日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

水替無宿人の墓(佐渡市次助町)

2023-08-01 15:43:49 | 旅行
先日、5年ぶりに佐渡を訪れたわけですが、5年前と大きく違っていたのは・・・

こんなポスターが沢山、貼られていたことでしょう。


昨年2月、政府の閣議で「佐渡島の金山」のユネスコ世界遺産への推薦が、正式に決定しました。
(両津大橋付近)
実際には登録の一歩手前で足踏みしている状態のようですが・・・。
魅力たっぷりの島、世界遺産登録をきっかけに、是非多くの方に訪れてほしいものです。


(両津港ターミナル内 佐渡金山ブースより)
この佐渡島、金の産地としての歴史は古く、今昔物語集(平安末期)には、佐渡で砂金を採る人のお話がある、といいます。


(大佐渡山地の山並み)
しかし佐渡の金が日本じゅうに知られるようになったのは、慶長6(1601)年、巨大な金脈が発見されたことに始まります。


そのわずか2年後には、佐渡が徳川幕府直轄の天領となり、佐渡奉行所管理のもと、膨大な金鉱石が掘られました。
(復元された佐渡奉行所跡)
また精錬技術も高く、佐渡の金は量、質とも当時の世界最高水準、江戸時代を通じて幕府の財政を支えたのです。



相川町から大佐渡スカイライン(県道463号線)が伸びています。



道沿いには、巨大な金脈を掘り進んでゆくうち、山が真っ二つに割れたような姿になってしまった「道遊の割戸」や、



山師・味方与次右衛門が一か八かで掘り進め、結果的に大金脈発見につながった「大切山坑」など、有名スポットが目白押しです。


それらの1kmくらい手前でしょうか、小さな案内板があります。

「水替無宿人の墓」入口です。



道は山奥に伸びています。
階段や石畳が整備され、よく草刈りもされているようです。



道の両側には石垣を積んで作った区画が沢山あります。
かつてここに人の生活があったことを感じます。



5分ほど歩くと、視界が急に開けます。
ここが今回紹介する「水替無宿人の墓」です。


金産出のピークは元和、寛永年間(1615~1644年)といわれます。
(相川金鉱脈の模式図:「図説 佐渡金山」テム研究所編著より引用)
初期の佐渡金山は、地表に露出している鉱脈を掘り取ればよいので、非常に効率よく採掘できました。


(坑内の様子:「図説 佐渡金山」テム研究所編著より引用)
ただ、露天で採れる金にも限りがありますよね。
金脈を追って坑道は地中深くなるばかり、まさにアリの巣状態。
やがて坑道は海抜下にまで貫入します。


いたる所から地下水が湧き出し、放っておくと坑道が水没してしまいます。
佐渡金山の湧水量は、他の鉱山と比べてもケタ違いに多かったといいます。
(排水坑道の図:「図説 佐渡金山」テム研究所編著より引用)
金山には排水専用のトンネル(排水坑道)も掘られましたが、ポンプなどない時代、深部の坑道から排水坑道までは人力で24時間、水を汲み続けなければなりませんでした。


(水替え作業:「図説 佐渡金山」テム研究所編著より引用)
数ある金山労働者の中でも、この「水替え人足」の仕事は特に過酷といわれ、人手の確保が佐渡奉行所の悩みの種だったようです。


一方、江戸中期、天候不順や火山の噴火が相次ぎ、たびたび飢饉が起きました。
(浅間山の大噴火:「歴史資料集」明治図書刊より引用)
貧困のために家を追われる人が急増、行き場のない人々が流れ流れて、江戸や大坂、長崎など、都市部に居つくようになります。


幕府は彼らのような戸籍のない人を「無宿人」と呼び、無宿人が増えると治安が乱れるだろうという理由で、片っ端から捕らえてゆきました。無宿人狩りです。
(航路より佐渡島を望む)
捕らえられた無宿人は、更生の名のもとに佐渡金山に送られ、水替え人足として苛烈な労働を強いられたのです。

江戸時代を通じ、佐渡に送られた無宿人は(確認されているだけで)1874人にも上るといわれます。



「無宿人の墓」の一画には新旧合わせ、いくつものお題目の供養碑が並んでいます。


ここで亡くなった水替無宿人なのでしょう、日蓮宗の戒名が刻まれています。
(水替無宿人28人の墓:嘉永6年建立)
下総、伊勢、越後・・・と出身地は多岐にわたり、また享年もほぼ40才を越えていません。
年間を通じてほぼ休みなく、空気の悪い坑道の底で、過酷な肉体労働をさせられるわけで、仕事に就いたら3年が寿命だったといわれるほどです。


こちらの新しい石碑は、無宿人に関わった遊女、そして水子を供養する塔です。

希望を失った水替無宿人たちを刹那、慰めた遊女たち。
多くは貧しい家庭に育ち、遊郭に身を投じたと聞きます。
ともすれば歴史に埋もれてしまいそうな諸霊も同様に、手厚く弔った先師がいらしたんですね。頭が下がります。



この周辺は水替無宿人たちの生活の場で、以前はここに妙法山覚性寺(※)という日蓮宗のお寺があったそうです。
つまり水替無宿人の墓石群は、もともと妙法山覚性寺の境内にあったと思われます。
(※)妙法山覚性寺:寛永7(1630)年建立、明治元(1868)年廃寺


江戸時代、相川の町はゴールドラッシュに沸き、全国から大勢の人が職を求めて移り住みました。
(相川町内に掲示された史跡散策マップより)
彼らは出身地や信仰ごとにつながり、新寺を建立して生活の中心に据えました。
また新天地を求めて集落ごと移転するケースも多く、そうすると彼らの菩提寺も引っ越してくるので、相川にはお寺が急増しました。


納税者であり地域の有力者であった上級町民は、真言宗や浄土宗を宗旨とする人が多かったようです。
(佐渡金山展示資料館より)
一方、苛酷な肉体労働に身を削る下層の町民では、日蓮宗と浄土真宗が多かったといいます。


(佐渡市市野沢 妙照寺付近の風景)
日蓮聖人は文永8(1271)年、法華弾圧のため佐渡に流されました。逆境の中、教学の礎を築き、島に信仰の種を植えました。



(越後居多ヶ浜に立つ親鸞上人像:京都大谷本廟会館に展示
それより65年ほど前、浄土真宗の開祖・親鸞上人も念仏弾圧に遭い、7年間を越後(国府=今の直江津辺り)で過ごしています。
親鸞上人が念仏信仰を深めた越後は、浄土真宗の聖地でもあるわけですね。


「一心に題目を唱えれば誰でも成仏できる」(日蓮宗)
「一心に念仏を唱えれば誰でも成仏できる」(浄土真宗)
(水替無宿人の墓:天明3年建立)
坑夫たち、とりわけ極めて短命といわれた水替無宿人たちにとって、これほどシンプルで、魅力的な信仰はなかったはずです。


前出の妙法山覚性寺(日蓮宗)が、水替無宿人たちが生活する地域に存在したというのは、お題目が彼らの中心にあったという証拠でしょう。

年に一度だけ許される外出日、水替無宿人は必ず、死んでいった仲間たちの墓に行き、香華を捧げました。
それから海に行って水垢離をとり、身の無事を祈ったということです。



もともと彼らは無宿人であったけれども、無宿人はイコール犯罪者ではなかったはずです。
無念とか不条理とかの言葉では、とても表せないほどの感情を秘めながら、それでも人としての矜持を忘れなかった彼らを想い、墓前で合掌しました。


毎年4月、相川の宗門寺院が中心となって「水替無宿人供養祭」が催されているそうです。
(両津・東光山妙法寺庫裡に掲示されていたポスター)
水替無宿人の方々が働かれた坑道跡を参加者全員で順拝、無宿人の墓前では慰霊法要、最後は近くの光栄山瑞仙寺で締めの法要を修するといいます。


光栄山瑞仙寺は、法華の篤信者であった山師・味方但馬の菩提寺です。
(相川・光栄山瑞仙寺の仁王門)
「水替無宿人供養祭」は今から半世紀前、瑞仙寺の先代ご住職の発案で始まったものだそうです。
実は今回、無宿人の墓の場所やその由緒などを、瑞仙寺の現ご住職に丁寧に教えていただきました。
心から感謝致します。


(相川・北沢浮遊選鉱場)
「佐渡島の金山」がユネスコ世界遺産に登録されると、全国から観光客が押し寄せ、相川の町もさぞ賑やかになることでしょう。


(佐渡金山展示資料館より)
膨大な金に象徴される、煌びやかな佐渡金山の歴史は、とても魅力的です。

しかしその裏には、苛酷な水替え作業を全うし、佐渡の土になった多くの無宿人たちもいたこと、是非、多くの人に知ってほしいと思います。

水替無宿人の墓が、末永く清められてゆくことを、願ってやみません。

渋手霊跡(佐渡市豊田)

2023-07-01 20:46:04 | 旅行
5月の中旬、久しぶりに佐渡を訪れました!

新潟市内は、ちょうどG7会議の真っ最中!
船着き場へのバスにまで警察官が乗り込んでくるなど、厳戒態勢でしたが、なんとかジェットフォイルに乗れました。


今回の佐渡訪問には、一つ目的がありました。

5年前に参拝させていただいた佐渡日蓮聖人大銅像

その大きさもさることながら、平成の時代に、佐渡という聖地に銅像を建立しようと力を尽くした、当時の方々の想いやエネルギーを感じ、初めて参拝した時の自分の気持ちを、ブログにさせていただきました。



建立から今年がちょうど20年、これを記念して法要が修されるという情報を聞き、これは是非、参加しなければ!と島に渡ったのです。


5月13日の午後、初夏の爽やかな空気の中、記念法要は始まりました。

当日は宗務総長、佐渡三本山の貫主さん方、建立の中心となったお上人方などが揃って参列されていました。



屋外で、沢山の檀信徒さん達とお経を唱える経験は初めてでしたが、そのシチュエーションのせいでしょうか、スカっと開放的な雰囲気で、笑顔の絶えない法要でした!



ちょうど今年は、日蓮聖人が佐渡流罪をご赦免となられ、鎌倉へ向けて出立されてから750年にもあたり、この良い砌に、佐渡に居られる幸せを嚙み締めました。



大銅像記念法要の翌朝、僕はレンタカーを走らせ、佐渡西部・真野湾沿いの「豊田」という浜を訪れました。



すぐ近くには、佐渡に流された順徳上皇が、初めに上陸された「恋ヶ浦」もあります。


豊田の浜は、古くは「渋手」と呼ばれ、ご赦免となった日蓮聖人が、佐渡の信者さん達とお別れした霊跡として、知られているそうです。

「去る文永十一年二月十四日の御赦免の状、同三月八日に島につきぬ」(種々御振舞御書)

当時、生きては帰れないといわれた佐渡流罪を「赦免にする」とした幕府の文書が、日蓮聖人の元へ届けられました。


佐渡に流されてから既に2年4ヵ月余り、島内の信者さんも徐々に増え、その頃には日蓮聖人を慕う一大グループができていたことでしょう。
佐渡流罪ご赦免の報を聞いて、彼らが手放しで喜んだ様子が、なんとなく想像できます。

と同時に、今日まで、幸せに生きる心の在りようを、顔を突き合わせて丁寧に教えてくれた日蓮聖人は、島を離れて鎌倉へ帰ってしまう・・・
鎌倉時代のことですから、今生の別れとなることは、ほぼ間違いありません。
信者さんの心中は、複雑だったことでしょう。


日蓮聖人は5日間で旅の支度を整え、3月13日、真野湾沿いの「渋手」という場所で、信者さん達とお別れすることになりました。

真野湾は西に口を開け、深く切れ込んだ入り江です。
そのため湾内は、牡蠣やワカメの養殖が行われるくらい、波が穏やかです。




流れ着いたゴミを見ると、ハングル語とか中国語で書かれており、国境の海を感じます。



豊田漁港のすぐ近く(※)に、渋手霊跡の石碑があります。
※以前は違う場所にあったようですが、昭和57年、国道改修に伴ってこちらに移されたようです。



いくつかの石碑が並んでいますが、いわゆる渋手霊跡の碑は、一番奥のものです。



日蓮聖人がここから船出されたことを偲んで、建てられた碑のようです。



大正10(1921)年、世尊寺のお上人の発願で、この辺り豊田の住民有志で建立された石碑、ということがわかります。


渋手霊跡から東に3~4km離れた世尊寺は、国府入道夫妻ゆかりのお寺です。

昔から地元豊田では、ここ渋手が日蓮聖人のご霊跡として伝えられ、世尊寺を拠点として、大切に、大切に護持されてきたのでしょう。


宗門の説明板には「島民惜別の地」と書いてありました。

この浜に、日蓮聖人を支援した多くの島民信者さん達が集まり、互いに手を取り、涙を流して、聖人との別れを惜しんだと思われます。


国府尼御前御書には、恐らくこの時の日蓮聖人ご自身の感情でしょうね、綴られています。

「つら(辛)かりし国なれども そ(剃)りたるかみ(髪)を うしろへひかれ すすむあしも かへりぞかし」

さざ波の音しか聞こえない静かな浜で、感慨に耽りました。



日蓮聖人を外護した、例えば阿仏房夫妻、中興入道、国府入道夫妻、一谷入道夫妻などのご霊跡、つまり多くの信者さんの住まいは、いずれも国仲平野のやや西側に位置しています。
真野湾に比較的近い場所でもあり、ここ渋手がお別れの地となったのは、自然なことだと思います。


(佐渡松ケ崎・法華岩から本土を望む)
このあと日蓮聖人は佐渡守護所の国津・松ケ崎に至り、真浦で風待ちをしてから本土を目指した、という説が有力です。
先ほどの宗門の説明板にも、そう書いてありました。


渋手からは、船で松ケ崎に向かうこともできますし、また梨ノ木峠の入り口に位置していますので、峠越えで松ケ崎を目指すこともできます。
(県道65号線沿いの石碑)
もしかしたら渋手という土地は古くから、本土に渡る人々との、別れの地だったのかもしれませんね。


(日蓮宗新聞:令和5年5月1日号より)
先日の日蓮宗新聞には、3月に佐渡ご出立750年を記念した法要が行われた記事が載っていました。
これをもって、一連の佐渡法難750年の行事が、幕を閉じたようです。


今年は佐渡ご出立だけでなく、身延山開闢なども節目の年。
(それだけ750年前の日蓮聖人は、激動の渦中におられたということでもあります。)
(身延山久遠寺本堂前の慶讃高札)
50年毎の行事は、現実的には私達、一生に一度あるかないかでしょう。
日蓮聖人を宗祖と仰ぐ我々信徒は、そのチャンスに巡り逢えた喜びと同時に、終わってしまう一抹の寂しさを感じる、それが正直な気持ちではないかと思います。


皆さん一度、冒頭で紹介した佐渡の大銅像を見にいらしてください。
当時の青年僧たちが「あくまでもそのお姿を、聖地佐渡に顕現すべきである」という思いをもって建立された、圧倒的なお像と向き合ってみてください。

言葉では上手く表現できませんが、時間なんかはあくまで方便で、お祖師様の魂魄は今も、間違いなく存在していると、再認識するはずです!

南無妙法蓮華経。

身延山恵善坊(身延町身延)

2023-06-01 17:17:25 | 旅行

身延山久遠寺のエントランス、三門。
何度見ても、その存在感に圧倒されます。


今回は、そんな三門の目の前にある宿坊に、参籠しました。

身延山をよく参詣する方には、見覚えのあるエメラルドグリーンの屋根。
恵善坊です。



あれ?坊名を刻んだ石、屋根と同じ緑色だ!
坊名は赤い字ばかりだと勝手に思っていましたが、案外自由なのかも。



ところで我が家、随分昔から火除けと方位除けのお札を張っています。


最初は親戚から戴いたんですが、身延山参詣の折、偶然同じお札を見つけ、以来、毎年交換しながら既に20年。今や、そこにあって当たり前の存在になっています!


これらのお札、三門で売っています。
三門に売店?と思われるかもしれませんが、仁王像が安置される「間」の一画に札所があるんですね。

閉まってたり不在の時は、ピンポンすると恵善坊から人がやって来て、買うことができるんです。
そう考えると、我が家は恵善坊とすでに20年、ご縁があるわけです。



こちらは恵善坊の本堂です。
今晩お世話になります、と手を合わせました。



本堂横に、恵善坊歴代の御廟があります。
長きにわたって法灯を継ぎ、また巨大な三門を見守り続けてくださったことに、心から感謝し合掌しました。


恵善坊の歴史は、そのまま三門の歴史でもあります。

徳川将軍が2代秀忠から3代家光に移り、幕藩体制がようやく安定してきた頃、身延山も目覚ましい発展を遂げていました。
(↑身延山久遠寺境内)
江戸初期の身延山法主を調べてみると、
20世 一如院日重上人
21世 寂照院日乾上人
22世 心性院日遠上人
23世 慧眼院日祝上人
24世 顕是院日要上人
25世 寂妙院日深上人
26世 智見院日暹(せん)上人
と続きます。


(↑京都本満寺の山門)
20~22世は京都本満寺の出身ですし、23、24,26世は22世日遠上人のお弟子さん、25世は21世日乾上人の門下、ということで、この頃の数十年間はまさに一枚岩、大プロジェクトを敢行しやすかったと思われます。


山内のルール作りに始まり、西谷檀林の開講、そして戦国時代には難しかった諸堂宇の整備などが為されました。
(↑身延山久遠寺の菩提梯)
特に26世を継がれた日暹(せん)上人は、方丈、会合所、対面所、そしてあの菩提梯など、外部から身延山を訪れる人々の、利便性を高める施設を多く整えられたようです。


身延山に初めて三門が建立されたのも、日暹上人の時代です。
(↑三門の説明板より)
寛永17(1640)年に寄付を募り始め、その2年後に13間の巨大な楼門と、左右5間の山廊(※)が竣工します。
(※)楼門の左右にある、楼上への階段を囲む建物


(↑恵善坊の歴代御廟)
このとき設けられた三門別当寮が、恵善坊のルーツです。
なので恵善坊の開創は、三門と同じ寛永19(1642)年、智見院日暹上人が開基となっているそうです。


(↑身延山歴代御廟:左から22世日遠、26世日暹、27世日境上人)
日暹上人は、京都の篤信家・浦井宗府公の次男として生まれました。
兄は水戸藩主・頼宣公に仕える儒学者、弟が二人いて、一人は通心院日境上人(のちの身延山27世)、もう一人は立正院日揚上人(京都鷹峰檀林玄堂の初祖)という超エリート四兄弟。
さらに叔父は真応院日達上人、小西檀林の祖というから、驚くばかりの家系です。


日暹上人はとにかく弁が立つお坊さんで、「富楼那(ふるな)日暹」という異名もあったそうです。
法華経にも出てくる富楼那尊者は、お釈迦様の大勢いるお弟子さんの中でも弁舌ナンバーワン、説法第一と称された方です。


江戸初期の宗門は、法華経信者以外(将軍など為政者も含む)からは一切の布施、供養を受けず、また施しもしないという、池上本門寺をはじめとした「不受派」と、教団を存続させるため、ある程度は妥協すべきという、身延山をはじめとした「受派」に分裂、論争がヒートアップしていました。
(↑池上本門寺・総門)
そこで幕府は寛永7(1630)年、双方の代表者を江戸城に召喚し、城中問答を行わせました(身池対論)。
このとき身延山法主を務めていたのが日暹上人で、もちろん受派の代表者として対論に臨み、富楼那ばりの活躍をされたのでしょう、「不受派は邪宗である」という裁定を勝ち取りました。


(↑身延山・日蓮聖人御草庵跡)
そもそも宗祖日蓮聖人のスタンスを厳格に踏襲するならば、不受不施の考えが正統なのでしょう。対論で敗れたお上人方は、より純粋だったに違いありません。
しかし室町、江戸・・・と社会が変容し、人々が平和に共生する術を、懸命に模索してきたわけで、やはり相応の妥協は仕方なかったと、僕は思います。



そういう意味では、江戸初期の不受不施問題や、明治維新期の仏教弾圧を乗り越えてこられた先師達には、本当に感謝していますし、当時の舵取りは正しかったと、確信しています。

ずいぶん脱線しちゃいましたね。
話を三門、恵善坊に戻しましょう。



恵善坊の歴代を刻んだ墓誌を見ると、第一世が恵善院日信上人(江戸中期・寛政10年遷化)となっています。その院号から、恐らくこのお上人の代で三門別当寮は「恵善坊」と公称したのだと思います。



江戸末期以降、三門は火災と再建を繰り返します。
身延山史によると、初代三門は慶応元(1865)年の大火で焼失、このとき恵善坊も全焼してしまったようです(のちに再建)。
(↑再建された仮三門:身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用)
翌年、仮門が建設されますが、その仮門も明治20(1887)年に焼け、数年後に再度、仮門が設けられました。


しばらくは仮門が身延山の顔だったわけですが、やはり正式な三門が渇望されたのでしょう、身延山78世を継いだ豊永日良上人(管長も兼任)が中心となり、2代目三門建設プロジェクトが始まりました。

日清・日露戦争もあった時代、建設費に困難を極め、予想外の時間がかかりましたが、明治40(1907)年にようやく現在の三門が完成しました。


ここでふと思い出したのが、ハンセン病救済に尽力された綱脇龍妙上人です。
ちょうどこの時代、救らい施設建設を豊永日良上人に直訴しましたが、「三門建設で手一杯、宗門としては一銭の補助もできない」と資金提供は断られてしまいました。
(↑身延深敬園創立時の仮病室:加藤尚子著「もう一つのハンセン病史」より引用)
しかし豊永日良上人は、代わりにポケットマネーと、三門近くの大工小屋を提供してくださったそうです。
これを仮病室として明治39(1906)年に始まったのが、あの身延深敬園です。



乾いた雑巾をなお絞って、お金と知恵をひねり出していた当時のお上人方を、我々は決して忘れてはなりません。
こうしたエピソードを知ると、三門がとても愛おしく思えます。


そろそろ宿坊としての恵善坊を紹介したいと思います。

恵善坊では参籠者参加の夕勤はなく、受付を済ませたら夕食までフリーです。



案内されたのは2階の桔梗の間です。
今まで参籠した坊と比べ、より旅館テイストを感じます。



やたっ!みのぶまんじゅうと聖人せんべいだ!


