山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

父が母が、子もまねをして田草とる

2005-07-21 22:51:56 | 文化・芸術
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「父母が眠る墓-箕面墓地公園」

<行き交う人々-ひと曼荼羅>

<おやじのこと、おふくろのこと-承前>

私が小学校の三、四年になった頃には、おやじはもう一人で外の居酒屋などで酒を呑むことはしなくなっていた。軽いものとはいえ脳溢血の後遺症もあったのだろう。足の運びも手や指の動きも少しは不自由らしく、まだ四十過ぎたばかりなのにその外見はすでに初老然としていた。小学校も高学年になって学校の友達なんかが家に遊びにくるようになると、初めておやじを見かけるだれもがみんな決まって「アレ、お前のお祖父ちゃんか?」と尋ねたものだった。ことほどおやじは実年齢より老け込んでいたのである。高等小学校を終えてすぐというからまだ14歳だったろうが、その年で和歌山の製材所へ奉公に出たというおやじは成人にいたる思春期の何年もの歳月を頑健な身体だけを頼みの苛酷な仕事に従事し身を粉にしてきたのだろう。両肩の筋肉が盛り上がってまるで張子の虎のようになった首と丸く湾曲してしまった背骨がそのことをよく物語っていたように思う。
さて、外で呑まなくなっていたおやじは家内でのゆっくりと時間をかけた晩酌が日課となっていった。おやじとともに家族のみんなが夕餉の食卓をかこむ。八畳の座敷に大きな座卓がひとつ、それを囲んでおやじとおふくろ、そして五人の子ども、長兄(8歳上)、次兄(4歳上)、双生児の三兄、そして私と妹(4歳下)の計七人というところなのだが、実はまだ他にも何人かの同居人たちがいる。そのころはたいがい中卒や高卒のいわゆる住み込みの若い人たちが、時によって三、四人か多いときで五、六人が同居し、おやじの仕事に従事していたのであるが、その同居のお兄ちゃんたちもほぼ一斉にかあるいは交互にか食事となるから、いつも十人を越える大所帯の食事風景なのだった。我が家の業、おやじのその仕事については機会をあらためて触れることにしようと思うが、みんな食事を終えてもおやじの晩酌はなおもつづく。
たしか、我が家の茶の間にテレビが初めてお目見えしたのは私が五年生になった年だったから昭和30(‘55)年のことで、季節はいつだったか忘れてしまったが、ある日、学校から帰ると八畳の居間に見慣れぬモノが重々しくもデンと座っており、画面では大相撲の中継が流れていたのを見て吃驚した記憶がある。その頃のテレビといえば、近所の銭湯の入口付近にしつらえた高棚に置かれ、力道山のプロレス中継などに人々が群がって見入るという光景のいわゆる街頭テレビしか知らなかったから、我が家にテレビが登場したのには本当に驚いたし、まだ学校でも誰かの家にテレビがあるなんて聞いたこともなかったから、おそらく近所でも一、二番に早かったのではないだろうか。
そのテレビもまだ茶の間にない時代だから、食事を終えた兄たちや同居の人たちはさっさと自分たちの部屋に戻ってしまうし、母親は台所へと片付けにかかりだすから、どうしてもおやじの傍に取り残されるかたちで、まだ専用の学習机もない双生児の私らふたりやさらに幼い妹がなすこともなく居つづけることになる。酔うほどに寡黙で小難しいおやじも少しは機嫌もよくなってなんだかんだ口を開いてくる。といってもとくに話題もないから、いわゆる子どもをてがうというやつで、おやじがよくやったのが、世界の都市を人口の多い順に言っみろとか、日本の山や河川の高い順や長い順とか、同じく世界のそれとか、地理上の丸暗記の類でクイズまがいの遊びだ。おやじはそんなことをなぜだかかなり詳しく覚えていて、大概15くらいまで順番に挙げていく。けれどそんなネタも所詮は限られているから、いつのまにか此方は全部暗誦してしまって、この手のネタではもう通用しなくなった頃には、此方もだんだんおやじの子どもの頃の話に興味を抱くようになってきて、話題はおやじの子ども時代の昔語りへと転じていったりしたものだった。


