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山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

股引の朝からぬるゝ川こえて

2008-06-07 21:30:12 | 文化・芸術
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―表象の森― 陽気な人々

渡辺京二「逝きし世の面影」より -№2-

・19世紀中葉、日本の地を初めて踏んだ欧米人たちが最初に抱いたのは、他の点はどうあろうと、この国民はたしかに満足しており幸福であるという印象だった。

「健康と満足は男女と子どもの顔に書いてある」-ロシア艦隊の一員として函館に来た英国人ティリー-Henry Arthur Tilley、生没年不詳-1859(安政6)年。

「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人など居なくてもよいのかもしれない」-1860(万延元)年来日、プロシアのオイレンブルク使節団報告書。

1860(万延元)年来日した英国聖公会-Anglican Church-の香港主教ジョージ・スミス-George・Smith-(1815-71)-は、
「西洋の本質的な自由なるものの恵みを享受せず、市民的宗教的自由の理論についてはほとんど知らぬとしても、日本人は毎日の生活が時の流れに乗ってなめらかに流れてゆくようになんとか工夫しているし、現在の官能的な楽しみと煩いのない気楽さの潮に押し流されてゆくことに満足している」

また、日本を訪れる前に、オーストラリア、ジャワ、シャム-タイ-、中国を歴訪してきたボーヴォワル-既出-は言う、
「日本はこの旅行全体を通じ、歩きまわった国の中で一番素晴しい」「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である」「この鳥籠の町のさえずりの中でふざけている道化者の民衆の調子のよさ、活気、軽妙さ、これは一体何であろう」「顔つきはいきいきとして愛想よく、才走った風があり」「女たちはにこやかで小意気、陽気で桜色」「例のオハイオやほほえみ」「家族とお茶を飲むように戸口ごとに引き留める招待や花の贈り物」「地球上最も礼儀正しい民族、‥いささか子どもっぽいかも知れないが、親切と純朴、信頼に満ちた民族」だと。

・人々の表情にあらわれているこの幸福感は、明治10年代になってもなお記録に止められた。

横浜、東京、大阪、神戸などで水道設計をした英国技師ヘンリー・S・パーマー-Henry Spencer Parmer-(1838-93)-が、1886(明治19)年のタイムズ紙に書いたという、伊香保温泉の湯治客について、
「誰の顔にも陽気な性格の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌のよさがありありと現れていて、その場所の雰囲気にピッタリと融けあう。彼らは何か目新しく素敵な眺めに出会うか、森や野原で物珍しいものを見つけてじっと感心して眺めている時以外は、絶えず喋り続け、笑いこけている」

ブラック-既出-の眼には、羽根つきに興じて顔に墨を塗りたくっている大人たちは、まことに愛すべき者に映った。
「そこには、ただ喜びと陽気があるばかり。笑いはいつも人を魅惑するが、こんな場合の日本人の笑いは、ほかのどこで聞かれる笑い声よりも、いいものだ。彼らは非常に情愛深く親切な性質で、そういった善良な人達は、自分ら同様、他人が遊びを楽しむのを見てもうれしがる」

・小さな物語的世界のなかでだれもが示す幸福感と、顕わに横たわる封建的身分社会という現実-その乖離した諸相になにを見出しうるのか

「幕末日本図絵」を著したスイスの遣日使節団長として1863(文久3)年来日したアンベールは、
「江戸庶民の特徴」として社交好きな本能、上機嫌な素質、当意即妙の才」を挙げ、「陽気なこと、気質がさっぱりとして物に拘泥しないこと、子どものようにいかにも天真爛漫」なことを数えあげる。「日本の庶民階級の人々は、まるで子どものように、物語を聞いたり歌を歌うのを聞いたりするのが非常に好きである。職人の仕事や商品の運送などが終るころ、仕事場の付近や四辻などで、職業的な辻講釈師の前に、大勢の男女が半円を作っているのを毎日のように見かける」