窓を開けると、夕暮れの身延山がドーン!
春の山は彩り豊かです。



下に身延川、そして木々で遮られていますが、向こう岸は障害者支援施設かじか寮、かつての身延深敬園です。
尊敬する綱脇龍妙上人のご霊跡の間近で過ごす、特別な夜です。


身延山90世・岩間日勇上人ご染筆の色紙が掲げられていました。

妙法蓮華経見宝塔品第十一、あの宝塔偈の一節ですね!
「法華経を信仰する人こそ、浄土に住む仏弟子です」
心の持ちよう次第で、この穢土も浄土になる・・・僕の生涯の目標です。



さあ、晩ごはんです。
心づくしの精進料理、ホントに華やかですよね!
湯葉をアテに、晩酌なんかしちゃって、ごはんのおかわり2回もすれば超満腹。ご馳走さまでした!


お風呂をいただき、窓を開けて涼風にあたります。

お、松樹庵って明かりが灯るんだ。初めて知った!
それでは、おやすみなさいzzz・・・



翌朝は久遠寺朝勤に参加するため5時起床。
早朝の三門を独り占め!



日暹上人代に造営された菩提梯を登ります。
起きがけの287段は、なかなかのもんです。ふぅ~。


(↑身延山久遠寺・大堂)
祖山での勤行は、毎回新鮮な気持ちで臨むことができます。
僕の心の芯、みたいなものです。



朝勤を終えると、すっかり明るい裏三門。



わ~い、朝ごはん。
実は朝勤の途中から腹がグーグー鳴ってました(笑)!



ごはんも美味しかったし、坊内もキレイで、居心地良かったです!
ロケーションも含め、宿坊に泊まるのは初めてという方に、特におすすめの坊だと思います。



前日にお願いしていた御首題です。
三門イコール恵善坊ですからね、三門の御首題でした!

正東山日本寺(多古町南中)

2023-05-01 11:28:47 | 旅行
今回は、昨年訪れた下総の檀林跡を紹介します。

前回紹介させていただいた飯高檀林跡(飯高寺)から西に3kmほど、多古町という所に、日本寺があります。
「にちほんじ」と読むようですね。


参拝したのは秋のお彼岸頃でした。
境内は彼岸花が満開!
法華経の序品第一に「曼陀羅華 摩訶曼陀羅華 曼殊沙華 摩訶曼殊沙華 而散仏上・・・」という一節があります。
大勢の菩薩たちを前にして、これから法華経を説かれようというお釈迦様の頭上に、沢山の花々が舞い始め、まさに場は整いました!って感じでしょうか。
この花々の一つが曼殊沙華、つまり彼岸花だそうです。



あじさいの本数がスゴっ!
真夏の直射日光を嫌うあじさいにとって、杉林に守られた良い環境なんでしょう。
梅雨の時期に訪れてみたいものです。



山門です。昔は茅葺屋根だったそうです。
修復はされていますが、檀林時代の建築だということです。



山門の大棟には桔梗紋。
かつて下総を治めた千葉氏や、中山法華経寺との関係が深そうですね。



山号は正東山(しょうとうざん)です。



山門から北に向かって参道が伸びています。
歩を進めるにつれて、往時にタイムスリップしてゆく感じです。



檀林らしく、経蔵もあります。
かつては一切経が格護されていましたが、現在は宝蔵として使われているようです。



(↑宝蔵の説明板より)
日本寺には「交互の御影(みたがいのみえい)」という、2体のお像が格護されています。
日蓮聖人と富木常忍公が、互いに相手のお像を刻したもので、完成後に交換、日夜敬慕礼拝されたといいます。



祇園祭の屋台のように、背の高い鐘楼。
檀林時代、講義の開始と終了を知らせていたのかな?



こちらが本堂。明治25(1892)年の建築です。
檀林時代の講堂を1/3に縮小しているそうで、旧講堂がどれだけ大きかったのかが窺えます。


本堂に掲げられた扁額には「正東学庠」。
「庠(しょう)」は学校の意味です。
身延山史などでは、歴代法主の経歴を紹介する際、檀林のことを「庠」とか「講肆(こうし)」と表記しているケースが多いです。



檀林の名残りでしょうか、学び系の月行事が多いですね!


境内には「岡田稲荷」と「豊田稲荷」が並んで鎮座しています。


夫婦稲荷という珍しい形態で、願い事があるときは岡田社、豊田社から一対のお札を拝受し、家に大切にお祀りすると成就するそうです。
どんな由緒で夫婦になったんだろう?


歴代お上人の御廟に参拝。

檀林跡だけあって、歴代化主(学長)と思われる墓石が、規則正しく並んでいます。


(↑中山法華経寺奥之院の富木常忍=日常上人像
日本寺のルーツを辿ると、日蓮聖人の最古参の信者であり、一貫して聖人を支え続けた大檀越・富木常忍公に行き着きます。


弘安5(1282)年に日蓮聖人がご入滅されると、常忍公は出家して常修院日常上人となり、中山法華経寺の淵源となる法華寺を創建します。
(↑中山法華経寺奥之院の富木常忍=日常上人像)
日蓮聖人より6才年長といわれる常忍公ですが、晩年も日蓮聖人ご真筆のご本尊やご遺文の保護に尽力するなど、宗門のために精力的に働かれました。



そして最晩年に隠棲されたのがこの地、かつては「千田庄」という千葉氏の所領だったそうです。
富木常忍公は千葉氏の下で働く事務官僚でしたから、ご縁のある土地だったのでしょうね。


文応元(1319)年、中山法華経寺3世の法灯を継いだ浄行院日祐上人が、常忍公隠棲の地に庵を結んだのが、日本寺のルーツです。
(開山当時は高祐山東福寺と称したそうです。東福寺も現存しています。)

日本寺の御廟墓石では、日祐上人は開基。そして・・・



師匠の日常上人を開山に仰いだ形になっています。
中山法華経寺とのご縁が非常に深いお寺、ということがわかります。


そういえば中山法華経寺の山号は「正中山」、日本寺は「正東山」。
恐らく日本寺は中山のほぼ真東に位置するゆえの山号なのでしょう。
(↑中山法華経寺山門の扁額)
(↑日本寺山門の扁額)
さらに両山の山門に掲げられた扁額はいずれも、書家、美術家として有名な本阿弥光悦公の揮毫です。筆跡そっくりですよね!
両山とも歴史的に、本阿弥家の菩提寺である京都本法寺とのご縁が深いようです。


時は下り天正15(1587)年、日本寺13世の日俒(ごん)上人は、北条氏政から寺領を寄進され、お寺を現在地に移転しました。

このとき寺名を正東山日本寺に改めました。
実は日俒上人、当時の中山門流のトップにおられた方でしたが、本山間の勢力争いに巻き込まれ、日本寺晋山は本意ではなかったようです。
山号の「正東山」は、近くて遠い中山への、最大限のリスペクトだったのかもしれません。



日俒上人が遷化されて間もなく、日本寺に檀林の種をもたらしたのは、慧雲院日圓上人でした。


飯高小学校近くに、日圓上人塚があります。
(↑飯高・日圓上人塚)
質素な墓石が、お堂で覆われています。
現在も地元の方々が護持してくださっているようです。


塚の説明板によると、飯高生まれの日圓上人は、飯高檀林の前身・飯塚学室当時からの生徒だったそうです。それこそ檀林の祖といわれる教蔵院日生上人直々に師事しました。
(↑日圓上人塚の説明板)
もともと「天資敏悟」な日圓上人は、日生上人が京都松ケ崎に帰った後も猛勉強し、「無双敵無ク」飯高檀林の学僧トップに立ちました。


慶長3(1598)年、飯高檀林2世が誰になるのかで、ちょっとした騒動が起きます。
2世は法雲院日道上人(のちの身延山19世)と大方決まっていたようなのですが、一部のグループが頑なに日圓上人を推したことで論争に発展、檀林内がギスギスしてしまいます。
(↑日本寺本堂に祀られる日圓上人御影:都守基一編「恵雲院日圓聖人と中村檀林」より引用)
ところが当の日圓上人、過熱する争論を避け、あっさりと隣村の日本寺に身を引きます。争いごとを嫌い、かつ年長者(日道上人は7才ほど年上)を立てる人格者だったようですね。
そんな日圓上人のこと、日本寺に晋山すると、学徳を慕って学僧が続々と集まり始めました。
慶長4(1599)年、ここに中村檀林が開かれたのは、自然の成り行きでした。


それから3年後、日圓上人は尚も推されて飯高檀林4世に就きます。
一旦は飯高檀林を退き、中村檀林の経営に尽力していたはずですが、飯高での人気は未だ冷めやらなかったのでしょう。

(↑日圓上人塚の墓石)
ところが慶長10(1605)年、「暴徒ノ為殉教」されてしまったと、日圓上人塚の説明板に書いてありました。まだ39才の若さでした。
犯人は飯高檀林の学徒だったといわれているそうです。


周囲のドロドロした思惑に翻弄され、志半ばで化を遷された日圓上人ですが、それがかえって人々の尊崇を集めることになりました。
(↑日本寺本堂前に建つ石碑:「舊 」は「旧」の旧字)
そして、日圓上人ひとりの学徳で開かれた中村檀林という学び舎は、のちに飯高檀林と肩を並べるまでに隆盛するのです。


話を日本寺境内に戻しましょう。
かつて参道の左右には、学坊が所狭しと並んでいたそうです。

中村檀林の学坊は大きく二つの谷(さく)に分かれていました。参道を隔てた西谷と東谷です。


各谷所在の学坊一覧がありました。
(↑檀林時代の西谷所在学坊一覧)
西谷筆頭にある観月庵は、中村4世・顕是院日要上人が開いた檀林初の学坊で、
のちに身延山法主となる妙心院日奠上人や隆源院日莚上人を輩出する名門です。

(↑檀林時代の東谷所在学坊一覧)
東谷筆頭の真如庵は、通心院日境上人が設けた学坊で、これにより西谷観月庵と双璧を成しました。
日境上人は檀林の整備に尽力し、のちにやはり身延山法主として晋山されます。



ちなみに、↑画像、東谷の学坊が少ない理由が、「軒並の商估(商売)」が幅を利かせ「修学に適さざる為か」と書いてあります。
詳細はわかりませんが、そんな時もあったのでしょう(笑)。


学僧を一カ所に集めず、敢えて東西に分割して互いを競わせるというのは、比叡山や飯高檀林のシステムに似ていますね。
(↑日本寺の境内図より)
学僧達は研鑽を積み、年2回、東谷vs.西谷で論争大会を催していたといいます。
今でいうディベート対決、すごく盛り上がったんでしょうね!


そうなると自ずとグループの絆が深まり、やがてカリスマ教授を中心とした学閥、すなわち「法縁」が成立します。
(↑日本寺境内・宇賀神社の彫刻:波の伊八刻)
実際、中村檀林から派生した宗門の法縁は多いようで、「境師法縁」「奠(でん)師法縁」「莚師法縁」「親師法縁」「達師法縁」などは、素人の僕でも聞いたことがあるくらい有名です。
実際、この5法縁のお寺、お上人だけで、宗門の半数にもなるくらい、現在も巨大なグループなのだそうです。


喩えはアレですが、政党の中にある派閥みたいなもの、なのかなぁ?
各論になるとちょっとずつ温度差がある的な。
(↑日本寺歴代御廟の入口)
檀林が廃止されて1世紀以上経過した現在でも、お坊さんやお寺のプロフィールに「~法縁」とあるのを目にしますから、法縁自体は存在するのでしょう。
詳しいことはわかりませんが、宗務所単位とはまた違う人脈が宗門には存在することを、意識しておきたいと思います。



境内には妙見宮があります。七面様も合祀されてます。


(↑妙見宮壁面に描かれた星梅鉢紋)
妙見様は天神様。学業の神でもありますよね。
往古数えきれない学僧達が、ここで祈りを捧げてきたのでしょうね。


実は多古の町なかにも妙見宮が沢山あるんです!
(↑飯徒井城跡にある妙見宮)
やはり千葉氏とのご縁が深い土地柄ゆえ、だと思います。
先ほどの夫婦稲荷といい、その土地独自に発展した信仰って、とても興味深いです。


(↑日本寺本堂の旧鬼瓦と思われる)
隆盛を極めた中村檀林でしたが、明治の学制発布で檀林制度自体が廃止されてしまいます。もともと純粋な学問所として、お檀家さんなしで経営してきたため、苦しい時代が続いたようです。


現在、日本寺は貫首さんが住職を務める本山であり、また近隣の信徒有志などで奉賛会が組織され、維持運営されているようです。

建物こそ年季が入っていますが、広い境内によく手が入っているのがわかります。
一信徒として、心から感謝致します。



多古町には日本寺のほかにも、「藻原殿」斎藤兼綱公が創建した妙光寺、日弁上人が開山の妙興寺、日蓮聖人直々に改宗された顕実寺など、鎌倉時代からの宗門寺院が実は沢山あるようです。

今度は泊まりがけでじっくり、お寺巡りをしてみたいと思います。

妙雲山飯高寺(匝瑳市飯高)

2023-04-01 15:19:51 | 旅行
立正大学の始まりの地である、飯高檀林跡を見学してきました。
檀林は仏教の学校、お坊さんの養成所のことで、昔は特定のお寺の中に、その機能があったようです。
飯高檀林は、かつて飯高寺内に存在した、日蓮宗門の最高学府です。


千葉県北東部に匝瑳市があります。
「匝瑳(そうさ)」…難解地名ですよね~!読めます?書けます?
この辺り、昔は良質の麻(布佐)がとれたらしく、「総(ふさ)」と呼ばれました(上総、下総の由来)。
「総」に接頭語「さ」がくっついて「さふさ」→「そうさ」になったんだって!



匝瑳市の内陸部、いい感じの里山エリアが飯高です。
飯を盛ったような小高い地形が、地名の由来だそうです。



自然散策道があるようです。
それまで降っていた雨もあがったので、ゆっくり歩いてみました。



田園風景、和む~。
訪問したのが晩秋、すでに刈り取りは終わり、その後に出てきた孫生え(ひこばえ)が、黄金色に輝いています。 



ほどよく起伏のある道を行くと、丘の上に山門が現れました。
飯高寺の総門です。



控え柱の上に、小さい屋根が乗っている門を「高麗門」というそうです。
一部は修復されていますが、部材はかなり年季が入っています。



巨木に囲まれた表参道を歩いてゆきます。
森に包まれているようで、心地よいです。



おおっ!
参道の奥に、巨大なお堂が姿を現します。


飯高寺本堂、旧飯高檀林の講堂です。
今でいう大学院クラスの教室が、ここに設けられていたそうです。

間口がめっちゃ広く、いわゆるお寺のシルエットとは違います。
沢山の学僧が勉強するのに機能的な形なんでしょう。



もう一つ特徴的なのは、装飾らしいものが見当たらないということ。
仏教教育の場ですからね、質素を旨としていたのかもしれません。



僕はお寺を参拝する際、そのお寺の歴代お上人の御廟をお参りするようにしていますが、檀林って歴代御廟はあるのかな?


ありました!

表参道から少し逸れた森の中に、墓石が整然と並んでいます。
数えきれない学僧を育て上げ、宗門の隆盛を支えた先師達に、深く感謝します。


飯高檀林は、比叡山で勉学を修めた要行院日統上人が、地元の飯塚(飯高から南東に3km位)で学室を開いたのが起源といわれています。
(↑境内の説明板より)
天正元(1573)年といいます。信長が足利義昭を京都から追放し、室町幕府が滅亡した、動乱の時代です。

今こそ日蓮聖人の精神を、教育という手段で広め、荒廃した世の中に貢献する人材を育てたい・・・。


そんな思いに感応したのでしょう、向学心に燃えるお坊さんが次々に入学し、飯塚の学室は大盛況、主宰する日統上人は多忙を極めていました。
(↑飯高寺本堂・妻側より)
誰か信頼できる人に手伝ってもらいたい、ということで、比叡山で同学の後輩だった教蔵院日生上人に、白羽の矢が立ちました。


教蔵院日生上人は天正2(1574)年、既に京都で松ヶ崎檀林を開いていた「宗門檀林の鼻祖」といわれるお坊さんです。
(↑松ヶ崎檀林旧跡・涌泉寺)
比叡山の先輩のヘルプとあらば!と、天正5(1577)年、飯塚に赴きました。
間もなく日統上人は遷化してしまいますが、日生上人はこれまた比叡山同学の蓮成院日尊上人の助けも借り、学室の運営に尽力しました。


数年後、日生上人に転機が訪れます。
あるとき飯高の妙福寺で、日生上人が「法華玄義」を講じる機会がありました。
(↑妙見山妙福寺)
これを聴講していた地元の豪族・平山刑部少輔常時公は、心に響くものがあったのでしょう、日生上人に帰依を誓ったのです!
下総に縁のなかった日生上人にとって、何より心強い協力者を得たと思われます。


「法華玄義」、僕なりに調べてみたのですが、内容については難しくて1ミリもわかりません(笑)。

天台宗の開祖・智顗(ちぎ)上人が講じた、法華経を理解するための、ありがたいお話だそうで、天台教学を学ぶ上では避けて通れないものだといいます。
これを、いわば素人の平山氏に解らせたのですから、日生上人の有能さが窺えます。


(↑飯高寺本堂)
天正8(1580)年、平山氏は城内に一寺を建立し、日生上人を招いて学問所を開きました。妙雲山法輪寺と称したそうです。
飯高檀林の歴史はここから始まります。


最高の学び舎を開いた日生上人は、間もなく後任を蓮成院日尊上人に委ね、飯高を離れます。
(↑松ケ崎涌泉寺境内にある生師廟)
京都に戻って松ケ崎檀林の経営に努め、人を育てるという側面から、京都宗門再興の礎を築きました。



飯高檀林歴代御廟の中心には、ルーツとなった教蔵院日生上人の供養塔があります。



日生上人から初代化主(学長)を任された蓮成院日尊上人、供養塔には「開山」と刻まれていますね。

※なお、そもそもの端緒・飯塚の学室を開いた要行院日統上人の供養塔は、見つけることができませんでした。しかし日統上人は飯高檀林の「遠祖」として、永く学僧達に尊崇されていたということです。


(↑平山氏が城主だったといわれる飯高砦跡:丘の上には飯高神社があります)
ところで、武士である平山氏は、この戦国真っ只中の時代を、小田原北条氏に仕えて生き抜いていましたが、天正18(1590)年に秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡すると、平山氏は武士を辞めて帰農したそうです。
てことは、飯高檀林の後ろ盾がなくなってしまう・・・ピンチ!


