山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

お月さまがお地蔵さまにお寒うなりました

2004-11-27 01:24:09 | 文化・芸術
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6年前の
旧い手紙を引っ張り出してきた。
嘗て私と長きにわたって直接交わり、
最も影響を与えてくれた人物が二人いた。
一人は7年前に、
もう一人は昨年、
ともに鬼籍の人となった。
この旧い手紙は、
7年前に急逝したT.Mの一周忌の頃に、
私たち関係者で企画した追悼の会をした際、
(もちろん、私の山頭火もこの会で上演した)
いわばT.Mと親しい同僚のような関係だったN氏に宛てた書面。
長文だが、そのままここに掲載する。


N氏への便り

 取り急ぎ一筆計上します。
先日は体調思わしくないところに無理にと押しかけ、且つ長時間お相手をして頂き申し訳ありませんでした。
その上御馳走に与る始末で重ね重ね失礼を致しました。
35,6年の歳月を一気に埋め合わせようとでもするような、とりとめもない話に終始しましたが、あとでまたぞろ風邪をこじらせたのではないかと少々心配しております。
席上、少し話題に供しました「熊野逍遥」の舞台ビデオをご送付しますのでご覧ください。
時代は百年余り離れますが紀州熊野ゆかりの一遍と説教小栗の物語を輻輳させた作品です。
四方館とEVPの合同公演とありますが、EVPとは、Elan-Vital=生命の輝き、という意味で、
90年の秋、T.F(市岡19期で旧姓H、在学時よりK師に師事、3~4年間一緒に踊っていた元仲間)から東大阪市の障害者の集いの催しに出演の依頼を受けた際、
どうせなら、彼女らの関わる障害者作業所に通う身障者たちに、身体表現を取り組んでもらって舞台を作ってみたら、と逆提案し、取り組み始めた集団で、
以来6年間ほど付き合ってきたもので、いくつかの創作を経て、
昨年1月、最初にして最後の、四方館及び周辺の役者たちと競演してもらった舞台です。
EVPとして出演している者たちは、5つの作業所に通う身障者たちが約2/3、その介護指導員或いは父母たちが約1/3という構成で、総勢35~6名でしょうか。
障害者と健常者が常に混ざり合って稽古をしてきたものでした。
小栗判官役は友人でもある障害者の詩人K.Y氏に無理を頼みました。
四方館及び他の役者たちは適材適所、それぞれの芸風を発揮してもらうべく配し、ご覧のごとくの舞台となりました。
舞踊のシーンではメンバーになおレベルの差があり、納得のいく表現とはなり得ていませんが、舞台の構成全体としては概ね満足すべきでありましょう。
惜しむらくは、この舞台、容易に再現できるものではないということ。
とくにEVPの活動がこの舞台以後、継続困難になったことが、誠に惜しい。
T.Fの共鳴と努力で6年間継続してこられたのですが、自閉症、知的障害、肢体不自由、とさまざまに重複障害をもった人々とその介護者、父母らによる集団が、自分達の日常性のなかに表現を求め深化させていくというモティーフを燃焼させ続けるのは、これ以上無理であるという結論に達するのはやむを得ぬことだったのでしょう。
この舞台を最後に長い休止と相成りました。


