日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

方広寺大仏殿跡(東山区茶屋町)

2024-01-01 15:17:43 | 旅行
突然ですが、「京の大仏」って、ご存じですか?


かつて京都東山に、奈良の大仏をも凌ぐ、史上最大の廬舎那仏(るしゃなぶつ)坐像と、それを格護する巨大な大仏殿があったそうです。
(度重なる地震や火災で、残念ながら今は「跡」しかありませんが・・・。)
(昭和48年に焼失した4代目京の大仏:京都新聞社編集局編京の仏像 続」より引用) 
豊臣秀吉が天下統一した直後に落成した「京の大仏」ですが、皮肉にもこれが、日蓮宗門を激震させる大騒動の原因となってしまったと、別の調べものをしている時に知りました。


今回は大仏殿跡を巡りながら、その大騒動「不受不施論争」に、ほんの少し触れたいと思います。


ブログを書くにあたって、宮崎英修上人著「不受不施派の源流と展開」(平楽寺書店)という本を購入しました。
ともすればセンシティブな題材かもしれませんが、終始、偏ることのない視点で書かれており、知識のない僕でも自然に読み進められました。
宮崎上人は兵庫県の出石出身、不受不施派研究のみならず宗門史研究の第一人者だったそうです。平成9(1997)年に遷化されています。


大仏殿跡は鴨川の東、五条と七条に挟まれた辺り(地図中✕印)にあります。

(智積院前にある観光案内図:方角は上が東)
付近には国立博物館や三十三間堂、妙法院や智積院など、有名どころが密集しています。


(豊国廟鳥居:奥に見える山が阿弥陀ヶ峰)
このエリアの東方にそびえる阿弥陀ヶ峰には、慶長3(1598)年に逝去した豊臣秀吉の廟所があるそうです。


こちらは秀吉を祀る豊国神社です。

徳川幕府により、廟所とともに廃絶されましたが、明治時代になり再興されました。


(方広寺本堂:ちなみに山号はないそうです)
豊国神社の北隣に、天台宗の方広寺があります。
ここには日本史上、最も有名な梵鐘があります。


で、でかい!身延山の大鐘よりずっとでかい!
(方広寺鐘楼)
調べたら身延山大鐘楼の大鐘は高さ2.4m、対して方広寺の梵鐘は驚きの4.12m!
狭めの境内に対して鐘楼も巨大で、なんというか、現在の方広寺は「鐘のお寺」って感じです。



秀吉没後、秀頼が父の追善として鋳造した鐘です。


(「国家安康」「君臣豊楽」の銘 は白く囲ってありました)
銘文の「国家安康」「君臣豊楽」が大坂の陣の引き金になったといわれるものですね!


それでは方広寺や豊国神社に隣接する大仏殿跡に行ってみましょう。

平成12(2000)年に発掘調査された場所が、大仏殿跡緑地として開放されています。



敷石らしきものも、ちらほら。


(奈良東大寺大仏殿:現在は江戸中期に建立された3代目)
室町時代末期、奈良東大寺の大仏殿が幕府内の主導権争いに巻き込まれ焼失(大仏も被災)してしまう事件がありました。
以来、江戸中期まで復旧されず、鎮護国家のシンボルが不在の状態でした。


天正14(1586)年、前年に関白となった秀吉は、大仏を京都に建立しようと発願、諸大名の普請で大工事が始まりました。
(京の大仏殿境内の基礎となった巨大な石垣)
途中、朝鮮出兵などもあり工事は滞ることもありましたが、文禄5(1595)年5月に大仏殿が落成します。



(大仏殿跡の案内板より)
西向きに造られた大仏殿は東西55m×南北90m、で、その大仏殿は東西210m×南北260mの回廊で囲まれており、これがいわゆる境内だったと考えられます。


付近の案内地図に大仏殿の境内を入れてみると・・・

(智積院前にある観光案内図に加筆:方角は上が東)
こんな感じかな?
お隣の妙法院も組み込まれていたとか、三十三間堂もその一部だったとか、文献によって解釈は違いますが・・・まぁ、とにかく巨大、東大寺大仏殿をも圧倒する規模だったわけです。


(東山警察署大仏前交番)
当初、この施設に寺名はなく、単に「大仏」と呼ばれていました。
というかこの一帯を通称「大仏」と言っていたようで、近くの交番にもその名残りがあります。
「方広寺」という寺名は、奈良の大仏が再建された江戸中期以降に付けられたようですね。


(大仏殿跡の案内板より)
この大仏殿の歴史を辿るとかなり激動で、大地震や火災のために荒廃と再建を繰り返し、今は跡形もないんですが・・・このブログでは「初代 京の大仏」の落成までにとどめておきたいと思います。


(豊国神社拝殿の提灯)
大仏(殿)が落成すると早速、秀吉は自分の先祖と亡き両親追善のため、今後毎月、ここに仏教8教団からそれぞれ100人の僧を集め、千僧供養会(八百僧ですけどね!)を修することを決め、必ず出仕するよう各宗に招請状を出しました。


招請状を受け取った京都日蓮宗門は、騒然となります。
この招請に応じることは、宗門が古来堅守してきた不受不施義に反するからでした。
(具足山妙顕寺表門:当時の住持・日紹上人も当初は不出仕を強く主張した)
「不受不施義」というのは、教義と宗教生活の純正を守るために、
●僧は法華不信・未信者、謗法者からの布施供養を受けない→不受
●信徒は法華僧以外には布施供養しない→不施
というスタイルを、僧俗ともに貫くという意味です。


出仕するとなれば、法華信徒でない秀吉の依頼を受けて、他宗の僧侶と同座してお経を読む、法要後に秀吉からの食事供養を受けることになる。
これは明らかに宗制に背くことだが、秀吉のこと、出仕を断れば、京都宗門は破却されるかもしれない・・・。
(六条の大光山本圀寺跡:現在は山科に移転)
早速、本国寺(現在の本圀寺)に京都諸本山が集まり、深刻な議論を闘わせました。


時あたかも天文法難や信長による日蓮宗弾圧を経て、宗門がどん底からやっと立ち直ってきた矢先のことです。
(聞法山頂妙寺仁王門「秀吉公台命」扁額:安土法難後の宗門布教を約束した証)
安土宗論(※)で日蓮宗が不当に書かされた詫び証文を、秀吉は浄土宗側から取り上げ、京都での布教再開を後押ししてくれた恩もありました。
宗制を破るのは極めて不本意だが、天下人の秀吉だけは例外にしようという、現実的な意見が大勢を占めました。
(※)天正7(1579)年、信長が安土城下で行なわせた、浄土宗と日蓮宗の法論。敗れた日蓮宗は詫び証文を書かされる等、厳しく処罰された。日蓮宗の勢力を嫌った浄土宗と信長が結託した、計画的な弾圧とされる。 


そんな中、妙覚寺の仏性院日奥上人と、本国寺の究竟院日禛上人は、いかなる理由であろうとも出仕すべきでない、不受不施義は守る、と敢然と主張したそうです。

ここで日奥上人、日禛上人のプロフィールを書かせていただきます。
(具足山妙覚寺大門:徳川の時代になり、聚楽第の裏門を移築したという)
日奥上人は京都の豪商の家に生まれ、10才で妙覚寺18世・実成院日典上人の門に入り、研鑽を積みます。真面目で努力家の日奥上人を、師匠の日典上人は全力で教え導きました。日奥上人もその期待に応え、28才で妙覚寺19世を継承します。


この時代の宗門は、世の中の変化に寛容に対応する関西学派と、宗祖以来の伝統的折伏主義で他とは相容れない関東学派、この二派に分かれていました。
ちなみに当時の身延山は、関西学派の流れを汲む法主様が続きましたから、関東にあって関西学派でした。
(具足山妙覚寺方丈の屋根瓦)
逆に妙覚寺は、京都にありながら昔から関東との交流が深く、師匠の日典上人も若い頃に関東諸山で教学を究め、帰洛後に妙覚寺貫首に就いたようです。


日典上人がバリバリの関東学派なわけですから、弟子の日奥上人が不受不施義を貫くのも、師匠の影響が大きいのでしょう。

(左が方広寺大仏殿、右に仁王門、奥に三十三間堂:梵氏祐祥著「京都社寺境内版画集」より引用)
日奥上人は、大仏が落成すれば必ず法会が催され、宗門は大混乱するだろうと予想し、大仏造営中から建立が成就しないよう、密かに祈願までしていたといいます。
日奥上人だって本当は波風を立てたくなかったのです。


一方、日禛上人は広橋家という公家の出身でした。
(山科・大光山本圀寺境内より)
学問の才覚は抜群、また人望もある方だったのでしょう、わずか18才で本国寺16世を継承、本国寺内に学室(求法院檀林)を開くなど、名声を轟かせます。


(旧飯高檀林歴代化主御廟にある蓮成院日尊上人墓石)
また飯高檀林を創り上げた教蔵院日生上人、蓮成院日尊上人とも親交が深かったことから、関東学派のスタイルも十分理解していたと考えられます。


日禛上人の直弟子の一人に、豊臣秀次公の母・ともさん(秀吉の実姉)がいます。
(村雲御所瑞龍寺本堂内にある豊臣秀頼公銅像原型)
一時は秀吉の後継者に指名されながら、秀頼誕生を機に、秀吉から謀反の嫌疑をかけられた豊臣秀次公は、28才の若さで高野山で自害に追い込まれ、子女妻妾まで一人残らず処刑されてしまいます。


(村雲御所瑞龍寺山門)
悲しみのどん底にいたともさんは、日禛上人のもとで得度して日秀尼となり、嵯峨の地に庵を設け、生涯秀次公一門の冥福を祈りました。
今の村雲御所瑞龍寺のルーツです。


(東山・妙慧山善正寺にある瑞龍寺歴代御廟:中央が日秀尼の墓) 
天下人の横暴により悲嘆に暮れている人が、自分の直弟子にいるということも、日禛上人が今回の千僧供養会不出仕の立場を貫き通したことに、少なからず影響したと僕は思います。


話を戻しましょう。
(六条御境の碑:現在は西本願寺、かつて一帯が本圀寺だった)
会議は紛糾し、なかなか結論が出ませんでしたが、最終的には「千僧供養会に一度だけ出仕して秀吉の面目を立て、次回からは不受不施義を主張する」という決定を下し、日奥上人と日禛上人の主張は押し切られました。


日奥上人と日禛上人は「一度でも出仕したら宗義に背くことになる」と、この決定に迎合せず、あくまで不受不施義を貫く姿勢を変えませんでした。
(京の大仏殿境内の基礎となった巨大な石垣)
ただそうなると、彼らが率いるお寺の衆徒や檀那も、断罪される恐れさえあることから、日奥上人は妙覚寺を退出して丹波小泉に、日禛上人は本国寺を退出して嵯峨小倉山に隠棲しました。
地位や名誉よりも、宗義を貫くことを選んだわけです。


千僧供養会は予定通り、同年9月25日から始まり、毎月毎月、欠かさず行われました。

(2代目大仏殿:「東山名所図会」京都府立京都学・歴彩館 デジタルアーカイブより引用)
当初、一日を時間で区切り、①真言②天台③律④五山(禅)⑤日蓮⑥浄土⑦時⑧一向(真宗)の順番で、各100人の僧が法要をやり続けるというものです。
ただこの順番に不服を唱える宗も続出し、あと法要を受ける側も飽きちゃうからかもしれませんが、秀吉没後は毎月一宗のみが出仕する、というスタイルに変わりました。


(妙法院表門)
会場は、秀吉がこのために大仏近くに誘致した天台宗南叡山妙法院(もとは祇園にあったそうです)の経堂、


(改修中の妙法院庫)
そして法要後に出仕僧に食事の供養があるのですが、この食事の準備は現在の妙法院庫裡でされました。
国宝指定されている庫裡は、現在改修工事中ですが、当時のかまど跡が地中から発掘されたそうですよ!


(妙法院土塀)
当初、日蓮宗は「一回だけ出仕」のはずでしたが、結局上奏できず、秀吉没後まで継続して20年間も(!)出仕し続けることになります。


一方、日奥上人と日禛上人のスタンスは、信条を貫き、権力に媚びなかったとして、実は当時の在家信者、そして関東諸山から圧倒的な賛同を得ていたとも言われます。
(豊国神社境内の豊臣秀吉像)
こうした宗内の亀裂は、豊臣政権からすれば好都合、手を出さずに敢えて放置したようです。


政権が豊臣から徳川に代わっても、日奥上人や関東諸山の主張は微動だにせず、宗内の対立はより深まってゆきました。
最終的には江戸幕府が介入し裁定(身池対論)、不受不施義そのものが邪義、禁教となります。
(身池対論が行われた江戸城跡:現在の皇居二重橋)
日奥上人は既に遷化されていましたが、見せしめなのでしょう、掘り返された遺骨が対馬に流され、関東学派の拠点となっていたお寺はことごとく、関西学派に接収されてしまいました。


行き場を失った関東学派の僧俗は、キリシタンとともに幕府から徹底的な弾圧を受け、断食、自害、流浪して亡くなる方も多かったようです。それでも信仰する者は、地下に潜伏、信仰の自由が保障される明治時代まで、命がけで信仰を継いだといいます。


現代、日蓮宗を信仰する僕には、どちらの道が正しかったのか・・・本っ当に答えが出せません。
関西諸山がこぞって宗義を優先し千僧供養会への出仕を拒否していたら、日蓮宗そのものが存続できなかった可能性が高いと思います。
(具足山妙顕寺本堂の屋根)
関西、特に公武の中心だった京都の諸山は、天文法難や安土宗論などの弾圧を経て、強硬一辺倒で突き進む怖さを、身をもって知っていたはずです。
古来からの宗制を主張しすぎず、ギリギリのところで妥協することで、生き残りの道を模索し続けた彼らの決断を、批判しようがありません。


一方、信仰の純粋を守るために、命の危険も顧みず、権力に対峙し、時代の流れに抗った方々がおられたことを知り、本当に心が震えました。
(身延山歴代御廟所にある第46世復歴・日唱上人墓)
僕は各地のお寺を参拝する時、歴代お上人の御廟をお参りするようにしています。
その中で、かつて不受不施義を主張し、あるいはそれを疑われて、お寺の歴代を除歴とされたお上人方のお名前を、目にすることが度々ありましたが、実はこのブログでは、敢えて触れずにいました。


今回、方広寺大仏殿跡を訪問、また宮崎英修上人の著書を読み、少し、考えが変わりました。
(大仏殿跡緑地)
純粋に、そして頑なに不受不施義を貫こうとした僧俗、逆に時の権力に対応しながら、後世に教団を残そうとした僧俗の歴史は、いずれも決してアンタッチャブルではなく、むしろ現代の日蓮宗信徒こそ、もう少し知っても良いのかな、と。


激流に揉まれながら石が丸くなってゆくように、現在の宗門は本当に寛容な教団になりました。硬軟両派の、辛苦の産物なのでしょう。
ならば是非、彼らのことを記憶に留めたうえで、今日、当たり前のようにお題目を唱えられる幸せを、感じてほしいと思いました。

南無妙法蓮華経

深草山寳塔寺(伏見区深草宝塔寺山町)

2023-12-01 14:58:10 | 旅行
深草にある日像上人のお寺、寳塔寺を参拝してきました!


深草丘陵の西麓に広がる地域、その昔は一面に草が生い茂り、そのため「深草」と呼ばれたようです。

深草は京都盆地の中でも、いち早く稲作が始まった場所でした。
そして穀物、農耕の神様として「伊奈利社」が鎮座されたのです。
今の伏見稲荷大社のルーツですね!
今やパワースポットとして、世界中から参詣者が絶えません。


寳塔寺は伏見稲荷のすぐ南側にあります。
(JR奈良線)
JR奈良線の稲荷駅からも、京阪電車の龍谷大前深草駅からも近く、アクセスは抜群です!



山門が見えてきました。
寳塔寺の入口ですね。



大きな石柱に、日像上人の御廟所である旨が刻まれています。


裏側に回ると、

お?大阪の川端半兵衛さん・・・見覚えのある名前だぞ。
ん~と・・・誰だったっけ?



室町中期と伝わる山門をくぐり、参道を進みます。


寳塔寺境内は背後にそびえる七面山(標高101m)の西側斜面に広がっています。
画像からも、緩やかな傾斜を感じてもらえると思います。
白壁の合間に、たくさんの塔頭寺院があります。
数えたら6ヶ寺もありました。



本堂域の直前にあるのは、朱塗りの仁王門です。
宗紋の大提灯といい、華やかですね!



仁王門の天井には牡丹の花がたくさん!
日像上人の後継者・大覚大僧正の出自は近衛家説が有力ですが、牡丹の天井画は近衛家の家紋(近衛牡丹)に関係あるの・・・かもしれません。



山号は深草山です。



本堂です。
間口が広いので、大法要も開けそうです。


寳塔寺の伽藍群は、室町時代の戦乱(応仁、天文法華)でほぼ燃え尽き、その後に再建されていったようです。

この本堂は慶長13(1608)年再建といいます。
ただそれ以降、火災に遭わずに現在に至っているって、素晴らしいですよね!



こちらの多宝塔は更に古く、永享10(1438)年の墨書きが残っていることから、戦乱でも焼けずに今に至る、京都でも最古級の多宝塔だそうです。



方丈で優しそうな奥様にご挨拶。
ご住職は法務でご不在でしたが、書き置きの御首題を戴くことができました。



歴代お上人の御廟に参拝。
墓誌には第48世までのお上人が刻まれていました。
日像上人の御廟を擁する大寺、今日まで護持するには、歴代大変なご苦労があったことでしょう。心から感謝致します。


縁起によると、もともとこちらには平安時代の公卿・藤原基経公(初代関白)の発願で創建された極楽寺(天台宗→真言律宗)があったようです。
(開山二世良桂律師、中興八世日銀上人の頌徳碑)
徳治2(1307)年、1回目の洛外追放に遭った日像上人が、極楽寺の住職・良桂律師と三日三晩問答し、破折しました。
これを機に、良桂律師は日像上人に帰依し、極楽寺も法華経に改宗したといいます。
なので、寳塔寺開山は日像上人、良桂律師が二祖となります。


いろんな資料を読んでゆくと、この問答、日像上人が鶏冠井の向日神社前で布教している時に、法論に及んだという説が有力なようです。
(鶏冠井にて、深草良桂上人、実眼上人が帰依する様子:京都本山妙覺寺刊 日像菩薩徳行絵伝より引用)
時あたかも二度の元寇を経て鎌倉幕府が衰退し、不安渦巻く世の中。
大寺の住職でさえ、自分の信仰に実は納得しておらず、日像上人の説法に足を止めたのでしょう。



境内からは伏見の街、その向こうに西山の山並みが見えます。
あの麓あたりに、鶏冠井があるんですね!



客殿前には貴人がくぐりそうな高麗門。



で、手前の石灯籠には、また川端半兵衛さんだ!