しかしそんな心配は杞憂だったようです。

飯高檀林の教育レベルの高さは、正当に評価されていたのでしょうね、天正19(1591)年、徳川家は飯高檀林を日蓮宗門の根本檀林として公認し、檀林の境内は朱印地として安堵されました。
このとき妙雲山飯高寺と公称したと思われます。


慶長4(1599)年には、第3代化主として心性院日遠上人が迎えられます。
慶長宗論の始末として、家康に処刑を命じられた逸話が殊に有名なお上人ですが、檀林の経営者として抜群のセンスがあったようです。
(↑日遠上人開山の大野山本遠寺)
この時代、飯高檀林はハード、ソフト両面にわたり充実し、学僧も急増、のちに門下生達が関東、関西の檀林をリードする存在になります。



境内の説明板には、檀林の発展に関し、日遠上人に深く帰依した養珠院お萬様の外護が大きかった旨、書いてありました。


特に地理的に近いということもあり、お萬様の次男・頼房公をルーツとする水戸徳川家との関係は深かったようです。
(↑黄門桜)
檀林近くには徳川光圀公(第2代水戸藩主:頼房の三男)が参拝時に設えられた道や、お手植えの桜が現存しています。


ちなみに日遠上人の後、第4代化主を務めたのは、わずか11才の頃から飯高檀林で学んできた慧雲院日圓上人でした。
(↑飯高にある日圓上人塚)
慧雲院日圓上人はのちに、飯高とは別に中村檀林を開創したお坊さんです。
中村檀林については、別の機会に紹介させていただきますね。


ところで、江戸時代の檀林って、どんな感じだったのかな?
立正大学開校120年記念誌(平成4年刊)から、当時の学僧生活を探ってみましょう。

飯高檀林は2期制、春期(2~5月)と秋期(8~11月)があり、夏の間は学僧達は出身のお寺で寺務を手伝って、学費を捻出していたそうです。
大学生のバイトって感じですよね!



期が始まると、出席数が1つでも足らないと進級できないし、口論など風紀を乱す学僧には、罰金、謹慎、退学など厳しい処分が下されたといいます。
蹴鞠(けまり)すら罰金だったんだって。きつ~!




境内には鐘楼や鼓楼がありますが、檀林当時はチャイム代わりだったのかもしれませんね。



日々学ぶのは、日蓮系の天台宗学。
初等教育から始まって、徐々に専門過程に進んでいくところは今の大学と似ていますが、全過程を修了するのには、驚きの20年以上!!(※)
※期間については諸説あり、なんと36年!という記述もありました。


そのため在学中に、志半ばで遷化された学僧も多かったようです。
彼らは「所化塚」に葬られ、手厚く供養されてきました。

飯高寺の西2km位にある所化塚には、夥しい数の墓石が並んでいます。
彼らの無念に思いを馳せ、静かに合掌しました。

なんか、いろいろカルチャーショックを受けるなぁ・・・。


所化塚の脇を通る道は、かつて檀林と江戸を結ぶ主要道でした。

向学心に燃え、意気揚々と歩いてくる学僧もいれば、進級できず肩を落として故郷へ帰る学僧もいたことでしょう。
周辺が開発されていないため、往時に想いを巡らすことができます。


飯高檀林は各学寮を中心として中台谷、城下谷、松和田谷の三谷(さく)に分かれており、研究を競い合ったようです。

思い返してみると、比叡山には東塔、西塔、横川の三塔、昨年訪問した仙波檀林跡にも中院、北院、南院の三院が存在していました。
巨大な教育機関は、三つのエリアに分けて互いを拮抗させるというのが、成功のポイントなのかもしれません。


寛延3(1750)年、江戸幕府は「身延山の法主は、飯高檀林の化主(学長)を務めた僧があたる」という通達を出します。
(↑飯高檀林歴代御廟)
宗門トップの選考方法をお上が決めるわけで、当時いかに仏教各派への統制が強かったのかが窺えます。
しかしこの通達により、飯高檀林は名実ともに、宗門の最高学府と公認されたことになります。
一方、時に激しいエリート養成競争の側面を帯びることもあったようです。


身延山史には、身延山法主を飯高檀林三谷(さく)のどこから輩出するのかを巡り、「紛擾(ふんじょう)起れり」と記されているくらいです。
(基本、三谷から輪次で晋山していたようですね)
(↑身延山歴代御廟)
ちなみに僕が調べた限りでは、身延山30世日通上人から74世日鑑上人まで(化主までいかなくても)例外なく、飯高檀林で学んだり教えたりされています。(※)
飯高檀林が宗門の羅針盤であったことは、疑いようがありません。
(※)30世以前にも、19世日道上人、22世日遠上人、24世日要上人が在籍されています(身延山史より)。


時代は下り明治維新期、新政府が神道を推し進める中、檀林はその役割を終えます。
(↑芝二本榎の長祐山承教寺)
飯高檀林にあった宗門最高学府の機能は、東京芝二本榎の承教寺内に移され、宗教界、教育界の目まぐるしい変化に対応していたようです。


(↑立正大学大崎キャンパス)
明治37(1904)年、大崎に日蓮宗大学林が開学、その3年後には日蓮宗大学と改称し、現在の立正大学に至るのです。
本当に大変な仕事をやり抜かれた、この時代のお上人方には、ただただ頭が下がります。



立正大学は今や9学部、1万人超の学生数を誇る、都会の大学です。
卒業生は仏教界だけでなく、あらゆる分野で活躍しています。
今から四百数十年も昔に、要行院日統上人が思い描いた未来、なのかもしれませんね。


飯高寺境内、霧に煙る杉木立の中、凛と立つ石碑が印象的でした。

平成2年に建立された「立正大学発祥之地」碑です。
どんなに時代が変わろうとも、立正大学の源流は間違いなく、ここ飯高檀林にあること。
将来の日本の柱、日本の眼目、日本の大船となる人材の活躍を夢見て 、困難に立ち向かった沢山の先師達がいたこと。
僕は卒業生ではありませんが、石碑に対面し、深い感慨を覚えました。


最後にひとつ。

飯高寺は現在、無住です。
しかし「飯高檀林跡を守る会」という地元有志の方々によって、本当に丁寧に境内の維持がなされており、気持ちよく参拝することができました。
彼らの善行に、心から感謝致します。
一人ひとりが節度ある参拝を心掛け、このご霊跡が永く護持されることを願っています。
(御首題授与は南駐車場の案内所で受け付けています。)


※今春、立正大学を卒業された菩提寺のお上人に、このブログを贈りたいと思います。
南無妙法蓮華経。

海上山妙福寺(銚子市妙見町)

2023-03-01 10:46:40 | 旅行

千葉県銚子市を旅してきました!



(↑犬吠埼灯台資料館内の展示物より)
「とっぱずれ」とは「いちば~ん端」。
太平洋に突き出た銚子の地形を、上手く表現した江戸時代の句です。


海上交通の要衝を支え続けた犬吠埼灯台。
銚子屈指の観光スポットです。
当日は快晴。
どうですか、この突き抜けるような空の青さ!!


(↑犬吠埼灯台からの眺望)
沖合は黒潮と親潮の境目、さらに利根川が大量の栄養分を運んでくるので、魚がよく集まる、最高の漁場なのだそうです。


(↑銚子漁港)
魚を求めて、全国から漁船が集まってきます。
確か銚子は、水揚げ量がずっと日本一ですよね!



銚子の気候は、麹菌や酵母の生育に適しており、また利根川水運で江戸に運びやすい利点もあり、古くから醤油醸造が盛んでした。
市街を歩くと、いたるところに醤油工場が見られます。



ヤマサ醤油の工場前に、日蓮宗寺院があります。



妙福寺です。


表門から入ったのですが、いきなりクランクになっていて、戸惑いました。

説明板によると、これは桝形!
江戸時代の妙福寺は、お寺でありながら、城としての機能も持っていたそうです。
普段はお寺、非常時は城郭になる、というのは近畿地方に多いですよね。



水行用の滝に太鼓橋。
このお寺、なんか凄そうだぞ!


こちらは裏門。銚子駅からは裏門が近いです。

山号は海上山(かいじょうざん)です。
昔はこの界隈、千葉一族の海上(うなかみ)氏が統治しており、最近まで海上(かいじょう)郡という地名もあったそうです。
恐らくその辺が、山号の由来ではないかと思います。



本堂(祖師堂)です。
江戸中期建築のとても古いお堂ですが、昭和60年に大改修され、現在に至ります。



本堂横にはでっかい藤棚!
その姿から「臥龍の藤」と呼ばれ、GW頃は藤を見るために、観光客が大勢訪れるそうです。



歴代お上人の御廟を参拝。
長きにわたり、信仰の聖地を護ってきてくれた先師達に、感謝の合掌をしました。



妙福寺の開山は、日蓮聖人の直弟子、中山二世でもある日高上人、第二祖は中山三世の日祐上人です。
中山法華経寺とのつながりが強いお寺、と想像できますね。


(↑本堂の旧鬼瓦)
縁起によると正和3(1314)年、入山崎般若寺の住持・円学上人が、下総各地を布教していた浄行院日祐上人に心服し、真言宗から宗旨を改めたというのがそもそもの始まりで、この時、お寺も海上山妙福寺になったと思われます。
円学上人は日正上人の法名を与えられ、自身が妙福寺三世、初代住職となります。


かつて般若寺があったといわれる入山崎は、現在の匝瑳市、有名な飯高檀林跡のほど近くです。

この辺り、昔は「椿海(つばきのうみ)」という、芦ノ湖が7つも入る広~い汽水湖があったそうですよ!
江戸初期、江戸で爆発的に増えた人口に対応するため、農地を広げる目的で干拓されてしまいました。
日祐上人が布教に歩かれていた鎌倉時代、どんな風景だったのでしょうね。


時は下り江戸時代、銚子は漁業だけでなく醤油産業の発展、利根川水運の中継地としても、活況を呈するようになりました。
(↑川口神社参道越しの風景)
人口増加の一方で、当時は寺請制度の徹底も叫ばれていました。
キリシタンや不受不施派でないことを証明するため、住民達は仏教各派のお寺の檀家になったのです。
ところが、銚子には法華経のお寺がありませんでした。
各所からの要望もあったのでしょう、妙福寺は幕府の肝入りで、銚子の現在地に移されたということです。


こちらは北辰殿(妙見宮)です。

堂内には、聖徳太子が自身の童子姿を刻したと伝わる、北辰妙見大菩薩像がお祀りされています。
このお像の持つパワーは相当なものだそうで、それゆえ源満仲公(能勢妙見の祖)はじめ多くの時の武将、為政者の尊崇を受けてきました。


(↑北辰殿の説明板より)
お像は各地を転々としたのち、正徳5(1715)年、平山久甫という朝廷方の尽力などで、妙福寺に祀られるようになったといいます。
以後「銚子の妙見様」として信仰を集めてきました。



実はこの界隈の地名は、妙見町!
地元でどれだけ親しまれてきた神様かが、わかります。


ちょっと話は脱線しますね。

利根川河口近くの丘に、「千人塚」という場所があります。

銚子沖は、好漁場の反面、古くから海難事故が多発する海域として知られていました。
この近くで遭難した船員たちの霊を、慰めている場所なのだそうです。



周囲には、供養塔が所狭しと建っています。
お題目の供養塔もありますね。


中央の石碑には、夥しい数の遭難者名が刻まれています。

板子一枚下は地獄、船乗りは命がけの仕事だと、改めて思います。


(↑北辰殿の扁額)
GPSなどなかった時代、暗いうちから海に出る漁師さん達にとって、常に北を指し示す北極星は、それは有難い存在だったでしょう。
銚子という町に、妙見信仰が深く根付いている一因だと思います。



「銚子の妙見」像を直接拝見することは叶いませんでしたが、妙福寺のお上人の案内で、北辰殿内部にある絵馬の画像を撮らせていただきました。


これは大正10(1921)年、寺内の太鼓橋落成記念の砌、講中が奉納した額ですが、右側に、こちらにお祀りされている妙見様のお姿が描かれています。

玄武(亀と蛇のハイブリッド)に乗った童子姿、太刀を持ってて雷様みたいな太鼓?を背負っていますね。
なかなかのインパクトです!


これは東京の町衆有志が奉納した巨大な額です。

よく見ると芸者さんや置き屋、落語家、講談師、寄席・・・芸事に関係する方々が多いのがわかります。
「妙」の字は美しいという意味、「見」は姿形の意味から、古くから妙見様は芸能関係者に信仰されてきたそうです。いろんな側面を持つんですね!



北辰殿の南側に、興味深い碑を見つけました。
海亀の供養碑です。それも一つや二つではありません。

漁の際、誤って海亀が混獲されると、漁師さんはお神酒をかけて海に戻すのですが、不幸にも死んでしまった場合は、土に埋めて手厚く供養する、といいます。
こうした風習、実は各地にあるそうなんですが、僕は初めて見ました。


法華経には、正しい法に巡り合う確率は奇跡に近い、という喩えとして、一眼の亀が浮き木の穴に辿り着く、というお話があります。(法華経妙荘厳王本事品第二十七)

また、身近なところでは浦島太郎でしょう。海亀は竜宮城という、いわば「異界」への使者として描かれています。



そう、さきほどの北辰殿の絵馬にも亀さん、いましたね。
妙見様が乗っている玄武は亀、北方を護る四神です。
北は五行でいうと水ですから、海亀が水神様と信じられてきたのは、自然なことなのでしょうね。



妙福寺には幼稚園が併設されています。
歴史が古く、今年で70周年だって!!



幼稚園に隣接して、銚子の歴史に大きく関わる石碑があります。



紀國人移住碑です。


銚子には古くから、紀州出身の人々が多く暮らしていました。
(↑第百回木國會記念碑に刻まれた木國會主意書より)
魚を追い求めて銚子沖にやって来た漁師が、そのまま移り住んだのが始まりらしく、以来、紀州の人は頻繁に、銚子との間を行き来しました。


(↑妙福寺境内のベンチ)
紀州伝統の漁法や醤油醸造は、銚子の風土に合ったのでしょう、銚子の繁栄は紀州人なくして語れないまでになりました。


(↑木國會基本金寄付芳名碑)
紀州にルーツを持つ銚子の実業家達が「木國会」を創設、明治36(1903)年にここに碑を建て、先人を顕彰しました。


(↑木國會基本金寄付芳名碑より)
木國会の筆頭には、紀州徳川家15代・徳川頼倫(よりみち)公のお名前があります。
養珠院お萬様の長男・頼宣公を始祖に持つ、紀州徳川家。
妙福寺境内に碑があるのは、偶然でないと思います。


こうやって妙福寺境内を巡ってみると、銚子の文化、産業、習俗・・・いろんな要素が、仏教とほどよく融和してきた歴史を感じられます。

最後に、妙福寺の守護神である、妙福稲荷さんを紹介して、今回のブログを終えたいと思います。

明治30年の火災、昭和20年の大空襲の際に、妙福寺を延焼から守ってくれたという霊験から、「火伏せのお稲荷さん」として篤く信仰されてきました。


妙福稲荷さんの名を刻んだ一本の石柱が、とても印象に残りました。
側面に、石柱建立の経緯が刻まれています。

ご家族が戦地に出征していかれた女性でしょうか。
「戦時中、日参の御祈願をかけ」ていたところ、ある晩、夢でお稲荷さんから「必ず無事で帰る」とお告げを受けたそうです。
「戦地で不思議なお守りを頂きました。拝謝の為」この石柱を建立したと思われます。


もしかしたら単に偶然が重なって、無事に復員されたのかもしれません。
しかしこの方は間違いなく「お稲荷さんのおかげ」と信じ、感謝を忘れませんでした。
石柱一本とはいえ、庶民がこの場所に建立するのは、そう簡単なことではなかったはずです。

古来、日本人はいただき物があると、まず仏壇や神棚にお供えし、のちに仏様や神様からお下がりをいただく、という習慣がありました。
わざわざそういった行為を経てはじめて、家族のお腹を満たしたのです。


ところが神仏離れが進む最近は、仏壇のないお宅も増えました。
「神様仏様はお腹空かないでしょ?」確かにそうかもしれません。科学的には全く、意味のない行為でしょう。

いただき物を供え、お下がりをいただくという行為は、ともすると幸せに溺れ、増上慢になりがちな人間、我々人間を戒める、先人の巧みな生活の知恵、だと僕は思っています。そしてそれは、いろんな信仰の原点なのだと考えています。
そんなに難しいものじゃない。仏壇がなければ、先祖の写真でもいいのです。

すっかりお稲荷さんの石柱から脱線しちゃいましたが、僕の中ではつながっています(笑)。

「見えないものに生かされている」

大切なマインドを、一本の石柱に、改めて教えられた、銚子妙福寺でした!

身延山麓坊(身延町身延)

2023-02-01 10:50:33 | 旅行

五十路も半ばになり、日帰りでの身延登詣が徐々に辛くなってきました。
なので、ここ最近は山内の坊に宿泊するようにしています。


義父の命日が近づいた晩秋のある日、聖園墓地への墓参も兼ねて、身延山を訪問することになりました。

ちなみに前回登詣は3月、宿泊は東谷の端場坊でした。
じゃあ今回は、西谷の坊に泊まってみようか!ということで、麓坊さんにお世話になることにしました。



御廟入口近くに、古い石碑が並んでいます。


この一つに「本行坊 清水坊 麓坊 北之坊 林蔵坊 道」と刻まれているのを見つけました。身延山にはこういう道標、多いですよね!

僕の曽祖父くらいの時代は、こういう道標を頼りに、参詣の旅をしていたのでしょうか。



御廟北側、西谷檀林跡や信行道場から続く道



岸之坊と林蔵坊の間に、麓坊の参道があります。
100m位上ると、麓坊に至ります。



ちなみに車で三門から行く場合、清水坊の手前を左折して下さい。



麓坊の山門です。薬医門ですね。
苔むした石積みが、重ねてきた時間を物語ります。


ところで各坊の入り口にある、坊名を刻んだ石って、どうして赤文字なんだろう?

例えば墓石の建立者が存命中の場合、名前が赤文字になるけど、それと同じ意味なのかな?そもそも青や黄じゃなくて赤の理由は何だろう?・・・いつか調べてみますね!



境内にはカエデの木が多く、本当に華やか!
「錦秋」という季語が似合います。



また、枝垂桜の大木もあり、春は春で楽しめそうな境内です。



本堂です。
ゆるいカーブを描く入母屋の破風、落ち着きがあっていいですね~!



