先日、5年ぶりに佐渡を訪れたわけですが、5年前と大きく違っていたのは・・・
こんなポスターが沢山、貼られていたことでしょう。
昨年2月、政府の閣議で「佐渡島の金山」のユネスコ世界遺産への推薦が、正式に決定しました。
(両津大橋付近)
実際には登録の一歩手前で足踏みしている状態のようですが・・・。
魅力たっぷりの島、世界遺産登録をきっかけに、是非多くの方に訪れてほしいものです。
(両津港ターミナル内 佐渡金山ブースより)
この佐渡島、金の産地としての歴史は古く、今昔物語集(平安末期)には、佐渡で砂金を採る人のお話がある、といいます。
(大佐渡山地の山並み)
しかし佐渡の金が日本じゅうに知られるようになったのは、慶長6(1601)年、巨大な金脈が発見されたことに始まります。
そのわずか2年後には、佐渡が徳川幕府直轄の天領となり、佐渡奉行所管理のもと、膨大な金鉱石が掘られました。
(復元された佐渡奉行所跡)
また精錬技術も高く、佐渡の金は量、質とも当時の世界最高水準、江戸時代を通じて幕府の財政を支えたのです。
相川町から大佐渡スカイライン(県道463号線)が伸びています。
道沿いには、巨大な金脈を掘り進んでゆくうち、山が真っ二つに割れたような姿になってしまった「道遊の割戸」や、
山師・味方与次右衛門が一か八かで掘り進め、結果的に大金脈発見につながった「大切山坑」など、有名スポットが目白押しです。
それらの1kmくらい手前でしょうか、小さな案内板があります。
「水替無宿人の墓」入口です。
道は山奥に伸びています。
階段や石畳が整備され、よく草刈りもされているようです。
道の両側には石垣を積んで作った区画が沢山あります。
かつてここに人の生活があったことを感じます。
5分ほど歩くと、視界が急に開けます。
ここが今回紹介する「水替無宿人の墓」です。
金産出のピークは元和、寛永年間(1615~1644年)といわれます。
(相川金鉱脈の模式図:「図説 佐渡金山」テム研究所編著より引用)
初期の佐渡金山は、地表に露出している鉱脈を掘り取ればよいので、非常に効率よく採掘できました。
(坑内の様子:「図説 佐渡金山」テム研究所編著より引用)
ただ、露天で採れる金にも限りがありますよね。
金脈を追って坑道は地中深くなるばかり、まさにアリの巣状態。
やがて坑道は海抜下にまで貫入します。
いたる所から地下水が湧き出し、放っておくと坑道が水没してしまいます。
佐渡金山の湧水量は、他の鉱山と比べてもケタ違いに多かったといいます。
(排水坑道の図:「図説 佐渡金山」テム研究所編著より引用)
金山には排水専用のトンネル(排水坑道)も掘られましたが、ポンプなどない時代、深部の坑道から排水坑道までは人力で24時間、水を汲み続けなければなりませんでした。
(水替え作業:「図説 佐渡金山」テム研究所編著より引用)
数ある金山労働者の中でも、この「水替え人足」の仕事は特に過酷といわれ、人手の確保が佐渡奉行所の悩みの種だったようです。
一方、江戸中期、天候不順や火山の噴火が相次ぎ、たびたび飢饉が起きました。
(浅間山の大噴火:「歴史資料集」明治図書刊より引用)
貧困のために家を追われる人が急増、行き場のない人々が流れ流れて、江戸や大坂、長崎など、都市部に居つくようになります。
幕府は彼らのような戸籍のない人を「無宿人」と呼び、無宿人が増えると治安が乱れるだろうという理由で、片っ端から捕らえてゆきました。無宿人狩りです。
(航路より佐渡島を望む)
捕らえられた無宿人は、更生の名のもとに佐渡金山に送られ、水替え人足として苛烈な労働を強いられたのです。
江戸時代を通じ、佐渡に送られた無宿人は(確認されているだけで)1874人にも上るといわれます。
「無宿人の墓」の一画には新旧合わせ、いくつものお題目の供養碑が並んでいます。
ここで亡くなった水替無宿人なのでしょう、日蓮宗の戒名が刻まれています。
(水替無宿人28人の墓:嘉永6年建立)
下総、伊勢、越後・・・と出身地は多岐にわたり、また享年もほぼ40才を越えていません。