・・・そうだ、思い出した!
僕は身延山久遠寺に参拝する際、まず御真骨堂と開基堂にお参りするのがルーチンなんですが、その開基堂前の石灯籠↓

裏側に、川端半兵衛さんと刻まれていました。


昭和60(1985)年、身延山久遠寺に大本堂ができる前、あの場所には本師堂という、釈尊立像(※)を奉安するお堂があったそうです。
(久遠寺本師堂:身延山久遠寺刊 身延山古寫眞帖より引用)
身延山史には、昭和初期、本師堂の修繕にあたって、「兵庫県の本願人 川端半兵衛夫妻は、仏壇仏具の荘厳や石灯籠にいたるまで、独力をもって寄進した」と記載がありました。
(※)四條金吾頼基公造立、現在は釈迦殿に奉安されている


後日、川端半兵衛さんについて寳塔寺のご住職に問い合わせると、丁寧に教えてくださいました。
代々の大坂商人であり、法華篤信の家系であった川端半兵衛さんは、寳塔寺に深いご縁、信仰があった、いわゆる大檀那的な存在のようです。

寳塔寺本堂にお祀りされているお釈迦様のお像は、川端半兵衛さんが久遠寺本師堂のお像と同寸同形に作らせたもので、昭和4年に寳塔寺に寄進されたといいます。
また、川端半兵衛さんご自身は昭和33年に逝去されますが、ご遺骨は一族とともに寳塔寺墓所に納められているそうです。
こういった方々の丹精のおかげで、現在の宗門があるのでしょう。感謝に堪えません。


本堂左側から日像上人御廟、そして七面宮に至る参道があります。

この辺りから、空気がシュッとしてきます。



日蓮聖人のご尊像や三十番神堂をお参りしたあと、鳥居をくぐり、森に囲まれた階段をさらに登ってゆきます。



急に視界が開け、妙見様、お稲荷さんなど、数棟のお堂が現れます。


このうち一番大きなお堂が七面宮です。

こちらに奉安されている七面様のお像は、寛文6(1666)年のものといいます。
身延山・高座石での七面大明神伝説を初めて記した深草元政上人(1623~1668)ご在世と一致しますから、こちらの七面様には元政上人が大きく関係しているのかもしれません。



ちなみに、妙顕寺で出家し研鑽を積まれた元政上人が、子弟を教育するために設けた深草山瑞光寺↑は、寳塔寺のすぐお隣にあります。


それでは日像上人の御廟に向かいましょう。
七面宮が山頂付近だとしたら、山の中腹に御廟域があります。

奥のお堂が像尊本廟、つまり日像上人の御廟です。



遥拝所まであります!
石の上に正座して、上人の遺徳に感謝しました。


御廟域には、日像上人が13才、経一丸時代の坐像があります。

弘安5(1282)年10月11日、ご入滅が近い日蓮聖人に頭を撫でられ、帝都開教のご遺命を受けているお姿だそうです。


(宗祖の御棺前で日朗上人に剃髪される経一丸:京都本山妙覺寺刊 日像菩薩徳行絵伝より引用)
10月13日朝、日蓮聖人は入寂されますが、翌14日、御棺の前で(!)経一丸は師匠の日朗上人に剃髪され得度、肥後阿闍梨日像と改名します。


日像上人は宗祖13回忌を機に上洛、40年間もの艱難辛苦の末、「妙顕寺を勅願寺とする」という後醍醐天皇の綸旨を賜ります。
(具足山妙顕寺の表門)
ここに日蓮聖人との約束、帝都開教を果たし、ついに日蓮宗が天下公認となったわけです。
このとき日像上人は既に66才になっていました。


康永元(1342)年、74才となった日像上人は、後事を大覚妙実上人に託します。
(妙顕精舎にて遷化される日像上人:京都本山妙覺寺刊 日像菩薩徳行絵伝より引用)
「没後、妙実を視ること、吾を視るごとくせよ」という言葉を、妙顕寺衆徒に伝えた2日後、11月13日に日像上人は化を遷されました。


生前、日像上人は常々、自分が死んだら、深草で遺体を荼毘に付し、山腹に葬ってほしいと話していたそうで、弟子信者たちがその通り、丁重に弔ったといいます。

寳塔寺参道、塔頭寺院に囲まれた場所に、日像上人御荼毘処が残っています。


日像上人の御廟が定まると、寺号をそれまでの「極楽寺」から「鶴林院」としたそうです。
(高麗門に掲げられた鶴紋)
お釈迦様がご入滅された時、沙羅双樹(さらそうじゅ)というお釈迦様とご縁の深かった木が、悲しみのあまり鶴のように白くなった、という伝説が転じて、鶴林院は日像上人の墓所、恩に報いる場所を意味するのでしょう。


御廟の墓標には、日像上人ご染筆の題目宝塔が用いられており、これにちなみ、のちに寺号が「寳塔寺」となりました。
(七口題目石の前で、草刈籠に座って説法する日像上人:京都本山妙覺寺刊 日像菩薩徳行絵伝より引用)
この宝塔は日像上人が若い頃、都の七つの出入り口(※)にわざわざ建てたもので、いわば「南無妙法蓮華経」を、可能な限り大衆の目にさらす戦略、布教塔だったと考えられます。すごい熱意ですよね!
(※)京の七口:鞍馬口、粟田口、伏見口、東寺口、丹波口、大原口、長坂口・・・諸説あり


また、日像上人御廟が寳塔寺にあることに倣い、妙顕寺の歴代御廟もこちらにあります。

妙顕寺のお上人が毎月お掃除にいらしているそうです。よく清められていました。


深草山寳塔寺は、妙顕寺からみて南東、つまり巽(辰巳)の方角にあたることから、「巽之霊山」と呼ばれるそうです。
(像尊本廟 屋根の頂部)
古くから巽(辰巳)は、縁起が良い方角とされました。


僕は巽(辰巳)と聞いて、二つ、連想することがありました。

一つは日像上人の師・日朗上人の御廟です。
(鎌倉・妙法華経山安国論寺境内の日朗上人御荼毘所)
日朗上人は元応2(1320)年1月21日に遷化されますが、上人の遺骸は遺言通り、鎌倉松葉ヶ谷で焼かれ、その裏山に葬られました。


(鎌倉・長興山妙本寺の祖師堂)
日朗上人が終生大切にされた住坊は、鎌倉比企ヶ谷にある長興山妙本寺ですが、ここは日像上人にとっても、自身が出家したお寺であり、数多の修行を重ねてきた、いわば聖地でした。


そして日朗上人御廟(現在の逗子・猿畠山法性寺境内)は長興山妙本寺から見て、まぎれもなく巽(辰巳)の方角に位置するのです。
(逗子・猿畠山法性寺境内の日朗菩薩墳墓霊場)
日朗上人が遷化された年、日像上人は翌年に3度目の洛外追放、そして妙顕寺開創という、帝都開教の今後を左右するほどの岐路にあり、どうしても京都を離れることができなかったと考えられます。葬儀には代理で妙実上人を遣わせました。
後日、妙実上人から葬儀の報告を、涙ながらに聞いたことでしょう。
師がいかに今生を終ったのか、日像上人はそれを自らの最期に投影した、そんな気がしてなりません。


もう一つは、お祖師様のご遺文「種種御振舞御書 」に記された、龍ノ口法難の部分です。

「江ノ島の方より月のごとく、光りたる物まりのやうにて、辰巳の方より戌亥の方へ光渡る」

(9/12深夜、片瀬・寂光山龍口寺の七面堂に至る階段上より、巽の方角を撮影)
暗闇の中、ひとり死の淵に置かれた日蓮聖人を救った光り物は、巽(辰巳)の方角から現れたのです。


孫弟子の日像上人も、「巽(辰巳)から現れる吉兆」というものに、何か深い信仰があった、というのは邪推でしょうか。
(寳塔寺本堂)
諸宗の讒訴によって京を追われ、洛外で一心不乱に説法していた若い頃。
誰も知る人がいない、石や瓦まで投げつけられる四面楚歌のなか、深草のお坊さんは、そんな自分に共鳴してくれた。

暗闇の中に見つけた一条の光。あれが起点だった・・・。



激動の生涯を過ごした日像上人が、自らの墓所を敢えて深草、妙顕寺の巽(辰巳)にした理由、僕はなんとなく、理解できました。


このブログを書いている只中、日像上人の第682遠忌、祥月命日 を迎えました。
11月とは思えない暖かい日和、南東の風がゆる~く吹いていました。

南無妙法蓮華経。


※川端半兵衛さんと寳塔寺さんとのご関係について、丁寧にご教示くださったご住職に、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。

鶏冠山北真経寺(向日市鶏冠井町) 

2023-11-01 22:45:28 | 旅行

9月初め、今年も京都を旅してきました!


アフターコロナで観光客が戻ってきた京都。

こんな外国人ツアーも沢山見られました。
メジャーな観光地は、バスも飲食店も笑っちゃうくらい、人だらけ。
やっぱり京都は世界中から注目されてるんだな、と感じます。


今回、僕が訪れたのは京都の南西部、向日市にある鶏冠井です。
・・・読めました?


向日は「むこう」、


鶏冠井は「かいで」と読むんだそうです!


ちなみに鶏冠井という地名、カエデにルーツがあるようです。
カエデを辞書で調べると、いろんな漢字(槭、楓など)がありますが、「鶏冠木」とも表記するようです。確かにニワトリのトサカ(鶏冠)に似てますもんね!
その昔、この界隈にはカエデの木、そして井戸が多く、当て字的な感じで「鶏冠井(かいで)」になった説が有力です。



京都の中心部から阪急電車で20分ほど、西向日駅で降ります。



西向日駅前にはレンタサイクルがあり、4時間210円でお借りできます。
今回の旅の友をパチリ。



この辺りは、かつて日本の首都・長岡京があった場所です。
自転車を走らせると「太極殿」「内裏」みたいな史跡が公園になっています。



駅から数分で北真経寺に着きました。



山号は鶏冠山(けいかんざん)です。



明治の初めまで、鶏冠井檀林というお坊さんの学校が、ここにあったんですね!
ちなみに西ノ岡はこの界隈一帯の地名、そこに鶏冠井村があるという感じかと思います。



山門(表門)です。
瓦屋根の存在感強めの、薬医門です。


境内はほぼ正方形、檀林時代はその四方に門があったそうです(現在、東門はありません)。

四つの門は、お釈迦様が語られた、苦しみをなくすための四つのプロセス「四諦(したい)」を表現しているとか。
仏教そのもののベースですよね!



庫裡(右)で面倒見が良さそうなご住職に御首題をお願いし、本堂(左)でお参りさせていただきました。


寄棟造りの本堂は、明治初期まで鶏冠井檀林の講堂として使われていた建物だそうです。

お堂内部の画像はありませんが、内側の壁には黒い札が沢山貼られていました。鶏冠井檀林で研鑽を積まれた学僧の名札なんだそうです。
耳を澄ますと彼らの読経の声が聞こえてきそうな、そんな雰囲気のある空間でしたよ!


本堂の西側には、波ゆり題目の法塔が数基あります。

こちらのお寺を開山された日像上人の供養塔ですね。


永仁2(1294)年、日像上人は上洛するとすぐに、人通りの多い場所を選んで辻説法を始めました。
(日像上人が最初に説法をされたという北野天満宮前)
鋭い舌鋒と熱気は、迷いの中にいた人々の心に刺さったのでしょう、日を追うごとに帰依する町衆が増え、やがて京都を席巻しそうなうねりとなってゆきます。


それが在来宗派からの嫉みを生み、激しい妨害を受けることになります。
(南真経寺山門横の題目塔)
「三黜三赦(さんちつさんしゃ)の法難」といって、洛中からの追放と赦免を、三度も繰り返しました。

1回目 徳治2(1307)年 土佐流罪→2年後に赦免
2回目 延慶3(1310)年 紀伊流罪→翌年に赦免   
3回目 元享元(1321)年 洛外追放→十数日で赦免


このうち1回目の土佐流罪、普通に行けば西国街道を下り、どこかで海を渡って阿波辺りに至り・・・というルートかと思います。

(北真経寺境内はサルスベリが満開!)
ところが日像上人、実際には洛南の山崎あたりに留まり、しぶとく布教をしていたという説が有力です(役人にバレなかったのかな?)。



北真経寺の縁起には以下のように書かれています。

「ある時、向日明神に法華弘通の祈願をされた折、境内に一夜を明かしたるところ、白髪の明神が現れ、夢の御告げを頂かれた。
『汝、この地に法華経を弘めよ』と。
これを縁として日像は西ノ岡において布教することになります。」


北真経寺の西数百mの西国街道(現在の府道67号)沿いに、向日神社があります。

創建は長岡京よりも前、養老2(718)年と伝わります。
ここにある向日山に、五穀豊穣の歳神様が降臨したことから、向日明神というそうです。



向日神社の大鳥居前に、日像上人説法石が、実際に残されています。



法華の篤信者である海軍軍人・佐藤鉄太郎氏によって大正10年に書かれた説法石由来によると、日像上人が老翁(向日明神)と出会ったのも、雲集する道俗に説法をしたのもこの石で、以後、法運が開け、帝都開教につながっていったようです。


この周辺の集落のなかでも、特に日像上人のお説法に興味を示す人が多かったのが、鶏冠井でした。

あのお坊さんの言ってることは、わかりやすいし心に響く。この世で生きながら成仏できるなんて、信じてみたい・・・そう感じる村人が日を追うごとに増えてゆきました。
ただ、先祖代々の宗旨、お寺を変えるわけにはいかない、という声も多かったことでしょう。


そこで日像上人は、村にある真言寺の住職・実賢上人を訪ね、昼夜に渡って法論を闘わせました。
(北真経寺の縁起を刻んだ碑より)
果たして日像上人は実賢上人を論破し、見事に一山一村の改宗を成し遂げたのです。このとき寺号も真経寺と改めたようです。




これが徳治2(1307)年、すなわち1回目の流罪中といいますから、松ケ崎とともに西日本最古クラス(※)の宗門寺院であり、法華集落なのでしょう。
(※)今まで僕が参拝したご霊跡では、備中野山の具足山妙本寺が弘安4(1281)年創建で、あちらも全村皆法華でした。

(向日市文化資料館刊「むこうしの文化遺産」より引用)
改宗を喜ぶ村民の姿は、鶏冠井題目踊りとして伝わります。
毎年5月3日、近くの法性山石塔寺(本化日蓮宗)で奉納されるそうです。
700年前の庶民の感情表現が、こうして踊りや音頭で残っているって、ホント興味深いです。



また、北真経寺のご住職によると、村人のなかでもいち早く帰依した「三郎四郎」という人がいて、この人は日像上人に宿を提供し、鶏冠井での上人の活動をサポートしてくれたそうなんですが、今でも三郎四郎の末裔は檀家さんにいらっしゃって、お寺の近くに住まわれているそうですよ!


時は下り承応3(1654)年、通妙院日祥上人というお坊さんにより、ここに宗門の学問所(鶏冠井檀林)が開設されました。

開設の経緯は不明ですが、恐らく日祥上人が非常に教育水準が高い方で、その学徳を慕って自然に学僧が集まってきた・・・そんな感じかと想像します。


このとき真経寺を南北に分け、北真経寺に鶏冠井檀林を置き、南真経寺を村人の信仰のお寺にしたそうです。
(南真経寺本堂)
南真経寺は北真経寺の300mほど南西にあります。
山号は北真経寺と同じく「鶏冠山」です。



(向日市が設置した北真経寺案内板より)
北真経寺境内の案内板に、江戸時代の鶏冠井檀林絵図がありました。
講堂を中心に、沢山の学寮がある様子は、他檀林とよく似ています。


ちなみに、僕が身延山史で調べた限りでは、第75世身延山法主の心妙院日修上人(三村日修上人)が、「京都妙覚寺日合師に従ひ、天保十年、洛西鶏冠井檀林に新説し・・・」とあります。講師として鶏冠井におられたのでしょうか。
(身延山御廟域にある日修上人廟)
日修上人は、仏教弾圧が激しかった明治初期の宗門を支えた傑僧で、祖山中興三師の一人に数えられます。
こうした優れた指導者のもとで、沢山の才覚が花開いたのでしょうね。


学制発布に伴い、明治8(1875)年に檀林制度自体が廃止されてしまいます。
200年以上、鶏冠井檀林として経営してきた北真経寺にとって、いちばん大変な時代だったかもしれません。

やがて北真経寺は檀家さんによって護持されるお寺になり、現在に至るそうです。
境内を囲む玉垣には、護持に関わった檀信徒さんなのでしょうね、沢山のお名前が刻まれています。



ところで、日像上人はなぜ、鶏冠井に目をつけたのでしょう?
向日明神のお告げも確かにあったでしょうが、日像上人のこと、何か戦略を持って、この小さな集落を拠点としたのではないか?という疑問が湧きました。


京都はよく、三方を山に囲まれた盆地といわれます。
(グーグルマップに加筆)
東側の「東山」、北側の「北山」は観光地として有名ですが、実は「西山」もあります!
洛西から向日市、大山崎町にまたがる山々が、まさに西山です。


(向日市文化資料館刊「乙訓の西国街道と向日町」より引用・加筆)
調べてみると、西山には善峰寺、光明寺、楊谷寺といった古刹が多く、また西方には極楽浄土があると信じられていたせいでしょうか、浄土宗の聖地でもあったようです。浄土宗西山派(今の西山浄土宗)という一派があるほどです。
鎌倉時代も、参詣者が絶えなかったはずです。


(向日市内の五辻交差点)
西山に点在するそれらのお寺への参詣道は、いずれも向日神社前で、西国街道から分岐してゆきます。


(向日市文化資料館刊「乙訓の西国街道と向日町」より引用・加筆)
鶏冠井集落は、まさにこの分岐にあるわけで、洛中で布教を禁止されていた日像上人にしてみれば、これ以上ない場所を押さえたわけです。
念仏信者が行き交うスクランブル交差点を、日像上人が見逃すはずはなかったと、僕は思います。
(注)参考にした資料は江戸時代の道ですが、参詣道については太古から大きく変わっていないと思います。


鶏冠井と相前後して、日像上人はもっと洛中に近い深草でも、真言宗の大寺を改宗させ、活動拠点を増やします。
(深草山寳塔寺の仁王門)
延慶2(1309)年に1回目の洛外追放は赦免にされるのですが、結局わずか2年間で日像上人は、むしろ洛外に信仰を弘めてしまったわけで、追放した側は目を丸くしたことでしょう。皮肉なものですね・・・。


(具足山妙顕寺の山門)
日像上人は、このあと二度の洛外追放に遭いますが、3回目の赦免の折に後醍醐天皇から寺領を賜り、妙顕寺を開山します。
ピンチをチャンスに変えて、見事に帝都開教の足掛かりを築いたのです!


最後に、ひとつ。
これ、北真経寺に隣接する鶏冠井公民館前に、何気なく設置されていたものですが・・・


昭和55年に解体された、旧公民館の鬼瓦だそうです。
真ん中にはなんと、「井桁に鶏」の紋。
敢えてもう一度書きます。
お寺の鬼瓦、じゃなくて、公民館の鬼瓦です!

信仰を守り続けてきた住民の、静かなプライドを感じまくった、鶏冠井参拝でした。

大谷山妙泰寺(南越前町西大道)

2023-10-01 03:37:32 | 旅行
越前地方には、日像上人が開山されたお寺や、伝承の残る場所(題目岩など)が沢山存在します。
(武生駅前のホテルからの眺め)
これらを地図上にプロットしてゆけば、日像上人の足跡が正確にわかるのではないか、と思えるほどです。


(越前市内・北国街道沿いにある長榮山本行寺)
それだけ日像上人が、こまめに説法をし、他宗と法論を闘わせ、土地の人の不安や疑問に道を示してきたのだと、感服します。


今回は越前地方における、おそらく核となるお寺・妙泰寺を紹介します。


武生から北国街道を南下してゆきます。
(南越前町清水辺り)
途中には北陸新幹線の高架も見られます。
計画では来年春、敦賀まで開通するみたいですね。


田園地帯の真ん中に、妙泰寺の案内碑。

「日像菩薩發軫霊跡」
發(発)軫とは、「最初」とか「スタート」みたいな意味だと思います。


法界の題目塔から、JR北陸線の踏切を越えて歩いて行きます。

総門までは結構な距離!
昔はめっちゃ広い境内だったんだろうな。


総門に到着!

前日、南関東には線状降水帯が発生するくらいの荒天でしたが、そのせいか北陸では今日、フェーン現象で激暑っ!日差しが痛い!!