本堂手前に、麓坊縁起を刻んだ石碑がありました。
大正4年、麓坊40世の日德上人という方が書かれたようです。



こちらの碑文、そしてご住職のお話などをもとに、麓坊の歴史を辿ってみたいと思います。


日蓮聖人は九ヶ年にわたる身延山での生活の間、道なき道をかき分け、険しい身延山の頂(現在の奥之院思親閣)まで、何度も登られました。
(奥之院思親閣・南側展望台からの眺望)
遠く房州の方角を望みながら、ご両親や師匠・道善坊上人の追善、仏法流布を祈られたのです。



今でこそロープウェイに7分乗っていれば、山頂に着いてしまいます。



以前、上ノ山を通って思親閣まで歩いて行った時は、丈六堂や大光坊への参拝もしながらでしたが、3時間かかりました。
ただ、この上ノ山ルートも江戸時代に整備されたのであって、日蓮聖人ご在世の道ではないでしょう。


じゃあ当時はどんなルートだったのでしょうか?
麓坊のご住職に尋ねてみると、ご遺文など記録に残ったものはないので、あくまで想像ですが・・・と前置きのあと、「樋沢川の川筋に沿って登られた、と考えるのが自然だと思います。」とお話しされました。
(身延山駐車場からロープウェイ方面を望む)
確かに!岩とかで多少険しくても、林や藪が少ない川沿いを辿られたという推論に、僕も同意します。



これは身延山ロープウェイのゴンドラ内から写した画像です。
ロープウェイのルートとは別に、右側、樋沢川の谷筋が奥まで続いているのがわかると思います。

(グーグルマップ・地形レイヤーに加筆)
日蓮聖人はこの谷筋に沿って標高を上げていかれたと想像できます。


(日朗菩薩鏡井戸)
現在の登山ルートで40丁目辺りに、当時からのご霊跡である日朗上人御手作井戸があります。


(グーグルマップ・地形レイヤーに加筆)
恐らくその手前くらいで尾根に至り、山頂まで歩かれたような・・・気がします!



麓坊がある場所は、当時、日蓮聖人が通られていた山頂への道、そのいわば登山口。
だから「麓坊」なのだそうです。


(御廟所霊山橋から身延川を望む)
さらにご住職によると、近年まで暴れ川だった身延川のことを考えると、日蓮聖人は御草庵を出てすぐ、川の影響が少ない山沿いを回り込んで、登山口に来られたのでしょうね、ともお話しされていました。



今、その道も登山口も、形こそありませんが、お祖師様が懸命に刻まれた一歩一歩を、この場所に感じることができます。まさにご霊跡です。


先ほどの縁起によると、こうした事蹟が時とともに埋もれ果ててしまうことを憂いた「意伝両上」が、ここに庵を結ばれたのが、麓坊のルーツだそうです。

身延山史には、永正16(1519)年、身延山12世の円教院日意上人が自坊に閑居し、同年76才で遷化された、とありますので、恐らくこれが麓房の開創年と思われます。

また身延山13世の宝聚院日伝上人も、後を善学院日鏡上人に任せて麓坊に閑居し、天文12(1548)年に67才で遷化されたそうです。



歴代お上人の御廟に参拝。
500年以上に渡って法灯を継いでくださった先師達に感謝し、合掌しました。



日意上人が麓坊の元祖、開山で、日伝上人は二祖、開基なのだそうです。
日伝上人の院号から、麓坊の正式名称は「身延山宝聚院麓坊」となります。


お二人の師匠、身延山11世の行学院日朝上人が手掛けた仕事は、膨大なものでした。

すなわち身延山伽藍群の現在地への移転、宗祖ご遺文・ご霊宝の整備保管、祖山としての決まり事(清規)の確立、法華経の注釈書(補施集)作成などなど・・・現在宗門の基礎となる巨大プロジェクトばかりです。
加えて、当時は各本山との力関係が微妙な時期で、そこに相当な労力を割かざるを得なかったようです。



これらは日朝上人40年の在職期間では決して成し遂げられるものではなく、遺された仕事を日意上人、日伝上人が懸命に継いでくれたからこそ、我々が今、その恩恵にあずかっている、ということを忘れてはなりません。


麓坊歴代御廟の裏手あたりから見える景色

わ~、久遠寺本堂があんなに近くに見える!!


麓坊の境内には、愛染明王をお祀りしたお堂もあります。

こちらの愛染明王は、昭和の初めに、女性信者の強い希望があり、勧請されたものだそうです。



(池上本門寺刊 朝夕諷誦 日蓮聖人御遺文 附巻より引用)
愛染明王というと密教のお寺でよくお祀りされている印象がありますが、日蓮聖人も若い頃に愛染明王を感得され、お姿を描かれています。
また、お曼荼羅にもありますよね!



そうそう、麓坊の西側に、古いお堂がひっそりとあるのを見つけました。
ご住職に伺うと、これは戦前まで御廟堂として使われていた建物で、その後、移築されて身延山の荒行堂にもなっていたそうです。
大役を果たして、現在は閑居している、って感じでしょうね。お疲れ様です!



それでは宿坊としての麓坊を紹介したいと思います。


坊の玄関です。
床板がよく拭き込まれて輝いています。
僕の祖父宅の玄関に雰囲気がよく似ていて一瞬、タイムスリップしたような錯覚を覚えました。

この奥にある帳場で受付をします。
宿帳に必要事項を記入します。ここで記入した氏名が夕勤の回向にも反映されますので、参籠者全員の氏名を記すことをお勧めします。



坊内は、古き良き宿坊の香りを遺しています。
団参が盛んだった昭和の時代、沢山の信徒さんでごった返していたのでしょうね!



将棋盤なんかもあって、レトロ感満載!!



妻と二人での参籠でしたが、床の間のある広いお部屋を案内してくださいました。


お祖師様のご遺文「筒御器抄」をしたためたお軸が掛かっていました。

身延山の冬の厳しさ、ひもじさを、よく著されたお手紙だと思います。
現地で読むと、さらにリアルです。



トイレや洗面所は、とてもキレイに保たれています。
これだけで宿泊の快適さは、格段に違います。


夕勤は本堂で、5時から始まります。

みんなで方便品、寿量品などのお経をあげるのですが、特徴的なのは観世音菩薩普門品も読むところでしょう。


本堂には鬼子母神像や七面大明神像などとともに、日伝上人が感得されたという観音様のお像も、お祀りされています。

たくさんの守護神に見守られながら、気持ちの良い夕勤が終わり、お札をいただきました。
お札には如意輪観世音菩薩の文字が書かれていましたので、麓坊は観音様のお寺、と考えて間違いないと思います。



夕食は心づくしの精進料理。
品数もさることながら、一品一品が美味い!麓坊の奥様に感謝です。
ホント、ごはんが進みました。参籠なのに、こんなに満腹でいいのか、俺?

お風呂で温まり、静寂の中、熟睡・・・。



翌朝は5時過ぎに起き、久遠寺本堂の朝勤へ。
ほんの5分で着くから、やめられません、宿坊参籠。


身延の谷にも陽が差してきたぞ!

西谷は宿坊がひしめきあってるな~。



朝陽に照らされ、輝く鷹取山。



麓坊に戻ると、すぐに朝食が待ってます。
最高!


朝食をありがたくいただき、部屋に戻ろうとした時、お題目の大合唱が聞こえました。

行ってみると、若いお上人方が麓坊本堂前で読経をされていました。
歳末助け合いの活動で、山内を行脚されているということでした。
ご苦労様です!



ところで僕達が参籠した12月11日は偶然にも、開基日伝上人の御正当命日。遠忌法要が修されるということを前夜に伺い、ビックリ!
ご住職にお誘いいただいたので、法要にも参加させていただきました。


法要にはお檀家さん数名と、信者さんなんと・・・50名以上!!
本堂が隙間なく埋め尽くされました。

驚くべきは、その信者さんの平均年齢が若いということ。
日本の年齢構成よりも確実に若い人々が集まり、お題目をあげる光景は、恐らく初めての経験でした。
年齢問わず人を惹きつける何かが、麓坊にはあるのでしょう。



その魅力の一つが、麓坊47世のご住職だと思います。
パッと見、コワモテかな?と思いきや、本当に気さくで優しい方。そう、「どうする家康」で大久保忠世を演じている、あの役者さんにそっくりです!



七面山別当を歴任されたというご住職は、知識も人生経験も豊富。困った疑問をぶつけても、必ず答えてくださいました。
お経を読む時のポイントなどアドバイスもいただき、ご住職のおかげで印象深い参籠になりました。



僕の出身地・小田原と、日伝上人の深~いご縁も、教えていただきました。
近いうちにこのブログで、そのお話もさせていただこうと考えています。乞うご期待!

松﨑山涌泉寺(京都市左京区松ケ崎堀町)

2023-01-01 15:52:41 | 旅行
毎年8月16日、京都の夜空に繰り広げられる「五山送り火」。
(↑光村推古書院「京都大文字五山送り火」より引用)
遠い昔から、精霊を送る大切な行事として、行われてきました。
最近ではBSでも生中継してくれますよね!
僕も先祖に感謝しながら、テレビに向かって合掌なんかしちゃいます。

五山送り火という通り、京都を囲む五つの山の斜面に松明を焚くわけですが、このうちの一山が、日蓮宗ゆかりの松ケ崎西山・東山に焚かれる「妙法」送り火です。


五山送り火の3週間後、松ケ崎を訪問しました。

松ケ崎は京都駅から地下鉄烏丸線で北に9駅、20分くらいでしょうか。



広大な宝が池公園のお山に抱かれた、閑静な住宅地を歩きます。



道の脇には水路があり、涼しげな雰囲気!



軽トラがやっと通れるほどの路地の奥に・・・



法塔が見えてきました。ここが涌泉寺ですね。



山号は松﨑山です。


涌泉寺の歴史は古く、平安初期に開創された歓喜寺をルーツとするようです。
(↑松ケ崎から東を望む)
当時、比叡山の西麓(京都側)は延暦寺の寺領だったといいます。歓喜寺は比叡山三千坊の一つ、天台寺院としての歴史を刻んできました。


(↑涌泉寺境内にある当山二祖・実眼僧都の歌碑)
鎌倉時代になり、時の住職である実眼上人が、日像上人のお説法を聞いたことをきっかけに、お寺が大きく変化してゆきます。


日蓮聖人のご遺命を果たすために上洛した日像上人は、洛中でいちばん賑わっている北野天満宮の門前で、道行く人々に辻説法をしていたといいます。
弁舌鮮やかな日像上人のこと、聴衆は日を追うごとに増えてゆきました。
(↑日像上人布教のご霊跡・北野御前通の妙喜山法華寺)
ある日、何かの用事で洛中を訪れていた実眼上人は、町なかで日像上人のお説法を聴き、目からウロコだったのでしょうね、その場で日像上人に帰依しました。

実眼上人は早速、松ケ崎に帰り、村人の教化に勤しみます。


ところが、実眼上人は松ケ崎村民の布教に苦慮します。

それまで天台宗の門徒として先祖代々、信仰を守ってきた村人達にとって、実眼上人の言い分も分かるけど、いざ改宗というのは、あまりに高いハードルだったのでしょう、何年経っても信者さんが増えませんでした。


そこで実眼上人は、旧暦お盆の3日間、日像上人を松ケ崎に招き、直々に村人にお説法をしてもらったそうです。
(↑涌泉寺境内にある宗祖日蓮聖人、開山日像上人の供養塔)
この効果は抜群で、全村民が一人残らず、改宗したということです。徳治元(1306)年のことでした。
住民全員が法華信仰となる「皆法華」は、大覚大僧正の築いた備前法華がよく知られていますが、実は師僧・日像上人にその根源があったのですね!


ところで、歓喜寺が現在の寺名・涌泉寺となる経緯は、少々複雑です。僕も理解するまで3回、縁起を読み直しました!

松ケ崎の全村改宗を成し遂げた日像上人はこの時、寺名を歓喜寺から妙泉寺と改めました。お寺の背後に滝がある、というのが理由だそうです。
(↑七面堂と滝)
実際、現在の涌泉寺境内の山裾からは滝が落ちています。
地元ではここを「松ケ崎の七面山」として、今も大切に清めているそうです。


妙泉寺は地域の法華信仰の拠点として、塔頭を6坊も擁するほど、発展したといいます。
妙泉寺塔頭のうち本涌寺は天正2(1574)年、教蔵院日生上人によって開創されました。
(↑涌泉寺山門前にある「法華宗根本学室」の碑)
教蔵院日生上人は宗学の研究者、教育者として殊に有名な方で、本涌寺内に講堂を建て、宗門初の学校・松ヶ崎檀林を開きました。
つまり、本涌寺は妙泉寺塔頭でありながら、宗門檀林として、独自の歴史を刻んでいったわけです。


時は流れ明治維新を経て、仏教を取り巻く環境が激変します。妙泉寺も従来通りというわけにはゆかなかったのでしょう、本涌寺を除く塔頭5坊(大乗院、止静院、実成院、宝泉院、玉禅院)と合流することになります。
(↑涌泉寺山門前にある「法華宗根本学校道」の碑)
一方、本涌寺は明治5(1872)年の学制発布に伴い、明治政府により松ヶ崎檀林が廃止されてしまいます。もうこの時代、本涌寺=松ケ崎檀林だったはずですから、本涌寺にとって檀林廃止は大きなダメージだったでしょう。
講堂のみを残して徐々に荒廃していったそうです。


(↑涌泉寺本堂の扁額)
大正7(1918)年、地元小学校の敷地拡張のため、妙泉寺本涌寺は合併します。寺名は両寺の一字を取って、ここでやっと(!)涌泉寺となり、現在に至ります。
長かったですね~!理解できました?


涌泉寺の境内に戻りましょう。

こちらは生師廟、松ヶ崎檀林を開いた教蔵院日生上人の御廟です。

教蔵院日生上人は、若い頃から比叡山などで広く深く学ばれ、また宗門の著名なお上人達にも師事されていたようです。
当時、日蓮宗門が壊滅寸前まで追い込まれた天文法難から数十年が過ぎ、教団の復興とともに、学問もまた盛り上げてゆこうという機運も、高まっていたのでしょう。
教蔵院日生上人は、教育者として頭角を現します。


下総国に飯高檀林を開いたのも、教蔵院日生上人です。
実は先日、偶然にも千葉県の飯高檀林跡(飯高寺)を訪問する機会がありました。

↑画像の石碑にあるように、飯高檀林は現在の立正大学のルーツとなるそうです。
身近なあのお上人、このお上人も皆、いわば教蔵院日生上人門下なのでしょうね。


飯高檀林・歴代化主の御廟には、その中心に教蔵院日生上人の供養塔↓がありました。

下総出身の日像上人が上洛し、苦労して帝都開教を果たした二百数十年後、今度は日像上人の法孫が、京都から下総に行って、檀林の基礎を築いたのです。
深いですね・・・。


(↑飯高寺近くにある中村檀林開祖・日圓上人塚)
他にも調べてみると、飯高檀林の4世は中村檀林を開いていますし、中村檀林の21世は水戸光圀公が開いた三昧堂檀林の初代化主となっています。更に小西檀林の初代化主は松ヶ崎檀林から招いたお上人・・・と、関東の名だたる檀林は、元を辿れば教蔵院日生上人に行き着くのです。
このため教蔵院日生上人は「檀林の鼻祖(※)」といわれるそうですよ。
(※)元祖、始祖のこと


話を松ケ崎に戻しましょう。

山門です。
薬医門なのかな?周囲の環境に溶け込んでいます。


山の斜面にあるお寺らしく、平地の少ない境内です。

現在の涌泉寺境内に、旧・本涌寺があったといわれています。



旧・妙泉寺があった場所は現在、松ケ崎小学校になっています。


涌泉寺の本堂です。
ちょっと特徴的な造りですよね!

それもそのはず、本堂はもともと松ヶ崎檀林の講堂だった建物なんですね。
確かに学校っぽい!



先述の飯高寺本堂↑も、昔の飯高檀林講堂だった建物です。間口が広いところなど、よく似てますよね!
本格的な檀林というのは、多くの学僧を受け入れるわけですから、装飾云々より、機能性を重視するんでしょうね。


涌泉寺本堂の真下には、尼衆宗学林があります。

尼衆宗学林は、宗門唯一の尼僧さんの学校です。
大正8(1919)年、明治天皇の叔母にあたる村雲御所瑞龍寺10世の瑞法院日榮上人により創設されました。
行儀作法から華道、茶道、宗学に至るまで、バッチリ教えてくださるそうですよ。 


涌泉寺境内の一画は、保育園になっています。

尼衆宗学林といい、保育園といい、人間の根っこの部分を形成するという意味では、松ケ崎檀林はいまだに、脈々と続いているのかもしれません。



保育園の横に細道があって、歩いてゆくと・・・



別の山門が見えてきた!


こちらは松﨑山妙円寺です。

松ケ崎檀林の能化(教師)だったお上人が創建したお寺だそうです。
こちらにお祀りされる大黒天は、開運招福、商売繁盛の神様として親しまれているといいます。



もともと皆法華の土地柄、涌泉寺や妙円寺なども含め、この辺り一帯が「松ケ崎霊場」なのでしょう。


そうそう、五山送り火「妙法」の文字が焚かれていたのはどこかな?

さんざん探して見つけました!
(↑宝池自動車学校越しに松ケ崎西山を望む)
「妙」の字は、涌泉寺から西に1kmくらい、松ケ崎西山(万燈籠山)の斜面に、読むことができます。
鎌倉時代、日像上人が山の南面に自ら杖を引いて書いた、巨大な「妙」がルーツだそうです。



「法」の字は、妙円寺の真後ろ、松ケ崎東山(大黒天山)の斜面にあります。
こちらは江戸時代、旧・妙泉寺末寺の日良上人が書いた「法」の字をルーツとしています。



ちなみにお山には入山禁止です!
ていうか文字が巨大すぎて、遠くから見なければ絶対にわからないでしょう。



「妙法」の二文字、創始の時代は違えど、ここ松ケ崎に、妙法蓮華経がずうっと根付いてゆきますように、との願いが込められているのでしょう。



(↑光村推古書院「京都大文字五山送り火」より引用)
日像上人が松ケ崎でお説法をされたのが旧暦お盆の3日間、最初は法華経への改宗を祝って始められた行事が、のちに先祖の霊を送るという側面が強くなっていったのだと思われます。


(↑妙円寺大黒天の鳥居越しに松ケ崎東山を望む)
8月16日、送り火がともると、松ケ崎の住民たちは先祖のお位牌を外に出し、山に向けて祈るのだそうです。



そして送り火が鎮火した頃、浴衣に着替えて涌泉寺境内↑に集まり、改宗当時から伝承される題目踊を奉納して、お盆が終わるといいます。


(↑松ケ崎立正会館)
現在、松ケ崎立正会の会員さんが「妙法」送り火の運営一切を担当してくださっているようです。
本当にご苦労様です!

いつか実際に「妙法」送り火、見てみたいなぁ。

妙慧山善正寺(京都市左京区岡崎東福ノ川町)

2022-12-01 16:15:34 | 旅行
6月にこのブログにアップした↓村雲御所瑞龍寺
宗門のお寺を参拝させていただく際、僕は大抵、歴代お上人の御廟をお参りさせていただくのですが、実は瑞龍寺の境内には見つけられませんでした。

その後調べてみると、京都の善正寺という場所に、瑞龍寺の歴代御廟があるということを知りました。
事前に連絡し、アポを取って参拝してきました!



善正寺の場所をざっくり言うと、京都御所から見て鴨川の向こう(東)側あたり、有名な↑京都大学医学部付属病院から比較的近いところです。



付近には「聖護院門跡」(本山修験宗)や、


「近衛通り」など、何となく皇室と関係がありそうな雰囲気!


また付近の山裾には、「金戒光明寺」という浄土宗の大本山があります。


画像の手前は金戒光明寺の塔頭、そして奥は料亭などに卸す豆腐屋さんでしょう。
細い路地ほど、古き良き京都を感じられます。



多少迷いましたが、着きました。善正寺です。
隣の建物は、市立の支援学校だそうです。



これはお地蔵様じゃないかな?
以前、丹後半島を旅した時に、同じように化粧されたお地蔵様をよく目にしました。
よく清められていますね!


