山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

元日の捨犬が鳴きやめない

2009-12-17 22:46:56 | 文化・芸術
Dc090315158

Information – 四方館の DANCE CAFE –’09 Vol.4-
出遊-二上山夢験篇-

あそびいづらむ-ふたかみやまゆめのあらはれへん-
Date :12/27 –Sun- PM2:30
Space : 弁天町市民学習センター

―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-05-
1月1日、雨、可なり寒い。

いつもより早く起きて、お雑煮、数の子で一本、めでたい気分になつて、Sのところへ行き、年始状を受取る、一年一度の年賀状といふものは無用ぢやない、断然有用だと思ふ。

年始郵便といふものをあまり好かない私は、元日に年始状を書く、今日も50枚ばかり書いた、単に賀正と書いたのでは気がすまないので、いろいろの事を書く、ずゐぶん労れた。

※表題句の外、3句を記す

-四方のたより- 語りを<地>にして

こんどのDance cafeは、いつもとは些か趣向が異なる。
演奏者と踊り手がそれぞれに即興で掛け合うのが習いなのだが、このたびは折口信夫の「死者の書」から採った語り世界が挿入される。「死者の書」という古代の俤を伝える複式夢幻能ともいうべき特異な語りの世界が、いわば全体を通しての<地>ともなる訳だ。

その語り世界に対し、<図>ともなる音や踊りの即興は、どうありうるか。
言葉の世界というものは、否応もなく、観る者の想像力を限定してやまないものだから、音や踊りの演奏者が、<地>の語りに、どんなに即こうとまたどれほど離れようと、その関わりにおいてしか表現は成り立たない。ならば、演奏者たちは、語りの世界に即くことを意図するよりも、むしろ如何に遠離るか、如何に裏切るか、奔放に、自在に演ってもらったほうが、<地>と<図>、語り世界と演奏世界の対比、Dynamismが生まれてこようかと思われるのだが‥。


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