私は古き日本が「楽園」と評するに足る実質を備えていたかどうか、結局それは異邦人の垣間見の幻想ではなかったかと云った問題には何の関心もない、と著者はいう。‥重要なのは、当時の日本がある異形のもの、「楽園」と呼ぶのが妥当であるかどうかは別として、そんなふうにでも呼ばずにはいられない文化的なショックとして、欧米人の眼に現象したという事実のほうなのだ。なぜなら、そのような異質感をもたらした彼我の落差のうちに、彼ら欧米人がすでに突入し、われわれ日本人がやがて参入しなければならなかった近代、つまり工業化社会の人類史に対してはらむ独特な意味が、ゆくりなくも露出し浮上してくるからである。

日本人の顔に浮かぶ満足した幸せな表情-これらこそが、善良かつ明朗な民衆の性質とあいまって、実際には日本が地上の楽園である筈がないと知りながら、そうとでも呼んでみるしかない衝動を観察者たちのなかに生み出した要因といってよかろう。

明治年間、東大で哲学を講じたドイツ系ロシア人のケーベル-Raphael Koeber-(1848-1923)-にとっても、
日本人の最大の魅力はその「ナイーヴなそして子どもらしい性質」だった。
その彼が「日本はいよいよますます、その清新な本源的なところと、子どもらしさと、一種愛すべき<野生>-その残余は私の渡来当時にはまだ認めることができた、そしてそれは私にとってきわめて好ましい性質であったが-とを失いつつある」と書いたのは、明治も去りゆき1918(大正7)年のことだった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-03

   一ふき風の木の葉しづまる  
  股引の朝からぬるゝ川こえて  凡兆

次男曰く、朝鳶が鳴けば雨が降る、朝鳶に川を越すな-遠出をするな-という俚諺がある。

発句・脇の作りに時分-朝昼晩-の見込を立てて、景色を人情に移した雑体の句だが、敢えて、股引の朝から濡れるのもかまわず川を渡る、と逆らってみせたところが味噌である。

第三の句は、「脇と同じくなごやかに差し出たる詞なく」-紹巴、連歌教訓-、しかも「脇に能付候よりも長高きを本とせり。句柄賤しきは第三の本意たるべからず」と云われ、これは俳諧といえども常識である。句材-股引-と云い、風狂と云えば云える面白さはあるようだが、「猿蓑」集の映となるべき興行に、どんなつもりでこんな粗野な第三を作ったか、とこれは考えぬわけにはゆくまい。

「朝から濡るるといへるに其の人の情を具して、寒雨飄揺自ずから掲-レイケイ-の意にひびけり」-露伴-、「股引と云えば大方百姓であろう。‥何か特別に早朝かけて川越をしなければならない仕事をもっているものであるいう気配がある」-太田水穂-など、「股引の朝からぬるゝ」のみに気を取られて、「川こえて」を句作りの成行と手軽に考えてかかると、無くもながの印象批評に終る。

凡兆の目付は、持統天皇の吉野行幸に供奉した人麿の讃歌だろう。「万葉集」には「朝川渡」を詠んだ歌が3首あるが、その内、この人麿の歌は「拾遺集」の巻九・雑にも選ばれた格別の歌だ。

「やすみしし 吾が大王の 聞こしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませは ももしきの 大宮人は 船並めて 旦-アサ-川渡る 舟競-フナギオヒ- 夕河渡る 此川の 絶ゆる事なく 此山の 弥-いや-高しらす 水激-はし-る 瀧の宮処は 見れど飽かぬかも」

  反歌
「見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆる事なくまた還り見む」

王城の地で正風を天下に問う映の興行に当って、さてどんな服装-いでたち-で「朝川」を渡ろうか、と思案したところが凡兆の作分で、吉野行幸讃歌が無ければ「股引の朝からぬるゝ」は俳言にもならぬ。仮にこれを、狩衣・指貫、あるいは簑笠などと取替えてみよ。新風の心意気も、口もと途端にゆるんで、只の綺麗事になってしまうだろう。

ちなみに股引は、脚絆と併用した半股引で、室町末・近世初ごろから用いられたらしい。軽衫-カルサン-裁着-タツツケ-をさらに簡便にしたものである、と。


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