おやじは両親をまったく知らない子どもとして育っている。
父親は不在あるいは不明、どこのだれともわからないままである。
母親は幼い頃亡くなったといい、その面影の記憶さえなく、
祖母の手ひとつで育てられたのだ、という。


これらのことについては、私がもう四年にはなっていたと思うが、夕食も終えたのにまだ相変わらず晩酌をチビチビとやっているおやじが、此方からどうやって話の矛先を向けたものか、どんなキッカケから自分で話し出したのか思い出す術もないが、もうその頃になると、此方もおやじの子どもの頃の話とか昔のことを知りたい盛りだったし、話のキッカケをつかむと此方もいろいろと聞き返していくといった調子で、相変わらず寡黙な小難しいおやじながらずいぶんと聞き出し上手になっていたものだった。それには4歳ずつ離れた上の兄貴たちとは違い、此方は双生児という願ってもないコンビがいつも一緒なのだから、別に打ち合わせなどせずとも二人して阿吽の呼吸で口の重い怖い面持ちで呑みつづけるおやじの機嫌とりも案外たやすくできるようになっていたのかもしれない。
 (この項つづく)


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燃えに燃える火なりうつくしく

2005-07-20 13:54:15 | 文化・芸術
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<古今東西-書畫往還>

<おもしろうて、やがてかなしき‥‥、ひねくれ一茶>

これまでそれほど興味を示さなかったことに、ひょんなことからどうしても知りたくなったり、強い関心が惹き起こされる場合がときにあるものだ。
ひとつきほど前か、「これがまあ終の栖か雪五尺」と詠んだごとく、五十路になってから、義母や義弟とさんざ遺産相続で争った挙句、江戸から故郷信濃の生家に移り住んだ一茶の晩年が、近在から若い妻女を娶り「おらが春」をめでたくもたのしく謳歌したものとばかり思っていたら、老いらくの身にせっかく授かった四人の子どもを次から次へとはかなくも早世させ、おまけに妻女にも先立たれ、さらに二度、三度と後添いとの暮しに執しつづけ、六十五歳をかぞえてなお三度目の妻女にはからずも宿った子どもの誕生を待たずにコロリと往生した、というなんともいいがたい宿業にまみれにまみれたその生涯に、どうしても触れてみたくなったのである。
そこで、何を読むべきか少しばかり探索してみて、田辺聖子の「ひねくれ一茶」を選んだのだが、これはこれで正解だったようだとは読後の第一感。文庫本で640頁の長編だが、よく書けた手練れの一茶物だといえるだろう。
竹西寛子が書評にて「絶妙に配置されている一茶の句は、配置そのものが著者の鑑賞眼を示していて、それはすでに創作の次元にまで高まっていた鑑賞だということがよく分る。」というように、全22章の至るところに一茶の句が散りばめられて、その壮年から晩年へと、俳諧宗匠として立つべく江戸での千辛万苦の奮闘ぶりから、義母や義弟との相続争いを経て、不幸つづきとはいえ故郷信濃にやっと落ち着きを得た一茶晩年の暮らしぶりに、風狂に徹した反骨精神の凄まじいまでの生きざまが、決して重苦しくなることなく描き出されていて、一気呵成に読み継がせてくれる。
生涯に2万余句を残した一茶とは、まさに、吐く息、吸う息のごとくに句が生まれ出た、というにふさわしかろう。
漢籍の教養をもたぬ田舎者、無学の一茶が、当時の江戸において俳諧宗匠として立机するのはやはりどうしても無理があったのだろう。いやそれよりは己に正直すぎた由縁か、月並みの点取り俳句にその身をおもねることもできる筈もなかったろうに。


