<歩々到着> - 3
「私の祖母はずゐぶん長生きしたが、
長生きしたがためにかへつて没落転々の憂目をみた。
祖母はいつも「業やれ業やれ」と呟いてゐた。
‥‥祖母の業やれは悲しいあきらめであつた」 (第六句集「孤寒」所収)
山頭火こと種田正一数え11歳の時、母フサが投身自殺をしたのは前述したが、
この時、祖母ツルは61歳。当時としては相当の高齢だが、この祖母にフサの突然の自殺により、幼い五人の子どもの世話が託された。
12歳の姉フサを頭に、正一、8歳の妹シズ、6歳の弟二郎、4歳の末弟信一の五人である。
母が自殺した翌年(明治26)、弟の二郎は他家へ養子に出されている。
さらに、その翌年(明治27)には、末弟の信一が満5歳に満たず死んでいる。
たび重なる肉親の不幸のなか、少年正一は、いつも「業やれ業やれ」と呟く祖母ツルの声を聞いて育っていったのだ。
まだ幼い少年の心に、かような肉親との離別は、どのように孤独な影を落としていったろうか。
この頃の山頭火年譜(村上護著「放浪の俳人山頭火」所収)に転じれば以下の如く。
明治18年(1885) 4歳(数え年)。 1月、妹シズ誕生。
前年に「層雲」を主宰した荻原井泉水が生まれ、同年に尾崎放哉が生まれている。
明治20年(1887) 6歳。 1月、弟二郎誕生。
この頃、新体詩による言文一致運動起こる。
明治22年(1889) 8歳。 4月、松崎尋常高等小学校尋常科に入学。
同月、市町村合併で佐波村となった新村の助役に父竹治郎が就任。12月、弟信一誕生。
明治25年(1892) 11歳。 3月6日、母フサ自宅の井戸に投身自殺。享年33歳。
この頃、父竹治郎は政治運動に狂奔し家政は乱脈。
明治26年(1893) 12歳。 3月、弟二郎、佐波郡華城村有富九郎治の養嗣子となる。
4月、高等科に進級。
この頃、正岡子規の俳句革新、発句の独立をめざす。北村透谷、島崎藤村ら「文学界」を創刊。
透谷の人生相渉論など浪漫主義的文学を主張。
明治27年(1894) 13歳。 10月、弟信一死亡。
この年、日清戦争はじまる。
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