いわゆる山門らしいものはなく、2本の門柱が聖域を区切っています。

確かに表札には村雲瑞龍寺、豊臣秀次公御墓所となっています。
山号は妙慧山です。



善正寺境内はセキュリティシステムで守られているようです。
やはり門跡の歴代御廟を擁しているお寺ですからね、その辺はきちっとしています。
参拝をされる方は、必ず事前にアポを取って下さいね!



向かって左手前に祖師堂、左奥に本堂、右に鐘楼、そして正面に庫裡、という位置関係です。



扁額が「本師堂」となっていますから、祖師堂でしょう。
丸太柱のお堂って、結構珍しいと思います。


本堂です。
ご住職にご首題をお願いしている間、清浄な本堂を参拝させていただきました。

本堂の内陣、左右の脇間には、豊臣秀次公とその母・妙慧日秀尼の木像が、それぞれ格護されています。
さぞ無念であったであろう彼らを思い、ほんの少しでも鎮魂になればと、お経をあげさせていただきました。


豊臣秀次公は、子に恵まれなかった叔父・秀吉の後継候補として、一時は関白摂政の地位にありながら、のちに秀吉と淀君の間に秀頼が生まれるや、手のひらを返すように秀次公は邪魔者扱いされ、謀反の疑いをかけられてしまいます。
(↑村雲瑞龍寺門跡本堂内に展示されている豊臣秀次卿銅像の木型)
文禄4(1595)年、わずか28才の若さで、高野山に蟄居ののち、秀次公は自刃に追い込まれました。
秀吉の猜疑心は凄まじく、秀次公の子女妻妾まで、皆殺しにされてしまいました。



今回僕は、善正寺参拝の前に、三条大橋のたもとにある瑞泉寺を訪れました。



現在は納涼の川床とか、デートスポットで有名な鴨川の河原ですが、その昔は刑場として知られた場所だったといいます。


(↑豊臣秀次一族が葬られた塚:瑞泉寺の掲示物より引用)
秀次公の一族はここ三条河原で処刑、埋葬され、秀次公の首を納めた石櫃とともに塚が作られました。
しかし、鴨川の度重なる氾濫などで、いつしか塚はなくなってしまったそうです。


(↑角倉了以翁像:瑞泉寺の掲示物より引用)
江戸時代になり、角倉了以翁(※)が高瀬川を開削中にこの塚の跡を発見、慶長16(1611)年にお堂を建立して彼らの霊を慰めたのが、瑞泉寺のルーツです。
(※)各地の顕彰碑に倣って、敬称を「翁」とさせていただきます。



境内には、秀次公を中心として一族それぞれの供養塔があります。その数の多さに、本当に胸が痛みました。
瑞泉寺は浄土宗のお寺ですが、合掌し、小さな声でお自我偈を唱えさせてもらいました。


(↑京都の街なかを流れる高瀬川)
ところで高瀬川を開削した角倉了以翁、京都の豪商であり、河川土木の専門家でもあるんですが、宗門関係の調べものをしていて、よくお名前を目にします。


(↑富士川・旧岩淵河岸にある角倉了以翁紀功碑)
その昔、身延山登詣には富士川舟運が重要な足として使われていましたが、富士川を開削して水難事故を減らしたのは角倉了以翁でした。


また、妙慧日秀尼の師僧は、六条本圀寺16世の日禛(にっしん)上人 ですが、日禛上人が隠棲された嵯峨・常寂光寺の寺域を寄進したのは、角倉了以翁ということです。
(↑京都・高瀬川畔にある角倉了以翁顕彰碑)
角倉了以翁自身、お墓は二尊院ですから、信仰は天台宗と思われますが、日蓮宗門とも意外に、深いご縁があるのかもしれませんね。

話を善正寺に戻しましょう。


豊臣秀次公の母・ともさんは、豊臣秀吉の姉にあたります。
ともさんには秀次のほかに秀勝、秀保という男子がいましたが、秀勝は朝鮮出兵時に病死、秀保は不審死しています。
それに追い打ちをかけるような長男秀次公の自刃、それも弟・秀吉の計略によって・・・ともさんの悲しみは如何ばかりだったかと思います。

心を痛めたともさんは、京都本圀寺の日禛(にっしん)上人のもとで出家得度、妙慧日秀尼となります。
日秀尼は京都嵯峨の小庵で、亡き子供達の冥福を、一心に祈り続けました。
(↑京都今出川にあった旧村雲御所の地図:村雲瑞龍寺門跡本堂内の掲示物より引用)
この話が時の後陽成天皇の耳に入り、京都村雲の地に寺領と、瑞龍寺の寺号を下賜されました。



(↑西陣会館の一画にある村雲御所跡碑)
瑞龍寺の初代住職は妙慧日秀尼、そして天皇ゆかりのお寺ということで以後、皇女や公家の娘さんが歴代住職を務める門跡寺院となりました。
これが現在、近江八幡市にある本山「村雲瑞龍寺門跡」のルーツです。


(↑善正寺の石垣)
豊臣秀吉の没年は慶長3(1598)年ですが、それ以前は猜疑心の強かった秀吉を警戒して、たとえ子の追悼といえども、表立ったことはできなかったと思われます。


慶長5(1600)年になり、妙慧日秀尼は秀次公をきちんと弔ってあげようと思ったのでしょう、本圀寺塔頭・求法院(大きな檀林だったようですね)の日鋭上人を開山に迎え、東山に妙慧山善正寺を建立します。
ちなみに山号は妙慧日秀尼の法名から、寺名は秀次公の戒名「善正寺殿高岸道意大居士」から名付けたようです。

本堂に祀られていた豊臣秀次公、妙慧日秀尼の木像は、慶長6(1601)年、秀次公七回忌の砌に仏師に彫らせ、日鋭上人が開眼したのだそうです。
ご住職によると、妙慧日秀尼の生前に彫られたお像なので、その容姿、表情はそのまま生き写しのようだ、と伝えられているそうです。



寛永2(1625)年、妙慧日秀尼は92才の長寿を全うされました。
先立った子供達の追善に奉じた半生でした。
せめて来世は、権力や戦争とは無縁の世の中に、彼らが生まれてくることを願ったのでしょう。


妙慧日秀尼の遷化と相前後して、善正寺内に東山檀林が開かれました。
明治の廃檀まで、広大な敷地で多くの学僧が研鑽を積んだ、といいます。
(↑善正寺参道脇にある「學室」碑)
江戸時代の京都では、松ケ崎、鶏冠井(かいで)、鷹峰、山科、求法寺といった宗門檀林があり、これに東山を加えて京都六檀林として知られています。
このうち松ケ崎、鶏冠井は妙顕寺の系統、鷹峰、山科は本満寺の系統、求法寺、東山は本圀寺の系統だと思われます。
同じ宗門とはいえ、当時はそれぞれに微妙なバランスがあったのでしょうね・・・。


ご住職にお願いして、本師堂裏手にある豊臣秀次公の墓所を案内していただきました。

「善正殿」の扁額が掛かるお堂が、秀次公の御廟です。
その左側には村雲瑞龍寺門跡歴代お上人(秀次一門と刻まれています)の供養塔が並びます。



お塔婆に歴代の法名が書かれていますね。
初祖は瑞龍寺殿日秀大比丘尼、妙慧日秀尼のことですね。
二祖を継がれたのは瑞圓院日怡大比丘尼、妙慧日秀尼の曾孫にあたる方です。豊臣秀勝の娘・完子(さだこ)姫が九条家に嫁ぎ、生まれた女子といいます。
ちなみに大正天皇の奥様、貞明皇后は、完子姫の子孫になります。つまり妙慧日秀尼は、現在の皇室の先祖でもあるわけで、瑞龍寺が門跡寺院というのも納得です。



村雲瑞龍寺門跡15世までのお墓が並んでいます。
もちろん、10世を務められた日榮尼(※)のお墓もありました。
心を込めて合掌させていただきました。
(※)拙ブログ「村雲御所 瑞龍寺」に日榮尼のエピソードを書かせていただきました。


この御廟域からは、五山送り火のうち、東山如意ヶ嶽の「大文字」がよ~く見えます!
というか界隈でも特等席のようで、例年8月16日にはお檀家さんが集まり、ここで精霊送りの火を眺めるのだそうです。



非業の死を遂げた秀次一門の精霊も、お盆には善正寺はじめ縁の地にやって来て、8月16日、送り火を見ながら、霊山浄土に還ってゆくのでしょうね。


善正寺のご住職は、笑顔の絶えない、口調の柔らかな男性のお上人です。
敷居の高いお寺だろうと緊張気味で訪問しましたが、ご住職のお人柄に癒され、すっかりリラックスしてしまいました。
(↑村雲瑞龍寺門跡の山門)
善正寺と村雲瑞龍寺門跡とは、現在でもご縁が非常に深く、大きな法要があるとお互いに協力しながら修めているということです。
また、村雲瑞龍寺のルーツである嵯峨の庵は、現在も「村雲別院」というお寺として続いているとお聞きしました。来年あたり、参拝したいものです。


さらに大荒行で知られる千葉中山の遠壽院とも関係が深いようです。
江戸末期、遠壽院の鬼子母尊神像が西国に出開帳された際、禁裏御所で孝明天皇が拝まれた(天拝)ことがありました。
その際、取り次ぎ一切を担ったのが、村雲門跡ということです。
(↑千葉中山の遠壽院)
このご縁で、ご住職は遠壽院行堂で、百日の大荒行を成満されたそうです。
妙慧日秀尼の蒔かれた信仰の種は、こうして大きな木となっているのですね。


帰り際、善正寺本堂の天水桶に↓文字が刻まれているのを見つけました。
法華経薬草喩品第五の一節です。

この世界には、いろんな草や木が生い茂っており、名前も姿もそれぞれ異なっている。 雨は一様に潤すけど、それを受ける植物は姿も形も千差万別、それぞれのあり方に応じて雨を受け止めて、それぞれがそれぞれのペースで成長する・・・。
お釈迦様が二千何百年の昔に説かれたお話なのに、これこそSDGs、多様性の尊重とか、ジェンダー平等を先取りしていますよね!



古くから尼僧さんが活躍されてきた、妙慧日秀尼門下に相応しい教えだな、と妙に納得しながら、善正寺をあとにしました。

妙喜山法華寺(京都市上京区下堅町)

2022-11-01 14:53:29 | 旅行
この9月はじめ、コロナ7波も下火になり、入国制限も解かれていない今だ!と思って、4年ぶりに京都に行ってきました。

修学旅行シーズンでもなかったせいか、大した混雑もなく、また天気にも恵まれ、有意義な1泊2日でした。
何ヶ所かの宗門寺院にも参拝できましたよ!

今回はそのうち、上京区の法華寺を紹介させていただきます。


僕は4年前、京都八本山の一つ、立本寺を参拝させていただいています。
(↑具足山立本寺)
その時は確かレンタサイクルで巡っていたのですが、立本寺からほど近い道端に、立派なお題目の法塔を見かけました。
「あぁ、ここにも日蓮宗のお寺があるんだ~」と特段気にも留めず、次の目的地・妙顕寺に向けて自転車を走らせた記憶があります。

今思えば、それが法華寺だったんですね・・・。


(↑岡山・仏住山蓮昌寺)
のちに岡山県のお寺にもお参りさせていただく機会がありました。
備前法華の祖・大覚大僧正についていろいろと調べてゆくと、京都の法華寺は、大覚大僧正を語る上で欠かせないご霊跡であることがわかりました。

あの時、ちゃんと参拝すれば良かった・・・としばらく悔やんでいた、ちょっぴり因縁のお寺なんです。


法華寺参拝の前に、菅原道真公をお祀りする天神様の総本社、北野天満宮をお参りさせていただきました。
(↑北野天満宮本殿)
実は、僕が生まれ育った小田原市国府津にも、鎮守様として菅原神社があります。僕は天神様に見守られながら育ったという自覚があり、いつか北野天満宮をお参りさせていただきたいと思っていたので、願いが叶いました!


法華寺のご住職がお寺にいらっしゃる時間までまだ少しあったので、北野天満宮の隣にある花街・上七軒を見学。
お茶屋さんの街並みにうっとり。
でも僕には一生ご縁がなさそう・・・笑



一軒の洋食屋さんでランチ!
煮込みハンバーグが革命的に美味かったです。


その洋食屋さんの奥様から、和楽(10・11月号)という雑誌に、そのお店が紹介されたと教えてもらいました。
(小学館・和楽10・11月号:京ことば都がたり)
何と!記事を書かれているのは三笠宮の長女・彬子(あきこ)女王ではないですか!
和楽にご自分の担当ページを持たれており、意外とさばけた文章で読みやすいです。
実は彬子様、北野のお近くにお住まいだそうで、その洋食屋さんにはたびたびお食事にいらっしゃるのだとか。(もちろんSPさんも一緒みたいです。)
さすが京都、今も昔も皇室の方が身近なんですね!



法華寺は北野天満宮から一本道、5分ほど南に歩きます。
周辺は昔ながらの町屋とお寺が混在していて、ぶらぶらしているだけでも和みます。


改めて地図で見てみると、法華寺は立本寺の西、ほんの2ブロック位しか離れていません。

4年前に見たのはこの題目碑だ!独特の字体ですよね。
重厚な山門をくぐって境内に入ります。



山号は妙喜山です。


聡明そうなご住職にご首題をお願いし、本堂を参拝。

内陣の中央に日蓮大菩薩、向かって右側に日朗、日像菩薩、左側に大覚大僧正と中興の日進上人の、それぞれのお像がお祀りされていました。
よく清められた御宝前で、気持ちよくお経をあげさせていただきました。


庫裡で麦茶をいただきながら、ご住職にお寺の歴史をうかがいました。
(当日はなかなかの残暑、冷たい麦茶がめっちゃ美味かったです!)

法華寺のある場所は、2つの重要な出来事の、由緒地であるそうです。


一つ目は、上洛した日像上人が、たびたび辻説法されていた場所であること、そしてもう一つは、大覚大僧正が改宗するきっかけになった場所だということです。
(↑法華寺境内にある題目塔)
日蓮聖人のご遺命を受け、永仁2(1294)年に上洛した日像上人ですが、京都には知っている人も頼るあてもない、まさにゼロからのスタートでした。
とにかくどこかで布教を始めなければいけない、ならば京都でいちばん賑わっている所でやろうじゃないか、ということで、日像上人が狙いを定めたのは、北野天満宮でした。



北野天満宮から南へ延びる道は「御前通り(おんまえどおり)」といいます。「北野天満宮の御前の通り」がその由来だそうです。


(↑御前通り)
洛中一のパワースポット、そのご利益にあやかろうと、当時はそれは多くの人でごった返していたことでしょう。
日像上人はこの御前通り沿いで、辻説法を始めたのです。


(↑御前通り)
こんな感じの道端でやられていたのかな・・・。
京都は街並みがクラシックなので、当時のお姿を想像しやすいです。


お上人に懇願して、本堂にお祀りされているお像の画像を撮らせていただきました。
これは日像上人の辻説法姿を刻した、珍しいお像だそうです。
(↑日像上人坐像)
なんか、カゴ的なものに座られていますよね!
日像上人は草刈り籠に腰掛けて、道行く人々に法華経の教えを説いていた、と伝えられています。
日蓮聖人のいわゆる「獅子吼」スタイルと比べると、なかなかフランクなお姿ですよね。それこそギターでも抱えたら路上ライブでも始めそうな・・・辻説法もある意味、路上ライブでしょうけど!


日像上人は、とにかく弁の立つお坊さんだったようです。
(↑北野天満宮・一の鳥居)
天神様の門前ですから、不安がある人、願いがある人も歩いていたのでしょう。
一人二人と歩みを止め、しばしお説法に聞き入りました。



入信者は徐々に増えてゆきました。特に職人さんなど商工業に従事する方が多かった、といいます。
(中には大商家の主人などもおり、のちに京都日蓮教団を支える有力な檀越となったようです。)


当時十代だった妙実上人(のちの大覚大僧正)も、辻説法から入信した一人です。

(↑法華寺山門前の石碑)
嵯峨大覚寺に仕える真言僧だった妙実上人は正和2(1313)年、日像上人のお説法をこの場所で七日間にわたって聴聞し、納得するものがあったのでしょう、このとき改宗されたそうです。



今回、北野白梅町から嵐電に乗って、嵯峨の大覚寺も訪問させていただきました。


平安時代に嵯峨天皇が造営した離宮をルーツとする大覚寺は、皇室や公家の人々が出家して住職を務める、いわゆる門跡寺院です。(真言宗大覚寺派)
(↑嵯峨山大覚寺の石舞台、勅使門)
妙実上人の出自は諸説ありますが、いずれの説も公家出身です。
なかでも近衛家の生まれであろう、という説が有力のようです。


これは日像上人の辻説法に聞き入る妙実上人を描いた絵ですが、輿に乗っているのが、妙実上人です。優雅ですね~!
(↑第650遠忌記念「大覚大僧正」京都像門本山会刊より引用)
当時は身分の違いがはっきりしていたでしょうから、この優雅さはわからないでもありませんが・・・う~ん、吉備国であれだけ沢山のお寺を苦労して築き、京都がピンチの時は西国信徒から供養された金品を必死で送って妙顕寺を支えた、あの大覚大僧正と同一人物だとは、にわかに信じ難いです。


(↑法華寺本堂の寺紋提灯:近衛家と同じく牡丹!)
それだけ信仰が妙実上人を、芯から変えたのだと思います。
一方で師匠日像上人の度重なる逆境のなか、むしろ公家、近衛家出身という肩書が、大きなアドバンテージとなっていたと思います。


元享元(1321)年、ついに日像上人が朝廷から寺地を下賜され、京都に妙顕寺を開創、建武元(1334)年には後醍醐天皇により妙顕寺を勅願寺とするという綸旨を賜ります。
(↑具足山妙顕寺山門の表札)
北野の辻説法から始まった日像上人の活動は、実に40年の時を経て、実を結んだのです。

康永元(1342)年、日像上人は後継者を妙実上人に定め、74才の生涯を閉じられました。


妙実上人が妙顕寺二世を担っていた約20年間は、それそのまま南北朝の動乱の時期と重なります。
(↑法華寺境内にある題目塔)
妙実上人は朝廷や幕府から依頼を受け、四海静謐、疫病平癒、天下泰平などの祈祷を、度々行っていたそうです。
このうちの一回が、旱魃時の祈雨でした。


他宗では全く効果が現れなかった末の勅命で、妙実上人はお弟子さんとともに桂川の畔で法華経を読むや、すぐに豪雨となりました。
(↑第650遠忌記念「大覚大僧正」京都像門本山会刊:表紙の絵は桂川畔で祈雨をされる妙実上人)
時の後光厳天皇は非常に喜ばれ、この時に日蓮聖人に「大菩薩」、日朗上人、日像上人に「菩薩」の号を賜りました。
妙実上人は「大覚」という法号と、お坊さんの最高位「大僧正」(※)の僧綱(そうごう)を賜ったといいます。
※正確には、祈雨の功績で「僧正」を賜った翌年、再び大祈祷を成し遂げ、「大僧正」に昇叙されたようです。



ちなみにこの僧綱というお坊さんの位は、飛鳥時代の律令制度をルーツにしており、古くは朝廷が管理していたようです。
明治維新後に廃止され、現在は各宗派ごとに僧階が定められています。


(↑綱脇龍妙上人:ニチレン出版「綱脇龍妙上人」尾谷卓一著より引用)
例えばハンセン病救済に生涯を尽くした身延深敬園の綱脇龍妙上人は、確か80才を過ぎてから日蓮宗大僧正に昇叙されたと記憶しています。
僧侶としての業績や年数なども考慮されるのでしょうね。


いずれにせよ、妙実上人が日蓮宗では最初の「大僧正」だそうですよ。
(↑大覚大僧正妙実上人坐像)
妙実上人改め、大覚大僧正は自らの僧綱よりも、今は亡き先師達に菩薩号を贈ることができたという事実が、何より嬉しかったと考えられます。
これを記念して、日像上人が辻説法をしていた、そして自らが改宗した北野・御前通りの一画に、大覚大僧正は法華堂を建立されました。
現在の妙喜山法華寺のルーツです。



貞治3(1364)年4月3日、大覚大僧正は68才で化を遷されました。
以後200年以上、北野の法華堂についての記録は全く認められないそうです。



ご住職によると、室町幕府の政争や度重なる一揆で、京都は相当荒廃していたようですし、天文5(1536)年に起きた天文法難では、京都の法華寺院はことごとく焼かれたといいますから、北野の法華堂も例外ではなかったでしょう。


江戸時代になり、乾性院日進上人というお坊さんが、かつて法華堂があった場所に、お堂を再建されました。
当時、文書が残っていたのか、あるいは口伝なのかわかりませんが、御前通りが仁和寺通りに交わる辺りが、京都宗門の由緒地だと伝えられていたのでしょうね。
(↑乾性院日進上人坐像)
↑こちらは法華寺本堂にお祀りされている日進上人のご尊像です。
泰然とした表情、それこそどんな問答を挑んでもさらっと答えてくれそうな雰囲気です!



