山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

待つでも待たぬでもない雑草の月あかり

2005-07-10 20:46:20 | 文化・芸術
Fumizuki-N

<日々余話>

<環境変われば‥‥、文月会展>

昨日、雨模様のなか、「文月会展」へ。
いざ出かける寸前まで電車で行こうかと迷ったが、帰りは疲れて正体もなくぐったりと眠り込むであろう幼な児を連れての電車の乗り換えや雨中の徒歩を思うと、やむなく車を走らせることにした。
大阪市内から一時間半余り。
会場の三条木屋町を上がってすぐの東側、ギャラリー中井は予想外にもビルの一階だった。
路上からガラス越しに会場内部がほぼ一目瞭然、展示された作品群も外からよく見える。
室内の中央奥に懇談用のテーブルと椅子が置かれ、何人かの先客が腰掛けている。立ったまま別の客に応対しているN氏の姿が見えたと思ったら、向こうでもすぐ此方に気づいて、やぁとばかり手を振ってくれる。外からガラス越しにすかさず此方も挨拶を送るのだが、昨年までの会場は二階が貸し画廊になっていたので、些かカンが狂った。
三組の夫婦6人のグループ展とは先日の紹介記事ですでに触れているが、もう何年も観てきているから見慣れた筈の六人六様の作品が三方の壁面に居並んでいるのだが、会場空間の変化ゆえであろう、まず全体から受ける印象が昨年までとずいぶん異なることに驚かされた。
個々の作風というものは年々それなりの変化を示すとしても、初心の頃とは違ってみんなベテラン乃至中堅作家となれば、そうそう大変わりするものではない。
それに比して、環境としての空間の変化は、そこにたとえ類似の或いはまったく同じ作品が展示されたとしても、全体として受ける印象は大いに変容を被るものだ、ということをあらためて認識させられた。
これは路上に面した入口側が全面ガラス張りという画廊としては開放的にすぎるほどの空間設計によるものでもあろうから、正直な私の印象からすれば、必ずしもプラスに働いたというのではなく、全体としては散漫な印象に流れたということである。
路上に面し、外から内部がほぼ手に取るように見通せるのだから、通りすがりの人たちがふっと立ち寄ることも結構あるという。木屋町通りという人通りの多さを考えるとフリの客はかなりの量になるのではないか。
そのことはこの会場選定の大きなプラス面だが、時々刻々変わる外からの光の影響をもろに受けるというこんなにオープン感覚な会場では、個々の作品の求心力も減じてしまいがちになろうし、全体の展示における空間構成もまた非常に難しいものになる。
その意味では、会場変更への対応が、来年に課題を残した展覧会であったと思われる。


往きは名神を走ったが、帰りは1号線を走り、心配された渋滞もなく、守口で阪神高速へ。
なんとか午後9時前に自宅へと辿り着いたのだが、出発が午後3時半頃だったから延べ5時間半の外出。雨中のドライブはこの年には少々疲れを残す。遅い食事を摂ったら、はやばやと眠りについてしまった。


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