために揺り戻しをかけている、その揺らぎそのものといってよい。ならば、第一に必要なのは、環境が人間と対峙する操作対象ではなく、むしろ環境と生命は同じ分子を共有する動的な平衡の中にあるという視点である。炭素でも酸素でも窒素でも地球上に存在する各元素の和は大まかにいって一定であり、それが流れゆくなかで作られる<緩い結び目>がそれぞれの生命体である。できるだけ人為的な組み換えや加速を最小限に留め、この平衡と流れを乱さないことが、環境を考える-我々の生命を大切にする-ことに繋がるという認識が必要である。」


狂牛病と直接は関係しないが、シェーンハイマーの動的平衡論に基づいた論旨から臓器移植についてこんな記述もある。
「<臓器移植>という考え方は<生命連鎖>から遠い考えであり、生物学的に非常な蛮行と云うべきものであり、究極のカン二バリズムであるといえよう。臓器に対する強い免疫学的攻撃、つまり拒否反応にさらされつづける。牛の場合、胎児期に胎盤を通じて受け渡される抗体はほとんどなく、受動免疫のほぼすべてを出生直後の初乳に依存している。出生後まもない、生命がもっとも侵襲を受けやすいパルネラブルな時期に、経済的要請に基づく安易な人為操作として肉骨粉入りスターターを母乳代わりに与えた、という二重の操作の果てに、イギリスの狂牛病は立ち上がってきたのである。」


もう一つ、脳細胞も含めてすべての細胞が入れ替わっていくとすると、記憶というものは細胞内分子レベルの保持機能ではないことになるが、ではいかなる構造で保持されるのかについての記述が関心をそそる。
「記憶はどのようにして保持されるのか-個体も細胞も、それらを構成する分子自体は流れに流れ、数週間から数ヶ月間にはそっくり更新されてしまうのであれば、そこに不変性や同一性を求めるのは困難になる。個体の個別性、そこから派生する自己同一性、さらには記憶の一定性やその真実性は、すべて不確かな幻想とならざるを得ない。記憶を分子レベルの物質に対応させて保存することが、動的平衡の掟からいって不可能であるならば、個々の構成要素は入れ替わっても、全体として情報を保てるような、分子よりも上位の構造が記憶を保持している、と考えざるを得ない。それは細胞のネットワークである。記憶とは、一言でいえば、ある特別な体験に際して、脳の神経細胞ネットワークの中を駆けめぐった電気信号の流路のパターンが保持されたものだということだ。絵柄全体<神経回路網のパターン>を変えることなく、常にサブレベル(下位)で代謝回転が進行している。まさに記憶は、<記憶を想起したそのときに作られている>といってもよい。」


農水省の役人たちも本書を読めば、アメリカの外圧を跳ね返してでも、輸入再開にストップをかけたくなろうと思うのだが、そんな気配はまったくなく、あちらのお国事情に急き立てられるまま、われわれの食の安全を担保しようとしない。

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天の川ま夜中の酔ひどれは踊る

2005-07-04 12:38:32 | 文化・芸術
<四方の風だより>

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<七夕さまにも似た逢瀬、文月会展>

美術仲間の三組の夫婦6人で
毎年7月のこの時期にグループ展を開いているのが
「文月会展」である。
回を重ねて今年はもう19回目になるという。
当初は、男性三人のグループ展として出発したのが
いつの頃からか、夫婦相和し、それぞれの夫人も制作出品するようになり
微笑ましいを絵に描いたような熟年のオシドリ夫婦三組によるグループ展となったらしい。
その三組の内の中原喜郎・絹代夫妻とは因縁浅からぬ間柄となれば
毎年、此方も相和して通わざるを得ないし
それがまた恒例の愉しみとなるのも必定。
まるで七夕さまのような逢瀬である。


「文月会展」
7/5(火)~7/10(日) 
am11:00~pm7:00 最終日のみpm5:00迄
展覧会場のギャラリー「中井」へは
京都市中京区にて、木屋町通り三条を上がってすぐの東側。
Tell 075-211-1253


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