参道の左右には、かつての塔頭跡がいくつも確認できます。
数えたら8ヶ寺分、ありました。
殆どは明治時代に本寺に合併され、今は唯一、本光院が現存します。



クラシックな庫裡で妙泰寺の奥様にご挨拶をしてから、諸堂を参拝しました。



うわぁ、立派な仁王門!
説明によると、この門は宝永年中の建築で、知恩院の三門をイメージして造られたようです。


こちらは本堂です。
静まり返った堂内で、ゆっくり読経させていただきました。

傾斜のある大きい屋根のお堂、周辺の雰囲気も含め、個人的には鎌倉比企ヶ谷の妙本寺祖師堂↓によく似てるな~と思いました。
(鎌倉比企ヶ谷の長興山妙本寺・祖師堂)
日像上人が上洛前、極寒の中、百日の行をされた時、拠点にされていたのが妙本寺。
まぁ、お堂のフォルムが似ているのは偶然でしょうが(笑)。



日蓮聖人と日像上人(恐らくご幼像)のご尊像が並んでる!
宗祖と孫弟子のコントラストは、他のお寺では見られないレアな配置です。


永仁2(1294)年、越前地方を巡化していた日像上人は、ここ大道(だいどう)に至りました。
(日像上人銅像)
小泉久左エ門という村人のお宅前で3日間、辻説法を行い、さらに村のお寺(当時は真言宗)の住職と問答し教化、一山一村をあげて改宗されたそうです。


開山は日像上人、そして二祖は妙文僧都と刻まれています。

調べてみると、妙文僧都の兄は元・石動山天平寺の座主・満(萬)蔵法印です。
恐らく兄弟で日像上人に帰依し、兄は日乗上人となり能登滝谷で妙成寺を開創(自らは二祖)、弟の妙文僧都は日像上人に随行して越前に至り、大道で妙泰寺を開創したと思われます。


実は日像上人、この地を訪れた時、「身延山の景色によく似ている」と直感されたといいます。

妙泰寺の正面には、こんもりとした日野山。
古くから山岳信仰の霊地だったそうです。


身延山のこんもり具合いと比べると・・・
(身延町下山・長栄山本國寺から見た身延山)
お・・・なんか似てる!!


(武生の万代橋より上流を望む)
近くを流れる日野川も、なんとなく富士川っぽいし!


日像上人は7才、まだ万寿丸だった時に、日朗上人に連れられ、初めて身延山を訪れています。日朗上人は早くから万寿丸の非凡さを見抜いており、これは自分の手元に置くよりも、身延の日蓮聖人に育てていただく方が良いと思ったのです。
(身延山 御草庵跡)
利発そうな童子の訪問を、日蓮聖人はたいそう喜ばれ、その時に「経一丸」の名を授けられたと、聞いたことがあります。
孫弟子にあたる経一丸を、お祖師様は本当の孫のように思われたのかもしれません。


それ以降、経一丸は日蓮聖人のもとで日夜、研鑽を重ねたそうです。
(身延山西谷の清水坊)
身延山には日像上人開創の坊があるくらいですから、お祖師様がお山を下り、ご入滅された後も、身延山を再訪していたかもしれませんね。


はるか遠くの越前大道で見つけた、昔懐かしい風景。
(大道付近から日野山を望む)
上洛を目前に控え、重圧で押しつぶされそうな心を、この山河がどんなに癒してくれたことでしょう。
日像上人がここにお寺を開いたわけが、なんとなく理解できました。



総門の扁額「北国身延」は、日像上人の実感なのでしょうね。


妙泰寺北側のお山には、七面大明神がお祀りされています。

僕の錯覚でしょうか、越後~北陸には七面山を模した「うつし霊場」がとても多い気がします。



お堂をつなぐ渡り廊下には、日像上人にご縁の深い三十番神。
こういうお祀りのしかたもあるんですね!



妙泰寺の歴代御廟を参拝。
気の遠くなるような年月、法灯を継承してくださった先師たちに感謝し、合掌しました。



こちらの一画に、僕が尊敬する綱脇龍妙上人の供養塔があります。


綱脇上人は菩提寺であった福岡法性寺、貫名日良上人のもとで出家されました。貫名上人は温厚で品のあるお坊さんで、弟子になりたいという人が多かったそうです。
(貫名日良上人の供養塔)
のちに貫名上人が妙泰寺に栄転、綱脇上人も随従され、足掛け10年以上をこのお寺で過ごされました。


ある夕暮れ、お檀家さん宅に回向(毎日の日課)に行った時のこと、家の人は田んぼに行って留守でしたが、普段から家人が不在でも、仏壇で棚経をあげてくれれば良い的な、そんな感じだったそうです。
(妙泰寺付近の集落)
檀家回向では法華経を一品ずつ(訓読)読んでいたそうですが、綱脇上人はその日、順繰りでたまたま、常不軽菩薩品を読み始めました。



一心に読み進んでゆくうち、不軽菩薩がどんな人にも、分け隔てなく合掌礼拝する姿勢を知り、この不軽品こそが本当の宗教ではないか?不軽品の実践こそお祖師様が伝えたかったことではないか!と気付き、衝撃を受けたといいます。
以来、綱脇上人は不軽品を生涯の指針とされました。


(身延深敬園跡:現在は障害者支援施設となっている)
のちに武生の篤志家・青山市之助氏から学費支援してもらい、東京に遊学、夏休みに参拝した身延山三門近くの河原で、行き場を失った数十人のハンセン病患者さんが生活する姿を目の当たりにしたのが、身延深敬園開創のきっかけでした。


以前読んだ綱脇上人の伝記に、こんな話がありました。

上人が妙泰寺にいた頃、ハンセン病を患った人が身近にいたそうです。
ところがその方の姿が急に見られなくなり、のちにお医者さんから、その方は富士裾野の、外国人が運営する療養所(※)に行ったのだと聞かされました。
弱者救済をしている人が実際にいるのだと、その時、深い感銘を受けたといいます。
(※)日本最初のハンセン病療養所・神山復生病院と思われます。のちに綱脇上人は神山復生病院を見学、多くのノウハウを得ることができたそうです。


そう考えると、ここ妙泰寺、そして越前という地が、綱脇龍妙という聖(ひじり)の、核の部分を育んだ・・・これは間違いないことだと思います。


ちなみに前述の青山市之助氏ですが、身延山大学の前身・祖山学院にも多大な寄付をされている、近世宗門の大檀越です。
青山氏の寄付で造られた木造校舎で、多くのお坊さん候補生が、戦後まで学んでいたのです。

(祖山学院の木造校舎 身延山久遠寺刊:身延山古寫眞帖より引用)
見返りを求めず、未来を担う若者に喜捨する姿勢。
越前法華の奥深さを感じます。


(日像上人と大覚大僧正邂逅の霊跡・妙喜山法華寺)
綱脇上人の供養塔がこちらにあるというお話、実は、昨年参拝した京都北野の法華寺で、ひょんなことから教えていただきました。
チャンスがあれば妙泰寺をお参りしたいな、と考えていました。


綱脇上人(深敬院龍妙日琢上人)の両側に刻まれているお上人方は、ここ妙泰寺で貫名日良上人に師事した兄弟弟子で、いずれも北野法華寺の歴代(36、38世)を務められています(※)

この3人はとても仲が良く、常にお互いを労り合って、苦しい時代を生き抜いたといいます。
(※)法華寺の先々代は、36世智照院日道上人のもとで修業研鑽されたそうです。


そんなわけで、3人にご縁が深い北野法華寺では毎年、妙泰寺を参詣し、供養塔を清めているということです。

こういったエピソード一つでも、教えていただくことで、僕はとても感銘を受けましたし、それそのものが「布教」なのだと思います。

先人のお話を、聞ける時に聞いておくこと。
そしてそれを、誰かに伝えること。
実は、とても大切なことなのだと、最近つとに思います。


僕が妙泰寺を参拝したのは6月3日でしたが、その日は偶然にも、年に一度の妙見様の大祭でした。

切竹矢筈十字の幕が張られた祖師堂の中で、お檀家さん、信者さん方が一心に手を合わせ、お題目を唱えていました。


(妙喜山法華寺の妙見堂)
思えば北野法華寺も、境内の中心に妙見様がお祀りされているお寺でした。


(妙泰寺祖師堂)
偶然とはいえ、何か呼ばれて来たような、ちょっとこそばゆいような、晴れがましいような(笑)、妙泰寺の参拝でした!

華岳山経王寺(越前市元町)

2023-09-01 12:58:08 | 旅行
4年ぶりに、越前武生(たけふ)を旅しました!
(総社大神宮境内 越前国府の碑)
かつて武生には、越前の国府が置かれ、政治、経済、文化の中心地として栄えました。そのため、この界隈は「府中」とも呼ばれたようです。


永仁2(1294)年、日蓮聖人からのご遺命である帝都開教を果たすため、孫弟子の日像上人は、一大決心をもって京都に向かいました。
北陸界隈、日像上人はおよそ北国街道沿いを京都に向かって歩かれた、といわれています。
(小丸山城址公園内 日像上人銅像)
その途次、各地で熱心な布教を行ったため、特に越前は法華信仰が篤いことで有名です。
武生の町なかには旧北国街道が縦貫しているのですが、実際、旧街道沿いには日蓮宗寺院が沢山あるようです。


早朝に付近を散歩してみました。

北陸ですから、確かに浄土真宗系のお寺が多いんですが、歩いたのが早朝だったせいか、そこかしこからリズミカルな木鉦の音が聞こえてきて、日蓮宗、頑張ってるな~、と嬉しくなりました!
(本境山妙智寺本堂にて)
あるお寺では、(恐らく)在家の方が自主的に読経、回向文を読み、勤行を完結していました。
すげぇ!カルチャーショック!




また、散歩の途中、明治の政治家・関義臣氏の生誕地も見つけました。
関義臣氏は、英国人・甲比丹ゼイムス氏に、初めて法華信仰の道を示した信徒です。

越前は、在家の信仰もディープです!



旧北国街道から路地を一本入ったところに、経王寺があります。


経王寺の入口です。

今から11年前、現ご住職が中山大荒行を五行成満(!)された良い砌に、建立された題目法塔があります。
お題目の独特の揺れ方から、日像上人のお寺だとわかりますね。



山門です。
後ろに控え柱のある薬医門です。


経王寺の寺名は、諸経の王といわれる法華経のことでしょう。

山号は華岳山(けがくさん)です。



日蓮聖人のご尊像は、合掌のお姿です。
立教開宗750年を記念して、先代ご住職が中心となって建立されたようです。



方形屋根の本堂です。いい雰囲気ですね!
豪雪地帯らしく、鉄骨フレームでお堂を囲んでいます。


本堂の右手を行くと、歴代お上人の御廟に至ります。

長きにわたって、信仰の拠点を護り続けてくださった先師達に感謝し、合掌しました。


経王寺のルーツは永仁2(1294)年、日像上人が上洛の途次に巡化された霊地で、もともとは一乗谷にあったといわれています。
(一乗谷朝倉氏遺跡内を流れる一乗谷川)
福井平野の南東、一乗山の麓を流れる川沿いに、一乗谷はあります。
戦国時代、越前を百年以上治めた朝倉氏5代が、ここに城を築いて首府としました。


(県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館の展示)
1.7kmの谷間には武家屋敷、町屋、そして多くの社寺があり、経王寺も住民の暮らしに根付いていたんだと思います。


(一乗谷朝倉氏遺跡)
ところが天正元(1573)年、織田信長の攻撃により朝倉氏は滅亡、一乗谷は焼き尽くされてしまいました。翌年には一向一揆が猛威を振るった記録もあり、この前後に経王寺も廃寺となったようです。


(金沢城公園内 前田利家銅像)
一乗谷の戦いから2年後の天正3(1575)年、越前地域を統治する名目で、前田利家公が府中(現在の武生)に入城します。


経王寺の縁起には、「名跡再興の為に前田家の庇護を蒙り、現在地に寺領を賜り、建長元(1596)年、堂宇を建立した」とあります。
(越前武生の街並み)
度重なる戦乱で町が荒廃し、人心も痛んでいたのでしょう。前田利家公は町割りを作るにあたって、土地の人が慣れ親しんだ経王寺のようなお寺を、積極的に組み込んでいったのだと思います。


経王寺の復活にあたり、再興開山を担ったのが、実成院日淳上人です。

日淳上人の父親は朝倉義景公の家臣だった上木新兵衛、そして妹(異母妹)は千代保(ちよぼ)、すなわち、のちに前田利家公の側室となる寿福院です!
※寿福院は幾世→千代→千代保と名前が変わりますが、このブログでは「千代保」、前田利家没後は「寿福院」で統一します。

ちなみに上木新兵衛は、前妻との間に日淳上人をもうけましたが、前妻と死別後、前妻の妹を後妻とし、千代保が生まれたそうです。



一乗谷の南西10kmほどに、高木町という場所があります。
上木家は代々、この周辺で暮らしていたようです。



付近の八幡神社境内には、「寿福院生誕地」の石碑もあります。


上木家は篤信の法華の家系、一族には出家者も多いといいます。
(一乗谷朝倉氏遺跡)
一乗谷の経王寺を菩提寺としていたようですから、日淳上人や千代保の法華信仰は、一乗谷経王寺によって育まれたのでしょうね。


(経王寺境内の説明板)
それだけに前田利家公が越前府中に、経王寺再興のきっかけを作ってくれたこと、上木一族はどんなに喜んだことでしょう。
そして日淳上人は熱い志をもって、経王寺再興に尽力されたと思います。


(浄土宗正覚寺山門:府中城山門が移築されたもの)
前田利家公の府中在城は、天正3(1575)~天正9(1581)年の約6年間でしたが、この頃、千代保は自ら志願して、府中城に奉公したといいます。
まだ10才にも満たない子供なのに・・・偉いですね。


健康的な美貌と、腹のすわった性格を兼ね備えた千代保は、やがて前田利家公の目にとまり、側室として迎えられます。

一方、信長や秀吉の信頼が厚かった前田利家公は、論功行賞として能登、加賀、越中を与えられました。
千代保も府中を離れ、金沢に移ります。


文禄元(1592)年、豊臣秀吉の朝鮮出兵に伴い、前田利家公は肥前名護屋(現在の佐賀県唐津市)に赴くことになりました。遠方ということで、正室・芳春院は金沢に留まる中、側室である千代保は名護屋に随行しました。
(肥前名護屋城跡)
この時、千代保は前田利家公の子を身籠ります。
金沢に戻って出産したのは元気な男の子、のちの2代藩主・前田利常公です。


(金沢城石垣)
慶長4(1599)年、前田利家公が没すると、側室である千代保は髪を下ろし、以後、彼女は法号である「寿福院」を称するようになります。


能登滝谷に、金栄山妙成寺があります。
日像上人開山の、日蓮宗本山です。

寿福院はここを自らの菩提寺と定め、亡き利家公の菩提を弔うと同時に、一粒種の利常公が活躍し、そして何より無事でいてくれるよう、祈ったといいます。



(妙成寺五重塔)
寿福院の妙成寺への貢献は、桁違いだったそうです。
五重塔含めた現在の伽藍群、仏像、経巻に至るまで、寄進を尽くしました。


また慶長6(1601)年、金沢城下にもう一つの経王寺、寿福山経王寺を創建しています。
府中は越前、いわば他国になってしまったため、自国に経王寺が欲しかったのでしょう。寿福院にとって経王寺は、それほど大切な存在だったのです。

日淳上人は、この金沢経王寺の開山上人も務めています。

また寿福院によって整備が始まった当時、妙成寺の貫首さんをされていたのも、日淳上人でした。
寿福院の法華信仰は常に、お兄さんと二人三脚だったんですね!


それにしても寿福院、側室の立場でありながら、なぜこれほど知られた存在なのでしょうか?

実は前田利家公には正室との間に、嫡男・利長公(初代藩主)がいましたが、その利長公は男子に恵まれませんでした。
(金沢城公園)
一方、寿福院の子・利常公(2代藩主)は、もともと政略結婚として正室に迎えた珠姫(徳川2代将軍秀忠の次女)と非常に相性が良く、のちの3代藩主・光高公など、子宝に恵まれました。



以後、明治維新を迎えるときの最後の藩主・慶寧(よしやす)公、さらに言えば現在の当主まで、寿福院の血は途切れることがありませんでした。
まさに前田家のビッグマザーなんですね!


そうは言っても徳川政権にとって、前田家は外様大名です。
藩主の母親である寿福院は44才の時、住み慣れた北陸を離れ、人質として江戸屋敷で暮らすことを余儀なくされます。
(江戸城和田倉門跡周辺)
加賀藩江戸屋敷といえば現在の東京大学を連想する方も多いと思いますが、当時は江戸城和田倉門近くにあったと聞きます。
今じゃ大ビジネス街、とてもじゃないけど当時を想像できません・・・。


幕府の監視下にあったとはいえ、江戸周辺には寿福院の足跡が残っています。

池上本門寺の大堂近くには、寿福院の逆修塔があります。
生前に自らの手で供養を行い、死後の菩提を予め弔うというのが「逆修」です。


(逆修塔台座の刻字:左側に法号が刻まれている)
戒名も生前に持つのが、当時は一般的だったといいます。
「寿福院殿華岳日栄大姉」
ちなみに、二つの経王寺の山号(寿福山、華岳山)は、寿福院の戒名からいただいているそうです。



ほかにも鎌倉比企谷の妙本寺には、寿福院の銘が入った五輪塔がありますし、


(中山法華経寺五重塔)
身延山久遠寺(※)中山法華経寺の五重塔も、寿福院の力で建立されたと聞いたことがあります。
(※)初代五重塔


江戸初期の日蓮宗門に、多大な貢献をされた女傑といえば、徳川家康公の側室・養珠院お萬様も連想されます。
調べてみると、寿福院はお萬様の7才年上です。
(七面山白糸の滝 養珠院お萬様銅像)
側室という身分、それまでの波瀾万丈な人生、そして法華経に深く帰依しているなど共通点が多く、実際、お二人はとても仲が良かったともいわれています。



また寿福院の孫、つまり3代藩主・光高公に正室として嫁いだのは、徳川頼房公の四女・大姫です。頼房公の娘ということはお萬様の孫、つまり寿福院とお萬様はファミリーでもあったわけです!


(妙成寺境内にある寿福院の御廟)
寛永8(1631)年、加賀藩江戸屋敷にて寿福院は亡くなります。
逆修塔のある池上本門寺で荼毘に付され、自らが建立した金沢経王寺で葬儀、遺骨は大檀越として支えた能登妙成寺に納めました。


(府中経王寺山門の彫刻:加賀前田家は菅原道真の末裔のため、天神様と同じ梅鉢紋らしい)
府中経王寺の寺紋は、加賀前田家と同じ「加賀梅鉢」ですが、寿福院の生涯を知ると納得です!