 名月や江戸のやつらが何知って
江戸の奴らが何知って、とはよくぞ言い切った。信濃の山猿なればこその吟懐がある、風流があるの心意気。
 葛飾や雪隠の中も春の蝶
余人の真似手のない見事な赤裸の心は嘗てありえなかった俳諧の美を際立たせる。
 擂粉木(すりこぎ)で蝿を追ひけりとろろ汁
当意即妙の吟にも材の付合いに一茶の真骨頂があるとみえる。
 江戸の水飲みおほせてや かへる雁
江戸の水、江戸のなんたるか、40年にわたる江戸生活のすべてを飲みおおせて、故郷へいざ還りなむとす。


以下、寸鉄の如く心に響いた句をいくつか挙げておく。
 古郷や近よる人を切る芒
 天に雲雀 人間海にあそぶ日ぞ
 死にこじれ死にこじれつつ寒さかな
 五十婿 天窓(あたま)をかくす扇かな
 這へ笑へ二ツになるぞ今朝からは
 死に下手とそしらばそしれ夕炬燵
 花の世に無官の狐鳴きにけり


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ふるさとの水を飲み水を浴び

2005-07-17 01:37:21 | 文化・芸術
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<風聞往来>

「地底旅行寄席案内」

<7月地底旅行寄席に桂三枝>

今月の地底旅行寄席には、桂三枝が出演する。
掲載の案内チラシのとおり、7月19日の火曜日である。
ところで、桂三枝の誕生日は昨日の7月16日だそうで、
今日、17日は、実は私の誕生日である。
彼は43年生まれだから一年年長だが、大阪府立港高校から関西大学へ行った。
その高校・大学時代とマスコミに売れっ子になるまでの若き時代を、
私が通った母校・市岡高校の裏門(現在は建て替って正門になっているが)のすぐ近くに住んでいた。
高校時代にとくに仲の良かった友と隣同士だったというから縁は異なものである。
この地底旅行寄席の企画自体も、三枝と幼馴染みになるという田中機械のN氏との友情を背景に成り立っていることは前に紹介した。
そんな訳で、毎年一度や二度は必ず三枝自身が登場するのだが、それも誕生月の7月は必ず出演し欠かすことがないのである。
毎月一回の寄席をはねると出演者たちをねぎらって打ち上げの会をレストラン地底旅行で関係者集まってにぎやかに行なうのが恒例となっているのだが、この宴が7月の三枝出演の日はささやかな彼の誕生パーティともなって幼馴染みらとの旧交を温めるひとときとなるのだ。
おまけに彼らは宴会の後、決まって卓球大会に打ち興じるのが慣わしとなっているらしい。
なぜなら、三枝がこの卓球をなにより愉しみにしているからなのだが、酒も入り、食欲もほどよく満たされたあたりで、「ほな、腹ごなしに一丁いこか」といった調子で寄席の客席が卓球場に早変わりするのだ。
私も一度だけだが、歌手の松浦ゆみと一緒にこの打ち上げと卓球にお付き合いしたことがある。
ダブルス戦のトーナメント方式で、その日は4組だったか6組だったかもう忘れてしまったが、一時間半ばかり汗を流しながら打ち興じたのだったが、そんなに三枝自身が愉しみにしていると聞いていたから、さぞ上手いのだろうと思っていたら、豈はからんや、いわゆる下手の横好き、その腕前は卓球というよりピンポンというのが似合いのものだったのが意外で、対照的に幼馴染みのN氏のほうはアマチュア同好会で鳴らしているほどの上手だった。
卓球の腕のほどはそんな程度なのだが、三枝はどうやら心の底からそのひとときを愉しんでいるのだということは私にもよく伝わってきた。
三枝にとって、幼馴染みらと過ごすこのひとときは、幼かったころの懐かしき心のふるさとに立ち返りうる、年に一度のささやかではあるが此処にしかありえぬ濃密な時間なのだ、ということが此方の胸にもじんと響いた一夜だった。
この19日の夜も、寄席がはねた後は、いつものように三枝が童心にかえってピンポンに興じる姿がみられる筈だ。


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第64回「地底旅行寄席」
7月19日(火) PM6:00開場 PM6:30開演
田中機械ホール(レストラン地底旅行隣接)
出演  桂 三枝
     桂枝三郎
     桂 三金
     桂三四郎
前売2000円 当日2500円
電話予約受付有り 060-8526-0327
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投げ出した脚をいたはる