宗門を天下公認にしてくれた日像上人、西国布教の偉人・大覚大僧正の大切なご霊跡、まさにその地を、今日こうして参拝できている・・・。
これは再興してくれた日進上人はじめ、護持してくれた歴代のお上人方のおかげ。
深い感謝を込めて、御宝前に合掌しました。



法華寺の境内には、妙見堂があります。
お堂に上がらせてもらい、ご住職にお像を見せていただきました。


お堂には鬼子母神様や七面様などもお祀りされていますが、やはり妙見様が目を引きます。

右手に受け太刀、そして左手でピースサインをした憤怒像。
いつ勧請されたのかはわからないようですが、この場所に妙見様が祀られるのには、意味があるのでしょう。


日像上人が辻説法をされていた時代、大内裏(京都御所)は現在の京都御所よりもずっと西、今の二条城の方にあったようです。
そして大内裏の北西、つまり戌亥(いぬい)の方角に、北野天満宮はあります。
(↓地図にある「大極殿」は大内裏の正殿、だと思います)
(↑北野天満宮の説明板)
古来、天皇は、天空の中心にある北極星を守護神として尊崇してきました。
そして戌亥の方角というのは天門、北極星への入口と考えられていたため、当時の北野天満宮は国家的にもすご~く重要な、パワーに満ちた地であったのでしょう。



また、法華寺から2~3分歩いたところには、大将軍八神社があります。
大将軍も星神様で、方角や方位を護る存在として、大内裏造営の際に、その北西に祀られたそうです。


妙見様も北極星を神格化した存在なわけで、ここ北野の法華寺境内に祀られているのは、実はごく自然なことだと思います。
(↑法華寺妙見堂前の水盤)
ご住職によると、法華寺の妙見菩薩像は、大将軍八神社にお祀りされている大将軍神像によ~く似ているそうです!
僕たちの知らないところで、いろんなことが密接に関係しあっているんですね。
調べ始めたら深みにハマりそうなので、やめておきます(笑)。


いや~、北野の法華寺、数年がかりの念願でしたが、京都宗門のルーツでもある大切な地、やっぱり参拝に来て良かったな!
応対してくださったご住職は、数年前に法華寺の法灯を継がれたとお話しされていました。(先代ご住職は昨年10月に遷化されたそうです。合掌。)
妙顕寺の役職も兼ねておられるようで大変でしょうが、そう感じさせない雰囲気に、僕も元気をいただきました。

応援しています!

金六山慰霊塔(身延町角打)

2022-10-01 13:46:17 | 旅行
JR身延駅

久遠寺参詣の起点として、日蓮宗信徒にお馴染みの駅です。
久遠寺側、つまり西側に駅の出口があります。



一方、駅裏には山が迫っており、ほぼ手つかずの大自然!


駅裏、線路と並行する一本道
小さな沢に架けられた、その名も「えきうらはし」



そのたもとから山に入ってゆく小道があります。


山道を5分も歩くと、眺めの良い山頂に至ります。
地元の方は「丸山」と呼ぶ小山です。
富士川、奥に身延山だ!
おぉ~!身延駅が真下に見える!!



丸山の頂上に、巨大な石碑があります。
身延線創設五十周年の、良い砌に整備された記念塔、そして顕彰碑です。


身延線の前身である富士身延鉄道を開通させ、最終的に国有化させるまで、特に貢献した6人を銅製のレリーフにして、その功績を称えています。
6人は結構な有名人、それこそネットで検索すればすぐに出てくる方ばかりです!
日蓮宗門も関係していそうなので、レリーフの画像とともに、紹介してゆきましょう。


まずはこの方、2代目社長を歴任した堀内良平氏(会社設立当時40才)です。

黒駒出身の堀内氏は、富士北麓を大リゾート地に開拓した第一人者、今の富士急の創始者ですね!
ご先祖様は日蓮聖人とのご縁が深い、代々法華信仰の篤い家系です。

堀内良平氏の伝記「富士を拓く」(塩田道夫著)によると、堀内氏は9才の時、父と初めて身延山登詣をしたそうです。しかし大雨が続き、富士川が増水してしまいました。まだ明治時代のこと、富士川に架かる橋もなく、半月も身延山に足止めされたということです。

(↑富士川難所の一つ、天神ヶ滝辺り)
この苦い経験が原点となっているのでしょう、富士川沿いに鉄道を通し、皆を安全、確実に参詣させたい、という思いを持ち続けていました。
明治の終り頃、富士身延鉄道の構想を最初に切り出したのは、堀内良平氏だったのです。


こちらは富士身延鉄道の初代社長、小野金六氏(会社設立当時58才)です。

韮崎出身の小野氏は、生糸取引で大成功し、東京に出てからは鉄道、銀行など幅広い業界で経営に参加した、著名な実業家だそうです。
当時の甲州財界を動かすならばこの人、キーパーソン的な存在でした。
時間さえあれば日蓮聖人の御遺文を読み耽る、熱心な法華信者だったといいます。


丸眼鏡がお似合いの紳士は、根津嘉一郎氏(会社設立当時50才)です。

今の山梨市出身の実業家、特に全国の鉄道敷設や再建に実績を持ち、「鉄道王」の異名をとったそうです。
衆議院議員としても活躍していたため、この方が持つ政界とのパイプは重宝されたのでしょう。
東武鉄道の社長をしていた時代、利根川水運から鉄道輸送への転換を経験されたようで、同じ川沿いの路線、彼のノウハウや人脈は、余人をもって代えがたい存在でした。


袈裟をかけたこちらの老僧は、身延山79世(会社設立当時70才)の小泉日慈上人です。

加賀出身。三村日修師、新居日薩師などに学び、静岡蓮永寺を経て、祖山の法主様に就かれた方です。


身延山史によると、身延山の御廟域が、現在の静謐なエリアに整備されていったのは、日慈上人の発願がきっかけだとか。ただただ、感謝ですね!


ちょっと話を脱線させますね(鉄道で脱線はマズいか!笑)。
富士身延鉄道がまだ構想段階だった頃、こんなエピソードがあったそうです。

堀内良平氏は当時、甲州政財界の二大巨頭だった小野金六氏、根津嘉一郎氏の協力を、どうしても必要としていました。
(↑身延山聖園にある堀内良平氏銅像)
鉄道敷設は巨大事業となります。
信用もあり、人脈豊富な彼らを発起人に担ぎ上げることができれば、事業は甲州、駿州だけでなく国も巻き込んで、一気に現実味を帯びるはず・・・。


堀内良平氏は早速、両氏の説得に行きました。

すんなりと協力の意思を示してくれた根津嘉一郎氏に対し、小野金六氏は富士川沿いの鉄道敷設に否定的でした。
(韮崎・旧小野家蔵座敷内の小野金六氏胸像)
「あの辺りの急峻な地形は、土木工事が難航するはずだ。費用がかかりすぎて採算が合わなくなるだろう。」

かつて富士川沿いに鉄道を通すという計画はいくつかありましたが、どれも構想段階で頓挫、小野金六氏はそれらにも深く関わってきただけに、言葉には重みがありました。


(↑JR身延線 井出駅付近)
しかし間違いなく小野金六氏はキーパーソン、彼の協力がなければ事業は計画倒れになるだろう・・・。
どうにかして小野氏の首を縦に振らせようと、堀内良平氏は奇策を練りました。


堀内良平氏は、静岡の蓮永寺に小泉日慈上人を訪ねます。
(↑貞松山蓮永寺の山門)
蓮永寺は六老僧・日持上人開創の古刹です。
小泉日慈上人は、ここに檀林を設けて県下のお坊さんを教育したり、また日持上人の伝統なのでしょうか、海外布教にも熱心だったといいます。

当時、小泉日慈上人は、近く身延山の法主様に就任することが決まっており、祖山の未来を案じていたと思われます。


(↑身延山久遠寺の三門)
小泉日慈上人に拝謁した堀内良平氏は、鉄道が実現すれば日蓮宗信徒が身延山を参詣しやすくなること、そうすれば必ずや祖山の繁栄にも寄与できることを力説しました。


四方を山に囲まれた身延山久遠寺、実はつい100年前まで、参詣したくても、富士川沿いの険しい道を草鞋履きで歩いてくるか、急流の富士川を舟で下ってくるかしか、手段がありませんでした。
(昔の富士川 身延町屏風岩辺り:身延山古寫眞帖;身延山久遠寺刊より引用)
全国の信徒を参詣しやすくさせてあげたい、という堀内氏の訴えに、小泉日慈上人も強く共鳴しました。


(↑身延山久遠寺境内)
その上で堀内良平氏は、次期法主様である小泉日慈上人から直々に、協力を渋る小野金六氏を説得してほしい、と要請しました。
小野金六氏は熱心な日蓮宗信徒、祖山への思いは人一倍だったのです。


果たして、堀内良平氏の作戦は成功しました。
(韮崎・旧小野家蔵座敷の鬼瓦)
小野金六氏は小泉日慈上人から何かを感じたのでしょう、この事業を「仏のお導き」とし、一転、全面協力することになりました。それどころか初代社長として、この難事業に全身全霊で尽くしたといいます。

一方、祖山として富士身延鉄道に協力することに対し、当初、宗門内に強い反対があったそうです。
しかし小泉日慈上人は全くブレることなく、協力の姿勢を貫きました。


(↑JR身延線 寄畑駅付近)
会社名、路線名を「富士甲府鉄道」とせず、「富士身延鉄道」としたあたりに、日慈上人、小野氏、堀内氏、お三方の気持ちが、汲み取れるような気がしてなりません。


富士から北上してきたレールが身延まで延伸し、身延停車場が開業したのが大正9(1920)年のことでした。
(↑丸山からJR身延駅を望む)
翌年は宗祖降誕七〇〇年、さらに翌年は大正天皇から日蓮聖人に大師号が宣下されるという良い砌でもあり、鉄道を乗り継いで身延山に上る信徒が急増し、久遠寺も門前町も大いに賑わったといいます。


実は富士身延鉄道、当初は富士川西岸に線路を通す予定でした。
しかしまだ鉄道のメリットすら理解されていなかった時代、地権者達の激しい反対運動に遭い、更に険しい富士川東岸ルートを、選択せざるをえなかったそうです。

今の身延駅が川の東側にあるのは、そういう理由です。


身延停車場が開業した当時、参拝客が身延山に行くには、まず富士川の河原まで下りて行き、船に乗って対岸に渡って、さらに大野山の裾を山越えしたといいます。
(身延停車場と身延橋:目で見る境南の100年;郷土出版社刊より引用)
乗客の利便性を考慮し、富士身延鉄道はまず2年かけて富士川に身延橋を架けました。
橋は大正12(1923)年に開通、鉄道会社が架けたんですね!


(初代身延橋:身延山古寫眞帖;身延山久遠寺刊より引用)
激流にも耐えられるよう、鉄製の頑強な吊り橋だったそうです。
(当初は住民を除き、渡り賃十銭を取ったとか!)


(現在の身延橋:昭和47年完成の2代目らしい)
また大野山(↑画像では左手前の山)にはトンネルが掘られました。
これは身延村の事業でしたが、祖山も多大な資金を援助したそうですよ!


(現在の大野トンネルの北側にある、旧大野トンネル:現在は歩行者専用)
大野トンネルは身延橋完成の前年に開通、これにより身延停車場から身延山総門まで、ほぼフラットな道が確保されたのです。
文永11(1274)年に日蓮聖人によって身延山が開闢されて約650年、これは革命的なことだったと思います!


富士身延鉄道の初代社長として、重責を果たした小野金六氏。
(↑小野金六氏:富士を拓く;塩田道夫著より引用)
長年の心労もあったのでしょう、大正12(1923)年3月11日、72才で亡くなります。
亡くなる直前まで、消えそうな声で、お題目を唱え続けていたといいます。


小野金六氏の訃報を受けた小泉日慈上人は当時83才、それでも自分が小野金六氏に引導を渡すのだと、急いで身延停車場から東京に向かいました。

各界に顔の広かった小野金六氏のこと、参列者の途切れない盛大なお葬式で、小泉日慈上人は大導師を務めました。
ところが3月23日、小野氏のわずか12日後に、小泉日慈上人は遷化されます。


(↑身延山久遠寺総門)
「日蓮が弟子檀那等は 此の山を本として参るべし 此れ則ち霊山の契りなり」(波木井殿御書)

かつて人々が細い山道を歩き、激流の富士川を舟で下り、命がけで辿った身延山への道。
それが今や身延停車場へ鉄道が乗り入れ、信徒は汽車で祖山を参拝できるようになった。


(↑JR身延駅構内)
夢のような光景を見届けたかのように、小野金六氏、小泉日慈上人は、同じ時期に、この世を去られたのです。
信仰の世界では、我々の常識が到底及ばない、不思議な出来事があるものですね。
さらにこのブログを書いている今年は偶然にも、お二人の百遠忌です。他生のご縁が、ちょっぴりあるのかもしれません。

・・・脱線が長かったですね、話を丸山のレリーフに戻しましょう。

こちらは3代目社長を務めた小野耕一氏(会社設立当時29才)です。

小野金六氏の嫡男として、父親の信仰、経営スタンスを継承しました。


小野家のあった韮崎市内、若宮八幡宮の境内にある↑小野金六翁頌徳碑には、父子で韮崎尋常高等小学校に立派な講堂(現在の価値で数億円規模!)を寄付したと刻まれていました。

(↑韮崎若宮八幡宮内 小野金六翁頌徳碑)
自分の手からこぼれる分は地元に還元するというのが、小野家なのでしょう。富士身延鉄道の経営にあたっても、そのスタイルは遺憾なく発揮されました。


最後のレリーフは河西豊太郎氏(会社設立当時37才)、4代目、つまり最後に社長を務めた方です。

現在の南アルプス市出身、誠実な人柄は根津嘉一郎氏からの信頼が厚く、根津財閥の大番頭として活躍しました。
堀内良平氏と年が近く、青年期に南八代村(今の笛吹市)にあった私塾「成器舎」で同門となるなど、知己の関係だったようですね。


(↑JR身延線 甲府駅)
富士身延鉄道が甲府まで延伸し、全線開業したのは昭和3(1928)年のことでした。
会社設立から実に17年、いかに難事業だったかが想像できます。
当時の社長は堀内良平氏、本当に嬉しかったでしょうね!


(↑かつて富士身延鉄道の本社が入っていたJR南甲府駅舎)
ところがこの時代になると世の中は大不況、軍国主義が台頭し始めます。
旅行を楽しむ雰囲気はなくなり、私鉄であった富士身延鉄道の経営も、次第に悪化してゆきます。


(JR身延線 甲斐大島駅)
太平洋戦争直前の大変な時期、堀内氏から社長のバトンを引き継いだ小野耕一氏、河西豊太郎氏の二人が奔走して、昭和16(1941)年、富士身延鉄道は国有化され、現在のJR身延線に至ります。



身延停車場が開業して4年後、堀内良平氏が中心となり、小野金六氏の銅像を建立しました。
参詣客で賑わう身延停車場を見下ろす丸山山頂です。何よりの慰霊となったでしょうね。


残念ながら太平洋戦争により銅像は供出され、長らく↑台座だけが、残されていました。


昭和38(1963)年、富士身延鉄道のスタート区間、加島(富士)~大宮(富士宮)間が開業してから半世紀の砌、残された台座に新しいブロンズを載せたようですね。
功績者6人のレリーフも、その際に設えられたのでしょう。


機関車の動輪、上には・・・鳩かな~?
そして下の植物は、日蓮宗の橘でしょう。

先人達の深い信仰が、鉄道開業を大きく後押しした、という面も確かにあったわけで、僕にはとても象徴的なモニュメントに見えました。


今年の10月14日は、1872(明治5)に新橋~横浜間に鉄道が開通してから150年にあたるそうです。
(↑JR身延線 内船駅付近)
いかなる宗教、宗派であろうと、聖地を実際に参詣できること。
それが人の心を、どれほど豊かに、幸福にするか・・・。
人の信仰は年齢を重ねるにつれ、深まるように、最近特に感じます。

多くのローカル線が存続の危機にある今、庶民、弱者にも祖山参詣の自由をくれたこの路線に、改めて思いを巡らしたいと思い、僕は今回、丸山山頂を訪れました。



6人のレリーフの裏側に、「金六山慰霊塔」として協賛者が刻んだ銅板があり、これを今回のご霊跡のタイトルとさせていただきました。

南無妙法蓮華経。

堀内良平翁頌徳碑(身延町身延)

2022-09-01 14:48:22 | 旅行
8年前に亡くなった義父は、先代から継いだ小さな日蓮宗教会を主宰していました。現在、身延山聖園に眠っています。

聖園墓地は東谷を上っていった裏参道の頂上付近、↑延寿坊さんの角をさらに上って行った所にあります。



この辺り、地元の方は寺平(てらだいら)と呼びます。日蓮聖人がご入山されるもっと昔、ここに修験のお寺があったという言い伝えが、地名の由来のようです。


義父のお墓参りにやって来て、いつも気になっていたのが、墓地の最奥にあるこの銅像、そして石碑です。

山梨県が地盤の政治家であり、実業家であった、堀内良平という方の頌徳碑です。
堀内家のお墓が聖園墓地にあり、頌徳碑はその正面に位置します。(お墓は生け垣に囲まれており、内部を見ることはできません。)



この石碑に刻まれた碑文や、彼の伝記「富士を拓く」(塩田道夫著)を手掛かりに、堀内良平氏について調べてみました。



碑銘にちなみ、以降「堀内良平翁」と記しますね!