府中経王寺の本堂前には、大きな題目法塔が一対あります。
第25世のお上人により建立されたようです。


「一字一石宝塔」と刻まれてますから、この下の地中に法華経の文字が書かれた69384個の石が埋められていると思われます。

朝倉家、前田家、寿福院や日淳上人など、経王寺に関わった多くの先師達を、追善供養しているのでしょう。



嘉永5(1852)年の府中大火で、本堂はじめ伽藍が焼失してしまいますが、当時のお上人方の尽力で再建され、現在の寺容に至るそうです。



僕が参拝させていただいた時、本堂ではお檀家さんの法事が行われていました。法事終了後、お疲れにもかかわらず、ご住職は笑顔を交えてお話をしてくださいました。
心より感謝致します。

水替無宿人の墓(佐渡市次助町)

2023-08-01 15:43:49 | 旅行
先日、5年ぶりに佐渡を訪れたわけですが、5年前と大きく違っていたのは・・・

こんなポスターが沢山、貼られていたことでしょう。


昨年2月、政府の閣議で「佐渡島の金山」のユネスコ世界遺産への推薦が、正式に決定しました。
(両津大橋付近)
実際には登録の一歩手前で足踏みしている状態のようですが・・・。
魅力たっぷりの島、世界遺産登録をきっかけに、是非多くの方に訪れてほしいものです。


(両津港ターミナル内 佐渡金山ブースより)
この佐渡島、金の産地としての歴史は古く、今昔物語集(平安末期)には、佐渡で砂金を採る人のお話がある、といいます。


(大佐渡山地の山並み)
しかし佐渡の金が日本じゅうに知られるようになったのは、慶長6(1601)年、巨大な金脈が発見されたことに始まります。


そのわずか2年後には、佐渡が徳川幕府直轄の天領となり、佐渡奉行所管理のもと、膨大な金鉱石が掘られました。
(復元された佐渡奉行所跡)
また精錬技術も高く、佐渡の金は量、質とも当時の世界最高水準、江戸時代を通じて幕府の財政を支えたのです。



相川町から大佐渡スカイライン(県道463号線)が伸びています。



道沿いには、巨大な金脈を掘り進んでゆくうち、山が真っ二つに割れたような姿になってしまった「道遊の割戸」や、



山師・味方与次右衛門が一か八かで掘り進め、結果的に大金脈発見につながった「大切山坑」など、有名スポットが目白押しです。


それらの1kmくらい手前でしょうか、小さな案内板があります。

「水替無宿人の墓」入口です。



道は山奥に伸びています。
階段や石畳が整備され、よく草刈りもされているようです。



道の両側には石垣を積んで作った区画が沢山あります。
かつてここに人の生活があったことを感じます。



5分ほど歩くと、視界が急に開けます。
ここが今回紹介する「水替無宿人の墓」です。


金産出のピークは元和、寛永年間(1615~1644年)といわれます。
(相川金鉱脈の模式図:「図説 佐渡金山」テム研究所編著より引用)
初期の佐渡金山は、地表に露出している鉱脈を掘り取ればよいので、非常に効率よく採掘できました。


(坑内の様子:「図説 佐渡金山」テム研究所編著より引用)
ただ、露天で採れる金にも限りがありますよね。
金脈を追って坑道は地中深くなるばかり、まさにアリの巣状態。
やがて坑道は海抜下にまで貫入します。


いたる所から地下水が湧き出し、放っておくと坑道が水没してしまいます。
佐渡金山の湧水量は、他の鉱山と比べてもケタ違いに多かったといいます。
(排水坑道の図:「図説 佐渡金山」テム研究所編著より引用)
金山には排水専用のトンネル(排水坑道)も掘られましたが、ポンプなどない時代、深部の坑道から排水坑道までは人力で24時間、水を汲み続けなければなりませんでした。


(水替え作業:「図説 佐渡金山」テム研究所編著より引用)
数ある金山労働者の中でも、この「水替え人足」の仕事は特に過酷といわれ、人手の確保が佐渡奉行所の悩みの種だったようです。


一方、江戸中期、天候不順や火山の噴火が相次ぎ、たびたび飢饉が起きました。
(浅間山の大噴火:「歴史資料集」明治図書刊より引用)
貧困のために家を追われる人が急増、行き場のない人々が流れ流れて、江戸や大坂、長崎など、都市部に居つくようになります。


幕府は彼らのような戸籍のない人を「無宿人」と呼び、無宿人が増えると治安が乱れるだろうという理由で、片っ端から捕らえてゆきました。無宿人狩りです。
(航路より佐渡島を望む)
捕らえられた無宿人は、更生の名のもとに佐渡金山に送られ、水替え人足として苛烈な労働を強いられたのです。

江戸時代を通じ、佐渡に送られた無宿人は(確認されているだけで)1874人にも上るといわれます。



「無宿人の墓」の一画には新旧合わせ、いくつものお題目の供養碑が並んでいます。


ここで亡くなった水替無宿人なのでしょう、日蓮宗の戒名が刻まれています。
(水替無宿人28人の墓:嘉永6年建立)
下総、伊勢、越後・・・と出身地は多岐にわたり、また享年もほぼ40才を越えていません。
年間を通じてほぼ休みなく、空気の悪い坑道の底で、過酷な肉体労働をさせられるわけで、仕事に就いたら3年が寿命だったといわれるほどです。


こちらの新しい石碑は、無宿人に関わった遊女、そして水子を供養する塔です。

希望を失った水替無宿人たちを刹那、慰めた遊女たち。
多くは貧しい家庭に育ち、遊郭に身を投じたと聞きます。
ともすれば歴史に埋もれてしまいそうな諸霊も同様に、手厚く弔った先師がいらしたんですね。頭が下がります。



この周辺は水替無宿人たちの生活の場で、以前はここに妙法山覚性寺(※)という日蓮宗のお寺があったそうです。
つまり水替無宿人の墓石群は、もともと妙法山覚性寺の境内にあったと思われます。
(※)妙法山覚性寺:寛永7(1630)年建立、明治元(1868)年廃寺


江戸時代、相川の町はゴールドラッシュに沸き、全国から大勢の人が職を求めて移り住みました。
(相川町内に掲示された史跡散策マップより)
彼らは出身地や信仰ごとにつながり、新寺を建立して生活の中心に据えました。
また新天地を求めて集落ごと移転するケースも多く、そうすると彼らの菩提寺も引っ越してくるので、相川にはお寺が急増しました。


納税者であり地域の有力者であった上級町民は、真言宗や浄土宗を宗旨とする人が多かったようです。
(佐渡金山展示資料館より)
一方、苛酷な肉体労働に身を削る下層の町民では、日蓮宗と浄土真宗が多かったといいます。


(佐渡市市野沢 妙照寺付近の風景)
日蓮聖人は文永8(1271)年、法華弾圧のため佐渡に流されました。逆境の中、教学の礎を築き、島に信仰の種を植えました。



(越後居多ヶ浜に立つ親鸞上人像:京都大谷本廟会館に展示
それより65年ほど前、浄土真宗の開祖・親鸞上人も念仏弾圧に遭い、7年間を越後(国府=今の直江津辺り)で過ごしています。
親鸞上人が念仏信仰を深めた越後は、浄土真宗の聖地でもあるわけですね。


「一心に題目を唱えれば誰でも成仏できる」(日蓮宗)
「一心に念仏を唱えれば誰でも成仏できる」(浄土真宗)
(水替無宿人の墓:天明3年建立)
坑夫たち、とりわけ極めて短命といわれた水替無宿人たちにとって、これほどシンプルで、魅力的な信仰はなかったはずです。


前出の妙法山覚性寺(日蓮宗)が、水替無宿人たちが生活する地域に存在したというのは、お題目が彼らの中心にあったという証拠でしょう。

年に一度だけ許される外出日、水替無宿人は必ず、死んでいった仲間たちの墓に行き、香華を捧げました。
それから海に行って水垢離をとり、身の無事を祈ったということです。



もともと彼らは無宿人であったけれども、無宿人はイコール犯罪者ではなかったはずです。
無念とか不条理とかの言葉では、とても表せないほどの感情を秘めながら、それでも人としての矜持を忘れなかった彼らを想い、墓前で合掌しました。


毎年4月、相川の宗門寺院が中心となって「水替無宿人供養祭」が催されているそうです。
(両津・東光山妙法寺庫裡に掲示されていたポスター)
水替無宿人の方々が働かれた坑道跡を参加者全員で順拝、無宿人の墓前では慰霊法要、最後は近くの光栄山瑞仙寺で締めの法要を修するといいます。


光栄山瑞仙寺は、法華の篤信者であった山師・味方但馬の菩提寺です。
(相川・光栄山瑞仙寺の仁王門)
「水替無宿人供養祭」は今から半世紀前、瑞仙寺の先代ご住職の発案で始まったものだそうです。
実は今回、無宿人の墓の場所やその由緒などを、瑞仙寺の現ご住職に丁寧に教えていただきました。
心から感謝致します。


(相川・北沢浮遊選鉱場)
「佐渡島の金山」がユネスコ世界遺産に登録されると、全国から観光客が押し寄せ、相川の町もさぞ賑やかになることでしょう。


(佐渡金山展示資料館より)
膨大な金に象徴される、煌びやかな佐渡金山の歴史は、とても魅力的です。

しかしその裏には、苛酷な水替え作業を全うし、佐渡の土になった多くの無宿人たちもいたこと、是非、多くの人に知ってほしいと思います。

水替無宿人の墓が、末永く清められてゆくことを、願ってやみません。

渋手霊跡(佐渡市豊田)

2023-07-01 20:46:04 | 旅行
5月の中旬、久しぶりに佐渡を訪れました!

新潟市内は、ちょうどG7会議の真っ最中!
船着き場へのバスにまで警察官が乗り込んでくるなど、厳戒態勢でしたが、なんとかジェットフォイルに乗れました。


今回の佐渡訪問には、一つ目的がありました。

5年前に参拝させていただいた佐渡日蓮聖人大銅像

その大きさもさることながら、平成の時代に、佐渡という聖地に銅像を建立しようと力を尽くした、当時の方々の想いやエネルギーを感じ、初めて参拝した時の自分の気持ちを、ブログにさせていただきました。



建立から今年がちょうど20年、これを記念して法要が修されるという情報を聞き、これは是非、参加しなければ!と島に渡ったのです。


5月13日の午後、初夏の爽やかな空気の中、記念法要は始まりました。

当日は宗務総長、佐渡三本山の貫主さん方、建立の中心となったお上人方などが揃って参列されていました。



屋外で、沢山の檀信徒さん達とお経を唱える経験は初めてでしたが、そのシチュエーションのせいでしょうか、スカっと開放的な雰囲気で、笑顔の絶えない法要でした!



ちょうど今年は、日蓮聖人が佐渡流罪をご赦免となられ、鎌倉へ向けて出立されてから750年にもあたり、この良い砌に、佐渡に居られる幸せを嚙み締めました。



大銅像記念法要の翌朝、僕はレンタカーを走らせ、佐渡西部・真野湾沿いの「豊田」という浜を訪れました。



すぐ近くには、佐渡に流された順徳上皇が、初めに上陸された「恋ヶ浦」もあります。


豊田の浜は、古くは「渋手」と呼ばれ、ご赦免となった日蓮聖人が、佐渡の信者さん達とお別れした霊跡として、知られているそうです。

「去る文永十一年二月十四日の御赦免の状、同三月八日に島につきぬ」(種々御振舞御書)

当時、生きては帰れないといわれた佐渡流罪を「赦免にする」とした幕府の文書が、日蓮聖人の元へ届けられました。


佐渡に流されてから既に2年4ヵ月余り、島内の信者さんも徐々に増え、その頃には日蓮聖人を慕う一大グループができていたことでしょう。
佐渡流罪ご赦免の報を聞いて、彼らが手放しで喜んだ様子が、なんとなく想像できます。

と同時に、今日まで、幸せに生きる心の在りようを、顔を突き合わせて丁寧に教えてくれた日蓮聖人は、島を離れて鎌倉へ帰ってしまう・・・
鎌倉時代のことですから、今生の別れとなることは、ほぼ間違いありません。
信者さんの心中は、複雑だったことでしょう。


日蓮聖人は5日間で旅の支度を整え、3月13日、真野湾沿いの「渋手」という場所で、信者さん達とお別れすることになりました。

真野湾は西に口を開け、深く切れ込んだ入り江です。
そのため湾内は、牡蠣やワカメの養殖が行われるくらい、波が穏やかです。




流れ着いたゴミを見ると、ハングル語とか中国語で書かれており、国境の海を感じます。



豊田漁港のすぐ近く(※)に、渋手霊跡の石碑があります。
※以前は違う場所にあったようですが、昭和57年、国道改修に伴ってこちらに移されたようです。



いくつかの石碑が並んでいますが、いわゆる渋手霊跡の碑は、一番奥のものです。



日蓮聖人がここから船出されたことを偲んで、建てられた碑のようです。



大正10(1921)年、世尊寺のお上人の発願で、この辺り豊田の住民有志で建立された石碑、ということがわかります。


渋手霊跡から東に3~4km離れた世尊寺は、国府入道夫妻ゆかりのお寺です。

昔から地元豊田では、ここ渋手が日蓮聖人のご霊跡として伝えられ、世尊寺を拠点として、大切に、大切に護持されてきたのでしょう。


宗門の説明板には「島民惜別の地」と書いてありました。

この浜に、日蓮聖人を支援した多くの島民信者さん達が集まり、互いに手を取り、涙を流して、聖人との別れを惜しんだと思われます。


国府尼御前御書には、恐らくこの時の日蓮聖人ご自身の感情でしょうね、綴られています。

「つら(辛)かりし国なれども そ(剃)りたるかみ(髪)を うしろへひかれ すすむあしも かへりぞかし」

さざ波の音しか聞こえない静かな浜で、感慨に耽りました。



日蓮聖人を外護した、例えば阿仏房夫妻、中興入道、国府入道夫妻、一谷入道夫妻などのご霊跡、つまり多くの信者さんの住まいは、いずれも国仲平野のやや西側に位置しています。
真野湾に比較的近い場所でもあり、ここ渋手がお別れの地となったのは、自然なことだと思います。


(佐渡松ケ崎・法華岩から本土を望む)
このあと日蓮聖人は佐渡守護所の国津・松ケ崎に至り、真浦で風待ちをしてから本土を目指した、という説が有力です。
先ほどの宗門の説明板にも、そう書いてありました。


渋手からは、船で松ケ崎に向かうこともできますし、また梨ノ木峠の入り口に位置していますので、峠越えで松ケ崎を目指すこともできます。
(県道65号線沿いの石碑)
もしかしたら渋手という土地は古くから、本土に渡る人々との、別れの地だったのかもしれませんね。


(日蓮宗新聞:令和5年5月1日号より)
先日の日蓮宗新聞には、3月に佐渡ご出立750年を記念した法要が行われた記事が載っていました。
これをもって、一連の佐渡法難750年の行事が、幕を閉じたようです。


今年は佐渡ご出立だけでなく、身延山開闢なども節目の年。
(それだけ750年前の日蓮聖人は、激動の渦中におられたということでもあります。)
(身延山久遠寺本堂前の慶讃高札)
50年毎の行事は、現実的には私達、一生に一度あるかないかでしょう。
日蓮聖人を宗祖と仰ぐ我々信徒は、そのチャンスに巡り逢えた喜びと同時に、終わってしまう一抹の寂しさを感じる、それが正直な気持ちではないかと思います。


皆さん一度、冒頭で紹介した佐渡の大銅像を見にいらしてください。
当時の青年僧たちが「あくまでもそのお姿を、聖地佐渡に顕現すべきである」という思いをもって建立された、圧倒的なお像と向き合ってみてください。

言葉では上手く表現できませんが、時間なんかはあくまで方便で、お祖師様の魂魄は今も、間違いなく存在していると、再認識するはずです!

南無妙法蓮華経。

身延山恵善坊(身延町身延)

2023-06-01 17:17:25 | 旅行

身延山久遠寺のエントランス、三門。
何度見ても、その存在感に圧倒されます。


今回は、そんな三門の目の前にある宿坊に、参籠しました。

身延山をよく参詣する方には、見覚えのあるエメラルドグリーンの屋根。
恵善坊です。



あれ?坊名を刻んだ石、屋根と同じ緑色だ!
坊名は赤い字ばかりだと勝手に思っていましたが、案外自由なのかも。



ところで我が家、随分昔から火除けと方位除けのお札を張っています。


最初は親戚から戴いたんですが、身延山参詣の折、偶然同じお札を見つけ、以来、毎年交換しながら既に20年。今や、そこにあって当たり前の存在になっています!


これらのお札、三門で売っています。
三門に売店?と思われるかもしれませんが、仁王像が安置される「間」の一画に札所があるんですね。

閉まってたり不在の時は、ピンポンすると恵善坊から人がやって来て、買うことができるんです。
そう考えると、我が家は恵善坊とすでに20年、ご縁があるわけです。



こちらは恵善坊の本堂です。
今晩お世話になります、と手を合わせました。



本堂横に、恵善坊歴代の御廟があります。
長きにわたって法灯を継ぎ、また巨大な三門を見守り続けてくださったことに、心から感謝し合掌しました。


恵善坊の歴史は、そのまま三門の歴史でもあります。

徳川将軍が2代秀忠から3代家光に移り、幕藩体制がようやく安定してきた頃、身延山も目覚ましい発展を遂げていました。
(↑身延山久遠寺境内)
江戸初期の身延山法主を調べてみると、
20世 一如院日重上人
21世 寂照院日乾上人
22世 心性院日遠上人
23世 慧眼院日祝上人
24世 顕是院日要上人
25世 寂妙院日深上人
26世 智見院日暹(せん)上人
と続きます。


(↑京都本満寺の山門)
20~22世は京都本満寺の出身ですし、23、24,26世は22世日遠上人のお弟子さん、25世は21世日乾上人の門下、ということで、この頃の数十年間はまさに一枚岩、大プロジェクトを敢行しやすかったと思われます。


山内のルール作りに始まり、西谷檀林の開講、そして戦国時代には難しかった諸堂宇の整備などが為されました。
(↑身延山久遠寺の菩提梯)
特に26世を継がれた日暹(せん)上人は、方丈、会合所、対面所、そしてあの菩提梯など、外部から身延山を訪れる人々の、利便性を高める施設を多く整えられたようです。


身延山に初めて三門が建立されたのも、日暹上人の時代です。
(↑三門の説明板より)
寛永17(1640)年に寄付を募り始め、その2年後に13間の巨大な楼門と、左右5間の山廊(※)が竣工します。
(※)楼門の左右にある、楼上への階段を囲む建物


(↑恵善坊の歴代御廟)
このとき設けられた三門別当寮が、恵善坊のルーツです。
なので恵善坊の開創は、三門と同じ寛永19(1642)年、智見院日暹上人が開基となっているそうです。


(↑身延山歴代御廟:左から22世日遠、26世日暹、27世日境上人)
日暹上人は、京都の篤信家・浦井宗府公の次男として生まれました。
兄は水戸藩主・頼宣公に仕える儒学者、弟が二人いて、一人は通心院日境上人(のちの身延山27世)、もう一人は立正院日揚上人(京都鷹峰檀林玄堂の初祖)という超エリート四兄弟。
さらに叔父は真応院日達上人、小西檀林の祖というから、驚くばかりの家系です。


日暹上人はとにかく弁が立つお坊さんで、「富楼那(ふるな)日暹」という異名もあったそうです。
法華経にも出てくる富楼那尊者は、お釈迦様の大勢いるお弟子さんの中でも弁舌ナンバーワン、説法第一と称された方です。


江戸初期の宗門は、法華経信者以外(将軍など為政者も含む)からは一切の布施、供養を受けず、また施しもしないという、池上本門寺をはじめとした「不受派」と、教団を存続させるため、ある程度は妥協すべきという、身延山をはじめとした「受派」に分裂、論争がヒートアップしていました。
(↑池上本門寺・総門)
そこで幕府は寛永7(1630)年、双方の代表者を江戸城に召喚し、城中問答を行わせました(身池対論)。
このとき身延山法主を務めていたのが日暹上人で、もちろん受派の代表者として対論に臨み、富楼那ばりの活躍をされたのでしょう、「不受派は邪宗である」という裁定を勝ち取りました。


(↑身延山・日蓮聖人御草庵跡)
そもそも宗祖日蓮聖人のスタンスを厳格に踏襲するならば、不受不施の考えが正統なのでしょう。対論で敗れたお上人方は、より純粋だったに違いありません。
しかし室町、江戸・・・と社会が変容し、人々が平和に共生する術を、懸命に模索してきたわけで、やはり相応の妥協は仕方なかったと、僕は思います。



そういう意味では、江戸初期の不受不施問題や、明治維新期の仏教弾圧を乗り越えてこられた先師達には、本当に感謝していますし、当時の舵取りは正しかったと、確信しています。

ずいぶん脱線しちゃいましたね。
話を三門、恵善坊に戻しましょう。



恵善坊の歴代を刻んだ墓誌を見ると、第一世が恵善院日信上人(江戸中期・寛政10年遷化)となっています。その院号から、恐らくこのお上人の代で三門別当寮は「恵善坊」と公称したのだと思います。



江戸末期以降、三門は火災と再建を繰り返します。
身延山史によると、初代三門は慶応元(1865)年の大火で焼失、このとき恵善坊も全焼してしまったようです(のちに再建)。
(↑再建された仮三門:身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用)
翌年、仮門が建設されますが、その仮門も明治20(1887)年に焼け、数年後に再度、仮門が設けられました。


しばらくは仮門が身延山の顔だったわけですが、やはり正式な三門が渇望されたのでしょう、身延山78世を継いだ豊永日良上人(管長も兼任)が中心となり、2代目三門建設プロジェクトが始まりました。

日清・日露戦争もあった時代、建設費に困難を極め、予想外の時間がかかりましたが、明治40(1907)年にようやく現在の三門が完成しました。


ここでふと思い出したのが、ハンセン病救済に尽力された綱脇龍妙上人です。
ちょうどこの時代、救らい施設建設を豊永日良上人に直訴しましたが、「三門建設で手一杯、宗門としては一銭の補助もできない」と資金提供は断られてしまいました。
(↑身延深敬園創立時の仮病室:加藤尚子著「もう一つのハンセン病史」より引用)
しかし豊永日良上人は、代わりにポケットマネーと、三門近くの大工小屋を提供してくださったそうです。
これを仮病室として明治39(1906)年に始まったのが、あの身延深敬園です。



乾いた雑巾をなお絞って、お金と知恵をひねり出していた当時のお上人方を、我々は決して忘れてはなりません。
こうしたエピソードを知ると、三門がとても愛おしく思えます。


そろそろ宿坊としての恵善坊を紹介したいと思います。

恵善坊では参籠者参加の夕勤はなく、受付を済ませたら夕食までフリーです。



案内されたのは2階の桔梗の間です。
今まで参籠した坊と比べ、より旅館テイストを感じます。



やたっ!みのぶまんじゅうと聖人せんべいだ!