2005-07-15 13:52:02 | 文化・芸術
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  photo「宮古島にて」

<日々余話>

<蔵書目録を作ってみた‥‥>

ここ数週間のあいだ、折々の閑な時間を利用しながら、蔵書目録を作ってみた。
以前にも触れたことがあったが、15.6年前にほぼ2000冊ほどあった蔵書を、
十冊に満たない僅かなものを手許に残したのみで、すべて処分した経緯がある。
言うなれば、清水の舞台から飛び降りるほどの、私ごとの大きな転換があったということだ。
したがって現在の蔵書は、それ以後の十数年で、ぼつぼつと新たに手に入れてきたもので、
約1000冊と踏んでいたが、厳密には現時点で987冊だった。
これらを自分なりの分類で整理をすると以下の如くとなった。


1-文芸作品-詩・小説・短歌・俳句・古典 -183
2-評論-哲学・思想系  -176
3-評論-歴史・宗教・民俗系 -173
4-評論-文藝・芸術系  -177
5-評論-心理・精神・医療系 - 78
6-評論-自然科学系 - 21
7-評論-政治・経済・法律系 - 49
8-趣味実用系、その他  -103
9-辞書・事典類 - 27


自分ながら読書傾向に顕著な偏向を示しているものだとつくづく思いいたる。
さらに著者別の多いものを挙げると、
吉本隆明、柄谷行人、山頭火関連、網野善彦、梅原猛、塩野七生、
と、その偏向ぶりはいよいよ際立ってくるのだが、
それでも、昔の読書傾向からすれば、間口はかなり広くなっているのだから善しとしなければなるまい。
この蔵書をほぼ6割がた通読したとして600冊ということは、
自分の年を考え、あと15年ほど同じようなペースで読んでいくとしても、たかがしれているものだ。
ならば、よほど精選して目的的にあらねばならないし、嘗て読んだものに幾たびも立ち返っていく作業も大事と心得ねばならないだろう。


今月の購入本
 赤坂憲雄「山の精神史-柳田国男の発生」 小学館ライブラリー
 E・W・サイード「オリエンタリズム-上」 平凡社ライブラリー
 中川真「平安京 音の宇宙-サウンドスケープへの旅」 平凡社ライブラリー
 E・フッサール「ブリタニカ草稿」 ちくま学芸文庫
 塚本邦雄「十二神将変」 河出文庫
 田辺聖子「ひねくれ一茶」 講談社文庫


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蚊帳の中なる親と子に雨音せまる

2005-07-14 12:43:47 | 文化・芸術
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                       「松島湾を臨む」

<世間虚仮>

<エッ、日本はニッポンだったの?>

今日、7月14日が、フランス革命のパリ祭だということはだれでも知っているだろうが、
1970(S45)年のこの日、日本の呼称を「ニツポン」に統一することを閣議で了承、とあった。
‘70年といえば、現在開催中の愛知万博でなく、大阪万博で国民の過半が大移動し騒ぎ賑わった年だったが、そんな渦中に日本を「ニッポン」に統一されていたとは、まったく失念していたのか、ニュースに気づかないままだったのか。
それにしても、私はこれまでずっと、ニッポンといわず、日本はニホンと発声することを習性としてきている。ニッポンという音感の弾みのよさにはなんとなく異和を感じてしまう無意識の心性を宿したままなのだ。
今なら、テレビで女子バレーの中継があり、昨年のアテネ・オリンピックやサッカーのワールドカップ予選など、スポーツ観戦の応援では、ニツポン、ニツポンとpの炸裂音で連呼しなければ、弾みもしないし盛り上がりもしないだろうから、こういう場合のみ致し方ないかと受け止めてきたのだけれど、とんだ勘違いだったという訳だ。


私の語感覚は、やはり少しばかりズレている、乃至は、ちょっぴりはみ出していると再認識させられた、些細な一件だが見逃しがたいことではある。

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