明治3(1870)年、堀内良平翁は甲府県八代郡上黒駒村新宿(現在の笛吹市上黒駒)で、農業を営む堀内藤右衛門の長男として生まれました。

御坂峠の北麓、笛吹川支流の↑金川沿いにある上黒駒村は、ただでさえ高山に挟まれた谷あい、耕作地が絶対的に少なく、また大雨が降ると金川が大暴れするため、当時の村民の暮らしは、厳しいものだったようです。



今でこそブドウや桃の栽培が盛んですが、黒駒が果樹栽培に適する耕地に改良されたのは、ずっと後年のことです。


堀内良平翁13才の時、母親が病死してしまいます。
3人の弟の面倒を見ながら、家業の農業の傍ら、わずか14才で役場の職員として働き始めるなど、少年時代は本当に苦労したようです。
(↑上黒駒の風景)
こういった背景もあったからでしょう。
堀内良平翁は黒駒、甲州と、そこに暮らす村民の幸せのために何ができるだろうかと、考え続けました。


地元の子供達に学問を受けさせてやりたいと、黒駒に私塾「育英塾」を開きます。経営は頭打ちでしたが、人を育てることが、結果的に地元を豊かにするのだという先見性があったようですね。
(↑神座山林道)
育英塾の経営を安定させようと取り組んだのが、黒駒の背後にある御料林の開墾でした。
御料林は現在でいう国有林、この一部を国に掛け合って払下げてもらい、開墾して桑や藍を植えました。
すると実際に生産性が上がり、塾の経営どころか村全体が少しずつ、豊かになってゆきました。


(↑上黒駒の風景)
26才の時、黒駒で報知新聞を売りさばく権利を得ます。
配達や購読料の徴収も自分でやることで村民と顔馴染みになると、今度は地元の声を全国に発信する役目も担うようになります。



(塩田道夫著「富士を拓く」より引用)
明治40(1907)年に発生した大水害では、真っ先に被害状況を伝え、国庫から復旧対策費を多く支出させるきっかけを作りました。


こうした堀内良平翁の手腕は、黒駒や甲州にとどまらず、やがて社会的な大事業を次々と成し遂げることになります。

(塩田道夫著「富士を拓く」より引用)
日本初のバス事業である東京市街自動車株式会社(通称「青バス」)を創立します。関東大震災で市電の多くが不通になる中、青バスは大活躍したそうです。
この事業は、現在の都バス、はとバスに引き継がれています。


我々身延山にご縁がある人達にとって、馴染み深い電車といえば、富士~甲府間を結ぶ↓身延線でしょう。

この富士身延鉄道(今のJR身延線)開通を牽引したのも、堀内良平翁です。
構想から開通まで20年以上、それこそ明治・大正・昭和を跨いだ大事業でした。

富士身延鉄道に関するお話は、後日させていただきますね。


ところでこの画像、御坂峠の旧道から臨んだ富士山です。
裾野に広がる樹海と、眼下には河口湖・・・最高の景色ですね!

御坂峠の麓で生まれ育った堀内良平翁は、かねてからこの景色を、都会の人や外国人に楽しんでもらいたいと考えていました。
耕地が少ない甲州は、農業生産に限界がある。ならば逆に山に囲まれた風景を宣伝し、観光事業で人を集めたらどうだろう、と考えました。


富士の北麓には、未開発の広大な県有地がありました。それも5つの美しい湖を擁して・・・。
堀内良平翁は早速、県知事に直談判し、富士北麓開発を官民一体の事業とすることを了承させました。


堀内良平翁は地元出身の小野金六、根津嘉一郎といった政財界人(「甲州財閥」と呼ばれるらしい)の力も借り、巨大事業の陣頭指揮を執りました。

原野に道路を通し、電気水道などインフラを整備、ホテルを建て、別荘を分譲、さらには大月~吉田間に富士山麓電気鉄道を開通させました。
今から100年近く前のことです。それこそ夢のような話だったでしょうが、翁の目論見は当たり、全国の人を呼び込むことに大成功します。


5つの美しい湖の総称を「富士五湖」と命名したのも良平翁だそうですよ!

富士五湖周辺での成功が礎となり、山梨県は日本屈指の観光地に発展し、今に至ります。



(塩田道夫著「富士を拓く」より引用)
堀内良平翁の夢は、富士吉田までつながった鉄道を、さらに東には御殿場、西には西湖、精進湖、本栖湖、下部温泉まで、つなげたかったようです。
戦争などにより計画は白紙になりましたが・・・もし実現していたらと考えると、ワクワクしますね!


山中湖畔、旭日丘には、富士北麓をリゾートとして拓いた堀内良平翁を称える頌徳碑があります。

身延山とここ、2か所に頌徳碑があるなんて、すごくないですか?
いかに人々が翁に感謝しているか・・・人徳ですね。


頌徳碑には、報知新聞時代から親交のあった文筆家・徳富蘇峰氏による碑文が刻まれています。

「世のため国のために尽くすこと70年、麓一帯の開発は大変な困難だったでしょう。甲州人達が良平翁の徳を頌えたがるのも不思議ではありません。何より、翁の偉業により、天下の名山・富岳も、面目を一新したのですから」


(↑富士急ハイランド)
堀内良平翁の事業は、現在の富士急グループに引き継がれ、現在は曾孫の光一郎氏が社長を務めています。



また、堀内良平翁は衆議院議員でもありましたが、地盤は子孫に引き継がれ、現在は光一郎氏の奥様・詔子氏が務めています。
ワクチン担当大臣、大変でしたね!


ところで、堀内良平翁は日蓮宗の篤信者としても、有名だったそうです。

伝記「富士を拓く」によると、堀内家は良平翁、一雄氏、光雄氏、現当主の光一郎氏と代々、久遠寺の信徒総代を務められているといいます。知らなかった・・・!


甲斐源氏の流れを汲む堀内家は代々、日蓮宗を篤く信仰してきました。
この信仰は、驚くべきことに日蓮聖人ご在世中にまで遡ります。
(↑御坂路、上黒駒あたり)
弘安5(1282)年9月8日、病身を常陸の湯で癒そうと身延山を下りた日蓮聖人は、下山~鰍沢~曽根大屋を経て、9月11日に石和から御坂路(鎌倉街道)を進み、上黒駒にある堀内屋敷に宿泊されたようです。


僕は数年前、御坂路にある「藤曼荼羅」というご霊跡を訪ねたことがあります。
この界隈に篤信の方がいて、日蓮聖人がお曼荼羅を書いて差し上げたということ、そして常陸の湯に向かう日蓮聖人ご一行がこの地で休息されたということを示唆する文字が、石碑に刻まれていました。

(↑御坂町金川原の藤曼荼羅霊跡)
お祖師様がお曼荼羅を差し上げたほどの篤信の方・・・これが翁の先祖である堀内藤右衛門さんではないかと思われます。

伝記「富士を拓く」によると、
「堀内家の当主は代々、藤右衛門を襲名するが、隠居すると藤内(とうない)と名乗っていた。」とあります。


このブログで参考資料として、汎用させて頂いている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入) には、遷化されたお祖師様を囲む弟子信者の輪の中に、「甲州 堀内傳内」という方が描かれています。

この方が元・堀内藤右衛門の「藤内」さんではないでしょうか。(良平翁の弟が「伝重」というように、堀内家は男子に「傳(伝)」の字を用いる方もいるようです。「傳内」さん、良平翁のご先祖様である可能性が高そうです。)


先述のように、数多の困難を経て富士身延鉄道(今のJR身延線↓)を開通にこぎつけたのは、堀内良平翁でした。日蓮聖人との、深い深いご縁があってこその、偉業でしょう。

特に昭和6(1931)年の宗祖六五〇遠忌法要では、全国の信徒が身延山に参集するのに際し、開業間もない富士身延鉄道が大活躍したそうです。
遠く、山深い身延山に、電車で行けるようになった・・・これがどれだけ宗門に恩恵をもたらしたか、計り知れません。


聖園墓地の頌徳碑には、こんなエピソードも刻まれていました。

「昭和15年、望月日謙法主の指導により、全国信徒が祖廟の近隣に墳墓を奠(さだ)め、永久給仕の洪範を開かしめんとして、身延聖園匿名組合を組織し、寺平の6万坪の霊園を計画着手す。」


現在の御廟域は、細部にまで手入れがなされており、まさに静謐そのものです。

画像は先月撮ったものです。御草庵跡の向こう(右奥)に祖廟拝殿が見えます。


一方、昭和初期に撮られたほぼ同アングルの、御廟域の写真がこれです。
(身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用)
やはり御草庵跡の右奥に、昔の常在殿が見えます。
ところが御草庵跡の向こうに、数えきれないほどの墓石が確認できます。
衝撃的な画像ですね!


かつて御廟域は、僧俗の葬場となっていたといいます。
せめて日蓮聖人棲神の地に葬られたい、死後もお近くで給仕したい、という気持ちはよく理解できますが・・・聖人御入滅後600年以上、建立に建立を重ねた末の風景だったのでしょう。
身延山にとって御廟域の浄化は、長年の懸案でした。
(身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用)
身延山史によると、79世・小泉日慈上人の号令で大正10(1921)年、御廟釐正(りせい:きちんと改め正すという意味)会が組織されます。
乱立する墓石を移転させ、聖人在山当時を偲ぶ場所として整備する大事業が始まります。
国内外が激動の時代を経て、この事業は戦後まで続いたそうです。


当時の調査によると、移転すべき墓石はなんと5700基以上!
その受け皿として鷹取山麓、花之坊裏地の斜面を開いて新墓地が造成されました。
門内商店街、農Cafe Zenchoさん辺りから少し歩くと、赤い屋根の花之坊さんが見えてきます。
花之坊さんの背部↑に、その新墓地がチラッと見えます。


のちに鷹取山麓の新墓地とは別に、堀内良平翁が中心となって寺平に造られた身延山内の霊園が、聖園墓地でした。

お祖師様のお近くに自分の墓を、と願う未来の弟子信徒達を思ってのことでしょう、広大な敷地を設えてくださいました。



頌徳碑には
「戦後幾多の困難ありしも解決し、之を久遠寺に寄進す。仍(よっ)て財団法人身延山聖園を設立し、久遠寺が管理経営。以て給仕第一の祖訓の実現を成就す。」とも記されていました。



今日、みんなが気持ちよく御廟を参拝できるのも、僕が義父のお墓参りができるのも、堀内良平翁と、その時代に尽力された多くの先輩達のおかげ。いつも心に留めておきます。


ちょっと話は脱線しますが、堀内良平翁は日蓮教学の研究者としても知られています。
先日、「皇道と日蓮」(昭和16年4月発行;当時の定価1.8円)という翁の著書を読みました。
軍部が開戦に突き進んでいたという時代背景もあったのでしょう、「皇国日本の国体」はどうあるべきかを説いています。
崇峻天皇を殺害した蘇我氏、三代の天皇を流罪にした鎌倉幕府、京都を軽んじた徳川など、皇国の国体に背いた政権は、歴史が証明する通り、必ず瓦解する。
彼らが信仰した阿弥陀など解脱遁世の印度仏法(月の仏法)と比べ、現世を生きる日本仏法(日の仏法)である法華経こそ、皇国日本に相応しい宗旨である。
ただ大事なことは「神本佛迹」、つまり常に日本の神々を本位とし、国民は法華経で修業しながら、勤王の立場を貫くべきである・・・そんな内容でした。
皇道の名のもとに、天皇の立場を利用する勢力が発言力を増していた当時、堀内良平翁の主張は、勇気が要るものだったでしょう。


こうした翁のスタンスは、戦時下で衆議院議員をされていた時も、何ら変わりませんでした。
(堀内良平翁:塩田道夫著「富士を拓く」より引用)
日中戦争のさなか、電力を国家で統制管理するという法案が審議された時には、庶民が安価に電力を得られなくなると、軍部の圧力にも屈せず、真っ向から反対したそうです。
また、戦況が悪化し、富士山麓鉄道の線路を供出せよ、という軍部の命令が出された際には、逆に軍部を説得し、これを断ったといいます。
庶民が幸福であればこそ、国は栄える。日の仏法を深く信仰した翁が、「勤王」とは何かを、自ら体現して見せたのだと思います。


太平洋戦争の敗色が濃くなってきた昭和19年7月4日、折しも空襲のさなかに、堀内良平翁は脳溢血で逝去されました。波瀾万丈の74年でした。
東京の自宅を出発したご遺体は、甲州各地の翁ゆかりの地を巡りながら、身延山に至ったそうです。
(聖園墓地の堀内良平銅像)
久遠寺仏殿での本葬後、翁のご遺体は自らが設えた聖園墓地の一画に、土葬されたといいます。仏殿での本葬も、身延山に土葬を許されたのも、僧侶以外では堀内良平翁が初めてでした。
身延山がどれだけ翁に感謝していたかが、窺えます。


画像左側の木が茂っている辺りに、良平翁はじめ堀内家代々の墓地があります。(義父のお墓はそのすぐ近くなんです!)
柵で囲まれており、中には入れませんが、今後も柵外から合掌し、翁の遺徳に感謝してゆきたいと思います。

長遠山本成寺(富士宮市内房)

2022-08-01 10:51:06 | 旅行

僕は身延山を参詣する際、新東名の新清水ICで降りて、富士川に沿って走る国道52号線を北上することが多いです。


(南部町にある四條金吾公のご霊跡・内船寺)
内船、南部、相又など、日蓮聖人にゆかりのある地名が目白押しで、「あぁ、帰ってきたな~」と感じるルートです。


今回は52号線からちょっと逸れて、「内房」という場所にある宗門寺院を参拝しました。



日蓮聖人が「河の水は筒の中に強兵が矢を射出したるが如し」とまで書かれた日本屈指の急流・富士川。



富士川三大難所の一つ「釜口峡」の西岸に、内房(うつぶさ)の集落があります。
 


知る人ぞ知る古刹・本成寺です。



立派な題目法塔が迎えてくれます。


お!石工は信州高遠の職人さんですね。

山深くにある高遠は耕作地が狭いため、農家の次男以下は石工に従事し、日本全国を旅しながら石碑や石仏を彫っていたようです。
特に江戸時代、高遠石工は技術が高く、引く手あまただったと聞いたことがあります。



山門です。
石垣の上に構える薬医門。いい雰囲気です。



山号は長遠山です。


ん?山門の向こうにも門?

上半分は木造の楼門風、下半分は漆喰の竜宮城風、ハイブリッド門です。
境内におられたお檀家さんにお話しを聞くと、これは鐘楼門、つまり上に梵鐘があるんだそうです。


真下から写すと・・・

おおっ!



本堂です。
屋根が二層になっている珍しい造りです。多宝塔をイメージしているのかな?
気持ちのいい晴天のもと、本堂前でゆっくりお自我偈を唱えさせていただきました。


(願満祖師像:本成寺縁起より引用)
本堂には彫刻の名手・日法上人ご親刻の、願満祖師像が安置されているそうです。
身延山と同じく、6月と10月に御更衣式をしているとのことです。



こちらは祖師堂です。
扁額の「國柱殿」は、開目抄の三大誓願が由来かな?


境内にお寺の縁起が掲示されていました。

読んでびっくり!
まず、ここ本成寺の歴史がものすごく古いということ。それこそ日蓮聖人が数々の法難に遭うより前の時代に、創建されています。
そして何より、本成寺の縁起が、日蓮聖人の立正安国論起草に大きく関わっていること・・・今まで全く知らなかった経緯が、そこにあったのです。


(長興山妙本寺蔵・立正安国論:鎌倉国宝館刊「北条時頼とその時代」より引用)
日蓮聖人渾身の著作「立正安国論」。
天災や疫病などで人々が苦しむ中、国家が本来あるべき姿、なすべき政策を提案した論文、檄文です。



正嘉元(1257)年から文応元(1259)年にかけて、東国では大地震、洪水や疫病、飢饉などが次々発生し、人々は困窮していました。幕府は寺社に働きかけて祈願をしましたが、状況は一向に改善しませんでした。


(本成寺の日蓮聖人銅像)
日蓮聖人はこの現状に疑問を抱きました。
災厄が起こる原因は、仏法を軽んじているからではないのか?
ならば・・・どうすれば良いのか?どうすれば人々は救われるのか?
日蓮聖人はこれらの原因と対策の糸口を経文に求めようと、動き始めました。


富士市岩本にある、岩本山實相寺。
(實相寺の楼門)
平安時代に鳥羽法皇の命で創建された、当時天台宗だった勅願寺です。
のちに第5代天台座主となる円珍上人が、唐から持ち帰った一切経二蔵のうち、一蔵が格護されているお寺として、全国に名を知られていました。


当時、一切経を所蔵するお寺は少なく、門外の僧が閲読したくても、そのハードルは想像以上に高かったようですね。
(實相寺境内)
高僧にツテがあるとか、大寺院の僧ならばともかく、ほんの数年前に一宗を興したばかりの日蓮聖人。おいそれとは一切経蔵に入れなかったのでしょう。



「日源上人とゆかりの寺院」(日源上人第七百遠忌御報恩奉行会刊)という冊子の中で、立正大学の寺尾英智教授(現在は学長さんなんですね!)は、
「日蓮聖人は諸経論を閲読するため、知友の僧や弟子たちに依頼するなど、苦心している。」
と書かれています。


(富士川堤防から岩本山を望む)
当時、實相寺がある岩本地域を治めていた郡代官は上野氏、この上野氏にお仕えしていた役人の中に、「内房殿」と呼ばれる人がいました。
内房殿は仕事の関係上、普段から實相寺にも出入りしており、お坊さん達とも顔見知りだったと思われます。


(實相寺の山門)
實相寺から門前払いを食らい続け、困り果てている日蓮聖人の姿を、ある日、内房殿は偶然目にしました。
内房殿は聖人に、何かを感じ、声をかけたのだろうと思います。


日蓮聖人に話を聞いて、心を揺さぶられたのでしょう。
それならばと、内房殿は實相寺に仕える巌誉律師(ごんよりっし)という住僧を紹介しました。
(實相寺の一切経蔵)
このご縁で、日蓮聖人は入蔵を許され、一切経を閲読することが叶ったのです。


この経緯、目から鱗でした。
日蓮聖人のご霊跡を巡り始めて6年経ちますが、この話は初めて知りました。
日蓮聖人は清澄山で修業し、比叡山で学ばれたわけで、だから天台宗の岩本實相寺には出入りできたんじゃないかと、勝手に思ってましたが・・・苦労されたんですね。
(妙法華経山安国論寺蔵・日蓮聖人註画讃)
この一切経閲読を基礎として数年後、日蓮聖人は立正安国論を書き上げ、北条時頼に献上したわけですから、内房殿の功績はあまりに大きいですよね!



内房殿のご実家は、岩本實相寺から10kmほど離れた、富士川沿いの内房という村にありました。胎鏡寺という、真言宗のお寺でした。


内房殿はさっき知り合ったばかりの日蓮聖人を実家に招き、改めて、母親とともに聖人の法話をじっくり聞きました。
胎鏡寺の宗旨とは違うけど、このお坊さんは本物だ!と感じた母子は、その場で日蓮聖人に帰依しました。

また、内房殿には胎鏡寺の住職を務める、東林坊、仏像坊という2人の弟がいましたが、日蓮聖人と法論を交わすうちに彼らも信伏し、日蓮聖人のお弟子さんになりました。
正嘉2(1258)年のことです。


本成寺の縁起によると、日蓮聖人はこのお寺に「一夏九旬」、滞在したようです。
一夏九旬(いちげくじゅん)とは、旧暦4/15~7/15のことで、仏教では安居(あんご)の期間といい、古くはインドの雨季、お坊さん達が外に出ず修行に専念していたのがルーツみたいです。

てことは日蓮聖人は3ヶ月間、ここ内房を拠点として實相寺に通ったり、立正安国論の構想を練られたのかもしれませんね!



そうそう、境内には日蓮聖人が使われたと伝わる、硯水井戸がありますよ。



鎌倉幕府をも動揺させた立正安国論は、このお水で墨を擦り、下書きされたのかな?想像が膨らみます。


歴代お上人の御廟を参拝。

開山以来765年(!)、この地で法灯を継承してくださった先師達に、心から感謝いたします。


日蓮聖人に帰依したことで、胎鏡寺は改宗して長遠山久成寺となり、のちに長遠山本成寺となります。

日蓮聖人を開山と仰ぎ、兄の東林坊は日報上人、弟の仏像坊は日浄上人という法名を日蓮聖人から賜り、それぞれ二世、三世を歴任されました。

ちなみに本成寺、他宗から法華経に改宗したお寺としては、宗門最初だそうですよ!