窓を開けると、夕暮れの身延山がドーン!
春の山は彩り豊かです。



下に身延川、そして木々で遮られていますが、向こう岸は障害者支援施設かじか寮、かつての身延深敬園です。
尊敬する綱脇龍妙上人のご霊跡の間近で過ごす、特別な夜です。


身延山90世・岩間日勇上人ご染筆の色紙が掲げられていました。

妙法蓮華経見宝塔品第十一、あの宝塔偈の一節ですね!
「法華経を信仰する人こそ、浄土に住む仏弟子です」
心の持ちよう次第で、この穢土も浄土になる・・・僕の生涯の目標です。



さあ、晩ごはんです。
心づくしの精進料理、ホントに華やかですよね!
湯葉をアテに、晩酌なんかしちゃって、ごはんのおかわり2回もすれば超満腹。ご馳走さまでした!


お風呂をいただき、窓を開けて涼風にあたります。

お、松樹庵って明かりが灯るんだ。初めて知った!
それでは、おやすみなさいzzz・・・



翌朝は久遠寺朝勤に参加するため5時起床。
早朝の三門を独り占め!



日暹上人代に造営された菩提梯を登ります。
起きがけの287段は、なかなかのもんです。ふぅ~。


(↑身延山久遠寺・大堂)
祖山での勤行は、毎回新鮮な気持ちで臨むことができます。
僕の心の芯、みたいなものです。



朝勤を終えると、すっかり明るい裏三門。



わ~い、朝ごはん。
実は朝勤の途中から腹がグーグー鳴ってました(笑)!



ごはんも美味しかったし、坊内もキレイで、居心地良かったです!
ロケーションも含め、宿坊に泊まるのは初めてという方に、特におすすめの坊だと思います。



前日にお願いしていた御首題です。
三門イコール恵善坊ですからね、三門の御首題でした!

正東山日本寺(多古町南中)

2023-05-01 11:28:47 | 旅行
今回は、昨年訪れた下総の檀林跡を紹介します。

前回紹介させていただいた飯高檀林跡(飯高寺)から西に3kmほど、多古町という所に、日本寺があります。
「にちほんじ」と読むようですね。


参拝したのは秋のお彼岸頃でした。
境内は彼岸花が満開!
法華経の序品第一に「曼陀羅華 摩訶曼陀羅華 曼殊沙華 摩訶曼殊沙華 而散仏上・・・」という一節があります。
大勢の菩薩たちを前にして、これから法華経を説かれようというお釈迦様の頭上に、沢山の花々が舞い始め、まさに場は整いました!って感じでしょうか。
この花々の一つが曼殊沙華、つまり彼岸花だそうです。



あじさいの本数がスゴっ!
真夏の直射日光を嫌うあじさいにとって、杉林に守られた良い環境なんでしょう。
梅雨の時期に訪れてみたいものです。



山門です。昔は茅葺屋根だったそうです。
修復はされていますが、檀林時代の建築だということです。



山門の大棟には桔梗紋。
かつて下総を治めた千葉氏や、中山法華経寺との関係が深そうですね。



山号は正東山(しょうとうざん)です。



山門から北に向かって参道が伸びています。
歩を進めるにつれて、往時にタイムスリップしてゆく感じです。



檀林らしく、経蔵もあります。
かつては一切経が格護されていましたが、現在は宝蔵として使われているようです。



(↑宝蔵の説明板より)
日本寺には「交互の御影(みたがいのみえい)」という、2体のお像が格護されています。
日蓮聖人と富木常忍公が、互いに相手のお像を刻したもので、完成後に交換、日夜敬慕礼拝されたといいます。



祇園祭の屋台のように、背の高い鐘楼。
檀林時代、講義の開始と終了を知らせていたのかな?



こちらが本堂。明治25(1892)年の建築です。
檀林時代の講堂を1/3に縮小しているそうで、旧講堂がどれだけ大きかったのかが窺えます。


本堂に掲げられた扁額には「正東学庠」。
「庠(しょう)」は学校の意味です。
身延山史などでは、歴代法主の経歴を紹介する際、檀林のことを「庠」とか「講肆(こうし)」と表記しているケースが多いです。



檀林の名残りでしょうか、学び系の月行事が多いですね!


境内には「岡田稲荷」と「豊田稲荷」が並んで鎮座しています。


夫婦稲荷という珍しい形態で、願い事があるときは岡田社、豊田社から一対のお札を拝受し、家に大切にお祀りすると成就するそうです。
どんな由緒で夫婦になったんだろう?


歴代お上人の御廟に参拝。

檀林跡だけあって、歴代化主(学長)と思われる墓石が、規則正しく並んでいます。


(↑中山法華経寺奥之院の富木常忍=日常上人像
日本寺のルーツを辿ると、日蓮聖人の最古参の信者であり、一貫して聖人を支え続けた大檀越・富木常忍公に行き着きます。


弘安5(1282)年に日蓮聖人がご入滅されると、常忍公は出家して常修院日常上人となり、中山法華経寺の淵源となる法華寺を創建します。
(↑中山法華経寺奥之院の富木常忍=日常上人像)
日蓮聖人より6才年長といわれる常忍公ですが、晩年も日蓮聖人ご真筆のご本尊やご遺文の保護に尽力するなど、宗門のために精力的に働かれました。



そして最晩年に隠棲されたのがこの地、かつては「千田庄」という千葉氏の所領だったそうです。
富木常忍公は千葉氏の下で働く事務官僚でしたから、ご縁のある土地だったのでしょうね。


文応元(1319)年、中山法華経寺3世の法灯を継いだ浄行院日祐上人が、常忍公隠棲の地に庵を結んだのが、日本寺のルーツです。
(開山当時は高祐山東福寺と称したそうです。東福寺も現存しています。)

日本寺の御廟墓石では、日祐上人は開基。そして・・・



師匠の日常上人を開山に仰いだ形になっています。
中山法華経寺とのご縁が非常に深いお寺、ということがわかります。


そういえば中山法華経寺の山号は「正中山」、日本寺は「正東山」。
恐らく日本寺は中山のほぼ真東に位置するゆえの山号なのでしょう。
(↑中山法華経寺山門の扁額)
(↑日本寺山門の扁額)
さらに両山の山門に掲げられた扁額はいずれも、書家、美術家として有名な本阿弥光悦公の揮毫です。筆跡そっくりですよね!
両山とも歴史的に、本阿弥家の菩提寺である京都本法寺とのご縁が深いようです。


時は下り天正15(1587)年、日本寺13世の日俒(ごん)上人は、北条氏政から寺領を寄進され、お寺を現在地に移転しました。

このとき寺名を正東山日本寺に改めました。
実は日俒上人、当時の中山門流のトップにおられた方でしたが、本山間の勢力争いに巻き込まれ、日本寺晋山は本意ではなかったようです。
山号の「正東山」は、近くて遠い中山への、最大限のリスペクトだったのかもしれません。



日俒上人が遷化されて間もなく、日本寺に檀林の種をもたらしたのは、慧雲院日圓上人でした。


飯高小学校近くに、日圓上人塚があります。
(↑飯高・日圓上人塚)
質素な墓石が、お堂で覆われています。
現在も地元の方々が護持してくださっているようです。


塚の説明板によると、飯高生まれの日圓上人は、飯高檀林の前身・飯塚学室当時からの生徒だったそうです。それこそ檀林の祖といわれる教蔵院日生上人直々に師事しました。
(↑日圓上人塚の説明板)
もともと「天資敏悟」な日圓上人は、日生上人が京都松ケ崎に帰った後も猛勉強し、「無双敵無ク」飯高檀林の学僧トップに立ちました。


慶長3(1598)年、飯高檀林2世が誰になるのかで、ちょっとした騒動が起きます。
2世は法雲院日道上人(のちの身延山19世)と大方決まっていたようなのですが、一部のグループが頑なに日圓上人を推したことで論争に発展、檀林内がギスギスしてしまいます。
(↑日本寺本堂に祀られる日圓上人御影:都守基一編「恵雲院日圓聖人と中村檀林」より引用)
ところが当の日圓上人、過熱する争論を避け、あっさりと隣村の日本寺に身を引きます。争いごとを嫌い、かつ年長者(日道上人は7才ほど年上)を立てる人格者だったようですね。
そんな日圓上人のこと、日本寺に晋山すると、学徳を慕って学僧が続々と集まり始めました。
慶長4(1599)年、ここに中村檀林が開かれたのは、自然の成り行きでした。


それから3年後、日圓上人は尚も推されて飯高檀林4世に就きます。
一旦は飯高檀林を退き、中村檀林の経営に尽力していたはずですが、飯高での人気は未だ冷めやらなかったのでしょう。

(↑日圓上人塚の墓石)
ところが慶長10(1605)年、「暴徒ノ為殉教」されてしまったと、日圓上人塚の説明板に書いてありました。まだ39才の若さでした。
犯人は飯高檀林の学徒だったといわれているそうです。


周囲のドロドロした思惑に翻弄され、志半ばで化を遷された日圓上人ですが、それがかえって人々の尊崇を集めることになりました。
(↑日本寺本堂前に建つ石碑:「舊 」は「旧」の旧字)
そして、日圓上人ひとりの学徳で開かれた中村檀林という学び舎は、のちに飯高檀林と肩を並べるまでに隆盛するのです。


話を日本寺境内に戻しましょう。
かつて参道の左右には、学坊が所狭しと並んでいたそうです。

中村檀林の学坊は大きく二つの谷(さく)に分かれていました。参道を隔てた西谷と東谷です。


各谷所在の学坊一覧がありました。
(↑檀林時代の西谷所在学坊一覧)
西谷筆頭にある観月庵は、中村4世・顕是院日要上人が開いた檀林初の学坊で、
のちに身延山法主となる妙心院日奠上人や隆源院日莚上人を輩出する名門です。

(↑檀林時代の東谷所在学坊一覧)
東谷筆頭の真如庵は、通心院日境上人が設けた学坊で、これにより西谷観月庵と双璧を成しました。
日境上人は檀林の整備に尽力し、のちにやはり身延山法主として晋山されます。



ちなみに、↑画像、東谷の学坊が少ない理由が、「軒並の商估(商売)」が幅を利かせ「修学に適さざる為か」と書いてあります。
詳細はわかりませんが、そんな時もあったのでしょう(笑)。


学僧を一カ所に集めず、敢えて東西に分割して互いを競わせるというのは、比叡山や飯高檀林のシステムに似ていますね。
(↑日本寺の境内図より)
学僧達は研鑽を積み、年2回、東谷vs.西谷で論争大会を催していたといいます。
今でいうディベート対決、すごく盛り上がったんでしょうね!


そうなると自ずとグループの絆が深まり、やがてカリスマ教授を中心とした学閥、すなわち「法縁」が成立します。
(↑日本寺境内・宇賀神社の彫刻:波の伊八刻)
実際、中村檀林から派生した宗門の法縁は多いようで、「境師法縁」「奠(でん)師法縁」「莚師法縁」「親師法縁」「達師法縁」などは、素人の僕でも聞いたことがあるくらい有名です。
実際、この5法縁のお寺、お上人だけで、宗門の半数にもなるくらい、現在も巨大なグループなのだそうです。


喩えはアレですが、政党の中にある派閥みたいなもの、なのかなぁ?
各論になるとちょっとずつ温度差がある的な。
(↑日本寺歴代御廟の入口)
檀林が廃止されて1世紀以上経過した現在でも、お坊さんやお寺のプロフィールに「~法縁」とあるのを目にしますから、法縁自体は存在するのでしょう。
詳しいことはわかりませんが、宗務所単位とはまた違う人脈が宗門には存在することを、意識しておきたいと思います。



境内には妙見宮があります。七面様も合祀されてます。


(↑妙見宮壁面に描かれた星梅鉢紋)
妙見様は天神様。学業の神でもありますよね。
往古数えきれない学僧達が、ここで祈りを捧げてきたのでしょうね。


実は多古の町なかにも妙見宮が沢山あるんです!
(↑飯徒井城跡にある妙見宮)
やはり千葉氏とのご縁が深い土地柄ゆえ、だと思います。
先ほどの夫婦稲荷といい、その土地独自に発展した信仰って、とても興味深いです。


(↑日本寺本堂の旧鬼瓦と思われる)
隆盛を極めた中村檀林でしたが、明治の学制発布で檀林制度自体が廃止されてしまいます。もともと純粋な学問所として、お檀家さんなしで経営してきたため、苦しい時代が続いたようです。


現在、日本寺は貫首さんが住職を務める本山であり、また近隣の信徒有志などで奉賛会が組織され、維持運営されているようです。

建物こそ年季が入っていますが、広い境内によく手が入っているのがわかります。
一信徒として、心から感謝致します。



多古町には日本寺のほかにも、「藻原殿」斎藤兼綱公が創建した妙光寺、日弁上人が開山の妙興寺、日蓮聖人直々に改宗された顕実寺など、鎌倉時代からの宗門寺院が実は沢山あるようです。

今度は泊まりがけでじっくり、お寺巡りをしてみたいと思います。

妙雲山飯高寺(匝瑳市飯高)

2023-04-01 15:19:51 | 旅行
立正大学の始まりの地である、飯高檀林跡を見学してきました。
檀林は仏教の学校、お坊さんの養成所のことで、昔は特定のお寺の中に、その機能があったようです。
飯高檀林は、かつて飯高寺内に存在した、日蓮宗門の最高学府です。


千葉県北東部に匝瑳市があります。
「匝瑳(そうさ)」…難解地名ですよね~!読めます?書けます?
この辺り、昔は良質の麻(布佐)がとれたらしく、「総(ふさ)」と呼ばれました(上総、下総の由来)。
「総」に接頭語「さ」がくっついて「さふさ」→「そうさ」になったんだって!



匝瑳市の内陸部、いい感じの里山エリアが飯高です。
飯を盛ったような小高い地形が、地名の由来だそうです。



自然散策道があるようです。
それまで降っていた雨もあがったので、ゆっくり歩いてみました。



田園風景、和む~。
訪問したのが晩秋、すでに刈り取りは終わり、その後に出てきた孫生え(ひこばえ)が、黄金色に輝いています。 



ほどよく起伏のある道を行くと、丘の上に山門が現れました。
飯高寺の総門です。



控え柱の上に、小さい屋根が乗っている門を「高麗門」というそうです。
一部は修復されていますが、部材はかなり年季が入っています。



巨木に囲まれた表参道を歩いてゆきます。
森に包まれているようで、心地よいです。



おおっ!
参道の奥に、巨大なお堂が姿を現します。


飯高寺本堂、旧飯高檀林の講堂です。
今でいう大学院クラスの教室が、ここに設けられていたそうです。

間口がめっちゃ広く、いわゆるお寺のシルエットとは違います。
沢山の学僧が勉強するのに機能的な形なんでしょう。



もう一つ特徴的なのは、装飾らしいものが見当たらないということ。
仏教教育の場ですからね、質素を旨としていたのかもしれません。



僕はお寺を参拝する際、そのお寺の歴代お上人の御廟をお参りするようにしていますが、檀林って歴代御廟はあるのかな?


ありました!

表参道から少し逸れた森の中に、墓石が整然と並んでいます。
数えきれない学僧を育て上げ、宗門の隆盛を支えた先師達に、深く感謝します。


飯高檀林は、比叡山で勉学を修めた要行院日統上人が、地元の飯塚(飯高から南東に3km位)で学室を開いたのが起源といわれています。
(↑境内の説明板より)
天正元(1573)年といいます。信長が足利義昭を京都から追放し、室町幕府が滅亡した、動乱の時代です。

今こそ日蓮聖人の精神を、教育という手段で広め、荒廃した世の中に貢献する人材を育てたい・・・。


そんな思いに感応したのでしょう、向学心に燃えるお坊さんが次々に入学し、飯塚の学室は大盛況、主宰する日統上人は多忙を極めていました。
(↑飯高寺本堂・妻側より)
誰か信頼できる人に手伝ってもらいたい、ということで、比叡山で同学の後輩だった教蔵院日生上人に、白羽の矢が立ちました。


教蔵院日生上人は天正2(1574)年、既に京都で松ヶ崎檀林を開いていた「宗門檀林の鼻祖」といわれるお坊さんです。
(↑松ヶ崎檀林旧跡・涌泉寺)
比叡山の先輩のヘルプとあらば!と、天正5(1577)年、飯塚に赴きました。
間もなく日統上人は遷化してしまいますが、日生上人はこれまた比叡山同学の蓮成院日尊上人の助けも借り、学室の運営に尽力しました。


数年後、日生上人に転機が訪れます。
あるとき飯高の妙福寺で、日生上人が「法華玄義」を講じる機会がありました。
(↑妙見山妙福寺)
これを聴講していた地元の豪族・平山刑部少輔常時公は、心に響くものがあったのでしょう、日生上人に帰依を誓ったのです!
下総に縁のなかった日生上人にとって、何より心強い協力者を得たと思われます。


「法華玄義」、僕なりに調べてみたのですが、内容については難しくて1ミリもわかりません(笑)。

天台宗の開祖・智顗(ちぎ)上人が講じた、法華経を理解するための、ありがたいお話だそうで、天台教学を学ぶ上では避けて通れないものだといいます。
これを、いわば素人の平山氏に解らせたのですから、日生上人の有能さが窺えます。


(↑飯高寺本堂)
天正8(1580)年、平山氏は城内に一寺を建立し、日生上人を招いて学問所を開きました。妙雲山法輪寺と称したそうです。
飯高檀林の歴史はここから始まります。


最高の学び舎を開いた日生上人は、間もなく後任を蓮成院日尊上人に委ね、飯高を離れます。
(↑松ケ崎涌泉寺境内にある生師廟)
京都に戻って松ケ崎檀林の経営に努め、人を育てるという側面から、京都宗門再興の礎を築きました。



飯高檀林歴代御廟の中心には、ルーツとなった教蔵院日生上人の供養塔があります。



日生上人から初代化主(学長)を任された蓮成院日尊上人、供養塔には「開山」と刻まれていますね。

※なお、そもそもの端緒・飯塚の学室を開いた要行院日統上人の供養塔は、見つけることができませんでした。しかし日統上人は飯高檀林の「遠祖」として、永く学僧達に尊崇されていたということです。


(↑平山氏が城主だったといわれる飯高砦跡:丘の上には飯高神社があります)
ところで、武士である平山氏は、この戦国真っ只中の時代を、小田原北条氏に仕えて生き抜いていましたが、天正18(1590)年に秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡すると、平山氏は武士を辞めて帰農したそうです。
てことは、飯高檀林の後ろ盾がなくなってしまう・・・ピンチ!


しかしそんな心配は杞憂だったようです。

飯高檀林の教育レベルの高さは、正当に評価されていたのでしょうね、天正19(1591)年、徳川家は飯高檀林を日蓮宗門の根本檀林として公認し、檀林の境内は朱印地として安堵されました。
このとき妙雲山飯高寺と公称したと思われます。


慶長4(1599)年には、第3代化主として心性院日遠上人が迎えられます。
慶長宗論の始末として、家康に処刑を命じられた逸話が殊に有名なお上人ですが、檀林の経営者として抜群のセンスがあったようです。
(↑日遠上人開山の大野山本遠寺)
この時代、飯高檀林はハード、ソフト両面にわたり充実し、学僧も急増、のちに門下生達が関東、関西の檀林をリードする存在になります。



境内の説明板には、檀林の発展に関し、日遠上人に深く帰依した養珠院お萬様の外護が大きかった旨、書いてありました。


特に地理的に近いということもあり、お萬様の次男・頼房公をルーツとする水戸徳川家との関係は深かったようです。
(↑黄門桜)
檀林近くには徳川光圀公(第2代水戸藩主:頼房の三男)が参拝時に設えられた道や、お手植えの桜が現存しています。


ちなみに日遠上人の後、第4代化主を務めたのは、わずか11才の頃から飯高檀林で学んできた慧雲院日圓上人でした。
(↑飯高にある日圓上人塚)
慧雲院日圓上人はのちに、飯高とは別に中村檀林を開創したお坊さんです。
中村檀林については、別の機会に紹介させていただきますね。


ところで、江戸時代の檀林って、どんな感じだったのかな?
立正大学開校120年記念誌(平成4年刊)から、当時の学僧生活を探ってみましょう。

飯高檀林は2期制、春期(2~5月)と秋期(8~11月)があり、夏の間は学僧達は出身のお寺で寺務を手伝って、学費を捻出していたそうです。
大学生のバイトって感じですよね!



