山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

草を草鞋をしみじみさせるほどの雨

2009-06-23 15:43:31 | 文化・芸術
080209102

Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、9月26日の項に

9月27日、晴、宿は同前-宮崎市.京屋-、宮崎神宮へ。
今日は根気よく市街を行乞した、おかげで一日や二日、雨が降つても困らないだけの余裕が出来た。
帰宿したのが4時、すぐ湯屋へ、それから酒屋へ、そしてぶらぶらと歩いて宮崎神宮へ参拝した、樹木が若くて社殿は大きくないけれど、簡素な日本趣味がありがたかつた。

この町の名物、大盛うどんを食べる、普通の蕎麦茶碗に一杯盛つてたつた5銭、とにかく安い、質と量とそして値段と共に断然他を圧してゐる、いつも大入だ。

夜はまた作郎居で句会、したたか飲んだ、しやべりすぎた、作郎氏とはこんどはとても面接の機があるまいと思つてゐたのに、ひよつこり旅から帰られたのである、予想したやうな老紳士だつた、2時近くまで4人で過ごした。

―四方のたより― 踊ることと演じることと

7月7日のDance Cafeもずいぶん近づいてきている。案内ハガキの発送は、遅まきながら今日やっと済ませた。
ArisaやAyaに発声の手ほどきをはじめたのが5月。ことのついでにこのたびは冒頭に言葉のSceneを置くことにした。彼女らに演技経験もして貰おうという訳だが、この稽古はなかなか厄介なもので、それだけに愉しい一面もある。

踊ることと演技することと、おのれ自身がその心と身体をもってすなるものならば、似て非なるものとはいえ、その懸隔はさほどのことはあるまいと思われるものだが、なかなか、演技における声と身振りの、心身をまるごと伴った変わり身というものは、そう容易くは体得できるものではない。その突破口を少しでも開かれればと、稽古場の壁をどんどん叩くようにして演ってみせれば、ちょっぴり功を奏したか、吹っ切れたようなイイ感じをひととき見せてくれた。見せてはくれたが、も一度といえば、これが再現できないのである。偶然の初発を自身の技や術へと結びつけるのはたしかに難しいことだが、その初発さえ起こすこと-経験-が出来ないようではなにも生み出し得ない。

今日のYou Tubeは「Reding –赤する-」のScene.4
Arisaのsolo part-Time 4’54



―表象の森― 「群島-世界論」-15-

海面下における群島的統一と、それを見えなくさせている大陸と海の抗争をめぐる主題が重層的に渦を巻く意識の大海を縦横に遊泳するのが、鯨という存在である。人類の想像力のなかで、鯨はつねに具体と観念とが交錯・反転する認識の海原をゆったりと横断・回遊しながら生き続け、歴史に介入し、権力を準備し、産業に革命的影響を与え、文学的イマジネーションを鼓舞し、一方でDialectによって生きる小さな民に向けて聖俗ないまぜになった日々の恩寵を与えつづけてきた。

メルヴィル「白鯨」の、死者が落ちてゆく冥府のようなあるいは始原の母胎のような鯨の腹のなかで三日三晩呑み込まれた予言者ヨナの物語。
また、その物語が過去の追憶として語られながらも、鯨という存在をあくまで人間の肉体が対峙する<具体>の生命として無時間のなかに描ききろうとした希有な小説、L.クレジオの掌編「パワナ」-Pawana--。
 -今福龍太「群島-世界論」/16.イデアとしての鯨/より


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