本堂の裏山にはお祖師様のご尊像。



縁起通りに解釈すると、お祖師様36才の時、内房に来られています。
肌に張りが感じられますから、その頃のお姿なのでしょう。


法華経を国家の柱にしたいという日蓮聖人の構想は、内房殿の機転によって立正安国論という形となり、一気に現実味を帯びるようになりました。

お祖師様はこの時の感謝の気持ちを生涯、忘れなかったのでしょうね。
身延御入山の際にもこちらに立ち寄られたようですし、内房殿のご家族に宛てたご遺文も、いくつか確認されています。



富士山が見える!
お祖師様もここから拝まれたのかな?


僕が本成寺を参拝した日は、何人もの職人さんが入って、境内の手入れをされていました。

ご首題をお願いがてら、対応してくださったお上人にお話しを伺うと、なんとそのお上人、これから本成寺の住職を継がれるとのこと!
さらには翌々日、入寺式が予定されているので、境内の整備をしてるんですよ!と仰っていました。


先ほどの縁起をまとめられたのが61世とありましたから、新住職は62世でしょうか?
ろ、62世・・・う~、気が遠くなる・・・。

だけどこうして一代一代、法灯は絶えることなく継がれてゆくんですね。
ゴツめのガタイに反して、笑顔の優しい、とても話しやすいお上人でした。

応援しています!!

村雲御所 瑞龍寺(近江八幡市宮内町)

2022-07-01 16:03:42 | 旅行
以前、福岡博多の日蓮聖人大銅像について調べものをしていた時、ある尼僧さんのお名前を目にしました。
(「佐野前励上人」:原田種夫著・日菅上人報恩会刊より)
↑これは博多大銅像除幕開眼式の主な出席者ですが、ここに「瑞龍寺門跡・村雲日榮尼猊下」とありました。
「猊下」といえばトップクラスの高僧、式典ではいわゆるVIPでしょうし、実際に祝辞まで述べられたようです。
はて?この方はどんなお上人なんだろう?


実は3年前、近江八幡市を旅した時に、僕は村雲瑞龍寺を参詣しています。

今回はその時に撮った画像を中心に、村雲瑞龍寺を紹介したいと思います!


近江八幡といえば八幡堀!

琵琶湖につながる水路が整備されたことで、船や人の往来が増え、近江八幡では商業が発達しました。


(東近江市・五箇荘の近江商人像)
「売り手よし、買い手よし、世間よし」。
「三方よし」の近江商人は、この八幡堀にルーツがあるといっても過言ではなさそうです。



八幡堀の畔から、山に向かうロープウェイがあります。
5分ほどで山頂駅に着きます。



「村雲御所 瑞龍寺門跡」
菊の御紋が掲げられています。皇室に関係ありそうですね。



山頂駅からも少し坂道を登ります。



山門が現れました。
色彩の少なさが、グッときます!


瑞龍寺は日蓮宗唯一の門跡寺院です。
門跡寺院というのは、皇族や公家の方が出家して、住職を務めるお寺のことだそうです。

今でこそ皇族が少なく、皇位継承範囲を広げるかどうかの議論もありますが、その昔は、まずは世継ぎ候補を沢山生んで、この中から後継者を一人に決めるのが一般的でした。



後継者が決まると、今度は争いを避けるため、他の皇族は身分を離れさせられたといいます(これを臣籍降下というそうです)。
臣籍降下した者は、その多くが出家し、お寺に入りました。
出家することは、権力と無関係になることでしょうから、そういう意味もあったのかもしれません。



ただ、出家したとはいえ、高貴な家柄の人です。一般のお寺とは区別して、門跡寺院ができました。
有名なところでは仁和寺、大覚寺など、京都のお寺が多いようですが、日光の輪王寺のように関東にも少数、存在します。


ちょっと話は脱線しますね。

そもそも明治維新以前、天皇家の人々は仏教をこよなく信仰しておられたようです。

数年前に訪問した、京都の泉涌寺↑(真言宗)は、皇室ゆかりのお寺として、「御寺」の通称で呼ばれています。


のちに鎌倉に建長寺を創建する蘭渓道隆上人は、宋から来日した渡来僧で、一時、泉涌寺の塔頭(来迎院↓)に滞在していました。

当時、関西を遊学されていた日蓮聖人は、大陸からやってきたお坊さんに直接話を聞いてみたかったのでしょうね、泉涌寺に道隆上人を訪ねたといわれています。
いつか、このあたりも詳しく調べて、ブログに載せたいと思います。


ここ泉涌寺には鎌倉時代以降の、歴代天皇のお墓、いわゆる御陵があったことを覚えています。

明治の時代、天皇家が国家神道の象徴とされるまで、歴代天皇は仏教を信仰し、崩御されると仏教式の葬儀で弔われてきたのです。
そう考えると、かつて出家した皇族方の受け皿として、門跡寺院があった(今も存続されていますが)ことは、むしろ自然に思われます。


話を村雲瑞龍寺に戻しましょうね。
本堂です。
檜皮葺の唐破風が美しい・・・。


由緒が掲示されていました。

村雲瑞龍寺は、豊臣秀吉の姉、とも(法名:瑞龍院妙慧日秀上人)によって創建されました。
ともには秀次、秀勝、秀保という三人の男子がいましたが、秀勝は朝鮮出兵時に病死、秀保はのちに不審死してしまいます。


長男秀次は、子に恵まれなかった叔父・秀吉の後継候補として、一時は関白摂政の地位にありながら、のちに秀吉と淀君の間に秀頼が生まれるや、手のひらを返すように秀次は邪魔者扱いされ、謀反の疑いをかけられてしまいます。
(村雲瑞龍寺本堂内にある豊臣秀次公銅像原型)
わずか28才の若さで、高野山に蟄居ののち、秀次は自刃しました。
秀吉の猜疑心は凄まじく、秀次の子女妻妾まで、皆殺しにされてしまいました。


弟の計略によって、秀次はじめ大切な子供達、縁者まで死んでしまった・・・やりきれないですよね。
悲しみに打ちひしがれたともは、京都本圀寺の日禛(にっしん)上人のもとで出家得度し、妙慧日秀尼となります。

日秀尼は京都嵯峨の小庵で、亡き子供達の冥福を、一心に祈り続けました。
この話が時の後陽成天皇の耳に入り、日秀尼を哀れんだのでしょう、秀吉の没後に、京都村雲の地に寺領と、瑞龍寺の寺号を下賜されることになります。
菊の御紋を掲げた「村雲瑞龍寺門跡」のルーツです。


妙慧日秀尼は、村雲瑞龍寺の初代住職を務めます。
(村雲瑞龍寺・本堂内の扉)
天皇にゆかりのあるお寺、ということで以後、皇女や公家の娘さんが歴代住職を務めました。
瑞龍寺が「村雲御所」と呼ばれてきた所以でしょう。


村雲という場所は、現在の西陣あたりに地名が残っているようです。
京都御所にも近いんですね!



天明の大火で全焼してしまうなど、苦難も乗り越えながら、歴代のご住職が法灯を継いでこられました。


ところが、太平洋戦争終戦を境に皇室は縮小、公家や華族は消滅します。

国民だって今日の飯を食べるのに精一杯。日本中のお寺が経営に苦しむ中、もう門跡どころではなかったのでしょうね、村雲瑞龍寺は一時荒廃してしまいます。


やがて日本は高度成長期に入り、止まっていた時間が動き出します。
(八幡山からの眺望)
12世の小笠原日英上人、13世の小笠原日鳳上人の尽力により、昭和43(1968)年、村雲瑞龍寺は再建されます。


寺地もそれまでの京都から、近江八幡、八幡山城址のてっぺんに移されました。
天正13(1585)年、秀次が43万石の大名となり、近江国を与えられた時に築いた居城が八幡山城でした。

境内のところどころに、八幡山城時代の石垣を見ることができます。



八幡堀を城下町に引き、近江八幡を大商業地に育てたのは豊臣秀次です。
この地で善政を行い、領民から慕われていたことが知られています。



まさに秀次棲神の地、ここに村雲瑞龍寺がやってきたことで、開山の日秀尼も安心されたでしょうね!


村雲瑞龍寺の中庭に、「妙法」の文字。
細かい石を敷き詰めて作られています。

村雲瑞龍寺の移転再興に尽力された12世・日英上人が、解説文を遺してくださっています。


戦時中、ここ八幡山には軍の施設があったそうです。
終戦で取り壊され、村雲瑞龍寺が移転してくる以前は、瓦礫の山でした。

根気よく瓦礫を取り除いて寺地を確保したのが、現在の村雲瑞龍寺の出発点になっています。


瓦礫の中から取り上げた石によって、「妙法」の二字が成り立っている。
(身延山御廟域の蓮)
まるで妙法蓮華経、泥水から美しい蓮の花が咲くような、深い意味を感じます。


ところで冒頭の村雲日榮尼、調べてみると村雲瑞龍寺の10世を継がれたお上人です。
(向かって左より日榮上人、三人の兄弟、生母伊丹吉子;「近代皇室と仏教」:石川泰志著・原書房刊より引用)
安政2(1856)年、伏見宮家に生まれます。名門宮家の王女、だったんですね。
当時、村雲瑞龍寺の住職を務められていたのが、叔母にあたる日尊尼(伏見宮家出身)だった関係で、わずか2歳で村雲瑞龍寺に預けられました。


この時代は、お寺の後継候補として目にとまる子がいると、幼少の頃から里子に出されるような感じでお寺に入り、住職と一緒に生活させたようですね。

文久2(1862)年、日尊尼を戒師として、落飾(らくしょく)が決まります。
落飾、馴染みのない言葉ですが、高貴、身分が高い人(特に女性)が出家し、仏門に入ることをいうそうです。
宮家出身とはいえ、まだ小学校に入るかどうかくらいの歳での出家です。大変な心労だったでしょうね。


日榮上人は若い頃、明治の傑僧・久保田日亀上人から、宗学や書道など、多くを学びました。このご縁もあり、のちに日蓮宗管長となる久保田日亀上人は、日榮上人のよき後ろ盾となっていたようです。
(近江八幡の街並み)


日榮上人は大正9(1920)年に遷化されるまで、その生涯を布教に捧げました。
地方の巡化には、久保田日亀上人の人脈が重宝したことでしょう。
当時、皇族出身の方が、わが村に布教に訪れるとなると、どこも人だかりの大盛況だったそうです。
以前参拝させていただいた函館の実行寺境内には、「村雲尼公台臨場(※)」と刻まれた石碑↑があったのを覚えています。
こんなに立派な碑を設けたくらいですから、それはそれは、特別なイベントだったのでしょうね!
ガタガタになりかけた仏教の再興に、日榮上人の果たした功績は大きいと思います。
(※)碑に刻まれた最後の一文字が読めず、字面的に「場」としました。


日榮上人のお人柄がわかるエピソードが、「近代皇室と仏教」(石川泰志著・原書房刊)に記されていました。
(村雲日榮上人;「近代皇室と仏教」:石川泰志著・原書房刊より引用)
明治維新期、廃仏毀釈を推し進める明治新政府は、既に出家している皇族出身者に対し、還俗せよと圧力をかけてきました。
男性皇族が次々に還俗する中、日榮上人は断固として、還俗を拒んだといいます。

「日榮は仏道に入りし以上は、行雲流水の身となり、樹下石上を宿とするとも、還俗は致しませぬ(※)

と明治新政府を一蹴した、ということです。

(※)行雲流水:物事に執着しない、つまり、皇族の身分惜しさに還俗しないということ。
   樹下石上を宿とする:出家者の境遇。出家しているのだから、路傍で寝るのも厭わない。


皇族の方の出家というと、風情あるお寺で読経しながら、第二の人生を過ごす・・・てな感じの優雅なイメージを勝手に抱いていましたが、実際は全く違っていたのでしょうね。

皇籍を離れても、祈りによって天皇をお護りし続け、また公に尽くそうという意識は、むしろ他の誰よりも、強かったかもしれません。


実はこの頃、日本の尼僧の大半が、明治新政府の方針に抗って、頑なに還俗を拒んだようです。
今よりもずっと、男女の立場に差があった時代、尼僧さん達が声をあげるには、相当な覚悟を要したはずです。
(村雲瑞龍寺・瑞興殿)
困難な状況の中、それでも戒律を守り、尼僧の尊厳を保ったことは、のちの時代にとても大きな、なにものかを遺したはずです。


大正8(1919)年、日榮上人は京都松ヶ崎に、尼衆修道院を創設します。
(村雲瑞龍寺・本堂内の扉)
念願だった宗門初の、尼僧のための教育機関開校を見届けた翌年、日榮上人は化を遷されました。享年66才でした。


この尼衆修道院は、尼衆宗学林 として、今も存続されています。
先日の日蓮宗新聞にも、新入生があったという記事が載っていました。
宗門尼僧教育の礎は、村雲日榮上人によって築かれたこと、心に留めておきたいと思います。


僕の知る限り、例えば身延山では、上の山の↓丈六堂や御廟法務所などで、尼僧さん達が活躍されています。
そう、門前町の行きつけの売店の女将さんも、最近出家されました。

いずれのお上人も、まず笑顔で迎えてくれるので、お坊さんと向き合うというハードルが下がります。口調も柔らかく、そうすると僕なんかついつい、心の内を話してしまうから不思議です。
この歪んだ社会の中、実は尼僧さんを必要としている場面は、多いのではないでしょうか。


今や公家も華族もなくなり、近年は村雲瑞龍寺の住職は、他寺から晋山されるようです。
また先代住職は、初めて男僧が務められました。
社会も変化する中、固定観念に囚われず、その時その時で柔軟に変えてゆけば良いですよね。

そして今年、11年ぶりの女性住職となる詫間日郁上人が、5月に晋山式を行った、という記事がネットニュースに載っていました。
応援しています!

佐野前励上人頌徳碑裏の感謝状(博多区東公園)

2022-06-01 13:00:00 | 旅行
前回の「亀山上皇銅像」が長くなってしまったので、引き続き、書かせていただきます。


同じ博多東公園に立つ日蓮聖人銅像


その脇に、佐野前励上人の頌徳碑があります。
表側には田中智学上人による「佐野前励師 略事蹟」があり、皆さんそこは目にするかもしれません。

しかし今回、僕は敢えて頌徳碑の裏側に回りました。
そして一枚の銅板を目の当たりにしました。



これは明治35(1902)年、福岡県知事(元寇記念碑建設事務委員長も同時に兼務)に就任した河島醇(かわしまじゅん)氏から、佐野前励上人に贈られた「感謝状」です。
(一部を抜粋、また現代語風に変えて記すことをご承知ください)



『この事業(亀山上皇銅像)は当初、一気呵成の勢いで社会現象にまでなったにも関わらず、明治24、5年頃になると、政情混乱や災害頻発などが相次いだ。人心は挫折し、事業は滞り、一時中止せざるを得ない状態に陥ってしまった。』

実は亀山上皇銅像の建設は一時、暗礁に乗り上げていました。
時あたかも日清戦争前後、国内の政情も不安定な中、湯地氏の主張は極めて正論ではあるけれども、やはり記念碑どころではなくなってしまったのでしょう。
資金調達は頓挫し、人々の熱狂は冷めてゆきました。



『そこで前委員長・深野一三氏は、事業困難を君(佐野前励上人)に告げ、亀山上皇像の模型彫刻、銅像鋳造、更に運搬する役目を負担してもらえないだろうかと相談した。
君は義侠心によってこの申し出を受け入れ、以後、鞠躬尽力(※)してくれた。』
(※)きっきゅうじんりょく:体を鞠のように縮めて全力を尽くすこと

河島醇氏の前任、深野一三氏は、悩み抜いたと思います。
かつて快く事業に賛同してくれた佐野前励上人。しかし日蓮聖人の肖像を嵌め込むかで折り合わず、他宗の意見を優先して、袂を別かつ結果にしてしまった。

でも万策尽きた・・・。

面目ないけれど、佐野前励上人にお願いしよう、と。

(↑鎮西身延山本佛寺境内にある佐野前励上人の胸像)
佐野前励上人は、過去の事を全て飲み込んで、この理不尽な申し出を、受け入れました。
恥を忍んでお願いに来ているのだ、体を張って救ってやろうという、まさに損得抜き、「義侠心」そのものです!


『尊像の模型が出来上がった頃、君は宗門内の騒動に巻き込まれ、日蓮聖人銅像建立事業とともに、一時頓挫しかけてしまった。
しかしすぐに問題は解決し、建碑事業は益々前進していった。』

元寇記念碑建立事業が始まるちょうどその時代、日蓮宗では宗門改革運動が起きていました。
当時、山積する問題を解決しようにも各本山の力が強すぎて、身動きができない状態。
この状況を打破するために、佐野前励上人が牽引した宗門改革運動ですが、残念ながら守旧派に敗れてしまいます。

志半ばで宗門の中心から離れざるを得なかった佐野前励上人、創建されたばかりの鎮西身延山本佛寺に入ることになったのは、この時です。
(↑鎮西身延山本佛寺本堂)
改革派の危険分子とみなされた佐野前励上人、一時は僧階まで剥奪され、建碑事業どころではなくなってしまいますが、やがて僧階は復旧します。
佐野前励上人は有り余る情熱を、二体の銅像建立に捧げたのです。



『(亀山上皇)銅像の材料はその筋の下附を得、君は専ら、この鋳造建設の仕事を担ってくれた。
以後、工事を督励し、夜以て晷(ひかげ)に継ぎ(※)、予定の工事を遂行、ここ白砂清松の地に、高さ70尺余の大碑を完成し、尊厳なる異彩を発することになった。』
(※)寝ても覚めても、的な意味だと思います。

筥崎宮にあった解説板によると、亀山上皇銅像の鋳造を担ったのは、佐賀市の谷口鉄工所だそうです。
(↑筥崎宮・奉安殿の解説板より)
谷口鉄工所は、篤信の法華信者・谷口清八氏が経営する工場で、日蓮聖人銅像の胴体部分もここで鋳造されています。
佐野前励上人の懇願を、快く引き受けてくれたのに違いありません。

日蓮聖人銅像の事業だけでも大変なのに、亀山上皇銅像をも完成にこぎつけるため、我慢、偏執の心なく、粛々と仕事をした佐野前励上人、そして当時の日蓮宗徒達に、尊敬の念を禁じえません。


「感謝状」は、こう締めくくられています。

『この17年余りの日月、幾多の障害を受け、成功すら危ぶまれた県の事業であった。今や経済恐慌、商工業も不振で、あたかも未曾有の事変の中、大碑の完成を見たのは、ひとえに君が終始一貫、熱誠尽瘁(※)の力によるものだ。その功は実に多大なりと言うべきだ。
以て金属製香炉一個を呈し、感謝の意を表す。
明治37年12月27日 元寇記念碑建設事務委員長 従四位勲三等 河島醇
日蓮宗僧正 佐野前励殿』
(※)ねつせいじんすい:自分の労苦は顧みず、情熱をもって尽くすこと


(↑頌徳碑に掲げられた佐野前励上人の肖像)
涙が出ました。
佐野前励上人、何て寛容で、そして損得の無い、純粋な心の人なんだろうと。
日蓮聖人が法孫達に伝えたかった本懐は、ここにあったと、確信します。



敢えてもう一度書きます。
この感謝状は 日蓮聖人銅像を建立させた佐野前励上人の頌徳碑の「裏側に」、人知れず、ひっそりと、掲げられています。
亀山上皇銅像を拝する人は沢山いますが、この経緯を知る人はほぼ、いないでしょう。


こうした実績が内外から高い評価を受け、明治43(1910)年、佐野前励上人は日蓮宗の宗務総監に就任、現在の宗門の根っこの部分を作るのです。


福岡県うきは市にある鎮西身延山本佛寺
境内の一角に、佐野前励上人揮毫による石碑があります。

法華経五百弟子授記品第八の一節です。お好きな言葉だったのでしょう。
「身出光明 飛行自在」
佐野前励というお坊さんの存在が、光のように周囲の人を感化し、みんなの心が澄みきってゆく・・・。そんな風に理解しました。


自分が感じた思いを、何かに残したく、今回ブログに書かせていただきました。
南無妙法蓮華経。