期が始まると、出席数が1つでも足らないと進級できないし、口論など風紀を乱す学僧には、罰金、謹慎、退学など厳しい処分が下されたといいます。
蹴鞠(けまり)すら罰金だったんだって。きつ~!




境内には鐘楼や鼓楼がありますが、檀林当時はチャイム代わりだったのかもしれませんね。



日々学ぶのは、日蓮系の天台宗学。
初等教育から始まって、徐々に専門過程に進んでいくところは今の大学と似ていますが、全過程を修了するのには、驚きの20年以上!!(※)
※期間については諸説あり、なんと36年!という記述もありました。


そのため在学中に、志半ばで遷化された学僧も多かったようです。
彼らは「所化塚」に葬られ、手厚く供養されてきました。

飯高寺の西2km位にある所化塚には、夥しい数の墓石が並んでいます。
彼らの無念に思いを馳せ、静かに合掌しました。

なんか、いろいろカルチャーショックを受けるなぁ・・・。


所化塚の脇を通る道は、かつて檀林と江戸を結ぶ主要道でした。

向学心に燃え、意気揚々と歩いてくる学僧もいれば、進級できず肩を落として故郷へ帰る学僧もいたことでしょう。
周辺が開発されていないため、往時に想いを巡らすことができます。


飯高檀林は各学寮を中心として中台谷、城下谷、松和田谷の三谷(さく)に分かれており、研究を競い合ったようです。

思い返してみると、比叡山には東塔、西塔、横川の三塔、昨年訪問した仙波檀林跡にも中院、北院、南院の三院が存在していました。
巨大な教育機関は、三つのエリアに分けて互いを拮抗させるというのが、成功のポイントなのかもしれません。


寛延3(1750)年、江戸幕府は「身延山の法主は、飯高檀林の化主(学長)を務めた僧があたる」という通達を出します。
(↑飯高檀林歴代御廟)
宗門トップの選考方法をお上が決めるわけで、当時いかに仏教各派への統制が強かったのかが窺えます。
しかしこの通達により、飯高檀林は名実ともに、宗門の最高学府と公認されたことになります。
一方、時に激しいエリート養成競争の側面を帯びることもあったようです。


身延山史には、身延山法主を飯高檀林三谷(さく)のどこから輩出するのかを巡り、「紛擾(ふんじょう)起れり」と記されているくらいです。
(基本、三谷から輪次で晋山していたようですね)
(↑身延山歴代御廟)
ちなみに僕が調べた限りでは、身延山30世日通上人から74世日鑑上人まで(化主までいかなくても)例外なく、飯高檀林で学んだり教えたりされています。(※)
飯高檀林が宗門の羅針盤であったことは、疑いようがありません。
(※)30世以前にも、19世日道上人、22世日遠上人、24世日要上人が在籍されています(身延山史より)。


時代は下り明治維新期、新政府が神道を推し進める中、檀林はその役割を終えます。
(↑芝二本榎の長祐山承教寺)
飯高檀林にあった宗門最高学府の機能は、東京芝二本榎の承教寺内に移され、宗教界、教育界の目まぐるしい変化に対応していたようです。


(↑立正大学大崎キャンパス)
明治37(1904)年、大崎に日蓮宗大学林が開学、その3年後には日蓮宗大学と改称し、現在の立正大学に至るのです。
本当に大変な仕事をやり抜かれた、この時代のお上人方には、ただただ頭が下がります。



立正大学は今や9学部、1万人超の学生数を誇る、都会の大学です。
卒業生は仏教界だけでなく、あらゆる分野で活躍しています。
今から四百数十年も昔に、要行院日統上人が思い描いた未来、なのかもしれませんね。


飯高寺境内、霧に煙る杉木立の中、凛と立つ石碑が印象的でした。

平成2年に建立された「立正大学発祥之地」碑です。
どんなに時代が変わろうとも、立正大学の源流は間違いなく、ここ飯高檀林にあること。
将来の日本の柱、日本の眼目、日本の大船となる人材の活躍を夢見て 、困難に立ち向かった沢山の先師達がいたこと。
僕は卒業生ではありませんが、石碑に対面し、深い感慨を覚えました。


最後にひとつ。

飯高寺は現在、無住です。
しかし「飯高檀林跡を守る会」という地元有志の方々によって、本当に丁寧に境内の維持がなされており、気持ちよく参拝することができました。
彼らの善行に、心から感謝致します。
一人ひとりが節度ある参拝を心掛け、このご霊跡が永く護持されることを願っています。
(御首題授与は南駐車場の案内所で受け付けています。)


※今春、立正大学を卒業された菩提寺のお上人に、このブログを贈りたいと思います。
南無妙法蓮華経。

海上山妙福寺(銚子市妙見町)

2023-03-01 10:46:40 | 旅行

千葉県銚子市を旅してきました!



(↑犬吠埼灯台資料館内の展示物より)
「とっぱずれ」とは「いちば~ん端」。
太平洋に突き出た銚子の地形を、上手く表現した江戸時代の句です。


海上交通の要衝を支え続けた犬吠埼灯台。
銚子屈指の観光スポットです。
当日は快晴。
どうですか、この突き抜けるような空の青さ!!


(↑犬吠埼灯台からの眺望)
沖合は黒潮と親潮の境目、さらに利根川が大量の栄養分を運んでくるので、魚がよく集まる、最高の漁場なのだそうです。


(↑銚子漁港)
魚を求めて、全国から漁船が集まってきます。
確か銚子は、水揚げ量がずっと日本一ですよね!



銚子の気候は、麹菌や酵母の生育に適しており、また利根川水運で江戸に運びやすい利点もあり、古くから醤油醸造が盛んでした。
市街を歩くと、いたるところに醤油工場が見られます。



ヤマサ醤油の工場前に、日蓮宗寺院があります。



妙福寺です。


表門から入ったのですが、いきなりクランクになっていて、戸惑いました。

説明板によると、これは桝形!
江戸時代の妙福寺は、お寺でありながら、城としての機能も持っていたそうです。
普段はお寺、非常時は城郭になる、というのは近畿地方に多いですよね。



水行用の滝に太鼓橋。
このお寺、なんか凄そうだぞ!


こちらは裏門。銚子駅からは裏門が近いです。

山号は海上山(かいじょうざん)です。
昔はこの界隈、千葉一族の海上(うなかみ)氏が統治しており、最近まで海上(かいじょう)郡という地名もあったそうです。
恐らくその辺が、山号の由来ではないかと思います。



本堂(祖師堂)です。
江戸中期建築のとても古いお堂ですが、昭和60年に大改修され、現在に至ります。



本堂横にはでっかい藤棚!
その姿から「臥龍の藤」と呼ばれ、GW頃は藤を見るために、観光客が大勢訪れるそうです。



歴代お上人の御廟を参拝。
長きにわたり、信仰の聖地を護ってきてくれた先師達に、感謝の合掌をしました。



妙福寺の開山は、日蓮聖人の直弟子、中山二世でもある日高上人、第二祖は中山三世の日祐上人です。
中山法華経寺とのつながりが強いお寺、と想像できますね。


(↑本堂の旧鬼瓦)
縁起によると正和3(1314)年、入山崎般若寺の住持・円学上人が、下総各地を布教していた浄行院日祐上人に心服し、真言宗から宗旨を改めたというのがそもそもの始まりで、この時、お寺も海上山妙福寺になったと思われます。
円学上人は日正上人の法名を与えられ、自身が妙福寺三世、初代住職となります。


かつて般若寺があったといわれる入山崎は、現在の匝瑳市、有名な飯高檀林跡のほど近くです。

この辺り、昔は「椿海(つばきのうみ)」という、芦ノ湖が7つも入る広~い汽水湖があったそうですよ!
江戸初期、江戸で爆発的に増えた人口に対応するため、農地を広げる目的で干拓されてしまいました。
日祐上人が布教に歩かれていた鎌倉時代、どんな風景だったのでしょうね。


時は下り江戸時代、銚子は漁業だけでなく醤油産業の発展、利根川水運の中継地としても、活況を呈するようになりました。
(↑川口神社参道越しの風景)
人口増加の一方で、当時は寺請制度の徹底も叫ばれていました。
キリシタンや不受不施派でないことを証明するため、住民達は仏教各派のお寺の檀家になったのです。
ところが、銚子には法華経のお寺がありませんでした。
各所からの要望もあったのでしょう、妙福寺は幕府の肝入りで、銚子の現在地に移されたということです。


こちらは北辰殿(妙見宮)です。

堂内には、聖徳太子が自身の童子姿を刻したと伝わる、北辰妙見大菩薩像がお祀りされています。
このお像の持つパワーは相当なものだそうで、それゆえ源満仲公(能勢妙見の祖)はじめ多くの時の武将、為政者の尊崇を受けてきました。


(↑北辰殿の説明板より)
お像は各地を転々としたのち、正徳5(1715)年、平山久甫という朝廷方の尽力などで、妙福寺に祀られるようになったといいます。
以後「銚子の妙見様」として信仰を集めてきました。



実はこの界隈の地名は、妙見町!
地元でどれだけ親しまれてきた神様かが、わかります。


ちょっと話は脱線しますね。

利根川河口近くの丘に、「千人塚」という場所があります。

銚子沖は、好漁場の反面、古くから海難事故が多発する海域として知られていました。
この近くで遭難した船員たちの霊を、慰めている場所なのだそうです。



周囲には、供養塔が所狭しと建っています。
お題目の供養塔もありますね。


中央の石碑には、夥しい数の遭難者名が刻まれています。

板子一枚下は地獄、船乗りは命がけの仕事だと、改めて思います。


(↑北辰殿の扁額)
GPSなどなかった時代、暗いうちから海に出る漁師さん達にとって、常に北を指し示す北極星は、それは有難い存在だったでしょう。
銚子という町に、妙見信仰が深く根付いている一因だと思います。



「銚子の妙見」像を直接拝見することは叶いませんでしたが、妙福寺のお上人の案内で、北辰殿内部にある絵馬の画像を撮らせていただきました。


これは大正10(1921)年、寺内の太鼓橋落成記念の砌、講中が奉納した額ですが、右側に、こちらにお祀りされている妙見様のお姿が描かれています。

玄武(亀と蛇のハイブリッド)に乗った童子姿、太刀を持ってて雷様みたいな太鼓?を背負っていますね。
なかなかのインパクトです!


これは東京の町衆有志が奉納した巨大な額です。

よく見ると芸者さんや置き屋、落語家、講談師、寄席・・・芸事に関係する方々が多いのがわかります。
「妙」の字は美しいという意味、「見」は姿形の意味から、古くから妙見様は芸能関係者に信仰されてきたそうです。いろんな側面を持つんですね!



北辰殿の南側に、興味深い碑を見つけました。
海亀の供養碑です。それも一つや二つではありません。

漁の際、誤って海亀が混獲されると、漁師さんはお神酒をかけて海に戻すのですが、不幸にも死んでしまった場合は、土に埋めて手厚く供養する、といいます。
こうした風習、実は各地にあるそうなんですが、僕は初めて見ました。


法華経には、正しい法に巡り合う確率は奇跡に近い、という喩えとして、一眼の亀が浮き木の穴に辿り着く、というお話があります。(法華経妙荘厳王本事品第二十七)

また、身近なところでは浦島太郎でしょう。海亀は竜宮城という、いわば「異界」への使者として描かれています。



そう、さきほどの北辰殿の絵馬にも亀さん、いましたね。
妙見様が乗っている玄武は亀、北方を護る四神です。
北は五行でいうと水ですから、海亀が水神様と信じられてきたのは、自然なことなのでしょうね。



妙福寺には幼稚園が併設されています。
歴史が古く、今年で70周年だって!!



幼稚園に隣接して、銚子の歴史に大きく関わる石碑があります。



紀國人移住碑です。


銚子には古くから、紀州出身の人々が多く暮らしていました。
(↑第百回木國會記念碑に刻まれた木國會主意書より)
魚を追い求めて銚子沖にやって来た漁師が、そのまま移り住んだのが始まりらしく、以来、紀州の人は頻繁に、銚子との間を行き来しました。


(↑妙福寺境内のベンチ)
紀州伝統の漁法や醤油醸造は、銚子の風土に合ったのでしょう、銚子の繁栄は紀州人なくして語れないまでになりました。


(↑木國會基本金寄付芳名碑)
紀州にルーツを持つ銚子の実業家達が「木國会」を創設、明治36(1903)年にここに碑を建て、先人を顕彰しました。


(↑木國會基本金寄付芳名碑より)
木國会の筆頭には、紀州徳川家15代・徳川頼倫(よりみち)公のお名前があります。
養珠院お萬様の長男・頼宣公を始祖に持つ、紀州徳川家。
妙福寺境内に碑があるのは、偶然でないと思います。


こうやって妙福寺境内を巡ってみると、銚子の文化、産業、習俗・・・いろんな要素が、仏教とほどよく融和してきた歴史を感じられます。

最後に、妙福寺の守護神である、妙福稲荷さんを紹介して、今回のブログを終えたいと思います。

明治30年の火災、昭和20年の大空襲の際に、妙福寺を延焼から守ってくれたという霊験から、「火伏せのお稲荷さん」として篤く信仰されてきました。


妙福稲荷さんの名を刻んだ一本の石柱が、とても印象に残りました。
側面に、石柱建立の経緯が刻まれています。

ご家族が戦地に出征していかれた女性でしょうか。
「戦時中、日参の御祈願をかけ」ていたところ、ある晩、夢でお稲荷さんから「必ず無事で帰る」とお告げを受けたそうです。
「戦地で不思議なお守りを頂きました。拝謝の為」この石柱を建立したと思われます。


もしかしたら単に偶然が重なって、無事に復員されたのかもしれません。
しかしこの方は間違いなく「お稲荷さんのおかげ」と信じ、感謝を忘れませんでした。
石柱一本とはいえ、庶民がこの場所に建立するのは、そう簡単なことではなかったはずです。

古来、日本人はいただき物があると、まず仏壇や神棚にお供えし、のちに仏様や神様からお下がりをいただく、という習慣がありました。
わざわざそういった行為を経てはじめて、家族のお腹を満たしたのです。


ところが神仏離れが進む最近は、仏壇のないお宅も増えました。
「神様仏様はお腹空かないでしょ?」確かにそうかもしれません。科学的には全く、意味のない行為でしょう。

いただき物を供え、お下がりをいただくという行為は、ともすると幸せに溺れ、増上慢になりがちな人間、我々人間を戒める、先人の巧みな生活の知恵、だと僕は思っています。そしてそれは、いろんな信仰の原点なのだと考えています。
そんなに難しいものじゃない。仏壇がなければ、先祖の写真でもいいのです。

すっかりお稲荷さんの石柱から脱線しちゃいましたが、僕の中ではつながっています(笑)。

「見えないものに生かされている」

大切なマインドを、一本の石柱に、改めて教えられた、銚子妙福寺でした!

身延山麓坊(身延町身延)

2023-02-01 10:50:33 | 旅行

五十路も半ばになり、日帰りでの身延登詣が徐々に辛くなってきました。
なので、ここ最近は山内の坊に宿泊するようにしています。


義父の命日が近づいた晩秋のある日、聖園墓地への墓参も兼ねて、身延山を訪問することになりました。

ちなみに前回登詣は3月、宿泊は東谷の端場坊でした。
じゃあ今回は、西谷の坊に泊まってみようか!ということで、麓坊さんにお世話になることにしました。



御廟入口近くに、古い石碑が並んでいます。


この一つに「本行坊 清水坊 麓坊 北之坊 林蔵坊 道」と刻まれているのを見つけました。身延山にはこういう道標、多いですよね!

僕の曽祖父くらいの時代は、こういう道標を頼りに、参詣の旅をしていたのでしょうか。



御廟北側、西谷檀林跡や信行道場から続く道



岸之坊と林蔵坊の間に、麓坊の参道があります。
100m位上ると、麓坊に至ります。



ちなみに車で三門から行く場合、清水坊の手前を左折して下さい。



麓坊の山門です。薬医門ですね。
苔むした石積みが、重ねてきた時間を物語ります。


ところで各坊の入り口にある、坊名を刻んだ石って、どうして赤文字なんだろう?

例えば墓石の建立者が存命中の場合、名前が赤文字になるけど、それと同じ意味なのかな?そもそも青や黄じゃなくて赤の理由は何だろう?・・・いつか調べてみますね!



境内にはカエデの木が多く、本当に華やか!
「錦秋」という季語が似合います。



また、枝垂桜の大木もあり、春は春で楽しめそうな境内です。



本堂です。
ゆるいカーブを描く入母屋の破風、落ち着きがあっていいですね~!



本堂手前に、麓坊縁起を刻んだ石碑がありました。
大正4年、麓坊40世の日德上人という方が書かれたようです。



こちらの碑文、そしてご住職のお話などをもとに、麓坊の歴史を辿ってみたいと思います。


日蓮聖人は九ヶ年にわたる身延山での生活の間、道なき道をかき分け、険しい身延山の頂(現在の奥之院思親閣)まで、何度も登られました。
(奥之院思親閣・南側展望台からの眺望)
遠く房州の方角を望みながら、ご両親や師匠・道善坊上人の追善、仏法流布を祈られたのです。



今でこそロープウェイに7分乗っていれば、山頂に着いてしまいます。



以前、上ノ山を通って思親閣まで歩いて行った時は、丈六堂や大光坊への参拝もしながらでしたが、3時間かかりました。
ただ、この上ノ山ルートも江戸時代に整備されたのであって、日蓮聖人ご在世の道ではないでしょう。


じゃあ当時はどんなルートだったのでしょうか?
麓坊のご住職に尋ねてみると、ご遺文など記録に残ったものはないので、あくまで想像ですが・・・と前置きのあと、「樋沢川の川筋に沿って登られた、と考えるのが自然だと思います。」とお話しされました。
(身延山駐車場からロープウェイ方面を望む)
確かに!岩とかで多少険しくても、林や藪が少ない川沿いを辿られたという推論に、僕も同意します。



これは身延山ロープウェイのゴンドラ内から写した画像です。
ロープウェイのルートとは別に、右側、樋沢川の谷筋が奥まで続いているのがわかると思います。

(グーグルマップ・地形レイヤーに加筆)
日蓮聖人はこの谷筋に沿って標高を上げていかれたと想像できます。


(日朗菩薩鏡井戸)
現在の登山ルートで40丁目辺りに、当時からのご霊跡である日朗上人御手作井戸があります。


(グーグルマップ・地形レイヤーに加筆)
恐らくその手前くらいで尾根に至り、山頂まで歩かれたような・・・気がします!



麓坊がある場所は、当時、日蓮聖人が通られていた山頂への道、そのいわば登山口。
だから「麓坊」なのだそうです。


(御廟所霊山橋から身延川を望む)
さらにご住職によると、近年まで暴れ川だった身延川のことを考えると、日蓮聖人は御草庵を出てすぐ、川の影響が少ない山沿いを回り込んで、登山口に来られたのでしょうね、ともお話しされていました。



今、その道も登山口も、形こそありませんが、お祖師様が懸命に刻まれた一歩一歩を、この場所に感じることができます。まさにご霊跡です。


先ほどの縁起によると、こうした事蹟が時とともに埋もれ果ててしまうことを憂いた「意伝両上」が、ここに庵を結ばれたのが、麓坊のルーツだそうです。

身延山史には、永正16(1519)年、身延山12世の円教院日意上人が自坊に閑居し、同年76才で遷化された、とありますので、恐らくこれが麓房の開創年と思われます。

また身延山13世の宝聚院日伝上人も、後を善学院日鏡上人に任せて麓坊に閑居し、天文12(1548)年に67才で遷化されたそうです。



歴代お上人の御廟に参拝。
500年以上に渡って法灯を継いでくださった先師達に感謝し、合掌しました。



日意上人が麓坊の元祖、開山で、日伝上人は二祖、開基なのだそうです。
日伝上人の院号から、麓坊の正式名称は「身延山宝聚院麓坊」となります。


お二人の師匠、身延山11世の行学院日朝上人が手掛けた仕事は、膨大なものでした。

すなわち身延山伽藍群の現在地への移転、宗祖ご遺文・ご霊宝の整備保管、祖山としての決まり事(清規)の確立、法華経の注釈書(補施集)作成などなど・・・現在宗門の基礎となる巨大プロジェクトばかりです。
加えて、当時は各本山との力関係が微妙な時期で、そこに相当な労力を割かざるを得なかったようです。



これらは日朝上人40年の在職期間では決して成し遂げられるものではなく、遺された仕事を日意上人、日伝上人が懸命に継いでくれたからこそ、我々が今、その恩恵にあずかっている、ということを忘れてはなりません。


麓坊歴代御廟の裏手あたりから見える景色

わ~、久遠寺本堂があんなに近くに見える!!