 さて、話題を転じて同封の紙片、81年、四方館発足時の資料です。
78年秋が「走れメロス」でした。多分、天使館のM.Y君が大阪島之内で公演をしたのはその翌年の初夏ではなかったか。
彼に私の稽古場をほぼ一週間開放したはず。その折、一晩じっくりと合同の即興稽古をしました。
夜遅くまで、稽古場の電気を暗く落とし、延々とやったものでした。元天使館のメンバーで大阪に移ってきていたK.M女史(私と同年位だったか? ご亭主は合気道の師範ということだった)も参加していた。
その年の秋、ケチャのダンスを取り入れたK師の劇的舞踊の公演に、7,8名ほどの若手が応援出演をし、その東京公演に遠征した際、みんなで彼の国立の家を訪ねたことがありました。
ワゴン車で夜の東名を走り、早朝、彼の家で仮眠をさせてもらい、昼の稽古に駆けつけるという有り様でした。
という次第ですから、記憶を手繰り寄せると、私が即興による構成へと傾斜していくのはメロス公演直後からということになります。
即興といえば、K師においても相応に重視しているのですが、その狙いはあくまで、身体の動きの開放と発見にあり、即興のなかから構成を可能にしようなどということはK師の舞踊理論にはありえない。
若い頃からK師のオルガナイザー的で強力な指導力に惹かれつつも、演劇から出発した私はそれゆえにこそ身体表現の必要性を痛感したのでしたが、K師の実践におけるあまりにも物象的にすぎる舞踊につねに異和を抱いてきており、踊り手たちが自己表出としてもっと生き生きと振る舞いうる世界があるのではないかと考えていました。
勿論、物故したT.Mの影響が色濃くあってのことです。
T君の回顧によれば、若い時期のT.Mが三浦つとむを愛読していたとありましたが、偶然にも、この頃数年前から私も三浦つとむに耽っており、時枝誠記-三浦つとむ-吉本隆明と連なる言語論、芸術様式論。
そしてそのあたりから、当時を席捲する現象学における身体論へと関心が繋がっていくのです。
M.ポンティの一連の書、日本の哲学者、現象学者たちの身体論の書を漁るように読んだものです。とりわけ、市川浩の著書は私の混沌とする思考をかなりの程度整理してくれました。
菅谷規矩雄の詩的リズム、T.Mに倣って読んだピアジェなども忘れられない書ですが、なんといっても、安東次男の芭蕉七部集評釈が私にとって重要な書となっています。
この書はいま読んでもなお細部においてまったく歯がたたないのですが、いわゆる歌仙を巻く行為を支える座のありよう、連衆による即興吟という手法、勿論後に芭蕉が推敲補綴するということがなかったわけではないが、対等な個性が丁々発止と打ち合う即興吟で巻かれた歌仙の一つ一つを微細に丹念に読み解いていく安東次男の手際の鮮やかさは見事というべきもの。
この座をなす連衆によって紡がれる即興の句が歌仙となって成立してくる形式そのものが、私にとって舞踊における即興もこうありたいと、そのままモデルになっていると思われます。
しかしこんな世界が私という凡愚をして実現するなどとは到底叶わぬ望みではありますが‥‥。
 とにかく、そんなわけでその頃から私はぐっと方向転換をしていきます。
手法としては、基礎訓練の中にヨーガも取り入れました。当時の瞑想ブームのなかでのクンダリーニ・メディテーションも取り込んでみましたし、身体ブームの寵児となった太極拳などは自分自身で習いに行き、その後一般者のための教室まで開いたことがありました。
太極拳は自分自身の身体を内側から変え、日常の心のあり方をさえ少しばかり変えてくれたようです。
若い頃、陽性で外向的だが、余りにも攻撃的で自己中心的だといわれてきた私が、かなりの程度、その逆の要素を身に貯えてきたようです。
身体感覚なり身体形式なりの変容は精神のありようをも変えていきます。
近頃になつて私が自分自身をむしろ演者としてあらためて曝け出していこうとできるようになったのは、そういう自分の変容を自覚できるようになったからでしょう。
当時、幼児の造形あそびを方法として確立しつつあったT.Mが、お前は身体表現というこの上ない武器を持っているのだから、その手段を幼児の世界に是非持ち込んだらどうか、そうすれば自分と随分と共同作業が展開できる、と説き伏せるように誘ってくれたこともあったが、眩しいくらいに魅力を感じつつも私にそれができなかったのは、かような転換期を迎えた自分の行く手に、決して自信があったわけではなく、誰も頼らず自分なりに歩き出さねばならないと思っていたからでしょう。
それから20年近くも交叉しあうこともないまま、彼の死にあって初めて、これからずっとT.Mの果たした事どもと向き合わなければならないようになったのだと、
そういうことを覚悟するべく、この度の会は企図されたものだと、いま心の整理をしているところです。 
とりとめもないままに、乱文多謝。
1998.12.16

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