年間を通じてほぼ休みなく、空気の悪い坑道の底で、過酷な肉体労働をさせられるわけで、仕事に就いたら3年が寿命だったといわれるほどです。
こちらの新しい石碑は、無宿人に関わった遊女、そして水子を供養する塔です。
希望を失った水替無宿人たちを刹那、慰めた遊女たち。
多くは貧しい家庭に育ち、遊郭に身を投じたと聞きます。
ともすれば歴史に埋もれてしまいそうな諸霊も同様に、手厚く弔った先師がいらしたんですね。頭が下がります。
この周辺は水替無宿人たちの生活の場で、以前はここに妙法山覚性寺(※)という日蓮宗のお寺があったそうです。
つまり水替無宿人の墓石群は、もともと妙法山覚性寺の境内にあったと思われます。
(※)妙法山覚性寺:寛永7(1630)年建立、明治元(1868)年廃寺
江戸時代、相川の町はゴールドラッシュに沸き、全国から大勢の人が職を求めて移り住みました。
(相川町内に掲示された史跡散策マップより)
彼らは出身地や信仰ごとにつながり、新寺を建立して生活の中心に据えました。
また新天地を求めて集落ごと移転するケースも多く、そうすると彼らの菩提寺も引っ越してくるので、相川にはお寺が急増しました。
納税者であり地域の有力者であった上級町民は、真言宗や浄土宗を宗旨とする人が多かったようです。
(佐渡金山展示資料館より)
一方、苛酷な肉体労働に身を削る下層の町民では、日蓮宗と浄土真宗が多かったといいます。
(佐渡市市野沢 妙照寺付近の風景)
日蓮聖人は文永8(1271)年、法華弾圧のため佐渡に流されました。逆境の中、教学の礎を築き、島に信仰の種を植えました。
(越後居多ヶ浜に立つ親鸞上人像:京都大谷本廟会館に展示)
それより65年ほど前、浄土真宗の開祖・親鸞上人も念仏弾圧に遭い、7年間を越後(国府=今の直江津辺り)で過ごしています。
親鸞上人が念仏信仰を深めた越後は、浄土真宗の聖地でもあるわけですね。
「一心に題目を唱えれば誰でも成仏できる」(日蓮宗)
「一心に念仏を唱えれば誰でも成仏できる」(浄土真宗)
(水替無宿人の墓:天明3年建立)
坑夫たち、とりわけ極めて短命といわれた水替無宿人たちにとって、これほどシンプルで、魅力的な信仰はなかったはずです。
前出の妙法山覚性寺(日蓮宗)が、水替無宿人たちが生活する地域に存在したというのは、お題目が彼らの中心にあったという証拠でしょう。
年に一度だけ許される外出日、水替無宿人は必ず、死んでいった仲間たちの墓に行き、香華を捧げました。
それから海に行って水垢離をとり、身の無事を祈ったということです。
もともと彼らは無宿人であったけれども、無宿人はイコール犯罪者ではなかったはずです。
無念とか不条理とかの言葉では、とても表せないほどの感情を秘めながら、それでも人としての矜持を忘れなかった彼らを想い、墓前で合掌しました。
毎年4月、相川の宗門寺院が中心となって「水替無宿人供養祭」が催されているそうです。
(両津・東光山妙法寺庫裡に掲示されていたポスター)
水替無宿人の方々が働かれた坑道跡を参加者全員で順拝、無宿人の墓前では慰霊法要、最後は近くの光栄山瑞仙寺で締めの法要を修するといいます。
光栄山瑞仙寺は、法華の篤信者であった山師・味方但馬の菩提寺です。
(相川・光栄山瑞仙寺の仁王門)
「水替無宿人供養祭」は今から半世紀前、瑞仙寺の先代ご住職の発案で始まったものだそうです。
実は今回、無宿人の墓の場所やその由緒などを、瑞仙寺の現ご住職に丁寧に教えていただきました。
心から感謝致します。
(相川・北沢浮遊選鉱場)
「佐渡島の金山」がユネスコ世界遺産に登録されると、全国から観光客が押し寄せ、相川の町もさぞ賑やかになることでしょう。
(佐渡金山展示資料館より)
膨大な金に象徴される、煌びやかな佐渡金山の歴史は、とても魅力的です。
しかしその裏には、苛酷な水替え作業を全うし、佐渡の土になった多くの無宿人たちもいたこと、是非、多くの人に知ってほしいと思います。
水替無宿人の墓が、末永く清められてゆくことを、願ってやみません。