麓坊の境内には、愛染明王をお祀りしたお堂もあります。

こちらの愛染明王は、昭和の初めに、女性信者の強い希望があり、勧請されたものだそうです。



(池上本門寺刊 朝夕諷誦 日蓮聖人御遺文 附巻より引用)
愛染明王というと密教のお寺でよくお祀りされている印象がありますが、日蓮聖人も若い頃に愛染明王を感得され、お姿を描かれています。
また、お曼荼羅にもありますよね!



そうそう、麓坊の西側に、古いお堂がひっそりとあるのを見つけました。
ご住職に伺うと、これは戦前まで御廟堂として使われていた建物で、その後、移築されて身延山の荒行堂にもなっていたそうです。
大役を果たして、現在は閑居している、って感じでしょうね。お疲れ様です!



それでは宿坊としての麓坊を紹介したいと思います。


坊の玄関です。
床板がよく拭き込まれて輝いています。
僕の祖父宅の玄関に雰囲気がよく似ていて一瞬、タイムスリップしたような錯覚を覚えました。

この奥にある帳場で受付をします。
宿帳に必要事項を記入します。ここで記入した氏名が夕勤の回向にも反映されますので、参籠者全員の氏名を記すことをお勧めします。



坊内は、古き良き宿坊の香りを遺しています。
団参が盛んだった昭和の時代、沢山の信徒さんでごった返していたのでしょうね!



将棋盤なんかもあって、レトロ感満載!!



妻と二人での参籠でしたが、床の間のある広いお部屋を案内してくださいました。


お祖師様のご遺文「筒御器抄」をしたためたお軸が掛かっていました。

身延山の冬の厳しさ、ひもじさを、よく著されたお手紙だと思います。
現地で読むと、さらにリアルです。



トイレや洗面所は、とてもキレイに保たれています。
これだけで宿泊の快適さは、格段に違います。


夕勤は本堂で、5時から始まります。

みんなで方便品、寿量品などのお経をあげるのですが、特徴的なのは観世音菩薩普門品も読むところでしょう。


本堂には鬼子母神像や七面大明神像などとともに、日伝上人が感得されたという観音様のお像も、お祀りされています。

たくさんの守護神に見守られながら、気持ちの良い夕勤が終わり、お札をいただきました。
お札には如意輪観世音菩薩の文字が書かれていましたので、麓坊は観音様のお寺、と考えて間違いないと思います。



夕食は心づくしの精進料理。
品数もさることながら、一品一品が美味い!麓坊の奥様に感謝です。
ホント、ごはんが進みました。参籠なのに、こんなに満腹でいいのか、俺?

お風呂で温まり、静寂の中、熟睡・・・。



翌朝は5時過ぎに起き、久遠寺本堂の朝勤へ。
ほんの5分で着くから、やめられません、宿坊参籠。


身延の谷にも陽が差してきたぞ!

西谷は宿坊がひしめきあってるな~。



朝陽に照らされ、輝く鷹取山。



麓坊に戻ると、すぐに朝食が待ってます。
最高!


朝食をありがたくいただき、部屋に戻ろうとした時、お題目の大合唱が聞こえました。

行ってみると、若いお上人方が麓坊本堂前で読経をされていました。
歳末助け合いの活動で、山内を行脚されているということでした。
ご苦労様です!



ところで僕達が参籠した12月11日は偶然にも、開基日伝上人の御正当命日。遠忌法要が修されるということを前夜に伺い、ビックリ!
ご住職にお誘いいただいたので、法要にも参加させていただきました。


法要にはお檀家さん数名と、信者さんなんと・・・50名以上!!
本堂が隙間なく埋め尽くされました。

驚くべきは、その信者さんの平均年齢が若いということ。
日本の年齢構成よりも確実に若い人々が集まり、お題目をあげる光景は、恐らく初めての経験でした。
年齢問わず人を惹きつける何かが、麓坊にはあるのでしょう。



その魅力の一つが、麓坊47世のご住職だと思います。
パッと見、コワモテかな?と思いきや、本当に気さくで優しい方。そう、「どうする家康」で大久保忠世を演じている、あの役者さんにそっくりです!



七面山別当を歴任されたというご住職は、知識も人生経験も豊富。困った疑問をぶつけても、必ず答えてくださいました。
お経を読む時のポイントなどアドバイスもいただき、ご住職のおかげで印象深い参籠になりました。



僕の出身地・小田原と、日伝上人の深~いご縁も、教えていただきました。
近いうちにこのブログで、そのお話もさせていただこうと考えています。乞うご期待!

松﨑山涌泉寺(京都市左京区松ケ崎堀町)

2023-01-01 15:52:41 | 旅行
毎年8月16日、京都の夜空に繰り広げられる「五山送り火」。
(↑光村推古書院「京都大文字五山送り火」より引用)
遠い昔から、精霊を送る大切な行事として、行われてきました。
最近ではBSでも生中継してくれますよね!
僕も先祖に感謝しながら、テレビに向かって合掌なんかしちゃいます。

五山送り火という通り、京都を囲む五つの山の斜面に松明を焚くわけですが、このうちの一山が、日蓮宗ゆかりの松ケ崎西山・東山に焚かれる「妙法」送り火です。


五山送り火の3週間後、松ケ崎を訪問しました。

松ケ崎は京都駅から地下鉄烏丸線で北に9駅、20分くらいでしょうか。



広大な宝が池公園のお山に抱かれた、閑静な住宅地を歩きます。



道の脇には水路があり、涼しげな雰囲気!



軽トラがやっと通れるほどの路地の奥に・・・



法塔が見えてきました。ここが涌泉寺ですね。



山号は松﨑山です。


涌泉寺の歴史は古く、平安初期に開創された歓喜寺をルーツとするようです。
(↑松ケ崎から東を望む)
当時、比叡山の西麓(京都側)は延暦寺の寺領だったといいます。歓喜寺は比叡山三千坊の一つ、天台寺院としての歴史を刻んできました。


(↑涌泉寺境内にある当山二祖・実眼僧都の歌碑)
鎌倉時代になり、時の住職である実眼上人が、日像上人のお説法を聞いたことをきっかけに、お寺が大きく変化してゆきます。


日蓮聖人のご遺命を果たすために上洛した日像上人は、洛中でいちばん賑わっている北野天満宮の門前で、道行く人々に辻説法をしていたといいます。
弁舌鮮やかな日像上人のこと、聴衆は日を追うごとに増えてゆきました。
(↑日像上人布教のご霊跡・北野御前通の妙喜山法華寺)
ある日、何かの用事で洛中を訪れていた実眼上人は、町なかで日像上人のお説法を聴き、目からウロコだったのでしょうね、その場で日像上人に帰依しました。

実眼上人は早速、松ケ崎に帰り、村人の教化に勤しみます。


ところが、実眼上人は松ケ崎村民の布教に苦慮します。

それまで天台宗の門徒として先祖代々、信仰を守ってきた村人達にとって、実眼上人の言い分も分かるけど、いざ改宗というのは、あまりに高いハードルだったのでしょう、何年経っても信者さんが増えませんでした。


そこで実眼上人は、旧暦お盆の3日間、日像上人を松ケ崎に招き、直々に村人にお説法をしてもらったそうです。
(↑涌泉寺境内にある宗祖日蓮聖人、開山日像上人の供養塔)
この効果は抜群で、全村民が一人残らず、改宗したということです。徳治元(1306)年のことでした。
住民全員が法華信仰となる「皆法華」は、大覚大僧正の築いた備前法華がよく知られていますが、実は師僧・日像上人にその根源があったのですね!


ところで、歓喜寺が現在の寺名・涌泉寺となる経緯は、少々複雑です。僕も理解するまで3回、縁起を読み直しました!

松ケ崎の全村改宗を成し遂げた日像上人はこの時、寺名を歓喜寺から妙泉寺と改めました。お寺の背後に滝がある、というのが理由だそうです。
(↑七面堂と滝)
実際、現在の涌泉寺境内の山裾からは滝が落ちています。
地元ではここを「松ケ崎の七面山」として、今も大切に清めているそうです。


妙泉寺は地域の法華信仰の拠点として、塔頭を6坊も擁するほど、発展したといいます。
妙泉寺塔頭のうち本涌寺は天正2(1574)年、教蔵院日生上人によって開創されました。
(↑涌泉寺山門前にある「法華宗根本学室」の碑)
教蔵院日生上人は宗学の研究者、教育者として殊に有名な方で、本涌寺内に講堂を建て、宗門初の学校・松ヶ崎檀林を開きました。
つまり、本涌寺は妙泉寺塔頭でありながら、宗門檀林として、独自の歴史を刻んでいったわけです。


時は流れ明治維新を経て、仏教を取り巻く環境が激変します。妙泉寺も従来通りというわけにはゆかなかったのでしょう、本涌寺を除く塔頭5坊(大乗院、止静院、実成院、宝泉院、玉禅院)と合流することになります。
(↑涌泉寺山門前にある「法華宗根本学校道」の碑)
一方、本涌寺は明治5(1872)年の学制発布に伴い、明治政府により松ヶ崎檀林が廃止されてしまいます。もうこの時代、本涌寺=松ケ崎檀林だったはずですから、本涌寺にとって檀林廃止は大きなダメージだったでしょう。
講堂のみを残して徐々に荒廃していったそうです。


(↑涌泉寺本堂の扁額)
大正7(1918)年、地元小学校の敷地拡張のため、妙泉寺本涌寺は合併します。寺名は両寺の一字を取って、ここでやっと(!)涌泉寺となり、現在に至ります。
長かったですね~!理解できました?


涌泉寺の境内に戻りましょう。

こちらは生師廟、松ヶ崎檀林を開いた教蔵院日生上人の御廟です。

教蔵院日生上人は、若い頃から比叡山などで広く深く学ばれ、また宗門の著名なお上人達にも師事されていたようです。
当時、日蓮宗門が壊滅寸前まで追い込まれた天文法難から数十年が過ぎ、教団の復興とともに、学問もまた盛り上げてゆこうという機運も、高まっていたのでしょう。
教蔵院日生上人は、教育者として頭角を現します。


下総国に飯高檀林を開いたのも、教蔵院日生上人です。
実は先日、偶然にも千葉県の飯高檀林跡(飯高寺)を訪問する機会がありました。

↑画像の石碑にあるように、飯高檀林は現在の立正大学のルーツとなるそうです。
身近なあのお上人、このお上人も皆、いわば教蔵院日生上人門下なのでしょうね。


飯高檀林・歴代化主の御廟には、その中心に教蔵院日生上人の供養塔↓がありました。

下総出身の日像上人が上洛し、苦労して帝都開教を果たした二百数十年後、今度は日像上人の法孫が、京都から下総に行って、檀林の基礎を築いたのです。
深いですね・・・。


(↑飯高寺近くにある中村檀林開祖・日圓上人塚)
他にも調べてみると、飯高檀林の4世は中村檀林を開いていますし、中村檀林の21世は水戸光圀公が開いた三昧堂檀林の初代化主となっています。更に小西檀林の初代化主は松ヶ崎檀林から招いたお上人・・・と、関東の名だたる檀林は、元を辿れば教蔵院日生上人に行き着くのです。
このため教蔵院日生上人は「檀林の鼻祖(※)」といわれるそうですよ。
(※)元祖、始祖のこと


話を松ケ崎に戻しましょう。

山門です。
薬医門なのかな?周囲の環境に溶け込んでいます。


山の斜面にあるお寺らしく、平地の少ない境内です。

現在の涌泉寺境内に、旧・本涌寺があったといわれています。



旧・妙泉寺があった場所は現在、松ケ崎小学校になっています。


涌泉寺の本堂です。
ちょっと特徴的な造りですよね!

それもそのはず、本堂はもともと松ヶ崎檀林の講堂だった建物なんですね。
確かに学校っぽい!



先述の飯高寺本堂↑も、昔の飯高檀林講堂だった建物です。間口が広いところなど、よく似てますよね!
本格的な檀林というのは、多くの学僧を受け入れるわけですから、装飾云々より、機能性を重視するんでしょうね。


涌泉寺本堂の真下には、尼衆宗学林があります。

尼衆宗学林は、宗門唯一の尼僧さんの学校です。
大正8(1919)年、明治天皇の叔母にあたる村雲御所瑞龍寺10世の瑞法院日榮上人により創設されました。
行儀作法から華道、茶道、宗学に至るまで、バッチリ教えてくださるそうですよ。 


涌泉寺境内の一画は、保育園になっています。

尼衆宗学林といい、保育園といい、人間の根っこの部分を形成するという意味では、松ケ崎檀林はいまだに、脈々と続いているのかもしれません。



保育園の横に細道があって、歩いてゆくと・・・



別の山門が見えてきた!


こちらは松﨑山妙円寺です。

松ケ崎檀林の能化(教師)だったお上人が創建したお寺だそうです。
こちらにお祀りされる大黒天は、開運招福、商売繁盛の神様として親しまれているといいます。



もともと皆法華の土地柄、涌泉寺や妙円寺なども含め、この辺り一帯が「松ケ崎霊場」なのでしょう。


そうそう、五山送り火「妙法」の文字が焚かれていたのはどこかな?

さんざん探して見つけました!
(↑宝池自動車学校越しに松ケ崎西山を望む)
「妙」の字は、涌泉寺から西に1kmくらい、松ケ崎西山(万燈籠山)の斜面に、読むことができます。
鎌倉時代、日像上人が山の南面に自ら杖を引いて書いた、巨大な「妙」がルーツだそうです。



「法」の字は、妙円寺の真後ろ、松ケ崎東山(大黒天山)の斜面にあります。
こちらは江戸時代、旧・妙泉寺末寺の日良上人が書いた「法」の字をルーツとしています。



ちなみにお山には入山禁止です!
ていうか文字が巨大すぎて、遠くから見なければ絶対にわからないでしょう。



「妙法」の二文字、創始の時代は違えど、ここ松ケ崎に、妙法蓮華経がずうっと根付いてゆきますように、との願いが込められているのでしょう。



(↑光村推古書院「京都大文字五山送り火」より引用)
日像上人が松ケ崎でお説法をされたのが旧暦お盆の3日間、最初は法華経への改宗を祝って始められた行事が、のちに先祖の霊を送るという側面が強くなっていったのだと思われます。


(↑妙円寺大黒天の鳥居越しに松ケ崎東山を望む)
8月16日、送り火がともると、松ケ崎の住民たちは先祖のお位牌を外に出し、山に向けて祈るのだそうです。



そして送り火が鎮火した頃、浴衣に着替えて涌泉寺境内↑に集まり、改宗当時から伝承される題目踊を奉納して、お盆が終わるといいます。


(↑松ケ崎立正会館)
現在、松ケ崎立正会の会員さんが「妙法」送り火の運営一切を担当してくださっているようです。
本当にご苦労様です!

いつか実際に「妙法」送り火、見てみたいなぁ。

妙慧山善正寺(京都市左京区岡崎東福ノ川町)

2022-12-01 16:15:34 | 旅行
6月にこのブログにアップした↓村雲御所瑞龍寺
宗門のお寺を参拝させていただく際、僕は大抵、歴代お上人の御廟をお参りさせていただくのですが、実は瑞龍寺の境内には見つけられませんでした。

その後調べてみると、京都の善正寺という場所に、瑞龍寺の歴代御廟があるということを知りました。
事前に連絡し、アポを取って参拝してきました!



善正寺の場所をざっくり言うと、京都御所から見て鴨川の向こう(東)側あたり、有名な↑京都大学医学部付属病院から比較的近いところです。



付近には「聖護院門跡」(本山修験宗)や、


「近衛通り」など、何となく皇室と関係がありそうな雰囲気!


また付近の山裾には、「金戒光明寺」という浄土宗の大本山があります。


画像の手前は金戒光明寺の塔頭、そして奥は料亭などに卸す豆腐屋さんでしょう。
細い路地ほど、古き良き京都を感じられます。



多少迷いましたが、着きました。善正寺です。
隣の建物は、市立の支援学校だそうです。



これはお地蔵様じゃないかな?
以前、丹後半島を旅した時に、同じように化粧されたお地蔵様をよく目にしました。
よく清められていますね!


いわゆる山門らしいものはなく、2本の門柱が聖域を区切っています。

確かに表札には村雲瑞龍寺、豊臣秀次公御墓所となっています。
山号は妙慧山です。



善正寺境内はセキュリティシステムで守られているようです。
やはり門跡の歴代御廟を擁しているお寺ですからね、その辺はきちっとしています。
参拝をされる方は、必ず事前にアポを取って下さいね!



