山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

風細う夜明がらすの啼わたり

2009-06-24 23:25:50 | 文化・芸術
Dancecafe081226129

Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―表象の森― 期待はずれ「海神別荘」

15日に観たのだからもう旧聞に属するし、印象も希薄になってきているが、遊劇体の「海神別荘」について二、三書き留めておきたい。

昨年の精華小での「山吹」において鮮烈な印象を残しただけに、観る前から今度はどんな造形的演出が見られるか、期待も膨らんでいたのだが、やはりウィングという狭小な空間が演出の想像力の翅を充分に羽ばたかせなかったか、海神別荘なる海の底の世界とて、舞台前面に水槽を配すなど、成る程と思わせる演出もあるにはあったけれど、総じていえば期待に違えぬというにはほど遠い結果であったというしかない。

私にとって見過ごしならぬ耐え難い演出と映ったのは、地上とは隔たった海の底の、いわば異界の表象として演者たちにWireless Mikeを使用したか、なべて拡声器を通した<声=台詞>としたことである。その演出の意図は見え見えだが、この劇場がもっと広い空間ならばそれも効あったやに思われるが、此処ではその狭小な器と拡声器を通した<声>に見過ごしできない違和が生じていた。とても聞き苦しい、苦行にも似た観劇を強いられ続けたといわざるをえない。これが演出上の瑕疵として真っ先に挙げねばならない問題点だ。

次に衣装、とりわけ6人の侍女たちのそれは、これまた目と鼻の先で演じられるがため、趣味の悪さ、作りの粗さが眼につくばかりで見るに忍びないものがあった。

最後に、ヒロインの美女役こやまあいの演技、彼女の演技については前作の「山吹」においても苦言を呈しておいたが、漁師の父親に人間界から海の底へと売り渡され、海底を支配する龍宮城の乙姫様の弟君たる貴公子の許へと輿入れする薄幸の花嫁といった設定のヒロインに、その細身の大柄な姿形は一応見映えはしようが、それだけのこと。柄の大きさが可能性を秘めるというのは、まあいえなくもなかろうが、台詞の口跡も、所作の振も、大柄ゆえに咀嚼することの困難さは他人以上につきまとうもので、まだまだ無理がある未熟さだ。そしてまたウィングの狭小さがここでも大柄な彼女の演技を空間に馴染みつつ棲まうことを阻害しているのだ。

ところが、その彼女が第11回関西現代演劇俳優賞-09年2月-において女優賞を獲ているという。選考の評家諸氏が彼女の何を買ってのことか解らぬが、受賞の根拠となったのがなんと「山吹」の演技であったとされているから、此方としては二度ビックリである。おそらくこの受賞は、女優としての彼女の演技にというよりも、昨年の関西新劇において到底無視しえない「山吹」の舞台成果そのもの、それを根底から支えた演出の功に与えられたものなのだろう。


―四方のたより―
デカルコ・マリィの十八番芸

今日のYou Tubeは「Reding –赤する-」のScene.5-1
特別出演のデカルコ・マリィには、この時とくに彼の十八番芸を披露して貰ったのだが、そのsolo Sceneは12分ほどあるため、<5-1>.<5-2>と分割編集した。-Time 6’26



<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「空豆の巻」-11

   僧都のもとへまづ文をやる  

  風細う夜明がらすの啼わたり  岱水

次男曰く、「いつしか待ちおはするに、-使ひの君が-かくたどたどしくて帰りきたれば、すさまじく中々なり、と-薫は-思すことさまざまにて、-浮舟を-人の隠し据ゑたるにやあらむ、とわが御心の、思ひ寄らぬ隈なく、落し置き給へりならひにとぞ」。
「源氏」54帖の結の描写である。あまりの呆気なさに肩すかしをくわされた感がつよくのこるが、夢から醒める醒め方の工夫としては、これでよいのだろう。後日譚は、読者がそれぞれに楽しんで設ければよい。

「風細う夜明がらすの啼わたり」はどんな人情句にでも付く。遣句もここまであっけらかんと、融通無碍に作られると、前後の句を取持つための殆ど合の手にすぎないが、気分を一新させるすがすがしさの効果はある。
「風細う夜明がらすの」は、物語の上の結によく似合うだろう。因みに細風-微風-を和様に遣った例は、「舟出し侍りつるにあやしき風ほそく吹きて、この浦につき侍りつること、まことに神のしるべたがはずなむ」-源氏物語・明石-のほかには見た記憶がない。岱水は意識的に裁入れて冠としたのではないか、と。


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