-四方のたより- 中原喜郎兄よ!
中原喜郎兄氏の遺作展にて添えられた作品目録の小紙に、「ごあいさつ」と題された絹代夫人の簡潔にて胸を打つ一文がある。
ここに兄氏を偲ぶよすがとして之を引いておきたい。
「大阪空襲でおふくろに背負われ、炎の中を逃げたんや。」
戦争の焼け跡の中で育ち、中学1年のときに父親を亡くし、母親、祖母、幼い弟たちと生き抜いてきたこと、よく聞いていました。
母子像や、家族への思いを描いた作品には彼のそんな生い立ちが表れているようです。そして、それはまた、私たち家族への思いでもあるのだろうと思います。
たくさんの素敵な友達に恵まれ、人とのつながりを大切にしてきた人でした。
1999年からの個展「我ら何処より来たりて」は親しい先輩や友達を亡くしたことで、そこから立ち上がるために彼らへの鎮魂歌として、そして、自分の生きてきた人生を振り返るために取り組んできたのだと感じています。
本当なら今年この時期に、「我ら何処より来たりて Ⅷ」を開く予定でした。ようやく描くものが見えてきたと言い、制作に意欲を燃やしていました。
彼の作品の続きが見られないことは、とても残念ですが、ⅠからⅦの作品を展示し、彼の人生を振り返りたいと思います。
今まで皆様には、温かく見守り応援していただきました。仕事が忙しい中、こうして描き続けることが出来たのは、ひとえに、皆様方のお蔭です。本当に有難うございました。
――― 2007年9月 中原絹代
一年先輩であった中原兄氏にはたいへんご厚志を戴いた。
なんどか此処に記してきたこともあるが、とくにご迷惑をかけたのが、兄氏の個展において我らのDance Performanceを厚顔にも添えさせて貰ったことだ。それも懲りずに二度にわたっても。
私にすればいくばくかの成算あってのこととはいえ、藪から棒の意想外な申し出に氏はどれほど面喰らったことであったろうか、それを表に出さず例の優しいにこやかな笑顔で快く承知してくれたことは、私にはいつまでも忘れ得ぬものにる。
また、昨年の4月27日、Dance-Caféにも夫人とともに多忙きわめるなかを駆けつけてくれたのだが、思い返せばこの頃氏の病状はすでにかなり重くなっていたのではなかったか。あの時、無理に無理を重ねる夫を見かねて夫人も心配のあまり同行されたのだろう。
兄氏のこれら利他行に対し、不肖の私はなんの報いも果たせぬままに逝ってしまわれた。
あの笑顔に秘された苦汁の数々を私はいかほど慮ってこれたろうか。
恥多きは吾が身、度し難く救いようのないヤツガレなのだ、私は。
<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>
<秋-111>
行く月に羽うち交はす鳰の海の影まで澄める底の白雲 堯恵
下葉和歌集、秋、湖月。
邦雄曰く、琵琶湖の異称「鳰(にお)の海」を、固有名詞のままでは用いず、「羽打ち交はす鳰」と、生きて働かせたところが見どころ。湖面には夜半の白雲が月光を受けて浮かび、それが澄明な水を透いて底に映るという。重層的な視覚効果は、ふと煩わしいほどである。月・鳰・雲の三種三様の白が水に蔭を遊ばせる趣向は珍しく、単なる秋月詠を超えて特色を見せる、と。
このごろの心の底をよそに見ば鹿鳴く野辺の秋の夕暮 藤原良経
六百番歌合、恋、寄獣恋。
邦雄曰く、胸に響くこの第二・第三句、名手良経ならではのものだ。右の慈円は「暮れかかる裾野の露に鹿鳴きて人待つ袖に涙そふなり」。俊成判は「姿、心艶にして両方捨て難く見え侍れば、これはまたよき持とす」。右の第二句も面白いが、良経の簡潔無類でしかも思いを盡し、太い直線で徹したような一首の味、恋の趣は薄いが稀なる調べである、と。
⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。