向かって左手前に祖師堂、左奥に本堂、右に鐘楼、そして正面に庫裡、という位置関係です。



扁額が「本師堂」となっていますから、祖師堂でしょう。
丸太柱のお堂って、結構珍しいと思います。


本堂です。
ご住職にご首題をお願いしている間、清浄な本堂を参拝させていただきました。

本堂の内陣、左右の脇間には、豊臣秀次公とその母・妙慧日秀尼の木像が、それぞれ格護されています。
さぞ無念であったであろう彼らを思い、ほんの少しでも鎮魂になればと、お経をあげさせていただきました。


豊臣秀次公は、子に恵まれなかった叔父・秀吉の後継候補として、一時は関白摂政の地位にありながら、のちに秀吉と淀君の間に秀頼が生まれるや、手のひらを返すように秀次公は邪魔者扱いされ、謀反の疑いをかけられてしまいます。
(↑村雲瑞龍寺門跡本堂内に展示されている豊臣秀次卿銅像の木型)
文禄4(1595)年、わずか28才の若さで、高野山に蟄居ののち、秀次公は自刃に追い込まれました。
秀吉の猜疑心は凄まじく、秀次公の子女妻妾まで、皆殺しにされてしまいました。



今回僕は、善正寺参拝の前に、三条大橋のたもとにある瑞泉寺を訪れました。



現在は納涼の川床とか、デートスポットで有名な鴨川の河原ですが、その昔は刑場として知られた場所だったといいます。


(↑豊臣秀次一族が葬られた塚:瑞泉寺の掲示物より引用)
秀次公の一族はここ三条河原で処刑、埋葬され、秀次公の首を納めた石櫃とともに塚が作られました。
しかし、鴨川の度重なる氾濫などで、いつしか塚はなくなってしまったそうです。


(↑角倉了以翁像:瑞泉寺の掲示物より引用)
江戸時代になり、角倉了以翁(※)が高瀬川を開削中にこの塚の跡を発見、慶長16(1611)年にお堂を建立して彼らの霊を慰めたのが、瑞泉寺のルーツです。
(※)各地の顕彰碑に倣って、敬称を「翁」とさせていただきます。



境内には、秀次公を中心として一族それぞれの供養塔があります。その数の多さに、本当に胸が痛みました。
瑞泉寺は浄土宗のお寺ですが、合掌し、小さな声でお自我偈を唱えさせてもらいました。


(↑京都の街なかを流れる高瀬川)
ところで高瀬川を開削した角倉了以翁、京都の豪商であり、河川土木の専門家でもあるんですが、宗門関係の調べものをしていて、よくお名前を目にします。


(↑富士川・旧岩淵河岸にある角倉了以翁紀功碑)
その昔、身延山登詣には富士川舟運が重要な足として使われていましたが、富士川を開削して水難事故を減らしたのは角倉了以翁でした。


また、妙慧日秀尼の師僧は、六条本圀寺16世の日禛(にっしん)上人 ですが、日禛上人が隠棲された嵯峨・常寂光寺の寺域を寄進したのは、角倉家ということです。
(↑京都・高瀬川畔にある角倉了以翁顕彰碑)
角倉了以翁自身、お墓は二尊院、当時は四宗兼学(天台宗・真言宗・律宗・浄土宗)という特殊なスタイルのお寺らしく、まぁとにかく日蓮宗ではなさそうですが、日蓮宗門とも意外に、深いご縁があるのかもしれませんね。

話を善正寺に戻しましょう。


豊臣秀次公の母・ともさんは、豊臣秀吉の姉にあたります。
ともさんには秀次のほかに秀勝、秀保という男子がいましたが、秀勝は朝鮮出兵時に病死、秀保は不審死しています。
それに追い打ちをかけるような長男秀次公の自刃、それも弟・秀吉の計略によって・・・ともさんの悲しみは如何ばかりだったかと思います。

心を痛めたともさんは、京都本圀寺の日禛(にっしん)上人のもとで出家得度、妙慧日秀尼となります。
日秀尼は京都嵯峨の小庵で、亡き子供達の冥福を、一心に祈り続けました。
(↑京都今出川にあった旧村雲御所の地図:村雲瑞龍寺門跡本堂内の掲示物より引用)
この話が時の後陽成天皇の耳に入り、京都村雲の地に寺領と、瑞龍寺の寺号を下賜されました。



(↑西陣会館の一画にある村雲御所跡碑)
瑞龍寺の初代住職は妙慧日秀尼、そして天皇ゆかりのお寺ということで以後、皇女や公家の娘さんが歴代住職を務める門跡寺院となりました。
これが現在、近江八幡市にある本山「村雲瑞龍寺門跡」のルーツです。


(↑善正寺の石垣)
豊臣秀吉の没年は慶長3(1598)年ですが、それ以前は猜疑心の強かった秀吉を警戒して、たとえ子の追悼といえども、表立ったことはできなかったと思われます。


慶長5(1600)年になり、妙慧日秀尼は秀次公をきちんと弔ってあげようと思ったのでしょう、本圀寺塔頭・求法院(大きな檀林だったようですね)の日鋭上人を開山に迎え、東山に妙慧山善正寺を建立します。
ちなみに山号は妙慧日秀尼の法名から、寺名は秀次公の戒名「善正寺殿高岸道意大居士」から名付けたようです。

本堂に祀られていた豊臣秀次公、妙慧日秀尼の木像は、慶長6(1601)年、秀次公七回忌の砌に仏師に彫らせ、日鋭上人が開眼したのだそうです。
ご住職によると、妙慧日秀尼の生前に彫られたお像なので、その容姿、表情はそのまま生き写しのようだ、と伝えられているそうです。



寛永2(1625)年、妙慧日秀尼は92才の長寿を全うされました。
先立った子供達の追善に奉じた半生でした。
せめて来世は、権力や戦争とは無縁の世の中に、彼らが生まれてくることを願ったのでしょう。


妙慧日秀尼の遷化と相前後して、善正寺内に東山檀林が開かれました。
明治の廃檀まで、広大な敷地で多くの学僧が研鑽を積んだ、といいます。
(↑善正寺参道脇にある「學室」碑)
江戸時代の京都では、松ケ崎、鶏冠井(かいで)、鷹峰、山科、求法寺(本圀寺)といった宗門檀林があり、これに東山を加えて京都六檀林として知られています。


ご住職にお願いして、本師堂裏手にある豊臣秀次公の墓所を案内していただきました。

「善正殿」の扁額が掛かるお堂が、秀次公の御廟です。
その左側には村雲瑞龍寺門跡歴代お上人(秀次一門と刻まれています)の供養塔が並びます。



お塔婆に歴代の法名が書かれていますね。
初祖は瑞龍寺殿日秀大比丘尼、妙慧日秀尼のことですね。
二祖を継がれたのは瑞圓院日怡大比丘尼、妙慧日秀尼の曾孫にあたる方です。豊臣秀勝の娘・完子(さだこ)姫が九条家に嫁ぎ、生まれた女子といいます。
ちなみに大正天皇の奥様、貞明皇后は、完子姫の子孫になります。つまり妙慧日秀尼は、現在の皇室の先祖でもあるわけで、瑞龍寺が門跡寺院というのも納得です。



村雲瑞龍寺門跡15世までのお墓が並んでいます。
もちろん、10世を務められた日榮尼(※)のお墓もありました。
心を込めて合掌させていただきました。
(※)拙ブログ「村雲御所 瑞龍寺」に日榮尼のエピソードを書かせていただきました。


この御廟域からは、五山送り火のうち、東山如意ヶ嶽の「大文字」がよ~く見えます!
というか界隈でも特等席のようで、例年8月16日にはお檀家さんが集まり、ここで精霊送りの火を眺めるのだそうです。



非業の死を遂げた秀次一門の精霊も、お盆には善正寺はじめ縁の地にやって来て、8月16日、送り火を見ながら、霊山浄土に還ってゆくのでしょうね。


善正寺のご住職は、笑顔の絶えない、口調の柔らかな男性のお上人です。
敷居の高いお寺だろうと緊張気味で訪問しましたが、ご住職のお人柄に癒され、すっかりリラックスしてしまいました。
(↑村雲瑞龍寺門跡の山門)
善正寺と村雲瑞龍寺門跡とは、現在でもご縁が非常に深く、大きな法要があるとお互いに協力しながら修めているということです。
また、村雲瑞龍寺のルーツである嵯峨の庵は、現在も「村雲別院」というお寺として続いているとお聞きしました。来年あたり、参拝したいものです。


さらに大荒行で知られる千葉中山の遠壽院とも関係が深いようです。
江戸末期、遠壽院の鬼子母尊神像が西国に出開帳された際、禁裏御所で孝明天皇が拝まれた(天拝)ことがありました。
その際、取り次ぎ一切を担ったのが、村雲門跡ということです。
(↑千葉中山の遠壽院)
このご縁で、ご住職は遠壽院行堂で、百日の大荒行を成満されたそうです。
妙慧日秀尼の蒔かれた信仰の種は、こうして大きな木となっているのですね。


帰り際、善正寺本堂の天水桶に↓文字が刻まれているのを見つけました。
法華経薬草喩品第五の一節です。

この世界には、いろんな草や木が生い茂っており、名前も姿もそれぞれ異なっている。 雨は一様に潤すけど、それを受ける植物は姿も形も千差万別、それぞれのあり方に応じて雨を受け止めて、それぞれがそれぞれのペースで成長する・・・。
お釈迦様が二千何百年の昔に説かれたお話なのに、これこそSDGs、多様性の尊重とか、ジェンダー平等を先取りしていますよね!



古くから尼僧さんが活躍されてきた、妙慧日秀尼門下に相応しい教えだな、と妙に納得しながら、善正寺をあとにしました。

妙喜山法華寺(京都市上京区下堅町)

2022-11-01 14:53:29 | 旅行
この9月はじめ、コロナ7波も下火になり、入国制限も解かれていない今だ!と思って、4年ぶりに京都に行ってきました。

修学旅行シーズンでもなかったせいか、大した混雑もなく、また天気にも恵まれ、有意義な1泊2日でした。
何ヶ所かの宗門寺院にも参拝できましたよ!

今回はそのうち、上京区の法華寺を紹介させていただきます。


僕は4年前、京都八本山の一つ、立本寺を参拝させていただいています。
(↑具足山立本寺)
その時は確かレンタサイクルで巡っていたのですが、立本寺からほど近い道端に、立派なお題目の法塔を見かけました。
「あぁ、ここにも日蓮宗のお寺があるんだ~」と特段気にも留めず、次の目的地・妙顕寺に向けて自転車を走らせた記憶があります。

今思えば、それが法華寺だったんですね・・・。


(↑岡山・仏住山蓮昌寺)
のちに岡山県のお寺にもお参りさせていただく機会がありました。
備前法華の祖・大覚大僧正についていろいろと調べてゆくと、京都の法華寺は、大覚大僧正を語る上で欠かせないご霊跡であることがわかりました。

あの時、ちゃんと参拝すれば良かった・・・としばらく悔やんでいた、ちょっぴり因縁のお寺なんです。


法華寺参拝の前に、菅原道真公をお祀りする天神様の総本社、北野天満宮をお参りさせていただきました。
(↑北野天満宮本殿)
実は、僕が生まれ育った小田原市国府津にも、鎮守様として菅原神社があります。僕は天神様に見守られながら育ったという自覚があり、いつか北野天満宮をお参りさせていただきたいと思っていたので、願いが叶いました!


法華寺のご住職がお寺にいらっしゃる時間までまだ少しあったので、北野天満宮の隣にある花街・上七軒を見学。
お茶屋さんの街並みにうっとり。
でも僕には一生ご縁がなさそう・・・笑



一軒の洋食屋さんでランチ!
煮込みハンバーグが革命的に美味かったです。


その洋食屋さんの奥様から、和楽(10・11月号)という雑誌に、そのお店が紹介されたと教えてもらいました。
(小学館・和楽10・11月号:京ことば都がたり)
何と!記事を書かれているのは三笠宮の長女・彬子(あきこ)女王ではないですか!
和楽にご自分の担当ページを持たれており、意外とさばけた文章で読みやすいです。
実は彬子様、北野のお近くにお住まいだそうで、その洋食屋さんにはたびたびお食事にいらっしゃるのだとか。(もちろんSPさんも一緒みたいです。)
さすが京都、今も昔も皇室の方が身近なんですね!



法華寺は北野天満宮から一本道、5分ほど南に歩きます。
周辺は昔ながらの町屋とお寺が混在していて、ぶらぶらしているだけでも和みます。


改めて地図で見てみると、法華寺は立本寺の西、ほんの2ブロック位しか離れていません。

4年前に見たのはこの題目碑だ!独特の字体ですよね。
重厚な山門をくぐって境内に入ります。



山号は妙喜山です。


聡明そうなご住職にご首題をお願いし、本堂を参拝。

内陣の中央に日蓮大菩薩、向かって右側に日朗、日像菩薩、左側に大覚大僧正と中興の日進上人の、それぞれのお像がお祀りされていました。
よく清められた御宝前で、気持ちよくお経をあげさせていただきました。


庫裡で麦茶をいただきながら、ご住職にお寺の歴史をうかがいました。
(当日はなかなかの残暑、冷たい麦茶がめっちゃ美味かったです!)

法華寺のある場所は、2つの重要な出来事の、由緒地であるそうです。


一つ目は、上洛した日像上人が、たびたび辻説法されていた場所であること、そしてもう一つは、大覚大僧正が改宗するきっかけになった場所だということです。
(↑法華寺境内にある題目塔)
日蓮聖人のご遺命を受け、永仁2(1294)年に上洛した日像上人ですが、京都には知っている人も頼るあてもない、まさにゼロからのスタートでした。
とにかくどこかで布教を始めなければいけない、ならば京都でいちばん賑わっている所でやろうじゃないか、ということで、日像上人が狙いを定めたのは、北野天満宮でした。



北野天満宮から南へ延びる道は「御前通り(おんまえどおり)」といいます。「北野天満宮の御前の通り」がその由来だそうです。


(↑御前通り)
洛中一のパワースポット、そのご利益にあやかろうと、当時はそれは多くの人でごった返していたことでしょう。
日像上人はこの御前通り沿いで、辻説法を始めたのです。


(↑御前通り)
こんな感じの道端でやられていたのかな・・・。
京都は街並みがクラシックなので、当時のお姿を想像しやすいです。


お上人に懇願して、本堂にお祀りされているお像の画像を撮らせていただきました。
これは日像上人の辻説法姿を刻した、珍しいお像だそうです。
(↑日像上人坐像)
なんか、カゴ的なものに座られていますよね!
日像上人は草刈り籠に腰掛けて、道行く人々に法華経の教えを説いていた、と伝えられています。
日蓮聖人のいわゆる「獅子吼」スタイルと比べると、なかなかフランクなお姿ですよね。それこそギターでも抱えたら路上ライブでも始めそうな・・・辻説法もある意味、路上ライブでしょうけど!


日像上人は、とにかく弁の立つお坊さんだったようです。
(↑北野天満宮・一の鳥居)
天神様の門前ですから、不安がある人、願いがある人も歩いていたのでしょう。
一人二人と歩みを止め、しばしお説法に聞き入りました。



入信者は徐々に増えてゆきました。特に職人さんなど商工業に従事する方が多かった、といいます。
(中には大商家の主人などもおり、のちに京都日蓮教団を支える有力な檀越となったようです。)


当時十代だった妙実上人(のちの大覚大僧正)も、辻説法から入信した一人です。

(↑法華寺山門前の石碑)
嵯峨大覚寺に仕える真言僧だった妙実上人は正和2(1313)年、日像上人のお説法をこの場所で七日間にわたって聴聞し、納得するものがあったのでしょう、このとき改宗されたそうです。



今回、北野白梅町から嵐電に乗って、嵯峨の大覚寺も訪問させていただきました。


平安時代に嵯峨天皇が造営した離宮をルーツとする大覚寺は、皇室や公家の人々が出家して住職を務める、いわゆる門跡寺院です。(真言宗大覚寺派)
(↑嵯峨山大覚寺の石舞台、勅使門)
妙実上人の出自は諸説ありますが、いずれの説も公家出身です。
なかでも近衛家の生まれであろう、という説が有力のようです。


これは日像上人の辻説法に聞き入る妙実上人を描いた絵ですが、輿に乗っているのが、妙実上人です。優雅ですね~!
(↑第650遠忌記念「大覚大僧正」京都像門本山会刊より引用)
当時は身分の違いがはっきりしていたでしょうから、この優雅さはわからないでもありませんが・・・う~ん、吉備国であれだけ沢山のお寺を苦労して築き、京都がピンチの時は西国信徒から供養された金品を必死で送って妙顕寺を支えた、あの大覚大僧正と同一人物だとは、にわかに信じ難いです。


(↑法華寺本堂の寺紋提灯:近衛家と同じく牡丹!)
それだけ信仰が妙実上人を、芯から変えたのだと思います。
一方で師匠日像上人の度重なる逆境のなか、むしろ公家、近衛家出身という肩書が、大きなアドバンテージとなっていたと思います。


元享元(1321)年、ついに日像上人が朝廷から寺地を下賜され、京都に妙顕寺を開創、建武元(1334)年には後醍醐天皇により妙顕寺を勅願寺とするという綸旨を賜ります。
(↑具足山妙顕寺山門の表札)
北野の辻説法から始まった日像上人の活動は、実に40年の時を経て、実を結んだのです。

康永元(1342)年、日像上人は後継者を妙実上人に定め、74才の生涯を閉じられました。


妙実上人が妙顕寺二世を担っていた約20年間は、それそのまま南北朝の動乱の時期と重なります。
(↑法華寺境内にある題目塔)
妙実上人は朝廷や幕府から依頼を受け、四海静謐、疫病平癒、天下泰平などの祈祷を、度々行っていたそうです。
このうちの一回が、旱魃時の祈雨でした。


他宗では全く効果が現れなかった末の勅命で、妙実上人はお弟子さんとともに桂川の畔で法華経を読むや、すぐに豪雨となりました。
(↑第650遠忌記念「大覚大僧正」京都像門本山会刊:表紙の絵は桂川畔で祈雨をされる妙実上人)
時の後光厳天皇は非常に喜ばれ、この時に日蓮聖人に「大菩薩」、日朗上人、日像上人に「菩薩」の号を賜りました。
妙実上人は「大覚」という法号と、お坊さんの最高位「大僧正」(※)の僧綱(そうごう)を賜ったといいます。
※正確には、祈雨の功績で「僧正」を賜った翌年、再び大祈祷を成し遂げ、「大僧正」に昇叙されたようです。



ちなみにこの僧綱というお坊さんの位は、飛鳥時代の律令制度をルーツにしており、古くは朝廷が管理していたようです。
明治維新後に廃止され、現在は各宗派ごとに僧階が定められています。


(↑綱脇龍妙上人:ニチレン出版「綱脇龍妙上人」尾谷卓一著より引用)
例えばハンセン病救済に生涯を尽くした身延深敬園の綱脇龍妙上人は、確か80才を過ぎてから日蓮宗大僧正に昇叙されたと記憶しています。
僧侶としての業績や年数なども考慮されるのでしょうね。


いずれにせよ、妙実上人が日蓮宗では最初の「大僧正」だそうですよ。
(↑大覚大僧正妙実上人坐像)
妙実上人改め、大覚大僧正は自らの僧綱よりも、今は亡き先師達に菩薩号を贈ることができたという事実が、何より嬉しかったと考えられます。
これを記念して、日像上人が辻説法をしていた、そして自らが改宗した北野・御前通りの一画に、大覚大僧正は法華堂を建立されました。
現在の妙喜山法華寺のルーツです。



貞治3(1364)年4月3日、大覚大僧正は68才で化を遷されました。
以後200年以上、北野の法華堂についての記録は全く認められないそうです。



ご住職によると、室町幕府の政争や度重なる一揆で、京都は相当荒廃していたようですし、天文5(1536)年に起きた天文法難では、京都の法華寺院はことごとく焼かれたといいますから、北野の法華堂も例外ではなかったでしょう。


江戸時代になり、乾性院日進上人というお坊さんが、かつて法華堂があった場所に、お堂を再建されました。
当時、文書が残っていたのか、あるいは口伝なのかわかりませんが、御前通りが仁和寺通りに交わる辺りが、京都宗門の由緒地だと伝えられていたのでしょうね。
(↑乾性院日進上人坐像)
↑こちらは法華寺本堂にお祀りされている日進上人のご尊像です。
泰然とした表情、それこそどんな問答を挑んでもさらっと答えてくれそうな雰囲気です!



宗門を天下公認にしてくれた日像上人、西国布教の偉人・大覚大僧正の大切なご霊跡、まさにその地を、今日こうして参拝できている・・・。
これは再興してくれた日進上人はじめ、護持してくれた歴代のお上人方のおかげ。
深い感謝を込めて、御宝前に合掌しました。



法華寺の境内には、妙見堂があります。
お堂に上がらせてもらい、ご住職にお像を見せていただきました。


お堂には鬼子母神様や七面様などもお祀りされていますが、やはり妙見様が目を引きます。

右手に受け太刀、そして左手でピースサインをした憤怒像。
いつ勧請されたのかはわからないようですが、この場所に妙見様が祀られるのには、意味があるのでしょう。


日像上人が辻説法をされていた時代、大内裏(京都御所)は現在の京都御所よりもずっと西、今の二条城の方にあったようです。
そして大内裏の北西、つまり戌亥(いぬい)の方角に、北野天満宮はあります。
(↓地図にある「大極殿」は大内裏の正殿、だと思います)
(↑北野天満宮の説明板)
古来、天皇は、天空の中心にある北極星を守護神として尊崇してきました。
そして戌亥の方角というのは天門、北極星への入口と考えられていたため、当時の北野天満宮は国家的にもすご~く重要な、パワーに満ちた地であったのでしょう。



また、法華寺から2~3分歩いたところには、大将軍八神社があります。
大将軍も星神様で、方角や方位を護る存在として、大内裏造営の際に、その北西に祀られたそうです。


妙見様も北極星を神格化した存在なわけで、ここ北野の法華寺境内に祀られているのは、実はごく自然なことだと思います。
(↑法華寺妙見堂前の水盤)
ご住職によると、法華寺の妙見菩薩像は、大将軍八神社にお祀りされている大将軍神像によ~く似ているそうです!
僕たちの知らないところで、いろんなことが密接に関係しあっているんですね。
調べ始めたら深みにハマりそうなので、やめておきます(笑)。


いや~、北野の法華寺、数年がかりの念願でしたが、京都宗門のルーツでもある大切な地、やっぱり参拝に来て良かったな!
応対してくださったご住職は、数年前に法華寺の法灯を継がれたとお話しされていました。(先代ご住職は昨年10月に遷化されたそうです。合掌。)
妙顕寺の役職も兼ねておられるようで大変でしょうが、そう感じさせない雰囲気に、僕も元気をいただきました。

応援しています!